油と灰。石鹸の材料はほとんどこれだけです。だから発明の時期はおどろくほど古く、五千年近く前の粘土板にすでに配合が書き残されています。
ただ、そこに書かれている用途は体を洗うことではありません。羊毛から脂を抜く。傷んだ皮膚に塗る。髪を赤く染める。石鹸はまずそういう道具として広まり、体を洗うための日用品になるのはずっとあとの話でした。
五千年ぶんの記録を、そのときの使いみちで並べる
下の表は発明の年表ではありません。油と灰という材料の欄はほとんど動かないまま、右端の「そのときの主な使いみち」だけが何度も書き換わっていく、その履歴です。

| 時期 | 記録・できごと | そのときの主な使いみち |
|---|---|---|
| 前2500〜2200年頃 | テッロ(古代ギルス)の粘土板に油と植物灰の比率 | 羊毛から脂を抜く作業用 |
| 前2200年頃 | ニップル出土の医療の粘土板 | 患部の手当て(薬) |
| 前1550年頃 | エジプトのエーベルス・パピルス | 皮膚の手当てと洗濯 |
| 77年 | プリニウス『博物誌』が「サポー」に言及 | 髪を赤くする整髪料 |
| 2世紀 | アレタイオスが入浴での使用に触れる | 体を洗う用途の最古級の記録 |
| 9世紀 | ラハト(現イスラエル)の石鹸工房跡 | オリーブ油の固形石鹸を量産 |
| 1596年 | 石田三成の礼状に「志やぼん」(日本最古の記録) | 薬・贈答の品 |
| 1688年 | フランスの勅令がマルセイユ石鹸の製法を規定 | 洗濯と家庭の商品 |
| 1712年 | イギリスが石鹸に課税(1853年まで) | 課税に値する高価な日用品 |
| 1791・1823年 | ルブラン法とシュブルールのけん化研究 | 安く大量に作れる工業製品 |
| 1873年 | 堤磯右衛門が国産の洗濯石鹸を発売 | 洗濯用 |
最初の石鹸は、洗濯場と薬箱にあった
いちばん古い記録が残っているのはメソポタミアです。そして、そこでの石鹸は羊毛と患部に使われていました。

粘土板に残るのは、羊毛から脂を抜く配合
油1に対して、灰は5倍以上
テッロ(古代ギルス)の記録には、油およそ1リットルに対して植物灰5.5リットルという分量が残っています。年代の見積もりには幅があり、資料によって前2500年頃とも前2200年頃ともいわれる粘土板です。灰が極端に多いのは、当時のアルカリが精製されていない草木の灰そのものだったからだと考えられています。目的は羊毛についた脂を落とすこと。布を織る前の下ごしらえの薬品でした。
医者の粘土板は「肌の上で作る石鹸」
前2200年頃のニップル出土の粘土板は、最古級の医学文書として知られています。そこに書かれた手順はこうです。患部を洗い、油を塗る。その上から焼いた植物の灰をかける。鍋の中で石鹸を練るのではなく、皮膚の上で油とアルカリを出会わせているわけです。
エジプトでも、油脂とアルカリは薬の材料だった
エーベルス・パピルスの記述
前1550年頃のエーベルス・パピルスには、動物や植物の油脂とアルカリ性の塩を混ぜたものが登場します。用途として伝えられているのは皮膚の治療と布の洗浄で、やはり体を洗うためではありません。ナイル流域では洗濯と医療が、石鹸的なものの主な出番でした。
「偶然できた」という有名な話は、出典が見当たらない
ローマ郊外のサポー(Sapo)の丘で、いけにえの脂が焚き火の灰に落ちる。それが雨で川へ流れ、洗濯をしていた人が汚れ落ちのよさに気づいた——石鹸の起源としてよく語られる話です。ただ、この丘の逸話は根拠となる古代の文献が確認できず、後世に作られた説明とみられています。石鹸は事故ではなく、作業の必要から作られたと考えるほうが記録に合います。
ローマ人は、石鹸で体を洗っていない
水道と公衆浴場を発達させた古代ローマですが、その入浴に石鹸は使われていませんでした。清潔さに無頓着だったのではなく、洗い方そのものが違ったのです。

