ちょんまげはなぜ頭を剃るのか、剃刀のない時代はどうしていた?

歴史と変遷の話
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時代劇でおなじみの、頭のてっぺんを丸く剃り上げた髪型。あの剃った部分は、戦国時代のある時期まで剃られていませんでした。剃るのではなく、毛を抜いてつくっていたのです。

使ったのは木でできた毛抜きでした。額から頭頂にかけての範囲を、一本ずつつまんでは引き抜いていく。江戸初期の記録には、そのすさまじさを伝える一節も残っているといいます。ちょんまげのあの形は、痛みと手間を積み上げた末にできあがった身だしなみでした。

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ちょんまげは「剃った部分」と「残した部分」でできている

頭の上から順に目で追っていくと、部分ごとに別々の名前と、別々の理由が付いていることがわかります。ひとつの答えでまとめて説明できる髪型ではありません。

見る場所名前そうなっている理由
額から頭頂月代(さかやき)兜をかぶったときの熱や「気」を抜くためとされる。戦がなくなった江戸時代にも残り、大人の男の身なりになった
残した髪の束髷(まげ)束ねた毛先を前へ折り返した形。その形が踊り字の「ゝ(ちょん)」に似ていることから「ちょんまげ」と呼ばれた
結い方の違い銀杏髷・本多髷・総髪など身分・年齢・職業ごとに型が違い、すれ違っただけで相手の立場がおおよそ読めた
手入れ髪結床(かみゆいどこ)月代はすぐ伸びる。数日おきに剃り直さないと格好がつかず、街には髪結の店が並んだ

剃り上げた部分は、はじめ抜いてつくっていた

あの丸い部分には月代(さかやき)という名前があります。そして戦国時代の終わりごろまで、ここは刃物で剃られてはいませんでした。

月代とは、どこを指すのか

額から頭頂までの半月形

月代は、額の生え際から頭のてっぺんにかけての範囲を指します。前から見ると半月のような形に見えるため、この形が名前の由来のひとつだとする説もあります。残った横の毛は鬢(びん)、後ろの毛は髱(たぼ)と呼び分けられていました。

読み方の由来は、いまも定まっていない

「月代」と書いて「さかやき」と読むのは、字面と音がつながらない不思議な読み方です。有力とされるのは「逆息(さかいき)」が転じたという説で、ほかに「逆明(さかあき)」から来たとする説もあります。どれも決め手を欠いたまま、読み方だけが残りました。

木の毛抜きで、一本ずつ

天正年間まで続いた「抜く」やり方

『日本大百科全書』によれば、天正年間(1573〜92年)までは「毛抜」という道具で髪を抜いて月代を整えていたとされます。木製のピンセットのような道具で髪をはさみ、一本ずつ引き抜いていく作業です。剃るのに比べて時間がかかるのはもちろん、痛みも桁違いでした。

「黒血流れて物すさまじ」

江戸初期の見聞録『慶長見聞集(けいちょうけんぶんしゅう)』には、その様子を「黒血流れて物すさまじ」と記した一節があると紹介されています。抜いたあとの頭皮からにじむ血の描写です。身だしなみというより、儀式に近い光景だったのかもしれません。

剃刀に変わって、はじめて広まった

戦国の終わりに道具が入れ替わる

抜くやり方から剃るやり方へ切り替わったのは、戦国時代の末とされています。織田信長が剃刀で剃ることを勧めて広めた、という話も伝わりますが、これは確かな一次資料で裏づけられた逸話ではありません。時期についても「豊臣秀吉が天下を統一したころから」という書き方をする資料があり、資料によって幅があります。

痛くなくなった髪型が、庶民まで降りてきた

抜いていた時代の月代は、痛みと出血をともなう特別な身なりでした。剃刀に変わったことで手間も苦痛も大きく減り、武士以外の町人や職人にも手が届く髪型になります。江戸時代に月代が男の標準になった背景には、この道具の交代があったと考えられます。

