将棋で取った駒を使えるのはなぜか——世界で日本だけ

歴史と変遷の話
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将棋とチェスは、同じゲームから枝分かれした親戚どうしです。ところが盤の上で起きることは、途中から大きく食い違います。チェスは駒を取るたびに盤上の駒が減っていきます。将棋は四十枚のまま最後まで減りません。取られた駒が持ち駒として手元に移り、いつでも盤へ戻ってくるからです。

この「取った駒を打ち直せる」ルールは、古代インドのチャトランガから分かれた仲間のなかで日本の将棋だけが持っています。中国のシャンチーにもタイのマークルックにも、そしてヨーロッパのチェスにもありません。二つのゲームの違いは細かく数えればきりがないものの、たどっていくとこの一点に行き着きます。

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将棋とチェスは、どこがどう違うのか

先に違いを並べます。ただし表の行は対等ではありません。いちばん下の「取った駒」の一行が、その上のいくつかの行を引き起こしている側です。

項目将棋チェス
9×9の81マス8×8の64マス
駒の数各20枚・計40枚各16枚・計32枚
敵味方の区別色も形も同じ。駒の向きで見分ける白と黒に塗り分ける
駒の姿五角形の木片に文字を書く王や馬をかたどった立体
成り敵陣三段に出入りする動きで成れるポーンが最終段に届いたとき昇格
引き分け千日手と持将棋のみ。原則は指し直しステイルメイト・同形三復・50手など
取った駒持ち駒になり、好きな地点へ打てる盤から取り除かれ、戻らない

駒の数も盤の広さも、見た目にはっきり違います。けれど最後の一行がなければ、将棋は「マスが十七個多いチェス」で済んでいたはずです。以下では枝分かれの経緯から順に見ていきます。

二つは同じゲームから枝分かれした

将棋もチェスも、起源は古代インドのチャトランガだとする説が最有力です。日本将棋連盟の解説も、同じ一本の木から広がった枝としてこれらを並べています。西洋にはチェス。中国にはシャンチー。朝鮮半島にはチャンギ、タイにはマークルック。そして日本には将棋というわけです。

チャトランガという四つの部隊

チャトランガとは、古代インドで生まれたとされる盤上の戦争ゲームです。名前はサンスクリット語で「四つの部分」を意味するといわれます。

象・馬・戦車・歩兵が、そのまま駒になった

チャトランガの四つの部隊は象・馬・戦車・歩兵でした。この四つは、そのままチェスのビショップ・ナイト・ルーク・ポーンに対応するとされています。将棋の桂馬と香車も、シャンチーの馬と車も同じ系統の名残です。

面白いのは、象がそれぞれの土地で別のものに化けた点です。ヨーロッパでは司教のビショップになり、日本では「醉象(すいぞう)」という駒として一度は取り入れられました。醉象は成ると「太子」となり、玉将と同じ働きをしたと伝わります。中国のシャンチーには、相・象がそのまま残りました。

四人でやる形と、二人でやる形があった

このゲームには四人制と二人制の両方が伝わっており、現在ではチェスなどの祖先にあたるのは二人制のほうだとする見方が有力です。四人制ではサイコロを振って動かす駒を決めたともいわれ、いまの姿からは想像しにくい遊びだったようです。

西へ行った枝と、東へ行った枝

ペルシアのシャトランジを経てヨーロッパへ

西へ向かった枝は、ササン朝ペルシアでチャトラング、アラブの征服後にシャトランジと名を変えました。八世紀にはロシアへ伝わり、そこから約百年遅れて西ヨーロッパへ届いたとされます。イベリア半島へはムーア人が十世紀に持ち込みました。

シャトランジとは、チャトランガがペルシア・アラブ世界へ伝わって変化した形のゲームです。クイーンにあたる駒は「フェルズ(顧問)」で、斜めに一歩ずつしか動けませんでした。

東は中国・朝鮮・タイ、そして日本へ

東へ向かった枝は、中国でシャンチー・朝鮮半島でチャンギ・タイでマークルックになりました。日本への伝来ルートには二つの候補があります。インドから中国と朝鮮を経る道と、インドから東南アジアを経る道です。日本将棋連盟も、このどちらかだとしか書いていません。

