耳の奥にある3つの小さな骨が金づち・金床・あぶみと呼ばれるのは、形がそれぞれの道具に似ていたからです。名づけたのは16世紀のヨーロッパの解剖学者たちで、ラテン語の名前がそのまま医学用語になりました。ただ日本語の「キヌタ骨」は金床ではなく、布を打つ「砧(きぬた)」の名を借りています。人体でいちばん小さいアブミ骨の大きさや、3つの骨の意外な前歴とあわせて見ていきます。
金づちと金床は解剖学者の見立て

ツチ骨は柄のついた金づちの形
鼓膜のすぐ内側にくっついているのがツチ骨です。丸い頭に細長い柄がのびた姿は、小さな金づちそのもの。ラテン語の名前「malleus(マレウス)」も、金づちや木づちを意味します。3つの耳小骨(じしょうこつ)のなかでは最も大きく、長さは8〜9ミリほどです。
キヌタ骨のラテン語名は「金床」
ツチ骨の隣にあるキヌタ骨は、ラテン語で「incus(インクス)」と呼ばれます。意味は金床。鍛冶屋が熱した鉄をのせ、上から金づちで打つための台です。金づちが打ち、金床が受ける。鼓膜の震えがツチ骨からキヌタ骨へ渡るようすを、鍛冶場の仕事に重ねた名前といえます。
最初は2つとも「小さな金づち」だった
この2つの骨を最初に書き残したのは、イタリアの解剖学者ベレンガリオ・ダ・カルピで、1521年のことでした。続くニコロ・マッサは2つをまとめて「小さな金づち」にたとえています。2つめを金床に見立てたのは、1543年に解剖学書『ファブリカ』を著したヴェサリウスだとされています。金床の名は、後からついた呼び名だったわけです。
アブミ骨だけ遅れて見つかった

1546年のナポリで見つかった
3つめのアブミ骨は、ほかの2つより20年以上あとに知られるようになりました。発見者とされるのは、ナポリ大学の教授ジョヴァンニ・フィリッポ・イングラッシアです。1546年に講義で示したと伝えられますが、本人の記述が出版されたのは死後の1603年でした。そのため、1549年に先に本で紹介したスペインの解剖学者ペドロ・ヒメノを最初とする見方もあります。
古代のラテン語に「あぶみ」は無かった
アブミ骨のラテン語名「stapes(スタペス)」は、乗馬で足をかける馬具のあぶみを指します。中央に輪のような穴があき、底が平たい形は、たしかにあぶみにそっくりです。おもしろいのは、この単語が古代ローマのラテン語には無く、中世になって生まれた言葉だという点。あぶみという道具そのものが、古代の地中海世界にはまだ無かったためです。
日本語の「キヌタ」は金床ではない

砧は布を打つための台
日本語では、3つの骨を槌骨(つちこつ)・砧骨(きぬたこつ)・鐙骨(あぶみこつ)と書きます。ツチとアブミはラテン語の意味どおりですが、キヌタだけは事情が違います。砧は、洗ったり織ったりした布をのせて木づちでたたく木や石の台。布を柔らかくし、つやを出すための道具です。もとは「衣板(きぬいた)」が縮まった言葉とされています。
どちらも「打たれる台」という共通点
金床は鉄を、砧は布を打つ台です。打つものは違っても、上から槌でたたかれる受け台という役目は同じ。ツチ骨の隣にある骨という並びを、日本の暮らしになじんだ道具に置きかえた名前と読めます。砧を打つ音は秋の季語にもなっていて、世阿弥の謡曲『砧』は、夫の帰りを待ちながら砧を打つ妻の物語です。
アブミ骨はどれくらい小さい?

高さは3〜4ミリほど
アブミ骨は、人体でいちばん小さく軽い骨として知られています。頭の部分から底までの高さは3〜4ミリほどです。耳の専門医が監修した解説では「高さ4ミリ」、53個の骨をCTで測った研究では平均3.3ミリでした。数字に幅があるのは、人による違いと測り方の差によるものです。
重さは平均3ミリグラム前後
重さを量った古い研究では、平均が2.86ミリグラムと3.02ミリグラムという値が出ています。個体による幅は2〜5ミリグラムほど。1円玉の重さは1グラムなので、その300分の1ほどしかない計算です。息を吹きかけたら飛んでいきそうな骨が、毎日の「聞く」を支えています。
底板は米粒より小さい
あぶみでいえば足をのせる平らな部分を、アブミ骨では「底板(ていばん)」と呼びます。CTの研究では、長さ約2.8ミリ・幅約1.3ミリ、面積はおよそ3平方ミリでした。この小さな板がぴたりとはまる先は、内耳の入り口にある「前庭窓(ぜんていそう)」という窓です。
3つの骨は音をどう運ぶ?

