地図を見ていると、県境の多くが、まっすぐな線ではなく山地をぐるりと縁取るように引かれていることに気づきます。なぜ県境は、わざわざ人が住みにくい山の上を通っているのでしょうか。その答えは、江戸時代の「藩境(はんざかい)」と、雨水の流れを分ける「分水嶺(ぶんすいれい)」という地形の仕組みにあります。
県境が山を通る理由、答えはこの4つ
| なぜ尾根に境界線が引かれたのか | 尾根は両側の藩から見て”使いにくい土地”で、争いになりにくかったから |
|---|---|
| なぜ江戸時代の藩境が今も使われているのか | 明治の廃藩置県で、境界を引き直す手間を省いたから |
| 山以外の境界は? | 低地では川や旧河道が境界の目印になっている場所もある |
| 観光地になった県境は? | 蕎麦店の座敷を県境が貫く「しげの屋」、3県を一度に踏める「三県境」など |
ここから、それぞれの背景を詳しく見ていきましょう。
県境の正体は、江戸時代の「藩境」がほとんど
廃藩置県は、境界を引き直さなかった
現在の県境の多くは、明治時代に廃藩置県が行われた際、江戸時代までの藩と藩の境界線(藩境)をそのまま引き継いだものです。新政府はゼロから境界を引き直すのではなく、すでに地元で認識されていた境界をそのまま使うことで、混乱や争いを避けたと考えられています。
県の輪郭に、旧国・旧藩の領地が残っている例も
県境の形そのものに、江戸時代以前の国や藩の単位が透けて見えることもあります。たとえば現在の山梨県は、江戸時代の甲斐国とほぼ同じ範囲です。福井県のように、もともと別の国だった越前国と若狭国が一つの県にまとまった例も知られています。県の輪郭は、今もなお昔の領地の記憶を映した地図といえそうです。
なぜ藩境は山の「尾根」に引かれたのか

尾根は”争いにくい自然の壁”だった
江戸時代、藩境を決める際に重視されたのが、山の「尾根」でした。尾根は谷と違って人が住んだり耕作したりしにくい場所で、両側の藩から見ても「使いにくい土地」という共通認識があったため、境界として揉めにくかったのです。
尾根=「分水嶺」という地形の一致
尾根は、雨水が左右どちらの川に流れ込むかを分ける「分水嶺」と一致することが多く、目に見える地形そのものが”動かない境界線”として機能しました。現在の県境の多くが、この分水嶺とほぼ一致しているのはこのためです。たとえば群馬県と新潟県の県境にそびえる谷川岳は、まさにこの分水嶺の上に位置する山として知られています。
低地では、川が境界の目印になることもある

旧河道が境界として残ることもある
山地では尾根が境界になりやすい一方、平野部では大きな川が県境として使われることもあります。ただし川は、洪水や流路変更によって少しずつ位置がずれることがあるため、山の尾根に比べると境界としては不安定です。実際に、過去の川の流れ(旧河道)が境界として残り、現在の川の位置と県境が一致していない場所も全国にいくつか存在します。
県境は、ちょっと面白い観光スポットでもある
蕎麦店の座敷を県境が貫く「しげの屋」
群馬県と長野県の境にある食堂「しげの屋」は、店内の座敷の真ん中を県境線が通っているとして知られています。同じテーブルで食事をしていても、座る位置によって「群馬県側」と「長野県側」に分かれることになり、観光客にも人気のスポットになっています。山の上にあるはずの見えない境界線が、こんな形で日常の風景に紛れ込んでいるのは、なんとも不思議な光景です。
田んぼの中で3つの県が交わる「三県境」
栃木県・群馬県・埼玉県が接する地点は、山ではなく田んぼの中の水路にあり、3つの県境が一点で交わる珍しい場所として知られています。現地にはモニュメントが設置され、一度に3つの県を踏める写真スポットとして訪れる人もいます。山の境界が分水嶺という地形の論理で決まるのに対し、低地の境界は川や水路という”動きやすいもの”を目印にしてきた歴史を物語っています。
県境を歩くと、地形の歴史をたどることができる
県境を地図でなぞってみると、そこには江戸時代の人々が「ここまでが自分たちの土地」と認識していた境界線と、雨水がどちらの川へ流れていくかという自然の摂理が、重なって浮かび上がってきます。
普段は意識することのない県境ですが、その線の引かれ方には、地形と歴史が積み重なった意外なドラマが隠れているのです。


