首都はたいてい、その国で一番大きな街だから選ばれたわけではありません。決め手は憲法の一行や議会の採決、ときには君主の手紙でした。決め方を「何を避けたかったか」で並べると、世界の首都はおおむね四つの型に分かれます。首都が3つある国の代表は南アフリカ。行政はプレトリア・立法はケープタウン・司法はブルームフォンテーンと、三権を別々の街に置いています。
首都の決め方は避けたいもので四つに分かれる

「なぜそこが良かったか」では共通点が見えない
首都に選ばれた街を長所で比べても、港町もあれば牧草地もあり、話がまとまりません。ところが「その国が何を避けたかったのか」で並べ替えると、決め方はすっきり四つに収まります。下の表は、それぞれの型と代表的な国の組み合わせです。
| 型 | 代表例 | 決め手 | 避けたかったこと |
|---|---|---|---|
| 譲り合い型 | ワシントンD.C./キャンベラ/オタワ | 二大都市の中間や第三の土地を選ぶ | どちらか一方の都市に勝たせること |
| 内陸移転型 | ブラジリア/アブジャ/アスタナ | 国土の中心付近に新しい街を建てる | 海沿いや一都市への集中 |
| 避難型 | ヌサンタラ(インドネシア) | 過密や地盤沈下から逃れて移る | 沈む地面と動かない渋滞 |
| 無記名型 | 日本/スイス | 法に書かないまま慣習で定着する | 「どこと書くか」で争いになること |
法律に首都を書いた国は多数派ではない
四つ目の無記名型は消極的に見えるかもしれません。けれども日本はこの型で、スイスも憲法で「首都」という言葉を使っていません。ドイツのように、あとから条文に書き足した国もあります。
さらに言えば、はっきりした決定を経た首都のほうが少数派です。港として栄えた街に役所が集まり、王の住まいがそのまま政庁になった。そうして誰も改めて決めないまま今日に至った首都が、世界地図の上にはたくさん並んでいます。
首都が3つある国は南アフリカ

行政・立法・司法を三つの都市に分けた
南アフリカ政府の公式サイトは、首都を三つ並べて紹介しています。行政の中心はプレトリア、議会はケープタウン、最高裁判所に当たる司法の拠点はブルームフォンテーンです。一つの国の首都機能を、国の北と南と真ん中に振り分けた形になります。
この配分は、1910年に南アフリカ連邦が成立したときの妥協にさかのぼります。もとは別々の植民地だった地域が一つにまとまる際、どの中心都市にも何かを持たせる必要がありました。どの都市も一つは手にし、どの都市も全部は取れない。譲り合い型をさらに細かく割った解決策です。
議会の季節には閣僚が大移動する
三つに分けた代償もあります。議会が開かれる時期には、閣僚や官僚がプレトリアからケープタウンへ移動します。両都市は直線でもおよそ1,300キロ離れており、会期のたびに政府の一部が国を縦断する格好です。
なお憲法問題を扱う憲法裁判所は、三つのどれでもないヨハネスブルクにあります。公式サイトもこの点をわざわざ書き添えており、首都の「数え方」が一筋縄でいかないことがうかがえます。
首都が二つに割れている国はどこ?

憲法上の首都と政府の所在地が違う国
三首都ほどではなくても、首都の役割が二つの都市に分かれている国は珍しくありません。憲法や法律が定める首都と、政府が実際に置かれている街が別々というパターンです。主な例を並べると次のようになります。
| 国 | 首都のかたち |
|---|---|
| ボリビア | 憲法上=スクレ/行政と立法=ラパス |
| オランダ | 憲法上=アムステルダム/政府所在地=ハーグ |
| マレーシア | 法定の首都=クアラルンプール/行政と司法=プトラジャヤ |
| チリ | 首都=サンティアゴ/国会=バルパライソ |
| スイス | 連邦都市=ベルン/連邦最高裁判所=ローザンヌ |
看板を掛け替えても人は動かない
タンザニアは1996年にドドマを公式の首都としましたが、多くの大使館はいまもダルエスサラームに残っています。コートジボワールも1983年にヤムスクロを首都と定めながら、経済と実務の中心はアビジャンのままです。看板は一日で掛け替えられても、人と書類が動くには何十年もかかります。
公式の首都都市を持たない国もある
太平洋の島国ナウルには、公式に定められた首都都市がありません。国会や政府の建物はヤレン地区に集まっていますが、そこが首都だと法で決めたわけではないのです。面積およそ21平方キロの小さな国では、首都を名指しする必要そのものが薄いのかもしれません。
二つの都市が譲らないとき首都は「あいだ」に置かれる