日本へ来た時期は決着していない

六〜七世紀説から、十〜十一世紀説へ

伝来の時期には、六〜七世紀とする木村説と十〜十一世紀とする増川説がありました。前者は証拠となる出土品や文献がまったく見つからないため、二〇一〇年代以降は後者が主流になっています。物証の乏しさは、この分野の議論につきまとう壁です。

現存する最古の駒は、奈良県の興福寺境内から出土した十六点です。同じ場所から天喜(てんぎ)六年、つまり一〇五八年と書かれた木簡が出ており、駒もその頃のものと考えられています。文献では藤原明衡の『新猿楽記(しんさるがくき)』が最古とされ、これも一〇五八年から一〇六四年ごろの成立です。

吉備真備が持ち帰ったという話は、後世の創作

「遣唐使の吉備真備が唐から将棋を持ち帰った」という話を聞いたことがあるかもしれません。これは江戸時代の初めに、将棋の権威づけのために作られた説だとされています。日本の遊びの由来には、有名な人物の名前が後から接ぎ木されがちなのでしょう。

取った駒を戻すのは、日本の将棋だけ

チャトランガから枝分かれしたゲームのうち、持ち駒ルールを採用しているのは日本の本将棋と禽将棋(きんしょうぎ)だけだとされています。禽将棋は江戸時代に考案された、鵬や鶴など鳥の名を持つ駒で指す変種。いわば本将棋の身内にあたります。系統全体で見れば、例外は日本という一か所に固まっているわけです。

兄弟たちは、誰も駒を戻さない

盤も駒の姿も違うのに、扱いだけはそろっている

兄弟にあたるゲームを並べると、盤の形も駒の見た目もばらばらでした。それでも「取った駒は戻らない」という一点だけは、日本以外のすべてで共通します。

ゲームおもな地域盤と駒取った駒
チェスヨーロッパ8×8のマス/立体の駒を白黒で分ける戻らない
シャンチー中国9本×10本の線の交点/各16枚を赤と黒で分ける戻らない
チャンギ朝鮮半島9本×10本の線の交点/八角形の駒を緑と赤で分ける戻らない
マークルックタイ8×8のマス/各16枚の立体の駒戻らない
将棋日本9×9のマス/各20枚を同じ色・同じ形で使う持ち駒として戻せる

のちにチェス側が、日本から輸入した

持ち駒の面白さは、逆方向にも渡りました。チェスにはクレージーハウスやバグハウスチェスという変種があり、いずれも取った駒を打ち直せます。これらは将棋を参考にして生まれたものです。本家のルールは変わらないまま、遊び方として輸入された形になります。

なぜ日本だけが思いついたのか

敵味方で、色も形も同じだから

有力とされているのは、駒の見た目に理由を求める説です。将棋の駒は敵味方でまったく同じ色・同じ形をしており、区別は駒の向きだけでつけています。だから相手から取った駒を自分のほうへ向け直せば、そのまま自軍の兵として使えます。

ここが白と黒に塗り分けるチェスとの決定的な差です。白のポーンを取った黒が、それを自分の駒として盤に置くことはできません。色が持ち主を固定してしまうからです。将棋は色を使わなかったおかげで、持ち主を入れ替える余地を残しました。

五角形は、木簡の再利用から始まったとされる

ではなぜ将棋の駒は文字を書いた五角形になったのでしょうか。当時の日本では、木簡や題籤(だいせん)と呼ばれる五角形の木の板が記録に使われていました。削って何度も再利用するうちに小さくなり、文書には使えなくなった板を駒に転用したのではないか。これが語られている説の一つです。

実際、興福寺から出た十一世紀の駒も木簡を切って字を書いた簡素なものでした。それでいて形は現在とほぼ同じ五角形です。千年近く姿を変えていない道具は、身のまわりにもそう多くありません。

いつ始まったのかには、四つの説がある

十一世紀説と十三世紀説

持ち駒がいつ生まれたのかは、いまも解明されていません。早いほうの十一世紀説は、興福寺の駒で成った駒の文字が区別できることを根拠にします。十三世紀説が持ち出すのは『普通唱導集(ふつうしょうどうしゅう)』の「桂馬を飛ばして銀に替ふ」という一節です。