なぜ、頭のてっぺんを空けたのか

広く知られている理由は「兜(かぶと)をかぶると蒸れるから」です。ただし、この説明だけでは説明しきれない記録がいくつも残っています。

定説は、江戸中期の学者がまとめたもの

「逆さに上る気」を抜くため

いまも広く認められているのは、江戸中期の武家故実の研究者・伊勢貞丈(いせさだたけ)の説です。戦場で兜をかぶると気が逆さに上ってしまう。その「イキ」を抜くために頭頂を剃り上げたのだ、という説明でした。「さかやき」の語源を「さかいき」に求める説とも、そのままつながっています。

現代の「蒸れる」は、その言い換え

私たちが聞き慣れた「蒸れるから」という説明は、この古い言い回しを現代の感覚に置き換えたものです。熱がこもって気が上るという当時の身体観を、通気の問題として読み替えたことになります。いまでいえば「のぼせる」に近い感覚でしょうか。結論は同じでも、それを支える理屈は別物です。

ところが、記録は兜より古い

1176年の日記に、すでに「月代」がある

安元2年(1176年)、九条兼実(くじょうかねざね)の日記『玉葉(ぎょくよう)』に「月代太見苦」という記述が見えます。武士が兜をかぶって戦い続けた戦国時代より、四百年ちかく前のことです。14世紀の『太平記』巻5にも「さかやきの跡隠れなし」という一節があります。

もとは冠や烏帽子のための手入れだった

平凡社『世界大百科事典』などによれば、始まりは平安時代の貴族や武士が冠や烏帽子(えぼし)をかぶるとき、額を半月状に処理して生え際を見せないようにしたことだとされます。つまり最初の目的は、戦いの都合ではなく、かぶりものを美しく見せるための身だしなみでした。

兜をかぶらない人まで剃っていた

絵巻に描かれた足軽たち

大永4年(1524年)ごろに成立したとされる真如堂縁起絵巻(しんにょどうえんぎえまき)には、月代を剃った足軽が数多く描かれています。足軽の多くは兜をかぶりません。それでも剃っていたのは、蒸れ対策ではなく強さや威勢を見せるためだったのではないか、という指摘があります。

資料によって、始まりの説明がそろわない

平安の貴族の身だしなみ、戦場での実用、見た目の威圧。三つの説明はどれも記録に支えられていて、どれか一つに決められません。この髪型には「誰かが決めた出発点」がないため、理由が一本の線にならないのです。ここでは無理にそろえず、資料がそろわないままだと書いておきます。

残した髪の形が、身分と年齢を語っていた

月代が「剃る側」の話なら、髷(まげ)は「残す側」の話です。そして残した髪の結い方は、その人の立場を語る看板でもありました。

「ちょんまげ」は、本来ごく一部の髷の名前

正しくは、髪の少ない老人が結う髷

意外なことに、丁髷(ちょんまげ)という言葉が本来指すのは、髪の少ない老人などが結った小さな髷のことです。江戸時代に一般的だったのは銀杏髷(いちょうまげ)で、ちょんまげは結髪のなかでは少数派でした。いま私たちが江戸の男性の髪型全体を指して使っている呼び名は、かなり大ざっぱな借用ということになります。

語源は、踊り字の「ゝ」

「ちょん」の正体は、繰り返しを表す踊り字の「ゝ」です。えび折りにした髷の形がこの記号に似ていることから生まれた呼び名で、「丁」の字はあとから当てられたものとされます。しかも、これは明治初期以降に広まった俗称でした。

※ 踊り字(おどりじ)とは、同じ文字の繰り返しを表す記号のことです。「人々」の「々」や、ひらがなを繰り返す「ゝ」がこれにあたります。

武家と町人で、型が違った

長めの銀杏髷と、小ぶりの小銀杏

同じ銀杏髷でも、武家は髷が長めの型を結い、町人は小ぶりな「小銀杏」を好んだといわれます。職業ごとの細かい違いもあり、髷の太さや傾き、月代の広さで見分けがついたようです。細かく数えれば数十種類にもなるとされ、時代劇の衣装や結髪はこの違いを手がかりに作られています。

粋な若旦那は本多髷

江戸中期に流行したのが本多髷(ほんだまげ)です。月代を広めに取って髷を細く結う型で、「金魚本多」「浪速本多」といった派生も生まれました。粋な若旦那がこぞって結ったとされ、髪型が流行として消費されていたことがうかがえます。元文小判の発行に合わせて名づけられた「文金風」という型もありました。

