日本列島で人が最初に顔や体へ塗った色は、白ではなく赤でした。旧石器時代の遺跡からは赤い顔料をつくる道具が出ており、3世紀の中国の史書も倭人が赤を体に塗ると書いています。白粉(おしろい)が記録にあらわれるのは飛鳥時代の終わり。赤は魔除けの色として先にあり、白はあとから大陸を渡ってきたのです。
最初の色は赤だった

2万年以上前の顔料づくりの道具
北海道千歳市の柏台1遺跡(かしわだいいちいせき)からは、2万年以上前に使われた赤い顔料をつくる道具が出土しています。旧石器時代、まだ土器もない時代の話です。何に塗ったのかは分かっていません。それでも赤い石をわざわざ砕いて粉にする手間を、人はこの頃から惜しまなかったことになります。
縄文の土偶と墓にも赤が残る
縄文時代の土偶や土面には、顔に線を刻んだものや赤く彩られたものがあります。苫小牧市内の遺跡では、縄文時代早期(およそ7千年前)のベンガラが付いた貝や赤く塗られた土器が見つかりました。お墓に赤い顔料がまかれた例も多く、赤が生と死の場面に深く関わっていたことがうかがえます。
鉄さびの赤と水銀の赤
古代の赤い顔料は大きく二つに分かれます。ひとつは酸化鉄を主成分とするベンガラで、各地の赤土から得られました。もうひとつは硫化水銀を主成分とする朱(しゅ)。原料の辰砂(しんしゃ)は限られた鉱山でしか採れず、ずっと貴重でした。
※ ベンガラとは、酸化鉄を主成分とする赤い顔料のことです。名前はインドのベンガル地方に由来するといわれ、旧石器時代から現代まで使われ続けています。
中国の史書は倭人の赤をどう書いた?

「朱丹を以てその身体に塗る」
3世紀の日本の様子を伝える『三国志』の通称『魏志倭人伝』には、倭人が「朱丹(しゅたん)を以てその身体に塗る」とあります。朱丹とは赤い顔料のこと。顔や体を赤く塗る人々の姿が、海の向こうの記録に残ったわけです。
おもしろいのは、そのあとに「中国の粉を用うるがごときなり」と続くところです。書き手は日本人の赤い塗料を、自分たちの白い粉と並べて説明しました。同じ「顔に塗る」行為でも色が違う。その違いが目に留まったのでしょう。
頬に赤を差した埴輪
6世紀の古墳時代後期になると、人や動物をかたどった形象埴輪がつくられます。その中に、頬に赤い顔料を施した女子の埴輪があります。今でいうチークの位置に赤がのっているのは、なんとも不思議な一致です。土の人形にまで赤を差したところに、この色へのこだわりが見えます。
なぜ最初の色が赤だったのか?

血と太陽の色だから
赤は血と太陽の色で、生命を連想させます。死への恐れや自然への畏れが今よりずっと強かった時代、赤は人を護る力を持った特別な色と考えられていた。これが有力な見方です。弥生・古墳時代の化粧は、おしゃれではなく呪術から発した行為だったとされています。
見せるためではなく守るため
この見方に立つと、赤を塗る相手は他人の視線ではなくなります。向き合っていたのは、目に見えない病気や災いのほうです。誰かに褒められる必要がないなら、上手い下手も流行も生まれません。化粧が「人にどう見えるか」の技術になるのは、ずっとあとの時代です。
世界でも始まりは赤だった

10万年前の「絵の具工房」
南アフリカのブロンボス洞窟では、約10万年前の地層から2枚のアワビの貝殻が見つかりました。中には赤い顔料を練った混ぜ物。まわりには砥石やハンマー代わりの石、骨や木炭がそろっていました。赤い石を粉にして混ぜ、貝殻にためておく。道具一式がそのまま残っていたのです。
使い道はまだ分かっていない
研究チームを率いたクリストファー・ヘンシルウッド氏らは、2011年に『Science』誌でこの発見を報告しました。混ぜ物は飾りや絵、肌を守るために使われた可能性があるとされます。ただし化粧品だったと言い切れる証拠ではありません。分かっているのは、人が色を「つくって保存する」段階にいたことです。
エジプトの黒い目張りは薬にもなった?
古代エジプトでは、目のまわりを黒く縁取るコールが広く使われました。2010年、ルーブル美術館所蔵の化粧容器52点の中身を分析した研究が発表されます。見つかった鉛の化合物4種のうち2種は自然にはほとんど無く、人の手で合成されたと考えられました。
しかもその物質は、培養した皮膚の細胞で一酸化窒素を最大240%増やしました。免疫のはたらきを高め、目の感染症を防いだ可能性があるというのです。とはいえ鉛は毒です。効き目と害が同居していた点は、のちの日本の白粉とよく似ています。
白粉はいつ日本に来た?

