ライターはマッチより3年早く生まれた——ただし線の引き方しだいで、答えは三度入れ替わる

歴史と変遷の話
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ライターの原型が世に出たのは1823年、こすって火がつくマッチが売られはじめたのは1827年です。順番でいえば、複雑なほうが先に生まれています。

とはいえ、この「3年差」はそれほど固い数字ではありません。マッチをどこから数えるかを一段ずらすだけで、答えはあっさり裏返ります。二百年ぶんの発火具の歴史を、線の引き方ごとに追ってみます。

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  1. 「先」の答えは三つある — 線の引き方で入れ替わる
  2. 1823年のライターは、卓上に置く化学装置だった
    1. 亜鉛と硫酸で水素をつくり、白金で点ける
      1. 火をつけているのは触媒の熱
      2. 栓をひねると酸が亜鉛から離れる
    2. ポケットには入らないライター
      1. 家具のように飾られた道具
      2. 発明者は特許を取らなかった
  3. 1826年のマッチは、暖炉の床をこすった偶然から生まれた
    1. 薬剤師の手もとで起きた事故
      1. 塩素酸カリウムと硫化アンチモン
      2. 1827年4月7日の帳簿
    2. ここでも特許は取られなかった
      1. ファラデーの助言を断る
      2. 利益を得たのは三人目だった
  4. 「マッチが先」と言える線の引き方もある
    1. 1805年、硫酸の瓶に浸すマッチ
      1. こすらずに火がつく細い軸
      2. 瓶とセットでなければ使えない
    2. いまの形のライターを基準にすると差は約77年
      1. 1903年のフェロセリウム
      2. 火花方式が携帯を可能にした
  5. 安全マッチは、火をつける成分を二つに割った
    1. どこでも擦れるマッチの代償
      1. 1830年の黄燐マッチ
      2. 顎の骨を侵す職業病と1906年の条約
    2. 頭薬と側薬に分ける
      1. 1848年のベットガー、1855年のルンドストローム
      2. 箱がなければ点かない
  6. 日本では、1970年代に順番が入れ替わった
    1. 国産マッチは1875年に始まった
      1. 清水誠と新燧社
      2. 輸出で世界三大生産国へ
    2. 1973年のピークと、1975年のチルチルミチル
      1. 戦後最大の80万マッチトン
      2. 100円ライターが来た年
  7. もう一歩深く — 勝ったライターが背負ったもの
    1. ライターは2011年から「重く」なった
      1. 2010年12月の指定と2011年9月の販売規制
      2. 軽さを捨てて安全を取った規格
    2. マッチの箱は広告として生き延びた
      1. 飲食店や旅館が配った箱
      2. 一貫生産は2社まで減った

「先」の答えは三つある — 線の引き方で入れ替わる

この問いに答えがひとつに定まらないのは、「マッチ」と「ライター」のどこに線を引くかが人によって違うからです。線の候補はおおむね三つあり、そのどれを採るかで勝敗が入れ替わります。

線の引き方比べることになる二つ先に生まれたのは
こすって火がつくものをマッチとする1826年 ウォーカーの摩擦マッチ ↔ 1823年 ドーベライナーのランプライター(約3年)
薬品で火がつく細い軸もマッチに含める1805年 シャンセルの発火具 ↔ 1823年 ドーベライナーのランプマッチ(約18年)
携帯できるものだけをライターとする1826年 ウォーカーの摩擦マッチ ↔ 1903年 フェロセリウムの発火石マッチ(約77年)

年で並べると、二つの道具が交互に先行していたことがよく見えます。

できごと
1805年シャンセルが硫酸に浸して点ける発火具を考案(仏)
1823年ドーベライナーが水素と白金で点く卓上ランプを発表(独)
1826年ウォーカーが摩擦マッチを発見、翌1827年に販売(英)
1830年ソーリアが黄燐マッチを発明(仏)
1848年ベットガーが燐を擦り面へ移す案を示す(独)
1855年ルンドストロームが安全マッチを商品化(瑞)
1875年清水誠が東京でマッチの製造販売を始める(日)
1903年ヴェルスバッハが発火石の特許を取得(墺)
1975年100円の使い捨てライターが日本で発売(日)

