銭湯の壁はなぜ富士山なのか——東京の一軒から広まった

歴史と変遷の話
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銭湯の壁の富士山は、日本中の銭湯にあるわけではありません。大阪の銭湯に入ると、壁を飾っているのは焼き付けたタイルの絵であることが多く、あの大きな富士山は見当たらないのが普通です。

では東京の壁には、なぜ富士山が並んだのでしょうか。理由は一つではありません。始めた人の出身地。絵の下に取り付けられた広告看板。そして浴室の明るさ。まったく別々の事情が重なって、あの構図が定番になりました。

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壁に富士山がいる理由は、五つに分かれている

「なぜ富士山なのか」に一つの答えを探そうとすると、たいてい外れます。描き始めた理由・東京中に広まった理由・その後も選ばれ続けた理由が、それぞれ別のところにあるからです。先に五つに分けておきます。

観点富士山になった事情
発端1912年に依頼された画家が静岡県掛川市の出身で、故郷のシンボルを描いたと言われる
普及壁の下に広告看板を出す代理店が、広告料で絵師に無料で描かせる商売が生まれた
実利青と白が主体の絵は、浴室そのものを明るく見せる
縁起末広がりの形。山の裾の水が湯船につながって見える構図も好まれた
範囲広まったのは主に関東。大阪はタイル絵が主流で、富士山の壁絵は珍しい

発端は、東京・神田の風呂屋一軒だった

最初の一枚が描かれた場所は特定されています。東京・神田猿楽町にあった「キカイ湯」という銭湯で、1912年(大正元年)のことでした。

主人が板壁を活かそうと考えた

明治17年開業の町の銭湯

キカイ湯は明治17年(1884年)に開業し、昭和46年(1971年)まで87年間続いた銭湯です。特別に大きな店だったわけではなく、神田の町に何軒もあった風呂屋の一つでした。

「板壁に何か絵を」という思いつき

千代田区が現地に設置した「まちの記憶保存プレート」によれば、主人の東由松(とう よしまつ)が浴室の周囲の板壁を活かして何か絵を掲げることを考え、画家に依頼しました。子どもたちに喜んで風呂に入ってもらうためだった、という伝わり方もしています。

壁画を飾るための壁ではなく、もともとそこにあった板壁の使い道を考えた結果だった、という順序が少し意外です。

描いたのは静岡出身の画家だった

川越広四郎と掛川

依頼を受けたのは川越広四郎という画家でした。広告のデザイン画を手がけていた人物で、静岡県掛川市の出身だったとされます。生まれ故郷のシンボルである富士を思いついて描いた、というのが最初の一枚の由来として伝えられている説明です。

題材の指定はなかったとされる

主人からの注文は「壁画を」というだけで、何を描くかまでは指定されなかったと言われています。つまり日本の銭湯を百年以上支配することになる題材は、依頼した側が選んだものではありません。描き手一人の記憶から出てきたものでした。

一軒の評判が市内へ伝わった

「思い思いの絵を描かせて」

この絵は評判になりました。千代田区のプレートによれば、市内の浴場もこれにならって思い思いの絵を描かせ、浴客を喜ばせるようになります。以来、銭湯の周囲の壁画は一般的になったと記されています。最初から富士山一色だったのではなく、まず「浴室に絵を描く」という習慣そのものが移っていったわけです。

跡地は今、ビルの壁面

キカイ湯の跡地は千代田区神田猿楽町2丁目7番1号にあたり、現在はビルが建っています。その壁面にプレートが埋め込まれていて、ここが銭湯のペンキ絵の発祥地であることを伝えています。湯気も湯船もない場所に、絵の出発点だけが残っている格好です。

東京中へ広げたのは、縁起よりも広告だった

習慣が広まるには、風呂屋が絵の代金を払い続けられる仕組みが要ります。ここで登場したのが広告でした。

絵の費用を出していたのは風呂屋ではない

看板を置く代わりに、絵を描く

浴室に看板を張る広告代理店が現れ、クライアントから集めた広告料を使って、絵師に背景画を無料で描かせるようになりました。銭湯にとっては、壁の下の一角を貸すだけで大きな絵が手に入ります。広告主から見れば、毎日大勢が長い時間ぼんやり眺める壁の下に看板を置けるうまい話でした。

