銭湯の壁はなぜ富士山なのか——東京の一軒から広まった

富士山のイラストに「銭湯の富士山 最初は誰が描いた?」の文字を添えたカード 歴史と変遷の話
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銭湯の壁の富士山は、1912年(大正元年)に東京・神田の「キカイ湯」で描かれた一枚から始まりました。描いた画家が富士山の見える静岡県の出身で、故郷の山を選んだと伝わります。それが評判になって東京中の銭湯がまね、絵の下に広告看板を並べる仕組みが描き替えの費用を支えました。青と白の絵は浴室を明るく見せるという実利もあり、富士山は関東の定番になっていきます。

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最初の一枚は1912年、神田のキカイ湯

昔ながらの銭湯の建物のイラスト

87年続いた町の銭湯

キカイ湯は、明治17年(1884年)に東由松(あずま よしまつ)が神田猿楽町で開いた銭湯です。昭和46年(1971年)まで営業を続けました。変わった店名は、汽船のボイラー(機械釜)を初めて風呂釜に使ったことにちなむといいます。新しもの好きの風呂屋だったのかもしれません。

板壁を生かして絵を飾るという思いつき

千代田区が跡地に設けた「まちの記憶保存プレート」によると、1912年に由松は浴室の板壁を生かして絵を飾ることを考え、画家の川越広四郎に頼みました。当時の銭湯は床も壁も板張りで、飾り気のない空間だったとされます。子どもたちに喜んで湯船に入ってほしかった、という動機も伝わっています。

発案者は初代か2代目か

誰が思いついたのかについては、伝え方が二通りある。区のプレートは初代の由松としていますが、テレビ東京の番組「アド街ック天国」は、大正元年の増築の際に2代目の東雄三郎さんが思いついたと紹介しました。増築の年と絵の年は同じなので、親子のどちらの発案でもおかしくはありません。

跡地の猿楽町2丁目にはいまビルが建ち、その壁面にプレートが埋め込まれています。湯船も湯気もない場所に、絵の出発点だけが残された格好です。

富士山を選んだのは誰?

絵筆とスケッチブックを持つ画家のイラスト

描いた川越広四郎は掛川の出身

題材を決めたのは、依頼された画家のほうだったとみられています。川越広四郎(1884〜1933年)は静岡県掛川市の出身で、故郷から見た富士山を描いたところ好評だった、というのが通説です。日本中の銭湯に続く画題は、風呂屋の注文ではなく描き手の思い出から出てきたことになります。

明治の東京は富士山の見世物でにぎわった

富士山が受け入れられた下地もありました。nippon.comの記事によると、明治の東京では富士山の形をした大きな展望台や、富士山のパノラマ画が人気の見世物でした。大きな富士山の模型をみんなで楽しむ風習の名残が、銭湯の富士山だという見方もあります。

江戸の町には小さな富士がいくつもあった

さかのぼれば、江戸には富士山を拝む人々の集まりがあり、土を盛って富士山に見立てた富士塚(ふじづか)が各地に築かれました。新宿区の高田富士は江戸で最も古い富士塚として知られています。品川富士や千駄ヶ谷富士など7か所をめぐる「江戸七富士参り」も人気でした。町の人にとって、富士山は身近な信仰の山だったのです。

東京中の銭湯に広まったのはなぜか

広告代理店の社員のイラスト

まず「浴室に絵を描く」習慣がまねされた

キカイ湯の絵は評判を呼び、市内の銭湯もならって思い思いの絵を描かせるようになりました。区のプレートは、これで銭湯の壁画が一般的になったと記しています。最初から富士山一色だったわけではありません。広まったのは、まず浴室を絵で飾るという習慣そのものでした。

絵の代金は看板の広告料から出ていた

習慣が根づいたのは、風呂屋が代金を払わずに済む仕組みがあったからです。絵の下の壁には、近所の店の広告看板が並びました。絵師の丸山清人さんは東京都浴場組合の取材で、看板を置かせてもらう代わりに背景画を年に一度サービスで描いていたと語っています。

銭湯は町いちばんの広告媒体だった

昔は銭湯に毎日大勢の人が来たので、近所の店にとっては格好の広告の場でした。湯につかる客は、同じ壁を長い時間ぼんやりと眺めます。費用の流れから見ると、絵が主で看板が従だったとは言い切れません。看板のおまけとして絵が描き替えられていた、という面もあったわけです。

青と白は浴室を明るく見せる

富士山の絵がある銭湯の湯船のイラスト

絵師が挙げた理由は色だった

丸山さんは同じ取材で、銭湯ではやはり雪をかぶった青い富士山が人気だと話しています。理由は、青と白だと浴室が明るくなるから。神聖さや縁起ではなく、狭い浴室の見え方として説明しているところが職人らしい答えです。