1823年のライターは、卓上に置く化学装置だった

最初のライターは、手のひらに収まる道具ではありませんでした。ドイツの化学者ヨハン・ヴォルフガング・ドーベライナーが1823年に発表した装置は、ガラスの容器に硫酸を満たして使う実験器具のような姿をしています。

亜鉛と硫酸で水素をつくり、白金で点ける

火をつけているのは触媒の熱

装置の中では、亜鉛と薄めた硫酸が反応して水素が発生します。栓を開くと水素が細い口から吹き出し、その先に吊るされた白金スポンジに当たる仕組みです。白金は空気中の酸素と水素の反応を進める働きを持ち、自分自身が熱くなって水素に火をつけます。

触媒(しょくばい)とは、自分は変化しないまま、まわりの化学反応を進みやすくする物質のことです。

この装置は、触媒を使った世界初の商業製品だといわれています。つまり理屈が学問として整理されるより先に、売り物のほうが街に出ていました。

栓をひねると酸が亜鉛から離れる

火を止める仕掛けも化学の理屈でできています。中身はU字型の管になっていて、栓を閉じると発生した水素の圧力で硫酸が押し戻され、亜鉛から離れます。原料が接触しなくなるので反応が止まる、という設計です。

ポケットには入らないライター

家具のように飾られた道具

ガラスと硫酸でできている以上、持ち歩く用途は想定されていません。実際にこの装置は居間や書斎に置かれ、暖炉やパイプに火を移すために使われました。1828年ごろにはドイツとイギリスで2万台ほどが使われていたとされ、装飾を施した豪華な仕上げのものも作られています。資料によってはさらに大きな販売数を挙げるものもあり、当時の家庭でどれほど普及したかは幅を持って語られます。

製造の中心はドイツ・シュライツのピーグラーという業者で、生産は1880年ごろまで続きました。半世紀以上も現役だった計算になります。

発明者は特許を取らなかった

これだけ売れながら、ドーベライナー本人は一銭も得ていません。彼は設計をすべて公開し、独占権を買いたいというイギリス人からの大きな申し出も断ったと伝えられます。「私は金よりも科学を愛している」という趣旨の言葉が残っています。

ちなみにドーベライナーは、自分の実験の様子をたびたび文豪ゲーテに書き送っていました。ゲーテもイェーナの研究室をしばしば訪ねていたといわれます。

1826年のマッチは、暖炉の床をこすった偶然から生まれた

一方のマッチは、実験室ではなく薬局の店先で生まれました。イギリス・ストックトン・オン・ティーズの薬剤師ジョン・ウォーカーが、薬品を塗った棒を暖炉の床にこすりつけたところ、思いがけず炎が上がったのが始まりです。

薬剤師の手もとで起きた事故

塩素酸カリウムと硫化アンチモン

ウォーカーのマッチは、塩素酸カリウムと硫化アンチモンを練った薬を先端に塗った木の軸でした。紙やすりを二つ折りにして、そのあいだに軸を挟んで引き抜くと火がつきます。摩擦の熱だけで点火する道具は、これが商業的に成功した最初の例とされています。

1827年4月7日の帳簿

売り出したのは翌1827年でした。彼の帳簿には4月7日付で最初の販売記録が残っています。商品名は「硫黄をまぶした高酸化摩擦剤」といった意味合いのラテン語まじりの長い名前で、値段は100本で1シリング、収めるブリキのケースが別に2ペンスだったとされます。

のちに「コングリーヴ」の通称でも呼ばれるようになりますが、ウォーカー自身がその名を付けたわけではありません。

ここでも特許は取られなかった

ファラデーの助言を断る

ウォーカーは特許を申請していません。電磁誘導の発見で知られるマイケル・ファラデーから権利化を勧められたものの、応じなかったと伝えられます。公共の役に立つのだから独占するには及ばない、という趣旨の言葉を残しています。

ライターの発明者もマッチの発明者も、それぞれ別の国で、同じ判断をしていたわけです。

利益を得たのは三人目だった

権利が空いていれば、誰かが埋めます。1829年、ロンドンのサミュエル・ジョーンズが改良型を特許化し、「ルシファー」の名で安く売り出しました。発明した二人が手放した収益は、こうして三人目のもとへ流れています。