ワシントンD.C.は州の借金と引き換えに決まった
独立まもないアメリカでは、財務長官ハミルトンが各州の戦争の借金を連邦政府に引き受けさせようとして、南部の反対にあっていました。そこで成り立ったのが有名な取り引きです。南部が借金の引き受けに賛成する代わりに、新しい首都を南寄りのポトマック川沿いに置く。
ジョージ・ワシントン大統領がこの首都設置法に署名したのは1790年7月16日でした。法律が決めたのは川沿いという大枠と「10マイル四方」という上限だけで、細かな位置選びは大統領本人に任されています。
完成までの10年はフィラデルフィアが代役
新しい首都を建てているあいだ、政府はフィラデルフィアに置かれました。期限つきの臨時首都です。移転が終わったのは1800年で、11月17日には上院が完成途中の連邦議会議事堂で初めて開かれています。構想から実際の移転まで、ちょうど10年かかった計算です。
キャンベラはなぜシドニーから離された?

憲法125条が「置いてはいけない場所」を書いた
オーストラリアの憲法には、首都をどこに置くかではなく、どこに置いてはいけないかが書かれています。1901年の連邦発足時、シドニーを推すニューサウスウェールズ州とメルボルンを推すビクトリア州が譲らなかったためです。
妥協として憲法125条が並べた条件は三つでした。場所はニューサウスウェールズ州の中。ただしシドニーから100マイル(約160キロ)以上離れていなければならず、広さも100平方マイル以上と決められました。シドニーの州に場所を譲りつつ、シドニーそのものには勝たせない書き方です。
牧草地が首都の名前を得るまで
候補地の絞り込みは長引き、1908年の法律でようやくヤス・キャンベラ地区に決まります。1911年1月1日にはニューサウスウェールズ州が約2,360平方キロの土地を連邦へ譲り渡しました。この一帯は今、オーストラリア首都特別地域(ACT)と呼ばれています。
街の設計は国際コンペで選ばれ、シカゴの建築家ウォルター・バーリー・グリフィン夫妻の案が採られました。1913年3月12日、総督夫人が新しい街を「キャンベラ」と名づけています。
26年間はメルボルンが首都の仕事をした
憲法125条には、首都が整うまで議会はメルボルンで開くという定めもありました。キャンベラの議事堂が開いたのは1927年5月9日です。それまでの26年間、首都の役目を実際に果たしていたのは、選ばれなかったはずのメルボルンでした。
オタワを選んだのはヴィクトリア女王

議事堂が焼かれ、議会は都市を巡回した
カナダの前身にあたる連合カナダ州の議会は、首都の場所で何十年ももめました。1841年にキングストン、1844年にモントリオールと移ったものの、1849年には暴徒がモントリオールの議事堂に火を放ちます。
次に採られたのは、ケベックシティとトロントで交互に議会を開くという苦肉の策でした。移るたびに書類も職員も動くのですから、評判が良いはずもありません。この問題をめぐる採決は、少なくとも200回に及んだとも言われています。
決められない議会が判断を海の向こうへ渡した
行き詰まった議会は、決定をヴィクトリア女王に委ねます。女王は1857年12月31日付の書簡でオタワを選びました。英語圏とフランス語圏の境目にあり、アメリカ国境から距離があって守りやすい。政府がすでに土地を持っていたことも理由に挙げられます。どの有力都市にも勝たせない点で、ワシントンやキャンベラと同じ型です。
議会がこれを追認したのは1859年で、それも数票の差だったとされます。オタワの新しい議事堂で議会が初めて開かれたのは1866年です。翌1867年にカナダ連邦が成立すると、「政府の所在地はオタワとする」という一文が憲法にあたる法律に書き込まれました。
首都を内陸へ移した国は何年かかった?