絵師の側から見た仕組み

絵師の丸山清人さんは、東京都浴場組合の取材にこう説明しています。背景画の下に広告の看板が入っていて、昔は銭湯に人がたくさん来たから近所の店が広告を出した。看板を置かせてもらう代わりに、背景画を年に一度サービスで描いていた、と。

絵が主で広告が従、ではありませんでした。少なくとも費用の流れを見るかぎり、順序はその逆です。

全盛期の数字を並べてみる

代理店20社、絵師は数十人

1960年代の全盛期、東京都内には広告代理店が約20社あり、専属の銭湯絵師も数十人ほどが働いていたとされます。壁絵は一人の職人が細々と守っていた芸ではなく、一つの業界として回っていたことになります。

銭湯そのものが約1万8千軒あった

全国公衆浴場業生活衛生同業組合連合会の数字では、銭湯は1968年に1万7999軒とピークを迎えました。2022年には1865軒まで減っています。半世紀あまりで1万6千軒以上が姿を消した計算です。壁の数が減れば、絵の仕事も減ります。

広告が退いたあとに残ったもの

専門の絵師は数人になった

銭湯専門のペンキ絵師は、長く「全国に3人」と紹介されてきました。丸山清人さん、中島盛夫さん、その弟子で2013年に独立した田中みずきさんの三人です。ただし丸山さんは2023年に体調を崩して制作が難しくなり、公式サイトでは2024年11月から依頼を休止していると告知されています。

実際、2024年に大阪府の浴場組合が出した告知では「全国で2人しかいない」と書かれていました。3人と2人、どちらの数字も同じ時期の資料に載っています。それだけ薄い人数だということです。

依頼の形は変わってきた

近年は映画やブランドのPRとして背景画が描かれることもあります。広告が絵の費用を出すという構図自体は、形を変えて生きているとも言えます。壁の下の小さな看板から、絵そのものが宣伝になる形へ移った、という言い方もできそうです。

青と白は、浴室そのものを明るく見せる

縁起の話より先に、描く側の実利を挙げておきます。目を閉じて銭湯の富士山を思い浮かべると、その色はほとんど青と白の二色でしょう。

絵師が語る、色の効き目

「浴室が明るくなるからね」

丸山さんは富士山を描く理由について、青と白だと浴室が明るくなるから、と語っています。神聖さや愛国心ではなく、狭い浴室の見え方の問題として説明されているのが面白いところです。

湯気と湿気のなかで映える色

浴室は湯気で白くかすみ、照明も明るいとは限りません。細かい描き込みより、大きな青空と白い雪の面のほうが遠目に効きます。裾野の広い山は横長の壁にも収まりやすく、男湯と女湯にまたがる長い壁でも構図が破綻しにくい形です。

縁起の側からの説明

末広がりという形

裾に向かって広がる形が末広がりで縁起がよい、という説明はよく知られています。商売をする場所に掲げる絵としては、たしかに理屈が通ります。

そもそも江戸には、富士山を信仰する下地がありました。富士講と呼ばれる集まりが各地に生まれ、富士山を模した富士塚(ふじづか)が築かれています。江戸川区の資料によれば、安永9年(1780年)に高田の水稲荷の境内へ築かれたものが最初で、現在の東京23区内だけでも50数か所を数えるといいます。町の人が拝みに行く小さな富士が、すでにあちこちにあったわけです。

山の水が、湯船につながって見える

もう一つ挙げられるのが、水のつながりです。富士山の下に描かれた湖や海が、そのまま手前の湯船へ続いていくように見える。この地続きの構図が人気を呼んだとも言われます。室内に飾る絵画では起きない効果でしょう。

描かないとされる三つの題材

猿・夕日・紅葉

庶民文化研究家の町田忍さんによれば、銭湯の絵には避けられてきた題材が三つあるとされます。いずれも語呂合わせです。

  • ……「客が去る」に通じる
  • 夕日……「家業が沈む」を思わせる
  • 紅葉……葉が赤くなって落ちる、で「赤字」

そのため夕日ではなく朝日に照らされた構図が選ばれ、散る紅葉ではなく散らない松が描かれる、という置き換えも語られています。

規則ではなく、言い伝えに近い

ただしこれは業界の明文化された禁止事項ではなく、商売の縁起として語り継がれてきたものです。近年はキャラクターや映画の題材も描かれるようになり、画題の幅は広がっています。守られてきたのは規則というより、客商売の験担ぎ(げんかつぎ)だと考えたほうが実態に近そうです。