「マッチが先」と言える線の引き方もある

ここまでは「こすって火がつくマッチ」を基準にした話です。基準を前後にずらすと、答えは二度ひっくり返ります。

1805年、硫酸の瓶に浸すマッチ

こすらずに火がつく細い軸

ドーベライナーより18年早く、パリのジャン・シャンセルが自然発火式の発火具を作っています。塩素酸カリウム・硫黄・アラビアゴム・砂糖を混ぜた薬を木の軸の先に付け、硫酸を含ませた石綿入りの小瓶に浸すと発火する仕組みでした。

瓶とセットでなければ使えない

形は完全にマッチです。ただし、硫酸の瓶を必ず持ち歩かなければ役に立ちません。「マッチとは細い軸のことだ」と定義すればマッチが先になり、「マッチとは軸だけで点くもののことだ」と定義すればライターが先になる。線の位置がそのまま答えになります。

いまの形のライターを基準にすると差は約77年

1903年のフェロセリウム

ポケットに入るライターが成立するのは20世紀に入ってからです。1903年、オーストリアの化学者カール・アウアー・フォン・ヴェルスバッハがフェロセリウムの特許を取得しました。セリウムを約7割・鉄を約3割で混ぜた合金で、硬いものに擦りつけると3000度前後の火花が飛びます。

ヴェルスバッハは「アウアーメタル」の商品名でこれを売り出しました。いまのライターに入っている小さな発火石も、基本的にはこの合金です。

火花方式が携帯を可能にした

硫酸と水素をやめて、金属の火花に切り替えたことが決定的でした。液体の薬品を持ち歩く必要が消え、燃料と発火装置を同じ小さな筐体に詰められるようになったからです。この線を採るなら、マッチはライターより約77年も早く実用になっていたことになります。

安全マッチは、火をつける成分を二つに割った

マッチの側にも、19世紀のうちに大きな設計変更がありました。いま家庭にあるマッチは、ウォーカーのものともソーリアのものとも構造が違います。

どこでも擦れるマッチの代償

1830年の黄燐マッチ

1830年、フランスのソーリアが黄燐(おうりん)を使ったマッチを発明します。壁でも靴底でも、少し粗い面ならどこでも点くマッチでした。便利さから世界中に広まり、19世紀のマッチといえばこれを指すほど普及しています。

顎の骨を侵す職業病と1906年の条約

ところが黄燐は強い毒性を持っていました。工場で働く人たちの顎の骨が壊れていく病が知られるようになり、1888年にはロンドンで女性工員のストライキが起きています。1906年にはスイスのベルヌで条約が結ばれ、黄燐マッチの製造・輸入・販売が禁じられました。

日本は輸出産業を抱えていた事情から対応が遅れ、黄燐燐寸製造禁止法を公布したのは1921年4月11日でした。条約そのものの批准は1926年です。

頭薬と側薬に分ける

1848年のベットガー、1855年のルンドストローム

解決策は、燃える成分を一か所に集めるのをやめることでした。1844年にスウェーデンのパッシュが擦り面に赤燐(せきりん)を使う案を特許化し、1848年にはドイツのベットガーが具体的な形を示します。商品として軌道に乗せたのは1855年、スウェーデンのルンドストロームでした。

箱がなければ点かない

安全マッチでは、頭薬(とうやく)と側薬(そくやく)に成分が分かれています。軸の先だけでは燃えず、箱の横のざらざらした面と組み合わせて初めて発火する構造です。

場所主な成分役割
頭薬(軸の先)塩素酸カリウム・硫黄・膠(にかわ)・ガラス粉酸素を出して燃え上がる
側薬(箱の横)赤燐・硫化アンチモン・塩化ビニルエマルジョン摩擦で最初の火種をつくる

ライターが「全部を一つの筐体に詰める」方向へ進んだのに対し、マッチは「わざと二つに分ける」方向へ進みました。同じ火をつける道具でありながら、設計思想は正反対です。