植民地時代の港町がそのまま首都になった国では、人も富も海沿いに集まります。その偏りを正そうと、20世紀には内陸へ首都を移す例が相次ぎました。ただ、決めてから移り終えるまでの時間には大きな差があります。
| 国 | 構想が公になった時点 | 移転が完了した時点 | かかった年数 |
|---|---|---|---|
| アメリカ | 1790年 首都設置法 | 1800年 | 10年 |
| オーストラリア | 1901年 憲法125条 | 1927年 | 26年 |
| ナイジェリア | 1976年 布告第6号 | 1991年 | 15年 |
| ブラジル | 1891年 憲法の内陸規定 | 1960年 | 69年 |
ブラジリアは憲法に書いてから69年
ブラジルでは1891年の憲法に、首都を内陸へ置くという規定がすでにありました。それでも首都はリオデジャネイロのまま。この一行を動かしたのは、1956年に就任して建設を進めたジュセリーノ・クビチェック大統領です。新首都ブラジリアが使われ始めたのは1960年4月21日で、書いておけば実現するとはかぎらない見本でもあります。
飛行機の形の街がおよそ41か月で建った
都市計画はルシオ・コスタ、主な建物はオスカー・ニーマイヤーが手がけました。上から見ると翼を広げた飛行機のような配置で、機首の位置に国会議事堂などが並びます。工事はおよそ41か月という突貫ぶりでした。
ブラジリアは1987年に世界遺産に登録されています。生まれて30年に満たない都市の登録は当時としては異例。「遺産は古いもの」という常識のほうが揺さぶられた格好です。
アブジャはどの民族の本拠地でもない土地
ナイジェリアは1976年2月の布告第6号で首都の移転を決めました。理由は、人口が急に増えたラゴスの過密と、特定の民族や宗教に偏らない場所を選びたいという事情の二つです。国土のほぼ中央にあるアブジャは、誰の本拠地でもない土地だったのです。正式に首都が移ったのは1991年12月12日でした。
カザフスタンの首都の名前は「首都」
カザフスタンは1997年、地震の多い南部のアルマトイから北部へ首都を移しました。新しい首都は1998年に「アスタナ」と改名されます。これはカザフ語で首都そのものを指す言葉です。
2019年には前大統領の名にちなむ「ヌルスルタン」に変わり、2022年9月にまたアスタナへ戻りました。いったん人の名前を経て、首都の名前は「首都」に帰ってきたことになります。
沈むジャカルタから首都は移れるのか?

北部では年に25センチ沈む地区もある
インドネシアの首都ジャカルタは、地盤沈下に悩まされてきました。南部はおおむね年1センチほど。一方で北部には、年に25センチ沈む地区もあると報告されています。主な原因とされるのは、水道が行き届かず多くの住民が井戸で地下水をくみ上げてきたことです。
2050年までに北ジャカルタの大半が水につかるという推計もあるものの、数字は研究によってまちまちです。ジョコ・ウィドド大統領(当時)が移転計画を表明したのは2019年4月でした。
新首都ヌサンタラはカリマンタン島に
移転先はジャワ島を離れ、カリマンタン島(ボルネオ島)の東部に決まりました。新しい首都の名はヌサンタラです。人口の半分以上がジャワ島に集まる国で、重心を群島の真ん中へ寄せる意味もあります。避難型と内陸移転型が重なった珍しい例です。
大統領令が出るまで首都はジャカルタのまま
工事が進んでも、法律の上の首都はまだ動いていません。インドネシアの憲法裁判所は2026年5月、首都の地位をめぐる訴えを退けました。そのうえで、移転を定める大統領令が出るまで首都はジャカルタのままだと判断しています。
※ 大統領令(クプレス)とは、インドネシアの大統領が発する決定文書です。首都移転を定めた法律は、この決定が出て初めて移転の効力を持つ仕組みになっています。
新首都の予算は2年で7分の1ほどに
新首都への熱も冷めつつあります。報道によれば、予算は2024年の約43兆ルピアから2026年には約6.3兆ルピアへ大きく減りました。2028年までに政治の中心として機能させるという目標は示されているものの、移転を決める大統領令はまだ署名されていないと伝えられています。
建物が建ち、役所の一部が動いても、首都の肩書きはジャカルタに残っている。首都とは土地の実態というより、法の上の肩書きなのだとよく分かる状況です。
日本の首都は法律に書かれている?