髪型おもに結った人特徴
銀杏髷武士・町人もっとも一般的な型。毛先が銀杏の葉のように広がる。武家は長め、町人は小ぶりの小銀杏
本多髷江戸中期の粋筋・若旦那月代を広く取り、髷は細め。流行の型として派生が多い
丁髷髪の少ない老人など小さな髷。のちに江戸時代の男性の髪型全体を指す俗称になった
総髪医師・学者・浪人など月代を剃らず、髪を後ろへなでつけて束ねる。手入れの手間が少ない
若衆髷元服前の男子前髪を残した髪型。元服で前髪を落として大人の髷になる

剃らない人たちも、決まっていた

公卿・医師・学者・浪人

江戸時代に月代を剃らなかった者として、公卿・浪人・山伏・学者・医師・人相見・物乞いなどが挙げられています。ここに並ぶのは、武家の序列の外側にいる人たちです。剃らない頭は、その人が幕府の身分秩序にどう位置しているかを示す記号でもありました。

総髪は、やがて一般にも広がった

月代を剃らない総髪(そうはつ)は、江戸前期には医者や学者の髪型でした。それが後期になると一般にも広まっていきます。坂本龍馬や徳川慶喜の髪型もこの系統だったとされます。月代の手入れが要らないという実用面が、幕末の慌ただしさと合っていたのかもしれません。

前髪の有無が、大人の証明だった

元服で前髪を落とす

元服前の男子は前髪を残した若衆髷(わかしゅまげ)を結い、元服の際にその前髪を剃り落としました。髪型が変わることが、そのまま「大人になった」という周囲への通知になります。名前も服装もこのとき改まりました。

※ 元服(げんぷく)とは、男子が成人と認められる通過儀礼のことです。数え年で13〜15歳ごろに行われ、髪型と名前を大人のものに改めました。

髷は、束ねて折り返してつくる

髷は、残した髪を後ろでまとめ、元結(もとゆい)という紐で巻いて形をつくります。毛先を出したままの茶筅髷(ちゃせんまげ)と、毛先を二つ折りにして前へ倒す型の二系統があり、後者が江戸の見慣れた姿です。あの独特のシルエットは、髪を切ってつくった形ではなく、折り返して留めた形でした。

数日で無粋になる髪型と、街の髪結床

剃った頭は、すぐ伸びる

伸びた月代は「野暮」だった

剃り上げた月代は、数日でうっすらと伸びてきます。いなせを気取る江戸っ子にとって、月代が伸びた頭は言語道断でした。髪結床へ毎日のように通う者も少なくなかったと伝えられています。この髪型を保つには、生活のなかに定期的な手入れの時間を組み込む必要がありました。

髪結賃は1文から10文へ

髪結賃は寛永のころで1文ほど。それが元禄(1688〜1704年)になると7文から10文になったとされています。数十年で数倍に上がった計算です。髪を結うことが特別な出費ではなく、暮らしの固定費に近いものだったことがわかります。

店を構える者、客を回る者

「床屋」という呼び名の出どころ

髪結床は「床屋」とも呼ばれました。店を構えない者、店舗を持つ者、客の家を回る者と営業の形もさまざまです。客が集まって世相を語り合ったことから「浮世床(うきよどこ)」という言葉も生まれました。理髪店を床屋と呼ぶ習慣は、ここから今日まで続いています。

武士は、店に行かなかった

床屋に集まったのは町家の人たちで、武士は家臣のうち髪結の腕が立つ者に結わせていました。江戸の藩邸には髪結が出張し、藩士たちの髪を整えたといいます。一般の民家では妻が夫の髪を結うこともありました。同じ髪型でも、誰の手で整えられるかで身分が透けて見えます。

