カスピ海は「海」なのになぜ湖なのか——世界最大の湖をめぐる、海か湖かの論争

地球儀を指さして海か湖か迷う人 身近な科学の話
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「カスピ海」という名前には、はっきり「海」の字が入っています。ところが地理の世界では、これは海ではなく湖に分類されます。しかも、ただの湖ではありません。世界でいちばん大きな湖なのです。名前と中身が食い違うこの水域は、「海か湖か」をめぐって国どうしが20年以上も争う舞台になりました。

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カスピ海は、世界でいちばん大きい「塩の湖」

世界地図

カスピ海の正体は、数字を見るとぐっとつかみやすくなります。おもな数値を下の表に挙げておきます。

項目カスピ海
分類地形的には湖(世界最大)
面積約37万km²(日本の国土とほぼ同じ)
塩分濃度平均約1.2%(海水の約3分の1)
水面の高さ海面より約28m低い
沿岸国ロシア・カザフスタン・トルクメニスタン・イラン・アゼルバイジャンの5か国

「海」の名を持ちながら、地形上は湖。この一見あべこべな姿には、地理・歴史・そして国際政治がからんでいます。順にほどいていきましょう。

地形でいえば「湖」——外海とつながらない内陸の水

湖の風景

まず、なぜ湖に分類されるのか。ここは定義の話がいちばんはっきりしています。

「海」と「湖」を分ける線

陸に囲まれ、外洋と接していない

海と湖のいちばん大きな違いは、外の大洋とつながっているかどうかです。地中海や日本海は、せまい海峡を通じて世界の大洋と水がつながっています。いっぽうカスピ海は、まわりをすべて陸に囲まれ、どこにも外洋への出口がありません。この「閉じている」という一点で、地理学上は湖に分類されます。

面積は約37万km²、日本がすっぽり入る

湖といっても、その大きさは桁違いです。面積はおよそ37万平方キロメートルで、日本の国土がまるごと収まるほど。琵琶湖のおよそ550倍にあたります。世界最大の湖という称号は、この圧倒的な広さゆえのものです。

水面は海より低い

海面より約28メートル下にある水

おもしろいことに、カスピ海の水面は海の高さより約28メートルも低い位置にあります。周囲から水が流れ込んでも、出口がないぶん、蒸発とのつり合いで低い水位に落ち着いているのです。外海とつながっていれば、水面は海と同じ高さにそろうはず。低いままでいられること自体が、この水域が海から切り離されている証拠だといえます。

それでも「海」と呼ぶ理由——塩水・巨大さ・古代の記憶

塩

では、湖なのになぜ「海」と呼ばれてきたのでしょうか。理由は一つではありません。

水がしょっぱい

塩分は海水の約3分の1

ふつうの湖の水は淡水ですが、カスピ海の水はしょっぱい塩水です。塩分濃度は平均で約1.2%。海水のおよそ3.4%と比べると3分の1ほどですが、飲み水にはならないれっきとした塩水です。舐めれば海の味がする——これが「海」と呼びたくなる素朴な理由でしょう。

塩分が海より薄いわけ

塩水なのに海ほど濃くないのは、かつて一度干上がり、塩分の多くが岩塩として底に沈んで取り残されたためと考えられています。今の塩けは、その後に川から運ばれた塩が再びたまったもの。海の名を持ちながら海より薄いという中途半端さにも、この水域のたどった歴史がにじんでいます。

もとは本物の海だった

古代の海「テチス海」の忘れ形見

じつはカスピ海は、はるか昔には本当に海の一部でした。数千万年前に広がっていたテチス海(のちのパラテチス海)という大きな海が、大陸の移動によって少しずつ分断され、その一部が内陸に取り残されてできたのがカスピ海だとされています。黒海やアラル海も、同じ古代の海から生まれた兄弟のような存在です。「海」の呼び名は、この生い立ちの記憶をとどめた名残ともいえるでしょう。

対岸が見えず、波も立つ

大きさそのものも、人に「海」を感じさせます。岸に立っても対岸はまったく見えず、風が吹けば白波が立ち、荒れれば船も揺れる。目の前の景色だけを見れば、そこはもう海そのものです。理屈では湖でも、体で感じる印象は海——名前と分類のずれは、こんなところからも生まれています。

