世界の首都はどうやって決まるのか、首都が3つある国とは?

社会と仕組みの話
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オーストラリアの憲法には、首都をどこに置くかではなく、どこに置いてはいけないかが書かれています。ニューサウスウェールズ州の中であること。そしてシドニーから100マイル(約160キロ)以上離れていること。この条件を満たす牧草地の一角に、あとから造られた街がキャンベラです。

首都は、その国で一番大きな街とはかぎりません。一番古い街でもありません。たいていは、どこかの議場で誰かが書いた一行の結果です。その一行がどう書かれたかを国ごとに並べると、決め方そのものが事情を映した見取り図になっています。

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首都の決め方は、何を避けたかったかで四つに分かれる

首都に選ばれた都市を「なぜそこが良かったのか」で並べても、共通点はなかなか出てきません。逆に「何を避けたかったのか」で並べ替えると、世界の首都はおおむね四つの型に収まります。

代表例決め手になったこと避けたかったこと
譲り合い型ワシントンD.C./キャンベラ/オタワ二大都市の中間や第三の土地を選ぶどちらか一方の都市に勝たせること
内陸移転型ブラジリア/アブジャ/アスタナ国土の中心付近に新しい街を建設する海沿いや一都市への集中
避難型ヌサンタラ/エジプトの新行政首都過密や地盤沈下から逃れて移る沈む地面と動かない渋滞
無記名型日本/イギリス/スイス法に書かないまま慣習で定着する「どこと書くか」で争いになること

四つ目の無記名型は消極的に見えるかもしれません。けれども後で見るように、日本もイギリスもこの型です。「首都はここだ」と法律に書いた国のほうが、世界では必ずしも多数派ではありません。

二つの都市が譲らないとき、首都は「あいだ」に置かれる

もっとも古くからある型が、有力都市どうしの綱引きの結果として生まれる首都です。勝者を決めない代わりに、どちらでもない場所が選ばれます。

ワシントンD.C.——首都の場所と、州の借金が交換された

1790年の取り引き

独立まもないアメリカでは、財務長官ハミルトンが各州の戦争債務を連邦政府に引き受けさせようとして、南部の反対にあっていました。ここで成立したのが有名な取り引きです。南部が債務引き受けに賛成する代わりに、新しい首都を南寄りのポトマック川沿いに置く。ジョージ・ワシントン大統領がこの首都設置法に署名したのは1790年7月16日でした。

法律が定めたのは、川沿いという大枠と「10マイル四方」という上限だけ。具体的な位置の選定は大統領本人に委ねられました。首都の場所が、政策の取り引き材料として動いたわけです。

10年間だけの臨時首都

新首都の建設中、政府はフィラデルフィアに置かれました。期限つきの臨時首都です。移転が完了したのは1800年で、11月17日には上院が完成途中の連邦議会議事堂で初めて開会しています。構想から実際の移転まで、ちょうど10年かかった計算になります。

キャンベラ——「シドニーから100マイル以上離す」を憲法に書いた

憲法125条が並べた三つの条件

1901年に連邦として発足したオーストラリアでは、シドニーを推すニューサウスウェールズ州とメルボルンを推すビクトリア州が譲りませんでした。妥協の産物が憲法125条です。首都は連邦の直轄地に置くこと、その土地はニューサウスウェールズ州内にあること、シドニーから100マイル以上離れていること。面積は100平方マイル以上と決められました。

連邦の直轄地とは、州ではなく連邦政府が直接管轄する土地のことです。キャンベラ一帯は現在オーストラリア首都特別地域(ACT)と呼ばれています。

牧草地が首都になるまでの19年

候補地の絞り込みは長引きました。1908年の法律でヤス・キャンベラ地区が選ばれ、政府の測量官が具体的な地点を定めます。1911年1月1日、ニューサウスウェールズ州が2,360平方キロの土地を連邦へ譲り渡しました。

