将棋の駒は敵と味方で色も形も同じで、どちらの駒かは向きだけで見分けます。だから取った駒は向きを変えるだけで自分の兵になる、というのが有力な説明です。古代インドの同じゲームから分かれた仲間のうち、取った駒を打ち直せるのは日本の将棋だけ。盤の広さや引き分けの決まりなど、チェスとの違いの多くもこの一点からつながっています。
なぜ将棋だけ取った駒を使えるのか?

敵も味方も同じ色と形の駒
将棋の駒は、先手のものも後手のものも同じ木の色で同じ五角形をしています。持ち主を示すのは、とがった先がどちらを向いているかだけです。相手から取った駒をくるりと自分のほうへ向け直せば、その瞬間から自軍の駒として通用します。
この「色も形も同じだから再利用できた」という見方は、棋士で研究者の木村義徳が唱えたもので、いまもっとも支持されている説です。ルールが先にあったのではなく、道具の形がルールを許したと考えるわけです。
チェスは色が持ち主を決める
チェスの駒は白と黒に塗り分けられています。白のポーンを取った黒が、それを自分の駒として盤に置くことはできません。置いたとしても白い駒は白い駒のままで、見た目と持ち主が食い違ってしまいます。
中国のシャンチーは赤と黒、朝鮮半島のチャンギは緑と赤で駒を分けます。塗り分けた時点で、駒は生まれつきどちらかの陣営に属するものになりました。将棋は色を使わなかったおかげで、持ち主を入れ替える余地を残したといえます。
千年前の駒も同じ五角形
現存する最古の駒は、1993年に奈良の興福寺の境内から出た16点です。一緒に出た木簡に天喜(てんぎ)6年、つまり1058年の年号が書かれていました。駒は木簡を切って字を書いた素朴なものですが、形はすでに今と同じ五角形でした。
出てきた駒の種類は玉・金・銀・桂・歩です。王と玉を色で分けるような工夫は見られず、敵味方の区別は最初から向きに任されていたことになります。持ち駒が生まれる下地は、この時点で整っていました。
取った駒を戻すのは日本の将棋だけ

兄弟のゲームは駒を戻さない
同じ祖先から分かれたゲームを並べると、盤の形も駒の姿もばらばらです。それでも「取った駒は戻らない」という扱いだけは、日本の将棋を除くすべてで共通しています。
| ゲーム | おもな地域 | 盤と駒 | 取った駒 |
|---|---|---|---|
| チェス | ヨーロッパ | 8×8のマス/立体の駒を白黒で分ける | 戻らない |
| シャンチー | 中国 | 9本×10本の線の交点/各16枚を赤と黒で分ける | 戻らない |
| チャンギ | 朝鮮半島 | 9本×10本の線の交点/駒を緑と赤で分ける | 戻らない |
| マークルック | タイ | 8×8のマス/各16枚の立体の駒 | 戻らない |
| 将棋 | 日本 | 9×9のマス/各20枚を同じ色・同じ形で使う | 持ち駒として戻せる |
例外は日本の中に固まっている
この系統で持ち駒のルールを使うのは、日本の本将棋と禽将棋(きんしょうぎ)の二つだけとされています。禽将棋は鵬(おおとり)や鶴など、鳥の名前の駒で指す変わり種の将棋です。広い世界を見渡しても、例外は日本という一か所に集まっています。
しかも日本の将棋も、昔から持ち駒があったわけではありません。平安時代の将棋や、のちの中将棋には持ち駒がなかったと考えられています。取った駒を戻すのは、日本の中でも本将棋の系統で育ったルールです。
チェスにも駒を打つ遊び方がある
チェスの側にも、取った駒を打ち直せる変わったルールがあります。クレージーハウスと、四人二組で指すバグハウスチェスです。どちらも将棋の持ち駒とよく似た仕組みで、ネット対局でも人気があります。
ただし公式のルールは変わっていません。白黒に塗り分けた駒で遊ぶため、取った駒は色を相手の色に替えて打つ約束になります。色を使う道具の上で持ち駒を実現するには、こうした取り決めが一つ余分に必要でした。
持ち駒はいつ生まれた?