飛鳥時代に紅と白粉が海を渡る
白粉は日本で生まれたものではありません。飛鳥時代、紅や白粉、香が新しい化粧品として大陸から入ってきました。奈良時代中期の「鳥毛立女屏風(とりげりつじょのびょうぶ)」には、白粉を塗って紅を差した唐風の女性が描かれています。
692年、僧が鉛の粉を献上した
『日本書紀』の持統天皇6年(692年)の条には、僧の観成(かんじょう)がつくった鉛の粉を天皇が喜んだという記事があります。日本で白粉がつくられたことを示す、いちばん古い記録です。鉛白粉は鉛を酢で蒸してつくる製法で、貝殻や米の粉より付きも伸びもよかったとされます。
白い顔は暗い部屋で映えた
白い肌が好まれた理由には諸説あります。日焼けしない肌が高い身分のしるしになった、という説がそのひとつ。電灯のない時代、屋内はろうそくや灯明のわずかな光だけでした。白く塗った顔はその乏しい光をよく返すため、暗い住まいでよく映えたと推測されています。
平安時代に白・紅・黒の三色がそろう

鉛の白と水銀の白
平安時代の白粉は、鉛からつくる鉛白(はふに)と、水銀を原料とする軽粉(はらや)の二本立てでした。赤がベンガラと朱に分かれていたのと同じく、白も素材の違う二系統だったわけです。そこへ口元と頬の紅、歯を染める黒が加わります。
三つの色は、使ったものも担った意味もそれぞれ違いました。並べると次のようになります。
| 色 | 使ったもの | のちに担った意味 |
|---|---|---|
| 赤 | 紅花からとった紅 | 魔除けから、高価な流行の色へ |
| 白 | 鉛白・軽粉(水銀) | 身分の高さ、のちに毒の代名詞 |
| 黒 | 五倍子粉とお歯黒水 | 成人と既婚のしるし |
眉を抜いて高い位置に描く引眉
眉の化粧も独特でした。生まれつきの眉をすべて抜き、白粉を塗った上から本来より少し高い位置に眉墨で描く「引眉(ひきまゆ)」です。理由ははっきりしません。眉は気持ちが表れやすい場所なので、額の高い眉なら表情が動いて見えず、穏やかで高貴な印象になる。そんな美意識があったとする説があります。
公家の男性も化粧をした
平安時代の末になると、公家の男性も白粉や紅に加えて眉化粧とお歯黒をするようになりました。化粧が高い身分や階級を示すしるしになっていったからです。「化粧は女性のもの」という枠組みは、この時代には当てはまりません。
江戸のお歯黒は何を伝えた?

8〜9歳の初お歯黒から
江戸時代の初めごろ、武家の娘は8〜9歳でお歯黒を初めてつけ、これを「半元服」と呼びました。14〜16歳で眉を剃るのが「本元服」で、成人女性と認められる節目です。初めてのお歯黒では、7か所から鉄漿水(かねみず)をもらう慣わしもありました。
※ お歯黒水(鉄漿水/かねみず)とは、酢や米のとぎ汁に錆びた釘などを入れてつくる液のことです。タンニンを多く含む五倍子粉(ふしのこ)と合わせて歯に塗ると、化学反応で黒く染まります。
結婚と出産で顔が変わる
江戸時代の中ごろからは、つける年齢が上がっていきます。お歯黒は結婚の前後につけ、眉を剃るのは子どもが生まれてから。未婚の女性は自分の顔立ちに合わせて眉を描いていました。歯と眉を見れば、その人が結婚しているか、子どもがいるかまで分かったのです。
黒は他の色に染まらない
黒が既婚のしるしになった理屈は、黒は何色にも染まらない不変の色だから、というものでした。夫以外に心を移さない貞節の証にふさわしい、という意味づけです。色の性質にあとから意味を重ねた形で、赤を魔除けとした発想とよく似ています。
紅はなぜ金と同じ値段だった?