都市計画は国際コンペで決められ、シカゴの建築家ウォルター・バーリー・グリフィン夫妻の案が採用されます。1913年3月12日に総督夫人が「キャンベラ」と命名し、議事堂が開いたのは1927年5月9日。それまでの26年間、実際の首都機能はメルボルンにありました。

オタワ——200回以上決まらず、最後は女王が決めた

議事堂が焼かれ、都市を巡回した時代

カナダの前身にあたる連合カナダ州の議会は、首都をどこに置くかで数十年ももめました。採決の回数は200回を超えたと記録されています。1841年にキングストン、1844年にモントリオールと決まったものの、1849年には暴徒がモントリオールの議事堂を焼き払いました。

次に採られたのは、ケベックシティとトロントで交互に議会を開くという苦肉の策です。移動のたびに書類も職員も動くのですから、評判は良くありませんでした。

1857年、決定権が海の向こうへ渡る

1856年にはケベックシティへの一本化がいったん可決されますが、上院が予算を認めず頓挫します。行き詰まった議会は、判断をヴィクトリア女王に委ねました。総督の助言を受けた女王がオタワを選んだのは、1857年12月31日付の書簡でのことです。

選定理由に挙げられたのは三つです。英語圏とフランス語圏の境目にあること。深い森に囲まれアメリカ国境から遠く、守りやすいこと。そして政府がすでに土地を持っていたことでした。議会がこの決定を追認したのは1859年で、1865年まではケベックシティが臨時の首都を務めています。

海沿いに寄りすぎた国は、首都を内陸へ動かす

植民地時代の港町がそのまま首都になった国では、人も富も海沿いに集まります。この偏りを正すために内陸へ首都を移した例が、20世紀に相次ぎました。ただし、決めてから移り終わるまでの時間には大きな差があります。

構想が公になった時点移転が完了した時点かかった年数
アメリカ1790年 首都設置法1800年10年
オーストラリア1901年 憲法125条1927年26年
ナイジェリア1976年 布告第6号1991年15年
ブラジル1891年 憲法の内陸規定1960年69年

ブラジリア——憲法に書いてから、実現まで69年

棚上げされていた「内陸へ」の一行

ブラジルでは1891年の憲法に、首都を内陸へ置くという規定がすでに盛り込まれていました。それでも実際には、リオデジャネイロが首都であり続けます。この一行を実行に移したのが、1956年に建設を宣言したジュセリーノ・クビチェック大統領でした。

新首都ブラジリアが供用を始めたのは1960年4月21日。憲法に書かれてから69年後のことです。書いておけば実現するとはかぎらない、という見本でもあります。

41か月で建った、飛行機の形の街

都市計画を担ったのはルシオ・コスタ、主要建築を手がけたのはオスカー・ニーマイヤーです。上空から見ると翼を広げた飛行機のような配置で、機首にあたる位置に国会議事堂などが並びます。この街がおよそ41か月、3年半ほどで形になったというのですから相当な突貫工事でした。

ブラジリアは1987年に世界遺産へ登録されています。建設から30年に満たない都市が登録された例は当時としては異例で、遺産といえば古いものという常識のほうが揺らいだ格好です。

アブジャとアスタナ——中立を買うための移転

ナイジェリア——どの民族の土地でもない場所へ

ナイジェリアが首都移転を決めたのは、1976年2月4日の布告第6号によってです。理由は二つ重なっていました。人口が急増したラゴスの過密。そして特定の民族や宗教に偏らない場所を選びたいという事情です。国土のほぼ中央にあるアブジャは、その意味で「誰の本拠地でもない」土地でした。

建設は1979年に始まりましたが、経済と政治の混乱で遅れます。正式に首都がラゴスからアブジャへ移ったのは1991年12月12日でした。なお国連の統計では、アブジャは2000年から2010年にかけて139.7%も人口が増え、世界で最も成長の速い都市になっています。

カザフスタン——名前がそのまま「首都」

カザフスタンは1997年、南部のアルマトイから北部へ首都を移しました。アルマトイの近くに活断層があり地震が多いこと、地形の制約で街を広げにくかったことが理由に挙げられます。北部のバランスを取る狙いもあったとされます。