早い説は11世紀と13世紀
持ち駒の始まりは、いまも決着がついていません。いちばん早い11世紀説は、興福寺の駒の裏に書かれた文字に注目します。成った銀・桂・歩の裏の書き方が、それぞれ区別できるように書き分けられていたからです。取られた駒が元の正体を保ったまま戻る必要があった、と読むわけです。
13世紀説は、鎌倉時代の終わりごろの『普通唱導集(ふつうしょうどうしゅう)』を根拠にします。この本に「桂馬を飛ばして銀に替える」と読める一節があり、桂馬を捨てて銀を手に入れる駒の交換を指すとみる説です。
遅い説は15世紀と16世紀
15世紀説を唱えたのは、遊びの歴史の研究で知られる増川宏一です。『新撰遊学往来(しんせんゆうがくおうらい)』に出てくる「作物」を詰将棋のことだと読み、持ち駒なしの詰将棋は考えにくいとしました。
16世紀説の根拠はもっと確かです。1602年に初代大橋宗桂が作った現存最古の詰将棋も、1607年の現存最古の棋譜も、持ち駒を使っています。遅くとも16世紀の後半には今のルールがあった、という線はほぼ動きません。11世紀から16世紀まで、説の幅は500年ほどあります。
勝負がつきにくい将棋を補った
日本将棋連盟の解説は、持ち駒が加わった時期を15〜16世紀ごろとしています。駒を取り合うだけでは、小将棋でなかなか勝負がつかなかった。そこで取った駒を自分の駒として使えるようにした、という説明です。
この時期は将棋そのものが形を変えた時期とも重なります。小将棋から醉象(すいぞう)という駒が外れ、いまの本将棋の駒組みが定まったのも15〜16世紀ごろのこと。駒が減って単調になりかけた盤に、持ち駒が新しい手の広がりを持ち込んだと考えると筋が通ります。
将棋とチェスは同じゲームから分かれた

祖先は古代インドのチャトランガ
将棋もチェスも、古代インドのチャトランガが起源だとする説が最有力です。日本将棋連盟も、この遊びがヨーロッパとアジアへ広がって似たゲームに育ったと説明しています。生まれた年代ははっきりせず、いくつもの説が並んだままです。
※ チャトランガとは、古代インドで生まれたとされる盤上の戦争ゲームです。名前はサンスクリット語で「四つの部分」を意味するといわれ、象・馬・戦車・歩兵の四つの部隊を表します。
象・馬・戦車・歩兵が駒になった
四つの部隊は、チェスではビショップ・ナイト・ルーク・ポーンに対応するとされます。将棋の桂馬と香車も同じ系統の名残です。桂馬が斜め前へ跳ねるのはナイトの跳び方とよく似ていて、香車がまっすぐ突き進むのはルークの動きに通じます。
象は行く先々で別のものに化けました。ヨーロッパでは司教のビショップになりました。日本では醉象という駒に姿を変え、成ると「太子」になって玉の代わりを務めたと伝わります。玉が取られても太子が残っていれば対局が続いた、というのが面白いところです。
西の枝はペルシアを通った
西へ向かった枝は、ペルシアやアラブ世界でシャトランジと呼ばれる形になり、やがてヨーロッパへ渡ってチェスになりました。いまのクイーンにあたる駒はフェルズ(顧問)といい、斜めに一歩ずつしか動けない弱い駒でした。
「チェックメイト」という言葉も、この道筋の名残とされます。もとはペルシア語の「シャー・マート」で、シャーは王のこと。後半は「死んだ」と訳す説と「なすすべがない」と訳す説に分かれます。将棋の「詰み」が動けなくなった状態を指すのを思えば、後者のほうが近いのかもしれません。
東の枝は中国やタイを経て日本へ
東へ向かった枝は、中国でシャンチーに、朝鮮半島でチャンギに育ちました。タイではマークルックです。日本への道筋は二つの候補があります。インドから中国と朝鮮半島を経る道と、インドから東南アジアを経る道です。日本将棋連盟の解説も、このどちらかだと書くにとどめています。
伝来は10〜11世紀とする説が主流
伝わった時期は、6〜7世紀とする木村義徳の説と、10〜11世紀とする増川宏一の説が対立してきました。前者を裏づける出土品や文献がまったく見つかっていないため、いまは後者が主流です。文献で最古とされる藤原明衡の『新猿楽記(しんさるがくき)』も、1058年から1064年ごろの成立でした。
「遣唐使の吉備真備(きびのまきび)が唐から将棋を持ち帰った」という話もよく聞かれます。こちらは江戸時代の初めに、将棋に箔をつけるために作られた説と考えられています。
盤と駒の数はどう違う?