体は、油を塗って金属のヘラでこそげ落とした
ストリギリスという道具
浴場ではまず香りをつけたオリーブ油を体に塗り、湾曲した青銅のヘラでそれを削り取りました。この道具がストリギリスです。油が汗や皮脂や埃を抱き込むので、こそげ落とせば汚れも一緒に取れる。砂を混ぜて研磨力を足すこともあったと伝えられています。
入浴の回数は、むしろ多かった
354年の市内調査では、ローマ市内の公衆浴場は952か所を数えたと伝えられます。皇帝が建てた巨大な浴場や私邸の風呂はこれに含まれません。兵士も労働者も元老院議員も日常的に湯へ入っていたわけで、石鹸を使わないことと不潔であることは別の話でした。
プリニウスが書いた「サポー」は、ガリア人の整髪料
獣脂とブナの灰で、髪を赤くする
77年頃の『博物誌』第28巻に、サポーはガリア人の発明で髪に色つやを与えるものだ、という記述があります。材料は獣脂と灰で、とくにヤギの脂とブナの灰がよいとされました。ローマの若者はこれを輸入して髪を赤みがかった色に染めたと伝えられます。石鹸の最初の役どころは、洗剤ではなく整髪料だったわけです。
体を洗う用途がはっきり書かれるのは2世紀から
ガリア産の石鹸が洗濯だけでなく入浴での体洗いにも優れている、と記したのは2世紀の医師アレタイオスだとされます。同時代のガレノスの著作にも石鹸は出てきますが、その部分は著者の帰属が確かでないという指摘もあり、慎重に扱われています。いずれにせよ、材料が知られてから体を洗う用途が文字になるまで、二千年以上が空いている計算です。
商品になり、やがて税をかけられるまで
石鹸が家庭の買い物リストに入る品になったのは、地中海でオリーブ油を使う量産が根づいてからです。そして売れる品になれば、当然のように税がかかりました。

オリーブ油の固形石鹸が、工房で作られる
9世紀の石鹸工房が、そのまま出てきた
2020年、イスラエル南部のラハトで約1200年前の石鹸工房跡が発掘されました。イスラエル考古学庁によると、オリーブ油に塩生植物の灰を混ぜて7日ほど煮込んでいたとされます。それを浅い槽に流し、10日ほど固めてから棒状に切り分ける。工程がここまで残っている以上、この時期には製法が定型化していたと考えてよさそうです。
マルセイユ石鹸は、1688年に定義された
1688年10月、フランスで石鹸の製法を定める勅令が出されます。大釜で炊くこと、そして植物油は純粋なオリーブ油だけを使い、獣脂やバターを混ぜてはならないこと。違反すれば商品は没収でした。よく「コルベールの勅令」と呼ばれますが、コルベール本人は1683年に亡くなっており、実務にあたったのは息子のセニュレーです。ブランドを法律で定義した早い例といえます。
石鹸税がかかるほどの日用品になった
140年続いたイギリスの石鹸税
イギリスでは1712年から石鹸に税が課され、1853年にグラッドストンが廃止するまで続きました。工場には収税吏の監視がつき、製造は厳しく管理されます。税を逃れるために工房ごと国外へ移る業者も出ました。石鹸はぜいたく品として、国庫を支える柱の一つになっていたのです。
使う量が、そのまま暮らし向きを表した
1830〜40年代に減税を求めた業界団体は、農業労働者が年に4ポンドしか石鹸を使えないのに対し、裕福な家庭では1人あたり30ポンドに達すると訴えました。7倍以上の開きです。清潔さが道徳と結びつけて語られた時代に、その清潔さには値札がついていました。
安くなったのは、化学が追いついてから
石鹸の値段を下げたのは節約でも増産でもなく、原料と原理をめぐる二つの発見です。