「海か湖か」で、資源の分け前が変わる

石油の採掘設備

ここからが、この論争が国際問題にまで発展した核心です。海と湖のどちらに決めるかで、沿岸国が受け取る資源の量が大きく変わってしまうのです。

ルールが正反対になる

「海」なら海岸線の長さで差がつく

排他的経済水域(EEZ)とは、沿岸から一定の範囲で、その国が水産資源や海底資源を優先して利用できる水域のことです。

もしカスピ海が「海」と認められれば、国連海洋法条約が適用されます。各国は海岸線から領海や排他的経済水域(EEZ)を引くことができ、海岸線が長い国ほど広い取り分を得られます。境界線は「岸からの距離」で決まるため、地形しだいで有利不利がはっきり分かれるのです。

「湖」なら5か国で均等に分ける

逆に「湖」とされた場合は、国際的な慣習として沿岸国で均等に分け合い、湖底の資源は共同で管理するのが基本になります。海岸線の長短に関係なく、原則は頭割り。つまり同じ水域でも、「海」と呼ぶか「湖」と呼ぶかで、資源の配分ルールがまるごと入れ替わってしまいます。

足もとに眠る石油と天然ガス

だからこそ、簡単には譲れない

カスピ海の底には、推定で約500億バレルもの石油と、約8兆立方メートルを超える天然ガスが眠っているそうです。これだけの富がかかれば、線の引き方一つで国の取り分は大きく変わります。海岸線がもっとも短いイランは、自国に不利な「海」を避けて「湖」を主張しました。いっぽう海岸線に恵まれた残り4か国は「海」を望み、両者の言い分は長らく平行線をたどったのです。

2018年、20年越しの決着——「海でも湖でもない」

握手する二人

長く続いた対立に、ようやく区切りがついたのは2018年のことでした。出された答えは、どちらか一方ではなかったのです。

アクタウでの合意

「特別な法的地位」という第三の答え

2018年8月、沿岸5か国はカザフスタンの都市アクタウに集まり、「カスピ海の法的地位に関する協定」に署名しました。そこで示されたのは、「海」でも「湖」でもない、カスピ海だけの「特別な法的地位」という第三の答えです。20年以上ももつれた難問を、二択そのものをやめることで解いたわけです。

領海と漁業水域、そして「よそ者は入れない」

協定では、各国の沿岸から約15カイリを領海、その外側を合わせた約25カイリを排他的な漁業水域と定めました。海底の資源をどう分けるかは、国ごとの個別協議に委ねられています。さらに特徴的なのが、沿岸5か国以外の国の軍隊がカスピ海に入ることを認めない、と取り決めた点です。内側の資源も、外からの干渉も、5か国で閉じて管理する。それがこの水域で選ばれた道でした。

もう一歩深く——「海」の名を持つ湖は、ほかにもある

チョウザメ

名前に「海」とつくのに、じつは湖という水域は、カスピ海だけではありません。地図をよく見ると、あちこちに同じ例が隠れています。

死海もアラル海も、じつは湖

よく知られるのが「死海」です。イスラエルとヨルダンにまたがるこの水域も外海とつながらない塩湖で、塩分濃度は約30%と海水の10倍近く。体が浮くことで有名ですが、地理上はやはり湖にあたります。中央アジアの「アラル海」も同じく塩湖で、こちらは川の水を農業に使いすぎた影響で20世紀後半から急激に縮み、かつての姿を大きく失ってしまいました。

石油だけではない、キャビアの海

カスピ海に話を戻せば、その豊かさは資源だけではありません。ここはチョウザメがすむ水域で、その卵からつくる高級食材キャビアの一大産地としても世界に知られてきました。石油に塩、そしてキャビア。海と呼ばれるだけの富を、この巨大な湖はたしかに抱えています。

カスピ海は海の名を持ち、海の味がして、海のように波打ちます。それでも地形の上では湖であり、人はその呼び名一つをめぐって長い時間を費やしてきました。一つの言葉の裏には、大地の歴史も国どうしの思惑も、まるごと畳み込まれています。名前とは、ただの記号ではないのでしょう。