「愛はエサよりぬくもり?」ハーロウの愛着実験が示した心の基盤

雑学・教養

愛はエサよりぬくもり?ハーロウの愛着実験が示した心の基盤

心理学が“愛着”を科学し始めた時代

1950〜60年代:母子関係は本能か学習か?

20世紀半ば、心理学の世界では「母と子の関係はなぜ重要なのか?」という問いに対する研究が活発になっていました。
当時の主流だった行動主義では、人の行動は「報酬と罰」によって学習されると考えられており、愛着や親密さといった感情も、たとえば「ミルクをくれる人が好きになる」といった条件づけの結果と解釈されていました。

その一方で、「食物の提供だけでは説明しきれないような、もっと根源的な結びつきがあるのではないか」という疑問も芽生えつつありました。
そうした中で、動物行動を通してこの問いにアプローチしようとしたのが、アメリカの心理学者ハリー・ハーロウです。

動物行動学から人間の心を探るアプローチ

ハーロウは霊長類の行動を観察することで、人間の心理の根本を探ろうとしました。
彼の研究対象となったのは、アカゲザルの赤ちゃんたち。人間と比較的近い社会性と知能を持つこれらの動物は、発達心理学の実験モデルとして注目されていました。

彼が問おうとしたのは、「子ザルは誰に、なぜ愛着を抱くのか?」というシンプルな疑問でした。
これに答えるため、ハーロウは人工的な“母親”を作り、愛着の発生メカニズムを検証する実験を行いました。

ハーロウの実験:代理母を使ったサルの観察

針金の母と布の母:赤ちゃんザルはどちらを選ぶか

ハーロウの実験で用意されたのは2体の“代理母”でした。
1体は針金でできた簡素なフレームに哺乳瓶が取り付けられたもの。もう1体はミルクを与える機能はないものの、やわらかな布で覆われた母ザルのような形の人形です。

実験の核となった問いは、「赤ちゃんザルは、エサをくれる“針金の母”と、ぬくもりを感じる“布の母”のどちらに愛着を示すか?」というものでした。
従来の学習理論に従えば、エサをくれる針金の母に長く接触するはずだと考えられていました。

エサよりも“肌ざわり”を選ぶという結果

実際に観察されたのは、赤ちゃんザルがミルクを飲むとすぐに針金の母から離れ、布の母のほうにしがみついて時間を過ごすという行動でした。
驚くべきことに、1日に数時間にわたって布の母と接触し続けるザルも少なくなかったといいます。

また、恐怖を与える刺激(大きな音など)が与えられたとき、赤ちゃんザルたちは迷わず布の母のほうに駆け寄り、そこにしがみついて落ち着こうとする傾向を見せました。

この結果は、「愛着とは食物の報酬によって形成されるものではなく、“ぬくもり”や“安心感”を提供する存在に対して自然に生まれるものなのではないか」という仮説を強く支持するものでした。

孤立飼育の影響と“母の不在”が生む行動

愛着を持たず育ったサルに現れた異常行動

ハーロウはさらに実験を発展させ、誕生直後から完全に母親を排除した“隔離育ち”のサルたちを観察しました。
これらのサルは、社会的接触も視覚的接触も制限された環境で育てられました。

その結果、孤立して育ったサルたちは成長しても正常な社会行動を取ることができず、仲間に近づこうとしなかったり、極端に恐がったり、時には自傷行為を行う例も見られました。
これは愛着やふれあいが、単に“快適さ”や“学習”のためだけでなく、**情緒や社会性の基礎そのものに関わる**要素であることを示唆しています。

“再社会化”の試みとその限界

こうした異常行動を改善できるかどうかを探るため、ハーロウは“再社会化”の実験も行いました。
隔離育ちのサルを、通常の環境で育った若いサルたちと同居させ、社会的刺激を受けさせるのです。

この試みでは、一定の年齢までに社会的接触を再開した場合、部分的な改善が見られたと報告されています。
しかし、長期間完全に隔離されたサルでは、元の行動に戻るのが難しく、**愛着や社会性の発達には“タイミング”がある**ことも示唆されました。

この実験が与えた心理学への影響

学習理論から愛着理論へ:ボウルビィへの橋渡し

ハーロウの研究は、当時広まりつつあった「愛着理論」の発展に大きく寄与しました。
とくに、精神科医ジョン・ボウルビィの理論と接点を持ち、「母と子の間には本能的な結びつきがある」という考え方を動物実験の視点から補強しました。

「安心感の基地(secure base)」という概念も、この流れの中で生まれたものであり、布の母にしがみつくサルの行動は、その理論の象徴的なエピソードとなりました。

心理実験における倫理問題のきっかけにも

一方で、ハーロウの実験は動物福祉の観点から多くの批判も受けました。
とくに隔離実験や、意図的に愛着を断つような設計は「非人道的」とも評され、心理学における倫理規定の見直しが進む契機となったとも言われています。

その後の研究では、被験体の苦痛を最小限に抑えるガイドラインが整備されていきました。
ハーロウの実験は、心理学の発展に大きく貢献すると同時に、実験倫理の境界線を問い直す存在でもあったのです。

まとめ:愛着の形をめぐる問いは、今も続いている

サルのふるまいが示した“心の初期設定”

ハーロウの愛着実験は、私たちが他者と関わる際の“出発点”がどこにあるのかを探る試みでもありました。
ただ食物を得ることでは説明できない、ぬくもりやふれあいへの根源的な欲求──その存在は、布の母にすがるサルたちの姿に濃く現れていました。

ぬくもり、接触、安全──その意味をどう受け取るか

赤ん坊ザルの選択、孤立育ちの行動、再社会化の可能性。
これらの観察結果は、単なる実験データにとどまらず、人間の成長や関係性、社会性の起源に対する考察の土台にもなり得ます。

どの要素を重要と見るかは、人それぞれの視点によって変わるかもしれません。
ハーロウの実験は、その問いかけを今なお続けているようにも見えます。