81マスに40枚、64マスに32枚
将棋盤は9×9の81マスで、駒は一人20枚の計40枚です。チェス盤は8×8の64マスで、駒は一人16枚の計32枚。数字だけ見ると、将棋はひとまわり大きな盤に少し多めの駒を並べたゲームです。
違いが本当に大きくなるのは対局が進んでからです。チェスは駒を取るたびに盤上の駒が減っていきます。将棋は取られた駒が持ち駒として手元に移るだけ。40枚は盤と駒台のどこかに最後まで残ります。
将棋の成りとチェスの昇格
将棋では、敵陣の三段に入ったり出たりする動きのときに駒を成らせることができます。成るかどうかは、基本的に指す人の判断です。チェスはポーンが一番奥の段に届いたときだけ、必ずクイーン・ルーク・ビショップ・ナイトのどれかに替えなければなりません。
チェスの昇格は、取られた駒の中から選ぶ決まりではありません。クイーンが盤上に残っていても、もう1枚クイーンを作れます。将棋の駒は表と裏で一枚なので、こうして同じ駒が増えることは起きません。
文字の駒と立体の駒
チャトランガの駒は、もともと象や馬をかたどった姿だったとされます。アラブ世界に入ると、生き物を象る表現を避ける考え方から抽象的な形に変わったといわれます。ヨーロッパへ渡ったあと、ふたたび王や司教の姿が与えられました。
日本は像に戻る道を選ばず、五角形の木片に漢字を書く方式を千年近く守ってきました。字を書き換えるだけで新しい駒が作れるため、中将棋や大将棋のように何十種類もの駒を使う将棋も生まれています。
持ち駒があるから生まれた反則

二歩は打つときにしか起きない
日本将棋連盟の対局規則は、指してはいけない手を「禁手」として並べています。そのうち二歩は、同じ人が同じ縦の列に歩を2枚置く反則です。盤上の歩は前へ一つずつ進む駒なので、歩を動かして二歩になることはありません。起きるのは持ち駒の歩を打つときだけです。
プロ棋士の公式戦でも、ときどき二歩で対局が終わることがあります。持ち駒という自由が、そのまま落とし穴にもなっている例です。
打ち歩詰めは打つか動かすかで分かれる
打ち歩詰め(うちふづめ)は、持ち駒の歩を打って、逃げようのない王手をかける反則です。同じ形の詰みでも、盤上の歩を一つ進めて詰ませるのは認められます。打ったか動かしたかだけで、勝ちと負けが入れ替わるわけです。
なぜ打ち歩だけが嫌われたのかは、はっきりしていません。ルールとしては、江戸時代に二代目の大橋宗古(おおはしそうこ)が定めたとされています。
動けなくなる場所には置けない
行き所のない駒の禁も、持ち駒と深く関わります。歩や香車を一番奥の段に、桂馬を奥の二段に置くと、その駒は二度と動けません。こうした場所へ駒を進めることも打つことも、対局規則で禁じられています。
チェスのポーンは奥の段に着けば必ず昇格するので、この問題は起きません。駒をどこにでも打てる将棋だからこそ、置いてはいけない場所を決めておく必要がありました。
反則はその場で負けになる
対局規則では、禁手を指した側はその場で負けです。気づかずに対局が続いても、終局前に分かれば反則の時点にさかのぼって負けが決まります。終わってから分かった場合も、盤上の勝敗にかかわらず反則した側の負けです。
将棋の引き分けはなぜ少ない?

