“暗記は悪”なのか?—知識の定着と創造的思考のあいだにあるもの
「暗記は意味がない」という声の背景
思考力重視の教育改革の流れ
「これからの時代は思考力・表現力が大切」「知識よりも考える力を育てるべき」——近年、こうした言説が教育の場で繰り返されるようになっています。大学入試改革やアクティブラーニングの推進を背景に、「暗記中心の学びは古い」という空気が広がりつつあります。
“覚えるだけ”の学びが批判される理由
批判の背景には、「ただ覚えるだけで中身が理解できていない」「応用がきかない」といった教育現場での実感があります。とくにテストの点数だけに焦点を当てる学習スタイルが、深い学びを妨げるものとして問題視されているのです。
そもそも「暗記」とは何か
記憶と理解のちがい
「記憶」と「理解」はしばしば混同されますが、実際には異なるプロセスです。記憶は情報を再現する力、理解はその情報の意味を把握する力。暗記とは、前者にあたる行為です。理解をともなわない暗記も可能である一方、理解のためには一定の記憶が必要な場面も多く存在します。
再現できることの価値と限界
たとえば九九を言える、英単語の意味を思い出せる、年号を言える——こうした力は一見単純な記憶ですが、素早く使えるという点で大きな価値があります。ただし、そこに意味が結びついていなければ、応用的な思考にはつながりにくいという限界もあります。
暗記が持つポジティブな役割
知識の土台としての蓄積
新たな知識や思考は、既存の知識の上に構築されます。つまり、何も知らない状態では「考えること」すらできないのです。暗記は、思考を可能にするための“足場”を提供するという重要な役割を持っています。
認知負荷の軽減とスムーズな思考
ある知識を自動的に思い出せるようになると、脳はそれにエネルギーを割かずに済みます。その分、思考のリソースを別の部分に使うことができ、複雑な問題にも集中して取り組めるようになります。
創造的思考に必要な“素材”としての知識
「ひらめき」は無から生まれない
創造力や発想力は、ゼロから突然生まれるものではありません。むしろ、蓄積された知識の中から意外な組み合わせを見つけ出す力こそが創造性の本質です。知識は「ひらめきの材料」とも言えるのです。
結びつけるための“部品”としての記憶
料理に例えるなら、暗記された知識は「素材」であり、「調理」にあたるのが思考です。素材がなければ料理は作れませんし、素材を知らなければどんな料理を作れるかも想像できません。記憶は創造の前提条件なのです。
なぜ暗記が“悪者”になったのか
受験教育・テスト至上主義の影響
日本の教育では、長らく「点数を取ること」がゴールとされ、暗記がその手段と見なされてきました。過去問を解き、よく出る内容を覚える——こうした学びが、形式的で意味のないものとして批判されるようになったのです。
「考える力」との二項対立の誤解
「暗記 vs 思考」という構図は、実は誤った二項対立です。実際には、両者は補完関係にあり、どちらか一方では不十分です。「考えるためには覚えることが必要だが、覚えるだけでは不十分」と捉えるほうが実情に合っています。
テストにおける暗記の役割
短期記憶と長期記憶のあいだ
試験前に一夜漬けで覚えた内容は、すぐに忘れてしまうことが多いですが、それでも“とりあえず覚える”という経験には意味があります。それを繰り返すうちに、短期記憶が長期記憶へと定着していく可能性があるからです。
「点数を取るための暗記」が生む弊害
一方で、「テストで点を取ること」自体が目的になってしまうと、本来の学びから離れてしまいます。内容の理解や応用よりも、「出るところだけ覚える」という学習が、暗記=悪というイメージを強めているのです。
暗記と理解はどのように関係するか
“覚えたあとでわかる”というプロセス
一度は意味がわからなくても、言葉を覚えておくことで後に理解が深まることはよくあります。たとえば、「DNA」や「地動説」といった言葉を先に覚えていたことで、後の授業内容がスムーズに理解できた、というようなケースです。
理解を支える前提知識としての暗記
文章を読解するにも、文章構造や語彙、背景知識が必要です。これはすべて“知っていること=記憶していること”に依存します。理解は、一定の記憶の上に成立しているのです。
教科によって異なる暗記の位置づけ
社会・理科・英単語…知識中心の教科
歴史の年号や英単語、化学式など、まずは「覚える」ことが避けられない教科もあります。これらはその先の応用や論述のために、最低限の知識を前提とする構造になっています。
数学や国語での“知識活用”としての暗記
数学の公式や、国語文法の用語もまた、覚えることが求められます。ただし、これらは「知っているだけ」では得点につながらず、どう使うかが問われるという意味で、暗記と活用の接続がより強く求められます。
海外の教育では暗記はどう扱われているか
欧米諸国の“理解重視”の実態と限界
欧米では理解や探究を重視した教育が語られますが、実際には基礎知識の暗記も重要視されています。むしろ「自分で調べる」ためには、ある程度の前提知識が必要という認識が浸透しています。
アジア諸国における記憶の重視傾向
中国や韓国などのアジア圏では、依然として暗記の比重が高い教育が行われています。一方で、近年はその中にディスカッションや課題解決型の学びを取り入れようとする動きもあり、単純な暗記偏重ではなくなりつつあります。
ICT時代における「覚える意味」
調べればすぐわかる時代と知識の再定義
スマホを使えば何でも調べられる時代に、「覚える必要はない」という意見もあります。しかし、いちいち調べないと何もできない状態では、応用的な判断や深い思考は難しいのが現実です。
“知っていること”が思考の速度を決める
ある程度の知識があれば、情報を素早く読み取り、判断することができます。つまり、思考の「スピード」や「柔軟性」は、知識量によって左右される部分があるということです。
“暗記だけ”の学びが危うい理由
応用・転用ができない知識のリスク
ただ記憶しているだけでは、それを別の状況で使うことができません。「使える知識」にするためには、覚えた内容を「どう使うか」を経験する必要があります。暗記が無意味なのではなく、「使わない暗記」が意味を持ちにくいのです。
「わかった気になる」ことの落とし穴
知識を記憶していると、それだけで「わかった」と錯覚してしまうことがあります。しかし、本当に理解しているかどうかは、別の文脈で説明したり、応用したりできるかで判断されます。暗記は「入口」であって「ゴール」ではありません。
問い直す:「記憶」と「思考」は本当に敵なのか
記憶を排除するのではなく、活用する視点
「暗記は悪」という発想は、極端すぎるかもしれません。大切なのは、「記憶をいかに使うか」「思考とどうつなげるか」という視点です。記憶を前提にした思考ができれば、両者は敵ではなく、協力関係にあることがわかります。
覚えることと考えることの“接続”を設計する
教育現場に求められているのは、「覚えたことを使って考える」場面をどう作るかという設計です。記憶と創造、どちらかを排除するのではなく、両者をつなぐ学びこそが、これからの学びに必要なのではないでしょうか。