カナダとアメリカの国境が西部で一直線なのは、1818年に両国が「北緯49度」という数字で線を決めたからです。平らな大草原で川の分かれ目を測り合えば揉めると考え、地形に左右されない緯度を選びました。ところが地面にあるのは本当の49度線ではなく、19世紀の測量隊が据えた標石をつないだ線です。その線は最大810メートルずれたまま、幅6メートルの刈り払われた帯として森を貫いています。
北緯49度に決まったのは1818年

英米協約が五大湖の西を49度にした
直線の始まりは、米英戦争(1812〜1815年)が終わった3年後の英米協約です。当時のカナダはイギリス領で、交渉の相手はイギリスでした。協約は五大湖の西にあるレイク・オブ・ザ・ウッズという湖から、西のロッキー山脈までを北緯49度で区切ると定めます。
ロッキー山脈より西のオレゴン地方は、このときは線を引かずに両国の共同占有としました。決めきれない場所は先送りにし、決められる場所だけ数字で区切ったわけです。
分水嶺を測り合うより揉めにくい線
五大湖の西には、果てしなく平らな大草原が広がっています。降った雨がハドソン湾へ流れるかミシシッピ川へ流れるか、その分かれ目を国境にする案もありえました。しかし起伏のほとんど無い平原では、分かれ目を測ること自体が難しく、両国の委員は大きな反目を生むと考えたとされます。
※ 分水嶺(ぶんすいれい)とは、降った雨がどちらの海へ流れ下るかの境目になっている尾根すじのことです。
そこで選ばれたのが緯度という単純な線でした。どちらの側も少しずつ土地を得て、少しずつ失う形です。差し引きではアメリカのほうが多く得たと評価されています。
1846年のオレゴン条約で太平洋まで延びた
先送りにしたオレゴン地方は、1846年のオレゴン条約で決着します。49度線をそのまま西へ延ばし、太平洋岸のジョージア海峡まで届かせました。その先はバンクーバー島をよけて、海峡の水路を通る線になっています。
こうしてジョージア海峡からレイク・オブ・ザ・ウッズまで、約2,030キロの直線ができあがりました。東京から沖縄本島までの直線距離が約1,550キロなので、それよりかなり長い一本の線です。
地面には何が置いてある?

森を貫く幅6メートルの伐開帯
国境が森を通る区間では、木を刈り払った幅6メートル(20フィート)の帯が続いています。これが伐開帯(ばっかいたい)、英語でいうborder vista。空から見ると、緑の森の中を細い切れ目が地平線までまっすぐ延びています。
カナダとアメリカの陸の国境は5,061キロ。そのうち2,172キロが森林地帯を通っています。地図の上の細い線は、現地ではこの「森の切れ目」として目に見える形をとっているわけです。
陸の国境に5,528本の標石
帯の上には、国境の位置を示す標石が立っています。陸の国境全体で5,528本。いちばん間隔の短いところでは、標石と標石がわずか46センチしか離れていません。
湖や川を通る水の国境3,830キロにも、曲がり角の点が5,723か所定められています。岸には位置を測るための基準標が2,457本。直線に見える国境も、実際には無数の点を一つずつ結んだものです。
刈り続けないと線は藪に消える
伐開帯は自然にできたものではないので、放っておけば木が伸びてふさがってしまいます。維持を担うのは、両国が共同で置いている国際境界委員会(International Boundary Commission)です。
委員会は全長8,891キロの国境について、8,000を超える標石や基準点を点検します。測量の基準になる地点も約1,000か所。必要なら標石を据え直し、帯の木を刈る作業が今も続いています。国境は一度引けば終わる線ではなく、手入れで保たれている構造物なのです。
本当の49度線とは最大810メートルずれている