十五世紀説と十六世紀説

遅いほうの説は、駒数が減ってゲームが単調になったのを補うために持ち駒が生まれたと考えます。十五世紀説は『新撰遊学往来』の詰将棋の記述を、十六世紀説は一六〇二年の現存最古の詰将棋が持ち駒を使っている点を根拠にします。四百年から五百年もの幅が、そのまま残っているわけです。

この時期は、将棋そのものが形を変えた時期とも重なります。十三世紀に大将棋と小将棋が生まれ、十四世紀には複雑になりすぎた大将棋を簡略化した中将棋が考案されました。そして十五〜十六世紀に小将棋から醉象が外れ、いまの本将棋になったと考えられています。

持ち駒があるから、打つとき専用の反則がある

取った駒を戻せる自由には、代償として細かい縛りが付きました。日本将棋連盟の対局規則は禁手を定めており、犯した側はその場で負けになります。興味深いのは、そのうち三つが「盤上の駒を動かす手」ではなく「持ち駒を打つ手」を縛っている点です。

打つ手だけを縛る禁じ手

二歩

同じ対局者が同じ筋に二枚の歩を置く行為が二歩です。持ち駒の歩を打つときにしか起こりません。プロ棋士でもうっかり指してしまうことがあり、公式戦で記録に残る反則のうち半分ほどを二歩が占めるといわれています。

打ち歩詰めと、行き所のない駒

打ち歩詰め(うちふづめ)は、持ち駒の歩を打って解除できない王手をかける行為です。同じ詰みでも、盤の上にある歩を進めて詰ますのは認められています。打つか動かすかだけで、合法と反則が入れ替わるわけです。

行き所のない駒の禁も同じ構図です。最終段に歩や香を打つ、あるいは動かして置く手は、その駒が二度と動けなくなるため禁じられています。チェスのポーンは最終段に届けば必ず昇格するので、そもそもこの問題が起きません。

なぜ打ち歩詰めだけが嫌われたのかは、はっきりしていません。寝返ったばかりの最下級の兵が、そのまま元の大将を討つのは武士道に反するという説が語られます。先に攻める側が有利になりすぎるのを防ぐ調整だとする見方もあり、どちらも決め手は残っていません。

反則は、その場で負けと決まっている

対局規則が並べる禁手

日本将棋連盟の対局規則は、二歩・行き所のなき駒・打ち歩詰めを禁手として列挙しています。プロの世界では反則が指された瞬間に対局が終わり、そこまでの内容は問われません。持ち駒という自由の代わりに、判定はかなり厳格です。

連続王手の千日手も反則になる

同一局面が四回出た一連の手順で、片方の手がすべて王手だった場合は、王手をかけ続けた側の負けです。永久に王手を繰り返して逃げ切る戦法を封じるための規定になります。チェスでは同じ状況が「パーペチュアルチェック」として引き分けの入り口になり、扱いが正反対です。

駒が減らない盤は、引き分けから遠い

持ち駒は勝負の形も変えました。チェスは駒が減り続けるため、双方が詰ませる力を失った局面に行き着くことがあります。将棋は四十枚が盤と手元のどこかに必ず残っているので、そもそも「駒が足りなくて詰まない」状態になりません。

同じ局面が繰り返されたとき

将棋は四回で「指し直し」

盤面・双方の持ち駒・手番のすべてが同じ局面が四回現れると、千日手(せんにちて)が成立します。ただし勝負がそこで終わるわけではありません。プロの公式戦では三十分の休憩をはさみ、先後を入れ替えて即日指し直します。

チェスは三回で「引き分け」

チェスの同形三復は、同じ局面が三回現れたときに引き分けを主張できるという規定です。回数が一回少ないうえ、結末が引き分けそのものになります。同じ「繰り返し」という現象を、片方は仕切り直しの合図に、もう片方は終わりの合図にしているわけです。

決着がつかないときの決め方

持将棋の二十四点法と、五百手指了

互いの玉が敵陣へ入って詰まなくなった場合は、持将棋(じしょうぎ)の出番です。飛車と角が一枚五点、金銀桂香歩が一枚一点。両者とも二十四点以上あれば無勝負となり、やはり指し直しになります。手数が五百手に達した時点でも成立する規定です。