紅一匁金一匁
江戸の紅は「紅一匁金一匁(べにいちもんめきんいちもんめ)」と言われるほど高価でした。濃く塗れたのは裕福な商家の妻女や遊女くらいです。値段の理由は原料の効率の悪さにあります。紅花に含まれる赤い色素は、わずか0.1〜0.3%しかありません。
紅花の産地として有名だったのは山形です。摘んだ花はまず紅餅(べにもち)に加工され、遠く京都まで運ばれてから紅に仕上げられました。手間と輸送の距離が、そのまま値段に乗っていたことになります。魔除けだった赤は、江戸では富を見せる色にもなっていました。
唇を緑に光らせる笹色紅
文化年間(1804〜1818年)ごろには、紅を濃く重ねて唇を玉虫色に光らせる「笹色紅(ささいろべに)」が遊女の化粧から流行しました。高い紅を節約する裏技も生まれます。下地に墨を塗ってから紅をのせると、少ない量でも濃く見えるのです。この方法は1813年刊の手引き書『都風俗化粧伝(みやこふうぞくけわいでん)』にも説明があります。
白粉はいつ毒だと分かった?

1887年、天覧歌舞伎の舞台で
1887年(明治20年)4月26日、井上外務大臣の邸で明治天皇を招いた天覧歌舞伎が催されました。義経を演じていた中村福助の足が震えて止まらなくなり、抱きかかえられるように花道から退場します。専門家は鉛白粉による慢性の鉛中毒と判断し、事件は社会問題になりました。
害が知られても使われ続けた理由
舞台の照明に負けないよう、役者は白粉を厚く塗ります。そのぶん多くの鉛を肌から取り込んでいました。それでも鉛白粉は明治以降も長く売られます。付きや伸びが良く、代わりの品がなかなか追いつかなかったからです。
無鉛白粉の登場と製造禁止
無鉛白粉の開発は1888年ごろに始まりました。1904年に胡蝶園が「御園白粉(みそのおしろい)」を発売。翌年には「レート白粉」「クラブ白粉」などが続き、1906年には資生堂が国産初の色つき白粉を売り出しています。鉛入り白粉の製造が禁じられたのは1934年(昭和9年)とされ、舞台の事件から半世紀近くが経っていました。
黒は白より先に消えた

1870年、華族のお歯黒を禁止
明治政府は1870年(明治3年)2月、華族のお歯黒と引眉を禁止しました。理由は健康ではなく外交です。幕末から明治の初めに来日した欧米人の目に、黒い歯と剃った眉は異様な風習と映りました。近代化を急ぐ政府は、その評判を気にしたのです。
1873年、皇后が率先してやめる
毎日の習慣を急にやめると顔の印象が大きく変わるため、一般の女性はなかなか従いませんでした。転機は1873年(明治6年)です。皇后が率先してお歯黒と引眉をやめたことで、自然な眉や白い歯が受け入れられていきました。
害のある白が残り、黒が消えた
ここで妙なねじれが起こります。実際に体を害していた白は、中身を入れ替えながら生き残りました。害の少なかった黒のほうが先に姿を消したのです。何が退場するかを決めたのは毒性ではなく、外からの目でした。
黒く染めた歯は虫歯を防いだ?

タンニンと鉄の膜
すたれたお歯黒には、実用の面もあったといわれます。五倍子粉のタンニンには歯や歯ぐきを細菌から守るはたらきがあり、お歯黒水の鉄の成分は歯を丈夫にするとされます。歯を目立たなくして口を小さく見せる、歯並びや変色を隠すという役目もありました。
今の虫歯予防はフッ化物
ただし歯科医の側からは、はっきり釘が刺されています。現在、虫歯予防の根拠が認められているのはフッ化物だけです。お歯黒の効き目は昔の人の経験から言われてきたもので、今あらためて試す理由はありません。黒い歯は、薬というより暮らしの知恵として受け取るのがよさそうです。
化粧はいつ始まったかと年号で問えば、答えは一つに決まります。日本列島なら2万年以上前の赤い顔料、世界なら10万年前の貝殻の中の赤です。けれども「何のために」と問うと、答えは何度も入れ替わります。魔除け・身分・既婚のしるし・流行、そして健康。始まりが一度きりなのは年号のほうで、理由は時代ごとに始まり直してきました。
参考
- 苫小牧市「広報とまこまい」2021年1月号
- ポーラ文化研究所「日本の化粧文化史 弥生時代~古墳時代2 よそおいの発展と赤の化粧」
- ポーラ文化研究所「近代化粧の幕開け 明治時代3 進化を遂げる白粉」
- 国立国会図書館「本の万華鏡 第31回 成人の儀式」
関連記事






