秋になると、海で大きく育った鮭が、自分の生まれた川をめざして次々とのぼってきます。驚かされるのは、その正確さです。遠くベーリング海から3,000キロメートル以上を旅して、無数にある川の中から、生まれた一本へときちんと帰ってくる。地図もない海の上で、鮭はいったいどうやって故郷への道を見つけているのでしょうか。そこには、においと地磁気という、二つの異なる手がかりの巧みな使い分けがありました。
鮭は「におい」と「地磁気」を使い分けて帰る
生まれた川に帰る性質を母川回帰(ぼせんかいき)といい、鮭の場合は平均して9割以上が母川へ戻るとされています。これほどの正確さは、一つの能力だけでは説明できません。鮭は旅の段階に応じて、頼りにする手がかりを切り替えています。まずは全体の流れを表で見てみましょう。
| 旅の段階 | 場所 | 頼りにする手がかり |
|---|---|---|
| 旅立つ前 | 生まれた川 | 川のにおいを記憶する |
| 大海原の回遊 | 外洋 | 地磁気や太陽の位置 |
| 帰郷の仕上げ | 河口から上流 | 記憶した川のにおい |
遠い海の上では大きな方角をつかみ、ふるさとの近くまで来たら細かくにおいで絞り込む。この二段構えが、奇跡のような帰郷を支えています。一つずつ見ていきます。

旅立つ前に、川の「におい」を覚える
海へ下る直前に、においを記憶する
鮭が生まれるのは川です。しばらく育ったのち、海へと下っていきます。そして海へ下る直前の短い時期に、稚魚は自分の育った川のにおいを覚え込むのです。一度きりの体験が長く残るこの特別な記憶は「刷り込み(すりこみ)」と呼ばれ、嗅覚を通じて脳にしっかりと焼きつけられます。
川のにおいは、一本ごとに違う
そもそも、川に「におい」の違いなどあるのでしょうか。じつは川の水には、流域の土や植物に由来するさまざまな成分が溶け込んでいて、その組み合わせは一本ごとに微妙に異なります。とくにアミノ酸の組成が川ごとの個性を生むとされ、鮭はこの違いをにおいとして嗅ぎ分けます。人間にはただの水でも、鮭にとっては故郷の住所が書かれた、世界に一つの香りなのです。

大海原では「地磁気」を頼りに進む
3,000キロをまっすぐ帰ってくる
においが役立つのは、あくまで川の近くだけです。その成分は広い海では薄まってしまい、外洋では手がかりになりません。それでも鮭は、ベーリング海のような遠い海から日本の沿岸まで、ほぼまっすぐ帰ってきます。水温や水深を記録する小型の装置を使った研究から、鮭は海流に流されるのではなく、自力で方角を定めて泳いでいることがわかってきました。
地球の磁場を、体で感じている
その手がかりとして有力なのが、地磁気です。地球は大きな磁石のようなもので、場所によって磁場の向きや強さがわずかに変わります。鮭はこの地球の磁場を体で感じ取り、いわば「方位磁石」のように進む方向を決めているようです。太陽の位置や体内時計も合わせて使っている、という見方もあります。広い海でも迷わないのは、こうした複数の感覚の合わせ技によるものです。

河口から先は、においで「生まれた川」を当てる
地磁気を頼りに沿岸までたどり着くと、ここからは嗅覚の出番です。河口に近づいた鮭は、かつて稚魚のころに覚えた、あの川のにおいを探し始めます。よく発達した鮭の嗅覚は非常に鋭く、川のにおいを沖合いのかなり手前から感じ取れるという説もあるほどです。
いくつもの川が注ぐ海岸でも、鮭は記憶のにおいと一致する一本を選び、そこをさかのぼっていきます。大きな方角は地磁気で、最後のピンポイントの絞り込みはにおいで。役割の違う二つの手がかりがつながって、9割を超える高い精度の帰郷が実現しているわけです。

豆知識——なぜ、そこまでして生まれた川に戻るのか
これほど苦労して、鮭はなぜわざわざ生まれた川に帰るのでしょうか。大きな理由は、産卵にあります。自分が無事に育った川は、卵から稚魚が育つのに適した環境がそろっている、いわば実績のある場所です。次の世代を確実に残すうえで、勝手のわかった故郷ほど頼りになる産卵場所はありません。
しかも多くの鮭にとって、この帰郷は一生に一度の旅です。川にのぼった鮭は産卵を終えると、その生涯を閉じます。食事もとらずに川をさかのぼり、最後の力を産卵に注ぎ込む。生まれた川のにおいをたどる旅は、次の命へバトンを渡すための、文字どおり命がけの帰り道だったのです。

地図も標識もない海を越えて、鮭は鼻の奥に刻んだ一本の川のにおいへと帰っていきます。それは生き物が体に備えた、精巧きわまりないナビゲーションの物語です。次に切り身ではない一匹の鮭を見かけたら、その体に3,000キロの旅の記憶が詰まっていることを、少し思い出してみてください。
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