日本では、1970年代に順番が入れ替わった

発明の順番はヨーロッパでの話ですが、暮らしの中でどちらが主役だったかとなると、日本には日本の年表があります。そして主役の交代はきわめて短期間に起きました。

国産マッチは1875年に始まった

清水誠と新燧社

1875年4月、清水誠(しみずまこと)が東京でマッチの製造販売を始めます。もとは横須賀造船所の技術者で、内務卿の大久保利通からマッチに専念するよう勧められたと伝わる人物です。翌1876年9月には本所柳原町(ほんじょやなぎわらちょう)に新燧社(しんすいしゃ)を設立しました。

商標は桜印。1877年の第1回内国勧業博覧会で鳳紋賞牌を受けています。

輸出で世界三大生産国へ

1878年には上海への輸出が始まり、1880年の輸出額は36万9000円に達しました。その後は粗悪品の乱立で1884年に2700円まで急落するという波乱もありましたが、20世紀初頭の日本はスウェーデン・アメリカと並ぶ世界三大生産国に数えられています。

1973年のピークと、1975年のチルチルミチル

戦後最大の80万マッチトン

戦後の国内需要は伸び続け、1973年に総生産量80万マッチトンという戦後最大の数字を記録します。うち輸出は1万8000マッチトンでした。

マッチトンとは、マッチの取引に使われる単位です。日本燐寸工業会の定めでは、1マッチトンは並型マッチ(約40本入り)7200箱にあたります。

単純に掛ければ、1973年の生産は並型マッチにして57億6000万箱ぶんという規模です。

100円ライターが来た年

頂点の2年後、1975年5月に株式会社東海精器が100円の使い捨てライター「チルチルミチル」を発売します。自動点火装置つきのガス器具が家庭に入ってきた時期とも重なり、マッチの需要はここから下り坂に入りました。2023年時点の生産量は戦後ピークのおよそ100分の1で、国内で一貫生産するマッチメーカーは2社まで減っています。

ヨーロッパでライターに3年先を越されたマッチは、日本の家庭では約100年ぶんの先行を保ち、そのうえで2年で追い抜かれた計算になります。

もう一歩深く — 勝ったライターが背負ったもの

ライターは2011年から「重く」なった

2010年12月の指定と2011年9月の販売規制

子どもの火遊びによる火災が相次いだことを受け、2010年12月27日にライターが消費生活用製品安全法の特別特定製品に追加されました。当時の報道では、2005年から2011年8月までにライターがもとの火災で16人の子どもが亡くなっています。9か月の移行期間を経て、2011年9月27日からは国の技術基準に適合したPSCマークつきの製品でなければ販売できなくなりました。

PSCマークとは、消費生活用製品安全法の技術基準に適合したことを示す表示です。対象製品はこの表示がないと販売できません。

軽さを捨てて安全を取った規格

この基準の中身は、着火レバーを重くしたりストッパーを付けたりして、子どもが簡単には点けられないようにするものです。道具の改良はふつう「軽く・簡単に」の方向へ進みますが、ライターはある時点でその向きを逆にしました。使いにくくすることが改良になる、めずらしい例といえます。

マッチの箱は広告として生き延びた

飲食店や旅館が配った箱

火をつける道具としての座を明け渡したあとも、マッチには別の役目が残りました。店名や電話番号を刷った広告マッチです。飲食店や旅館が客に配る販促品として長く需要があり、日本の広告マッチは印刷の質で国際的にも評価されてきました。

一貫生産は2社まで減った

その広告マッチも、外食の落ち込みとともに数を減らしています。1923年創業の日東社をはじめ、いまも姫路を中心に作り続ける会社は残っていますが、軸から箱まで自社で仕上げる一貫生産の担い手は2社です。二百年の競争の勝敗より、この数字のほうが現在地をよく表しているかもしれません。

1805年を取るか、1823年を取るか、1903年を取るか。どの線を引いても変わらないことが一つあります。この二百年で人が改良し続けたのは火のつけ方そのものではなく、火を持ち歩ける大きさへ畳む方法のほうでした。卓上のガラス管が手のひらに収まるまでに、およそ80年。そのあいだずっと、こすれば点く一本の木の軸のほうが小さくて簡単だったのです。順番の話がこじれるのは、大きさと手軽さがいつも同じ順番では進まなかったからでしょう。