アルカリが、畑から工場へ移った
ルブラン法(1791年)で、食塩からソーダ灰
それまでアルカリは、草木や海藻を焼いた灰から取り出すしかありませんでした。膨大な植物が要りますし、質もばらつきます。1791年、フランスのルブランが食塩からソーダ灰を作る方法を編み出したことで、この制約が外れました。原料が「畑で採るもの」から「工場で作るもの」に変わったわけです。
もっとも、発明者本人は報われていません。ルブランの工場は革命政府に没収され、1802年に返還されたときには再建する資金が残っていませんでした。借金を抱えた彼は1806年に自ら命を絶っています。世界の石鹸を安くした方法の生みの親が、その恩恵を受けずに終わったわけです。
1850年、イギリスだけで1億5725万ポンド
安価なアルカリは生産量に直結します。1850年のイギリスの石鹸生産量は1億5725万ポンド、およそ7万トンにのぼりました。翌年のロンドン万国博覧会でも、この数字が国の工業力として示されています。
油脂の正体が分かり、石鹸の仕組みが説明できた
油脂はグリセリンと脂肪酸でできている
それを突き止めたのがフランスのシュブルールで、1811年から1823年にかけての研究でした。それ以前は、石鹸は脂とアルカリが単純にくっついたものだと考えられていたのです。油脂を分解し、脂肪酸をアルカリと結びつける——五千年続けてきた作業の中身が、ここで初めて言葉になりました。
※ けん化(鹸化)とは、油脂をアルカリで分解して石鹸(脂肪酸の塩)とグリセリンに変える反応のことです。
包装された石鹸が、品質を保証するようになる
19世紀の後半には、量り売りではなく包装された固形石鹸が登場します。アメリカのアイボリーが1879年、イギリスのサンライトが1884年。同じ名前の箱を買えば同じものが手に入るという当たり前が、このあたりで成立しました。
日本には「シャボン」として届いた
日本に石鹸が入ってきたのは16世紀、南蛮貿易の品としてでした。呼び名はポルトガル語のsabão(サボン)に由来する「シャボン」で、こちらも最初の用途は洗うことではなかったと伝えられます。

最古の記録は、地震見舞いの礼状
石田三成が書いた「志やぼん」
日本で確認されている最も古い記録は、石田三成が博多の豪商・神谷宗湛(かみやそうたん)に宛てた礼状だとされます。慶長元年(1596年)の伏見地震の見舞いとして、宗湛が「志やぼん」を二個贈った、その礼です。大名同士がやり取りする贈答品であり、庶民の手に届く品ではありませんでした。
庶民は灰汁とぬか袋で洗っていた
江戸時代の一般的な洗浄剤は、木や藁や海藻を焼いた灰を水に溶かした灰汁(あく)です。ほかにも、ぬかを詰めた袋・みかんの皮の粉・小豆や大豆の粉が使われています。輸入されたシャボンは長崎経由で入ってはきたものの高価で、主に薬として扱われたと伝えられています。
国産化と、読みかたの交代
1873年、横浜で1本10銭の洗濯石鹸
国産石鹸の第一号は、堤磯右衛門(つつみいそえもん)が明治6年(1873年)に売り出した棒状の洗濯石鹸で、値段は1本10銭でした。翌年には横浜に製造所を構えます。顔や体を洗う化粧石鹸ではなく、まず洗濯用から始まったところに石鹸の履歴が透けて見えます。1890年(明治23年)には長瀬富郎の花王石鹸が発売され、桐箱入り3個で35銭という高級品として売られました。
「石鹸」と書いて「シャボン」と読んでいた
江戸期の常用語はあくまで「シャボン」で、「石鹸」の表記が広まるのは漢語が重んじられた明治以降です。おもしろいのは、当時の「石鹸」の振り仮名がたいてい「シャボン」だったこと。「せっけん」という読みが一般的になったのは明治の後半からだとされています。文字が先に入れ替わり、読みがあとから追いついたわけです。
もう一歩:「鹸」の字と、石鹸ではない洗剤

「鹸」は、それだけでアルカリを指す字
「鹸」という字は、塩水が固まってできたアルカリの結晶や、灰を漉した水そのものを意味します。塩が地表に吹き出すさまを表す「鹵(ろ)」が部首。つまり「石鹸」は、石のように固まったアルカリという成分の説明そのものが名前になっている、かなり即物的な単語です。
台所にある「洗剤」の多くは、石鹸ではない
石鹸は油脂とアルカリから作る脂肪酸の塩で、水の硬さに弱く、冷水では泡立ちにくいという弱点があります。この弱点を補うために20世紀に開発されたのが、石油などを原料とする合成界面活性剤です。食器用洗剤や洗濯用の液体洗剤の多くはこちらです。日本では家庭用品品質表示法にもとづき、洗濯用の製品は「品名」の欄で区分が示されます。界面活性剤が純石けん分だけなら「洗濯用石けん」、純石けん分が7割以上なら「洗濯用複合石けん」、それ未満なら「洗濯用合成洗剤」という具合です。汚れを落とす働きは似ていても、五千年の系譜に直接つながるのは最初の一つだけということになります。
油と灰から生まれた白い塊が長く担ってきた仕事は、羊毛の脂抜き・傷の手当て・髪の染色でした。体を洗うという、いま真っ先に思い浮かぶ使い道は、その履歴のずいぶん後ろのほうでようやく現れます。道具は、使い道を連れて生まれてくるとはかぎらない。手を洗うたびに触れているのは、五千年かけて職を変えてきた古株なのです。
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