標石の線は南北にジグザグ
標石をつないだ線を現代の測り方と比べると、本当の北緯49度からあちこちで外れています。北へ最大810メートル、南へ最大590メートル。平均すると現代の49度線より270メートルほど南にあるとされます。
つまり地面の国境は、きれいな一本の直線ではありません。短い直線を折れ線のようにつないだ、わずかに蛇行する線です。地図の縮尺では見えないほどの曲がり方でも、そこに家や畑があれば話は別になります。
山の引力が星の観測を狂わせた
ずれの原因は、19世紀の測り方にあります。測量隊は夜に星を観測し、その角度から緯度を割り出しました。ところが近くに大きな山があると、その引力で錘(おもり)を垂らした糸がわずかに傾きます。真下の向きが狂えば、星の角度から出す緯度も狂ってしまいます。
西部の区間は1858年から1862年にかけて測量されました。後の裁判記録によれば、シミルカミーン川からケトル川までの山がちな区間の誤差は最大860フィート(約260メートル)。最小でも180フィートあったとされます。
ずれた線のほうを正式な国境にした
ずれは当時から分かっていました。それでもアメリカとイギリスは1870年、測量隊が地面に印した線を正式な国境として受け入れます。1908年の条約でも、両国はこの線を条約上の国境として改めて確認しました。
すでに地面には石が並び、人々はそれを目印に土地を分け始めていました。測り直すたびに国境が動いては、土地の持ち主も税金の行き先も定まらないと考えられます。数字の正しさより、地面に置かれた印のほうが優先されたわけです。
ずれた土地はどちらの州?

1996年の検問から始まった裁判
このずれが法廷で問われたことがあります。1996年、ワシントン州ワットコム郡でアメリカの税関職員が3人を調べました。3人は薬物や盗品の所持で起訴されます。場所は現代の北緯49度線より北で、標石の国境よりは南という、まさにずれの帯の中でした。
被告側は、州の北の境は北緯49度なのだから、そこより北で起きたことを州は裁けないと主張します。条約の文言どおりなら、確かに49度線が州境のはずです。
2002年、州の境は「地面に印された線」
2002年2月、ワシントン州最高裁はこの主張を退けました(State v. Norman)。州の北の境は「地面に印された国際境界と一致する」という判断です。ずれの帯の土地は、ワシントン州の土地だと確かめられました。
判決は、両国が今もこの国境を「49度線」と呼び続けていることにも触れています。名前は49度、実体は石の列。カナダとアメリカの国境は、呼び名と中身が少し違ったまま、両方とも正しいとされているのです。
直線が生んだ二つの飛び地

半島の先だけアメリカのポイント・ロバーツ
地形を見ずに引いた線は、思わぬ場所を切り取ります。代表例がワシントン州のポイント・ロバーツです。カナダ側から南へ突き出した小さな半島の先が、たまたま49度線より南に出ていました。そのため先端だけがアメリカ領になっています。
1846年の条約を結んだあとで、イギリス政府はこの結果に気づきました。半島を取り戻そうと申し入れたものの、ポイント・ロバーツはアメリカ領のまま残ります。2020年の国勢調査で住民は1,191人です。
小学4年生から国境を越えて通学
ポイント・ロバーツから陸路で同じアメリカの町へ行くには、カナダ領を約40キロ走り抜けるしかありません。地元の小学校は3年生まで。4年生になると子どもたちはブリティッシュコロンビア州を通って、ワシントン州ブレインの学校へ約40分かけて通います。
行きと帰りで国境を2回ずつ、1日に4回越える計算です。1本の直線が、170年以上たった今も子どもの通学路を決めています。
湖の北西端の勘違いが残したノースウエスト・アングル
もう一つの飛び地は、ミネソタ州のノースウエスト・アングルです。1783年のパリ条約は、レイク・オブ・ザ・ウッズの「北西端」から真西へ線を引いてミシシッピ川に至ると定めていました。ところが交渉に使われた地図は不正確で、ミシシッピ川の源流は実際には湖のほぼ真南にあったのです。
入り組んだ湖の「北西端」を起点に線をつないだ結果、湖の向こう岸の一角がアメリカ側に残りました。本土48州で北緯49度より北にあるのはここだけで、2020年の住民は149人です。
川や山を国境にしなかったら?

川は流れが変われば国境も動く
直線を選んだ判断がどれほど現実的だったかは、自然の地形を国境にした例と比べると分かります。アメリカとメキシコは1884年の協定で、リオグランデ川の最も深い流れを国境としました。流れがゆっくり移れば国境もついていき、洪水などで急に変われば国境はもとの位置に残る、という取り決めです。
この「ゆっくりか急か」が、テキサス州エルパソ付近のチャミサルと呼ばれる土地で争いになりました。決着は1963年のチャミサル協定。約100年にわたる交渉の末のことです。
山は「峰か分水嶺か」で割れた
山脈も同じように揉めました。チリとアルゼンチンは1881年の条約で、アンデス山脈の「水を分ける最も高い峰」を境としました。ところが南のパタゴニアでは、いちばん高い峰の列と水の分かれ目が別の場所を走っていたのです。
一つの条文から二つの線が読める状態で、両国の緊張は武力衝突が心配されるほど高まりました。1902年、イギリス国王エドワード7世の名で出た仲裁は、峰の列にも分水嶺にも厳密には従わない妥協の線です。北米の大草原で分水嶺を避けた1818年の判断は、こうした争いを先回りしていたとも言えます。
世界にはほかにも直線の国境がある