「断髪令」は、切れとは命じていない

この髪型を終わらせたのは、明治政府の命令だと語られがちです。ところが、その布告の中身は禁止ではなく解禁でした。

明治4年8月9日の布告

原文は「勝手ニ任ス」

国立公文書館が所蔵する太政類典(だじょうるいてん)には、明治4年8月9日の布告が「散髪制服略服脱刀共勝手ニ任ス」と記されています。髪を切るのも刀を差さないのも本人の自由にしてよい、という中身です。散髪脱刀令(さんぱつだっとうれい)という名の通り、髷を禁じた法令ではありませんでした。

強制力がないので、結い続けた人もいた

強制力のない緩やかな定めだったため、布告のあとも髷を結い続けた人は珍しくありません。旧薩摩藩主の島津忠義(しまづただよし)のように、その後も髷を改めなかった人物が知られています。地域によっては役所が熱心に断髪を勧め、逆に福井のように抵抗が起きた土地もありました。

使節団で、ひとりだけ髷だった岩倉具視

布告の直後に欧米へ出発した岩倉使節団では、多くの随員が洋装と断髪で海を渡りました。ところが全権大使の岩倉具視(いわくらともみ)だけは、髷と和服のままアメリカへ向かいます。明治5年、シカゴで息子の具定(ともさだ)に説得され、ようやく髷を落としたと伝えられています。

それでも髷は消えていく

明治天皇の断髪が流れを変えた

潮目を変えたのは、明治6年(1873年)の明治天皇の断髪です。頂点に立つ人物が髷を落としたことで、伝統的な男髷を結う人は急速に減っていきました。命令ではなく手本によって広がったところに、この変化の性格が表れています。

女性には、逆向きの命令が出た

「自由にしてよい」と聞いた女性のなかにも、髪を切る人が現れました。すると明治5年(1872年)4月5日、東京府が女子の断髪を禁じる府達を出します。国立公文書館の公文録(こうぶんろく)に残る「婦人断髪ノ儀ニ付伺」に記されたのは、男女の区別が判然としない髪型は禁ずべきだという趣旨でした。男性には自由が与えられ、女性には禁止が下りたことになります。

年できごと
1176年『玉葉』に「月代太見苦」の記述。武士の兜より前から月代があった
1524年ごろ真如堂縁起絵巻に、兜をかぶらない足軽の月代が描かれる
1573〜92年天正年間。このころまで毛抜きで抜いており、以降は剃刀へ
1871年散髪脱刀令。髷を禁じたのではなく、切ってもよいと認めた布告
1872年東京府が女子の断髪を禁じる府達を出す
1873年明治天皇が断髪。男髷を結う人が一気に減る

いまも髷を結う人たちがいる

相撲界だけが、断髪をまぬがれた

断髪の波が押し寄せたとき、相撲界にもいったんは断髪が当てはめられようとしました。ところが当時の政府高官には相撲好きが多く、力士の風俗として結髪を従来どおり認めることになったと伝えられています。大相撲の髷が今日まで生き残ったのは、この判断のおかげです。

大銀杏を結えるのは、十両から

十両以上の関取が本場所で結う大銀杏(おおいちょう)は、毛先が銀杏の葉のように広がる形からその名が付きました。日本相撲協会の力士規定は、十両以上の関取資格者は出場に際して大銀杏に結髪しなければならないと定めています。番付が上がってはじめて結える髪型という点で、江戸の身分と髷の関係がそのまま残されているとも言えます。

結うのは床山という専門職

大銀杏を結うのは床山(とこやま)と呼ばれる専門職です。技術を身につけるには10年以上かかるといわれ、熟練した床山でも関取ひとりに20分から30分を要するそうです。江戸の街に髪結床が並んでいた光景の、最後の一区画がここに残っています。

幕下以下の力士も、十両との取組がある日や弓取式では大銀杏を結うことが認められています。引退する力士の断髪式もそのひとつ。土俵の上には、番付によって髪型が変わる世界がまだ残っています。

あの髪型を「ちょんまげ」と呼びはじめたのは、明治に入ってからでした。名づけたのは、それを結っていた人たちではありません。毎朝のように月代を剃り、髷を結い直していた当人たちは、自分の頭にその呼び名を使わないまま一生を終えたことになります。形の説明も名前も、たいていは当たり前でなくなってから、外側の人の手で付けられるのでしょう。

参考

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