今の法令に「東京が首都」の条文はない
現在の日本の法令には、東京都を首都と定めた条文がありません。参議院法制局のコラムによれば、国会法にすら「国会を東京都に置く」という定めはないそうです。首都圏整備法が決めているのも「首都圏」という広い範囲で、どこが首都なのかは書かれていません。
明治の政府は京都に配慮して宣言しなかった
同じコラムは、明治の初めに東京を首都とする声明が出されなかった理由にも触れています。京都の市民をはじめとする遷都反対の声を考えて、宣言も法律への明記もしなかったというのです。天皇が東京へ移っても「都を移した」とは言い切らなかった。日本の無記名型は、ここから始まっています。
一度だけ「首都」と書いた首都建設法
ただし過去に一度だけ、東京を首都と書いた法律がありました。1950年6月28日に公布された首都建設法です。第1条は東京都を平和国家の首都として建設することをうたっていました。
この法律は東京都だけに当てはまる内容だったため、公布の前に都民の住民投票にかけられ、過半数の賛成を得ています。賛成はおよそ6割でした。日本の首都の位置づけが、一度だけ有権者の投票を経たことになります。
※ 地方自治特別法とは、一つの地方公共団体だけに当てはまる法律のことです。日本国憲法95条により、その自治体の住民投票で過半数の同意を得なければ制定できません。
首都建設法は6年で廃止された
首都建設法は1956年、首都圏整備法ができたことで廃止されました。東京という一つの都市ではなく、周辺の県を含めた広い地域を一体で整える方針に切り替わったためです。こうして日本の法令から「首都」の名指しは再び消え、今日まで書かれていません。
首都を書かない国とあとから書いた国

スイスの憲法は「首都」という語を使わない
スイスの連邦憲法には、首都という言葉が出てきません。州の集まりとして始まった国で、一つの街に権威を集めるのが避けられたためとされます。ベルンの肩書きは首都ではなく「連邦都市(ブンデスシュタット)」です。連邦最高裁判所もベルンではなくローザンヌにあります。
ベルンは土地を差し出して選ばれた
1848年11月28日、連邦議会の両院はベルンを連邦の役所を置く街に選びました。国土の真ん中に近いこと、フランス語圏の支持があったことが決め手とされます。ベルン市が連邦の庁舎用地を無償で差し出したことも挙げられており、首都の座は差し出して得るものでもあるようです。
ドイツは18票差でベルリンに戻った
東西統一のあと、ドイツでは政府と議会をボンに残すかベルリンへ移すかで国論が割れました。1991年6月20日、連邦議会の採決は338対320。わずか18票差でベルリンに決まり、移転は1999年に行われました。
2006年に「首都はベルリン」と書き足した
おもしろいのはその後です。「ドイツ連邦共和国の首都はベルリンである」という一文が基本法(憲法にあたる法)の22条に加わったのは、2006年の連邦制改革のときでした。実態が先に動き、条文があとから追いついたわけです。首都を法に書くかどうかは国の性格というより、そのときの必要で決まるのかもしれません。
借金の取り引きに女王の手紙、18票の差、そして書かないという選択。首都の決め方を並べてみると、どの国も「一番ふさわしい街」を探したというより、争いをどう収めるかに知恵を絞っていたことが見えてきます。三つに分けた南アフリカも、その答えの一つの形でした。
参考
- South African Government「South Africa at a glance」
- 参議院法制局「首都を定める法律」
- 国立国会図書館 日本法令索引「首都建設法(昭和25年法律第219号)」
- ドイツ連邦政治教育センター「Ergebnis der Abstimmung vom 20. Juni 1991」
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