現在の日本では小学校・中学校への就学が当たり前ですが、明治以前の子どもたちが通っていたのは「寺子屋(てらこや)」と呼ばれる民間の教育機関でした。国が学校を作り、子どもに通わせる仕組みが整うまでには、明治政府の試行錯誤と数十年の時間が必要でした。
江戸時代の学びの場——寺子屋とは
読み書き算盤を教えた民間の教育機関
寺子屋は、江戸時代に全国で自然発生的に広がった私設の教育機関です。僧侶・神職・武士・町人など様々な人が師匠(師匠は「先生」ではなく職業的な教師役)として子どもたちに読み書き・算盤(そろばん)・礼儀作法を教えました。

幕末期には全国に推定1万5000〜2万か所の寺子屋があったとされ、江戸の識字率は当時の世界主要都市と比べても高水準だったことが知られています。ただし通わせるかどうかは家庭の判断に委ねられており、農繁期には子どもが農作業に駆り出されることも多く、「通い続ける」仕組みではありませんでした。
1872年「学制」——近代公教育の出発点
全国に5万3000超の小学校を作る計画
明治政府は1872年(明治5年)に「学制(がくせい)」を公布し、近代的な公教育制度を打ち立てました。「邑(むら)に不学の戸なく、家に不学の人なからしめん」——これが学制の基本理念です。全国を学区に分けて各地に小学校を設置する計画が示され、当初の構想では全国に5万3760校を作るとされていました。
就学率と「授業料の壁」
しかし学制の施行当初、就学率はなかなか上がりませんでした。最大の理由は授業料です。当時の学校は月謝制で、農村の家庭には大きな負担でした。また「子どもが学校に行く間、農作業の手が減る」という実態もあり、就学より労働を優先せざるを得ない家庭が多かったのです。
1886年(明治19年)には「小学校令(しょうがっこうれい)」が制定され、4年間の「尋常小学校」を義務教育として位置づけました。ただし授業料は依然として徴収されており、就学率の向上には限界がありました。

1900年——授業料廃止で就学率が急上昇
転機は1900年(明治33年)の小学校令改正です。尋常小学校(4年制)の授業料が廃止され、義務教育が事実上の無償となりました。
この改正で就学率は急速に上昇し、1902年には男子約92%・女子約73%に達しました。1907年(明治40年)には義務教育期間が6年に延長され、現在の小学校6年制の原型が確立されます。明治末期には男女ともに就学率が90%を超え、国民全体が学校教育を受ける体制がほぼ整ったのです。
豆知識——明治の教科書に必ずあった「修身」
明治から戦前にかけての小学校には、現在の教科書にはない「修身(しゅうしん)」という教科がありました。道徳・礼儀・国家への忠誠心を教える内容で、全教科の筆頭に置かれていました。1945年の終戦後、GHQの指示により廃止されています。
寺子屋から学制、そして義務教育の無償化まで、日本の学校はおよそ半世紀で大きく姿を変えました。今の「学校に通うのが当たり前」という感覚は、授業料の壁や労働との葛藤を乗り越えながら積み上げてきた制度の上に成り立っています。