おもしろいのは名前です。この街は1998年に「アスタナ」と改称されましたが、これはカザフ語で首都そのものを指す言葉でした。2019年には前大統領にちなむ「ヌルスルタン」へ、2022年9月には再びアスタナへと戻っています。首都の名が「首都」に落ち着くまで、四つの名前を経たことになります。

沈む都市から逃げる首都——それでも首都はまだジャカルタ

いま進行中の移転で最大のものが、インドネシアの新首都ヌサンタラです。ここでは「首都がいつ移るのか」という問いに、法律家が答えを出しています。

地下水をくみ上げすぎた街が沈んでいく

南部で年1センチ、北部で年25センチ

ジャカルタの地盤沈下は場所によって速さが違います。南部はおおむね年1センチ程度ですが、北部では年に25センチ沈んでいる地区もあると報告されてきました。主な原因は水道の未整備で、多くの住民が井戸に頼って地下水をくみ上げてきたためとされています。

2050年までに北ジャカルタの大半が水没するという推計もありますが、数字は研究によって幅があります。いずれにせよ、ジョコ・ウィドド大統領が移転計画を表明したのは2019年4月のことでした。

逃げ場に選ばれたカリマンタン島

移転先はジャワ島を離れ、カリマンタン島(ボルネオ島)の東部に定められました。人口のおよそ6割がジャワ島に集中するとされる国で、重心を群島の中心付近へ寄せる意味も込められています。避難型と内陸移転型が重なった珍しい例です。

首都が移る日を決めるのは、一枚の大統領令

2026年5月の憲法裁判所の判断

新都市の工事が進んでも、法律上の首都はまだ動いていません。インドネシアの憲法裁判所は2026年5月12日、首都の地位をめぐる訴えを退けたうえで、移転を定める大統領令が出るまで首都はジャカルタのままだと判断しました。

大統領令(クップレス)とは、インドネシアの大統領が発する決定文書です。首都移転を定める法律は、この決定が出て初めて効力を持つ仕組みになっています。

「国家首都」から「政治首都」への言い換え

位置づけも揺れています。2026年にはヌサンタラを「政治首都」とし、2028年にその役割を担わせるという方針が示されました。以前の「国家首都」という言い方からは一段後退した表現です。予算も2024年の43.4兆ルピアから2026年には6.3兆ルピアへと大きく絞られました。

建物が建ち、役所が動き、それでも首都の看板だけが残されている。首都というものが土地の実態ではなく、法的な肩書きであることがよく分かる状況です。

首都を「書かない」という決め方

ここまでは、どこかに書いた国の話でした。世界には、どこにも書かないまま首都が定着している国があります。日本もその一つです。

日本——一度だけ「東京が首都」と書いた法律があった

住民投票で決まった首都建設法

現在の日本の法令に、東京都を首都と定めた条文はありません。ただし過去に一度だけ、そう書いた法律が存在しました。1950年6月28日に公布された首都建設法です。第1条は東京都を平和国家の首都とし、第12条でも東京都が国の首都であると明記していました。

この法律は特定の自治体だけに適用される内容だったため、東京都で住民投票にかけられています。1950年4月22日の投票では、賛成が1,025,792票で60.26%、反対が676,550票で39.74%。投票率は55.08%でした。日本の首都は、一度だけ有権者の過半数によって選ばれたことがあるわけです。

地方自治特別法とは、一つの地方公共団体だけに適用される法律のことです。日本国憲法95条により、その自治体の住民投票で過半数の同意を得なければ制定できません。

6年で消え、以後は書かれていない

首都建設法は1956年6月9日、首都圏整備法の施行にともなって廃止されました。後継の首都圏整備法が定めているのは「首都圏」の範囲、つまり東京都の区域と政令で定める周辺地域を一体とした広域です。どこが首都なのかは、ここでも書かれていません。