鼓膜からアブミ骨までのリレー
耳に届いた音が最初に震わせるのは鼓膜。鼓膜にくっついたツチ骨がその震えを受け、小さな関節でつながったキヌタ骨へ、さらにアブミ骨へと順に渡していきます。最後にアブミ骨の底板が前庭窓を押したり引いたりして、内耳の奥へ振動を送り込みます。
行き先は液体で満ちた蝸牛
※ 蝸牛(かぎゅう)とは、内耳にあるカタツムリのような形の器官です。中は液体で満たされ、音の振動をここで電気信号に変えて脳へ送ります。
振動を受けとるのは内耳の蝸牛です。蝸牛の中で液体が揺れ、その揺れを感じる細胞が信号を出すことで、初めて「音が聞こえた」ことになります。耳小骨は、外の空気と内耳の液体のあいだをつなぐ中継役というわけです。
なぜ音を強める必要がある?

空気の震えは液体ではね返される
空気の震えを液体へそのまま伝えようとすると、大部分は境目ではね返されてしまいます。プールにもぐると、外の話し声がほとんど聞こえないのと同じ理屈です。そこで耳小骨は、音を運ぶだけでなく、途中で押す力を強めています。強まる度合いは資料により30倍前後から、それ以上とするものまであります。
広い鼓膜から狭い底板へ力を集める
しかけの一つめは面積の差です。振動する鼓膜の面積は、アブミ骨の底板のおよそ17倍あるとされます。広い面で受けた力を小さな面に集めると、そのぶん圧力が高まります。ハイヒールのかかとで踏まれると、同じ体重でも靴底全体で踏まれるより痛いのと同じことです。
てこでもう一押し
二つめはてこの働きです。ツチ骨の柄はキヌタ骨の突起より長く、2つが一体となって小さなてこのように動きます。これで力はさらに1.3倍ほどに。面積の差と合わせると20倍あまりになり、空気から液体へ移るときの損を埋め合わせています。
ツチ骨とキヌタ骨はもとは顎の骨

爬虫類では顎の関節をつくっていた
金づちと金床の名をもつ2つの骨には、意外な前歴があります。哺乳類の祖先がまだ爬虫類に近い姿だったころ、この2つは顎の関節をつくる骨でした。下あご側の関節骨(かんせつこつ)がツチ骨に、上あご側の方形骨(ほうけいこつ)がキヌタ骨に変わったと考えられています。この対応は1837年にドイツの解剖学者ライヘルトが唱え、のちの研究で裏づけられました。
鳥や爬虫類の耳の骨は1本だけ
いまの爬虫類や鳥の中耳にある骨は、アブミ骨にあたる1本だけです。哺乳類では顎から移ってきた2つが加わり、3つでリレーする形になりました。食べるための骨と聞くための骨が分かれたことは、哺乳類の大きな特徴の一つとされます。顎と耳が離れていく途中の姿は、ジュラ紀の化石にも残っています。
大きな音から耳をどう守る?

人体でいちばん小さな筋肉が支える
アブミ骨についているのが「アブミ骨筋」という筋肉の腱。長さ6ミリほどで、体を動かす骨格筋のなかでは最も小さいとされます。大きな音が入るとこの筋肉が縮み、アブミ骨の動きをおさえて内耳に届く振動を弱めます。いちばん小さな骨を、いちばん小さな筋肉が守っている形です。
突然の爆音には間に合わない
ただ、このブレーキは反応がやや遅く、爆発音や銃声のような突然の大きな音には間に合いません。顔の神経が傷つくなどしてアブミ骨筋が働かなくなると、普通の物音までひどく大きく響く「聴覚過敏」が起きることがあります。音が急に響いて聞こえるときは、耳鼻咽喉科で相談してみてください。
金づちと金床とあぶみ。ルネサンスの解剖学者が鍛冶場と馬小屋の道具に見立てた骨は、日本では布を打つ砧の名も得て、さらに顎の関節だった過去まで抱えています。米粒より小さな骨の名前には、数百年分の見立てと、億年単位の体の歴史がいっしょに詰まっています。
参考
- 耳の構造と耳小骨の役割(メディカルノート/三井記念病院 奥野妙子医師)
- 耳小骨(コトバンク/改訂新版 世界大百科事典・日本大百科全書ほか)
- Sim JH et al. Characterization of Stapes Anatomy: Investigation of Human and Guinea Pig. JARO, 2013
- Anthwal N, Joshi L, Tucker AS. Evolution of the mammalian middle ear and jaw: adaptations and novel structures. Journal of Anatomy, 2013
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