駒が減らないから詰ます力が残る
チェスは駒が減り続けるので、どちらもキングを詰ませる力を失った局面に行き着くことがあります。FIDE(国際チェス連盟)のルールでは、この状態になった時点で引き分けです。
将棋では40枚が盤と駒台のどこかに必ず残っています。駒が足りなくて詰ませられない、という終わり方はまず起こりません。持ち駒は、引き分けになりにくいゲームの形もつくりました。
千日手は4回で指し直し
盤面・双方の持ち駒・手番がすべて同じ局面が4回現れると、千日手(せんにちて)になります。勝負はそこで終わりません。先手と後手を入れ替えて、もう一局指し直します。
ただし同じ局面の繰り返しの中で、片方がずっと王手をかけ続けていた場合は話が別です。これは連続王手の千日手という反則で、王手をかけ続けた側の負けになります。王手を延々と繰り返して逃げ切る手を封じる決まりです。
チェスは同じ局面3回で引き分けを申し出られる
チェスでは同じ局面が3回現れると、手番の側が引き分けを申し出られます。5回になれば申し出がなくても引き分けです。同じ「繰り返し」を、将棋は仕切り直しの合図に、チェスは終わりの合図にしています。
王手をかけ続ける手の扱いも正反対です。チェスでは永久に王手を続けて同じ局面に持ち込むのは、負けそうな側が引き分けに逃げる立派な手段になります。将棋なら反則負けになる手です。
持将棋は24点と500手
お互いの玉が敵陣に入り込んで詰まなくなると、持将棋(じしょうぎ)の出番です。飛車と角は1枚5点、金・銀・桂・香・歩は1枚1点で数えます。両方が合意して、どちらも24点以上あれば勝負なしとなり、指し直しになります。
合意できないまま手数が500手に達したときも持将棋です。この場合は点数に関係なく、勝負なしで指し直しになります。決着をつける方向へ、ルールがかなり強く傾いているといえるでしょう。
チェスには引き分けの入り口が多い
チェスには、王手されていないのに動かせる手が一つもないステイルメイトがあります。50手のあいだ駒を取らずポーンも動かなければ、引き分けを申し出られる50手ルールも用意されています。75手まで続けば申し出なしでも引き分けです。対局者どうしの合意でも引き分けにできます。
将棋の引き分けにあたるものは千日手と持将棋の二つで、どちらも原則は指し直しです。駒が減るゲームと減らないゲームで、引き分けの設計まで向きが分かれました。
チェスは15世紀に駒を強くした

弱い顧問が最強のクイーンへ
持ち駒を持たなかったチェスも、伝わった先で手を打たなかったわけではありません。ヨーロッパは駒を戻す代わりに、駒そのものを速く強くする道を選びました。
斜めに一歩しか動けなかったフェルズは、15世紀のスペインで縦・横・斜めにどこまでも走る駒になります。いまのクイーンの誕生です。当時はこの新ルールを「女王のチェス」と呼び、悪口まじりに「狂った女のチェス」とも呼んだといいます。
1475年の詩と1497年ごろの本
新しいクイーンとビショップの動きで指された最古の記録は、1475年ごろにバレンシアで書かれた詩『Scachs d’amor(愛のチェス)』だと考えられています。盤のマス目と同じ64の連で、恋をチェスの対局になぞらえた作品です。
1497年ごろには、ルセナがサラマンカで本を出しました。印刷されたチェスの本としては現存最古で、新しいクイーンの動きを説明しています。活字の広がりに乗って、新しいチェスは短いあいだにヨーロッパへ行き渡りました。
同じころ日本でも模様替え
ちょうど同じ15〜16世紀、日本では醉象が外れて本将棋の形が定まり、持ち駒もこのころに広まったと考えられています。東西どちらも、勝負を面白くするための大きな改造を同じ時期に済ませたことになります。
ただ、向かった方向は逆でした。チェスは駒を強くして早く決着をつける道へ。将棋は駒を減らさずに、盤の上の戦力を最後まで保つ道へ進みました。
江戸で将棋は職業になった

1612年に幕府が俸禄を出した
慶長17年、1612年に江戸幕府は将棋の大橋宗桂(おおはしそうけい)らに俸禄を与えました。宗桂が受けたのは五十石五人扶持です。将棋の家はのちに「将棋所」を名乗り、将棋を指すことが家の仕事として受け継がれていきます。
現存最古の詰将棋を作ったのも、この初代宗桂でした。持ち駒を使った詰将棋が江戸の初めにはもう作られていたことから、今と同じ将棋がこの時代にはできあがっていたとわかります。
11月17日は将棋の日
1716年、八代将軍の徳川吉宗は、将軍の前で指す御城将棋(おしろしょうぎ)を年に一度11月17日に行うと決めました。日本将棋連盟はこれにちなみ、1975年から11月17日を「将棋の日」としています。300年前の行事の日付が、いまもカレンダーに残っているわけです。
同じ祖先から出た二つのゲームは、取った駒をどう扱うかで別々の道に入りました。チェスは駒を戦場から下げ、残った駒を強くする道へ。将棋は向きを変えて駒を戻し、四十枚を最後まで盤に残しました。色を塗らなかった小さな木片が、千年かけて一つのゲームの性格を決めたことになります。
参考
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