参議院法制局の解説によれば、明治期に東京を首都とする法律上の宣言があえて避けられたのは、京都の人々の反発を考慮したためとされます。国会法にすら国会を東京都に置くという条文はないというのですから、徹底しています。

スイス——憲法が「首都」という語を避けた

1848年、土地を差し出した街が選ばれた

スイスの連邦憲法は、首都という言葉を意図的に使っていません。州の集まりとして始まった国で、一つの街に権威を集めることが避けられたためとされます。1848年11月28日、連邦議会の両院は最初の投票でベルンを連邦当局の所在地に選びました。

決め手になったのは、国土の中央に近いこと、フランス語圏の支持を得ていたこと。加えてベルン市が連邦の庁舎用地を無償で提供したことも挙げられています。首都の座は、譲られて得るものでもあるようです。

ベルンの呼び名は「連邦都市」

そのためベルンの肩書きは、首都ではなく連邦都市(ブンデスシュタット)です。連邦裁判所はベルンではなくローザンヌに置かれており、機能も一か所に集まっていません。事実上の首都と呼ぶ以外に言いようがない街、というわけです。

ドイツ——書いていなかったものを、2006年に書き足した

18票差で決まったベルリン

東西統一後のドイツでは、政府と議会をボンに残すかベルリンへ移すかで激しく割れました。1991年6月20日の連邦議会の採決は338対320。わずか18票差でベルリンに決まっています。移転が実施されたのは1999年のことでした。

15年後に憲法へ書き込まれる

興味深いのはその後です。ドイツ連邦共和国の首都はベルリンであるという一文が基本法22条に加えられたのは、2006年の連邦制改革のときでした。実態が先に動き、条文があとから追いついたことになります。首都を法に書くかどうかは、国の性格というより、そのときの必要に応じて決まるようです。

首都が3つある国と、首都のない国

首都は一国に一つとはかぎりません。三権を別々の都市に分けた国もあれば、公式の首都都市を持たない国もあります。

首都のかたち
南アフリカ行政=プレトリア/立法=ケープタウン/司法=ブルームフォンテーン
ボリビア憲法上=スクレ/行政と立法=ラパス
オランダ憲法上=アムステルダム/政府所在地=ハーグ
スイス連邦都市=ベルン/連邦裁判所=ローザンヌ
マレーシア法定の首都=クアラルンプール/行政と司法=プトラジャヤ
チリ首都=サンティアゴ/国会=バルパライソ
タンザニア公式=ドドマ(1996年〜)/大使館などはダルエスサラーム
コートジボワール公式=ヤムスクロ(1983年〜)/実務はアビジャン
ナウル公式の首都都市なし(政府機能はヤレン地区)

三権で分けた南アフリカ

南アフリカの三首都は、1910年に連邦が成立したときの妥協から生まれました。行政府はプレトリア、議会はケープタウン、最高裁判所はブルームフォンテーン。どの都市も一つは手にし、どの都市も全部は取れない配分です。

おかげで議会の開会期には、閣僚や官僚がプレトリアからケープタウンへ大移動します。首都を分けるという解決策にも、それなりの維持費がついてまわるわけです。

看板と実務が一致しない国

タンザニアは1996年にドドマを公式の首都としましたが、多くの官庁や大使館はいまもダルエスサラームに残っています。コートジボワールも1983年にヤムスクロを首都と定めながら、実務の中心はアビジャンのままです。

ヌサンタラの現状は、この列に並びかけている状態だといえます。看板を掛け替えるのは一日で済んでも、人と書類が動くには何十年もかかるわけです。

ここまで四つの型に分けてきましたが、最後に自分で崩しておきます。世界地図に並ぶ首都のうち、はっきりした決定を経たものはむしろ少数派です。港として栄えた街に役所が集まり、王の住まいがそのまま政庁になり、誰も改めて決めないまま今日に至った——そういう首都のほうがずっと多い。決めた国の物語が面白く見えるのは、決めずに済ませた国がそれだけ多いからなのでしょう。

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