アラスカの西経141度とエジプトの北緯22度
北米の国境には、もう一本の直線があります。アラスカとカナダのユーコン準州を分ける西経141度線です。アラスカがまだロシア領だった1825年、ロシアとイギリスの条約でこの経線が境とされました。周辺がほとんど測量されていない時代に、数字だけで決まった線です。
アフリカでは、エジプトとスーダンの境が北緯22度線です。1899年、この地域を治めていたイギリスとエジプトが、この緯線を政治上の境と定めました。
二本の線のすきまに残ったビル・タウィル
ところが1902年、イギリスは遊牧民の暮らしに合わせた行政上の境を別に引きました。エジプトは1899年の直線を、スーダンは1902年の線を主張しています。どちらの線を採っても、紅海に面したハラーイブ・トライアングルと内陸のビル・タウィルが逆の側に落ちる関係です。
両国とも欲しいのは海に面したハラーイブのほうでした。その結果、約2,060平方キロのビル・タウィルは、人が住める土地でありながらどの国も領有を主張しない場所になっています。
※ 無主地(むしゅち、テラ・ヌリウス)とは、どの国の主権にも属していない土地のことです。
アフリカの直線は思われているほど多くない
「アフリカの国境は定規で引いた」とよく言われます。ただ、政治学の専門誌『American Political Science Review』に載った研究(Paine・Qiu・Ricart-Huguet)が二国間の国境を一本ずつ調べたところ、直線が主な要素になっていた国境は37パーセントでした。
いちばん多かったのは川や湖などの水域で、63パーセント。植民地になる前からあった政治的な境目が影響した国境も62パーセントにのぼります。ヨーロッパの列強は現地の支配者と交渉し、もとからある境を調べながら線を引いていた、というのが研究の結論です。
日本にも北緯50度の直線国境があった

樺太を横切った131キロの線
島国の日本にも、陸の直線国境があった時代があります。1905年のポーツマス条約で、樺太(からふと、今のサハリン)の北緯50度より南が日本領になりました。日露共同の境界画定は1906年に始まり、1908年に両国が承認して終わります。
オホーツク海側から間宮海峡側まで、長さは131キロあまり。天文観測の基準になる天測境界標(てんそくきょうかいひょう)が4基、その間を埋める中間標が17基、木の標木が19本据えられました。森には北米と同じように、木を切り開いた帯が通されています。この国境は1945年まで、約40年間だけ存在しました。
星を見て緯度を決めたのは北米と同じ
測り方も北緯49度線とよく似ていました。日本側はホレボー・タルコット法という天文観測で緯度を出し、一か所につき数夜かけて20組以上の星を観測したと記録されています。
三角測量で精密な緯度を出すには、50度線の周りに新しい基準点を設けて広く測る必要がありました。それには膨大な時間と費用がかかります。誤差がおおむね300メートル以内に収まる天文観測で十分、という判断でした。直線の国境が「安く早く引ける線」だったことは、北米でも樺太でも変わりません。
根室に残る第二天測境界標
標石は青森県で切り出した花崗岩(かこうがん)です。南の面には菊の紋章と「大日本帝国」「境界」の文字、北の面にはロシア帝国の双頭の鷲とキリル文字が刻まれました。一つの石の表と裏に、二つの国が背中合わせで並んでいたことになります。
4基のうち第二天測境界標は、1997年に根室の郷土史の研究会が入手し、いまは根室市歴史と自然の資料館にあります。高さ68センチ。日本国内に残る、ただ一つの本物の国境標石とされています。
北緯49度という数字は、1818年の交渉の席では一本のきれいな直線でした。けれど地面に下ろした途端に山の引力で曲がり、半島や湖を切り取って、裁判まで呼び込みます。それでも両国は測り直すより、石の列を国境として守るほうを選びました。カナダとアメリカの国境がまっすぐに見えるのは、6メートルの帯を今も誰かが刈り続けているからなのかもしれません。
参考
- International Boundary Commission「Boundary Facts」
- Washington Supreme Court「State v. Norman」(2002年・FindLaw掲載)
- アメリカ国立公園局 Chamizal National Memorial「Treaties」
- 北海道 赤れんが庁舎展示ガイド「国境線(日露国境線)」
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