一日で描き上げ、数年で塗りつぶす

この絵のいちばん変わっている点は、最初から消えることが決まっている点かもしれません。

一日仕事という制約

定休日に、一人で仕上げる

丸山さんによれば、昔は営業している日に二人で描いていたものが、今は定休日に一日かけて一人で描く形になっています。2023年に時事通信が伝えた田中さんの仕事では、二つの浴室に富士山を描く注文を午前8時から午後6時半までで仕上げていました。夕方には湯が張られ、その夜から客がその絵を眺めることになります。

夏と冬で難しさが変わる

夏は乾くのが早く、塗った端から乾いてしまうためグラデーションがやりづらいと丸山さんは話しています。冬は逆に乾きにくい。同じ絵を描くのに、季節ごとに時間との勝負の中身が変わるわけです。

描き替えの周期

4〜5年に一度が多い

塗り替えの頻度は店によって差があり、毎年やる店もあるものの、4〜5年に一度が多いとされます。いずれにせよ、数年ごとに描き替えるのが慣例です。気に入った絵でも、いつかは確実に無くなります。

削ってならしてから、上に塗る

古い絵をはがして白紙に戻すのではありません。ボロボロになった表面を削ってならし、その上に次の絵を塗ります。つまり銭湯の壁は、歴代の富士山が層になって重なった状態です。いま見えている一枚の下に、前の客が見ていた山が眠っています。

男湯と女湯は、一枚の絵でつながっている

富士山はどちらか一方、が通例

浴室を仕切る壁の上をまたいで、男湯側と女湯側の絵は一続きに描かれます。そして富士山は、ふつうどちらか片方にしか描きません。自分がいつも入っている側に富士山があるなら、反対側の人は裾野や別の風景を見ている計算になります。

両方に描く注文もある

両方に富士山を、という注文が入ることもあります。その場合は片方を朝焼け、もう片方を昼間にするなど、時間帯や色味を変えて描き分けるそうです。同じ山の別の時刻が、壁一枚を隔てて並んでいることになります。

大阪の壁と、桶の大きさ

冒頭に書いたとおり、この習慣は全国には広がりませんでした。大阪の銭湯では、壁を飾るのは絵付けしたタイルを組み合わせたタイル絵や、色とりどりのモザイクタイルが一般的です。ペンキ絵は数年で塗り替えが要るのに対し、タイルは汚れても補修がほとんど要らないと言われます。地理的に遠い大阪までは東京の流行が届かなかった、というのが一つの見方です。

項目東京の銭湯大阪の銭湯
壁の装飾ペンキ絵(富士山が定番)タイル絵・モザイクタイル
描き替え数年ごとに塗り替える基本的に貼り替えない
湯船の位置壁側に配置されることが多い浴場の中央にあり、周囲を囲むようにカラン
ケロリン桶直径22.5×高さ11.5センチ直径21×高さ10センチ(100グラム軽い)

桶の大きさまで違うのは、かけ湯の文化に由来すると説明されています。手桶で湯をくんで体を流す習慣に合わせて、関西版は片手で扱える寸法になっているわけです。

この差がどれくらいのものかは、大阪府公衆浴場業生活衛生同業組合が2024年5月に催した催しによく表れています。大阪市東住吉区の銭湯で、中島盛夫さんが富士山のペンキ絵を描く工程を公開したのです。告知には、関西ではペンキ絵の描き換え工程を見ることが稀だから、と書かれていました。東京では定休日にひっそり行われる作業が、大阪では見学するイベントになります。

壁の富士山は、長く残すつもりで描かれた絵ではありません。一日で仕上げ、数年で上から塗りつぶされることが最初から決まっている絵です。それでも一枚が消えるたびに次の一枚が同じ山を描いてきたので、個々の絵の寿命は数年でも、富士山そのものは百年以上あの壁に居座り続けてきました。大阪の壁に届かなかったことを思えば、あれは日本の原風景というより、東京の風呂屋が代々塗り重ねてきた一つの型なのだと言えます。

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