チェスは引き分けの入り口が多い

チェスには引き分けの道がいくつも用意されています。王手ではないのに動かせる手がないステイルメイト、五十手のあいだ駒を取らずポーンも動かない五十手ルール、そして両者の合意。将棋の引き分けが千日手と持将棋の二つに絞られているのとは、設計の方向が違います。

チェスは十五世紀の終わりに作り替えられた

持ち駒を持たなかったチェスも、伝わった先で何もしなかったわけではありません。ヨーロッパは別の方向に舵を切りました。駒を戻す代わりに、駒そのものを速く強くしたのです。

弱かったクイーンが最強になった

一四七五年、バレンシアの詩に現れた

シャトランジのフェルズは斜めに一歩ずつ進むだけの弱い駒でした。それが縦横斜めに何マスでも走る現在の動きを得たのは、一四七五年から一五〇〇年ごろのスペインだとされます。最初に記録したのは一四七五年にバレンシアで書かれた寓意詩『Scachs d’amor(愛のチェス)』でした。

「狂ったクイーンのチェス」と呼ばれた

急に暴れ出したこの新ルールは、当時「マッドクイーン・チェス」などと呼ばれました。ビショップも射程の制限が外れ、ゲームの速度が跳ね上がります。一四九七年にはルセナが現存最古の印刷チェス書を出し、新しいチェスは活字とともに広まりました。

ちょうど同じころ、日本では小将棋から醉象が外れて本将棋の形が定まっていきます。東西のどちらも十五〜十六世紀に大きな模様替えをした点は、偶然ながら符合しています。

駒の姿は、通り道の文化で変わった

イスラム圏で、抽象的な形になった

もともとの駒は、象や馬をかたどった姿をしていました。それがアラブ世界に入ると、生き物を象る表現を避ける宗教上の考え方から抽象的な形に置き換わります。ヨーロッパへ渡って、ふたたび王や司教の姿に戻りました。

将棋は、文字のまま残った

日本は像に戻る道を選びませんでした。五角形の木片に漢字を書く方式が、平安時代から現在までほとんど変わっていません。おかげで駒の種類はいくらでも増やせます。中将棋や大将棋が何十種類もの駒を抱えられたのは、字を書き換えるだけで新しい駒が作れたからです。

盤の外に残ったもの

「チェックメイト」はペルシア語だった

shāh māt の訳は、いまも割れている

チェックメイトの語源は、ペルシア語の「シャー・マート(shāh māt)」だとされています。前半のシャーが王であることに争いはありません。もめているのは後半で、「王は死んだ」とする説のほかに「王は無力だ」「王は途方に暮れた」とする説があります。

アラビア語の「māt(死)」を経由したとみる立場と、ペルシア語で「なすすべがない」の意味に取る立場の差です。将棋の「詰み」が動けなくなった状態を指すことを思うと、後者のほうが近いのかもしれません。

江戸で、将棋は職業になった

一六一二年、幕府が俸禄を出した

慶長十七年、つまり一六一二年に、幕府は将棋の大橋宗桂(おおはしそうけい)や囲碁の加納算砂らへ俸禄を支給しました。宗桂が受けたのは五十石五人扶持です。名人は大橋本家・大橋分家・伊藤家の世襲となり、一度就けば亡くなるまで名人という終生名人制でした。

御城将棋の日が、いまの「将棋の日」

一七一六年、八代将軍の徳川吉宗は将軍の御前で指す御城将棋(おしろしょうぎ)を、年に一度十一月十七日に行うと制度化しました。日本将棋連盟はこの日にちなみ、昭和五十年から十一月十七日を「将棋の日」と定めています。三百年前の宮中行事の日付が、いまもカレンダーに残っている形です。

持ち駒が生まれた時期は、この家元制度が始まる少し前あたりに重なります。制度が整った江戸期には、すでに現在とほぼ同じ将棋が指されていました。

将棋とチェスのどちらが優れているかを測る物差しは、この二つのあいだにはありません。共通の祖先から出た枝が、取った駒をどう扱うかという一点だけで別々の道に入っただけです。片方は駒を戦場から退場させ、もう片方は向きを変えて戻す道を選びました。盤の上の四十枚が最後まで減らないのは、その選択がいまも効いているからです。

参考

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