湯気の中でも大きな面は遠くから効く

浴室は湯気で白くかすみます。細かい描き込みより、青い空と白い雪の大きな面のほうが遠目に映えるはずです。裾野の広い山の形は横長の壁にも収まりやすく、男湯と女湯にまたがる長い壁でも構図を組みやすいと考えられます。

猿・夕日・紅葉は描かないとされる

温泉につかる猿のイラスト

三つとも商売の語呂合わせ

銭湯の絵には、避けられてきた題材が三つあるとよく語られます。どれも客商売の縁起をかついだ語呂合わせです。

  • 猿……「客が去る」に通じる
  • 夕日……「家業が沈む」「景気が落ちる」を思わせる
  • 紅葉……葉が赤くなって落ちるので「赤字」

夕日は朝日に、紅葉は松に置き換える

そのため夕日ではなく朝日に照らされた構図が選ばれ、散る紅葉の代わりに散らない松が描かれるといいます。猿が出てくる桃太郎やさるかに合戦の場面も描かれない、という話まであります。富士山の手前に松がよく描かれるのも、この験担ぎ(げんかつぎ)と相性がよかったのでしょう。

決まりというより言い伝え

ただし業界の明文化された決まりがあるわけではなく、縁起として語り継がれてきた話です。近年は映画の怪獣やキャラクターが描かれることもあり、画題の幅は広がりました。守られてきたのは規則というより、客を大事にする風呂屋の気持ちだったと言えそうです。

描くのは定休日の一日だけ

ローラーでペンキを塗る人のイラスト

昔は二人、いまは一人

丸山さんによれば、昔は営業している日に二人で描いていました。いまは銭湯の定休日に、一日かけて一人で描きます。次の営業日までに、湯を張れる浴室へ戻しておかなければなりません。翌日の客は、仕上がったばかりの富士山を眺めながら湯につかることになります。

夏は乾きすぎ、冬は乾かない

季節によって難しさも変わります。夏はペンキが乾くのが早く、空のグラデーションがやりづらいそうです。冬は逆にペンキが乾きにくい。同じ一日仕事でも、時間との勝負の中身が季節ごとに入れ替わるわけです。

描き替えは4〜5年に一度が多い

描き替えは毎年やる店もあるものの、4〜5年に一度が多いと丸山さんは話しています。広告看板が費用を出していた時代は年に一度が目安でした。銭湯が減って看板の仕組みが廃れたいまは、各銭湯が自分で費用を出して絵師に頼んでいます。

古い絵は削ってならし、上に重ねる

古い絵をはがして白紙に戻すのではありません。傷んだ表面を削ってならし、その上に新しい絵を塗り重ねるのが普通です。久しぶりの描き替えでは、この下地づくりが一番大変だといいます。いま見えている富士山の下には、前の客たちが眺めた山が何層も眠っています。

男湯と女湯で絵はちがうのか

富士山の絵の前で湯船につかる女性のイラスト

風景は男女で別が基本

nippon.comが取材した絵師の田中みずきさんの現場では、定休日の一日で女湯と男湯の両方の絵を仕上げていました。男湯と女湯ではそれぞれ絵の風景も違うといいます。いつも入っている側とは別の景色が、仕切りの向こうに描かれているわけです。

仕切りをまたぐ一枚もある

描き方は店ごとにさまざまです。タイムアウト東京の紹介では、熱海湯(新宿区)は松島から望む富士山が男湯と女湯をまたぐように描かれています。小杉湯(杉並区)は、男湯と女湯の壁にそれぞれ西湖から見た富士山があるそうです。

入れ替え制なら両方の富士山に会える

文京区のふくの湯は、二つの浴場が週ごとに男女入れ替わります。片方には丸山清人さんの富士山、もう片方には中島盛夫さんの赤富士。通い続ければ、二人の絵師の富士山を見比べられる仕組みです。

関西の銭湯に富士山が少ないのは?

銭湯の風呂桶のイラスト

関東の外はタイルや白い板壁

ペンキ絵は、とくに関東の銭湯に特有のものです。nippon.comの記事は、関東以外ではペンキ絵がなく、モザイクタイルや白いペンキ塗りの板壁の銭湯が多いと書いています。西日本の銭湯で壁の富士山を探しても、見つからないことのほうが普通です。発祥が東京の一軒で、広めたのも東京の看板の仕組みだったのですから、うなずける話でしょう。

桶の大きさも東と西で違う

東西の差は壁だけではありません。黄色いケロリン桶には関東版と関西版があります。下の寸法は、阪神タイガースとのコラボ商品を伝えたウォーカープラスの記事(2025年)によるものです。

項目関東版関西版
直径225mm210mm
高さ115mm100mm
重さ360g260g

関西では湯船に入る前に、桶で湯をかけて体を流す風習があるため小さく作られたそうです。100グラムの差は、片手で何度も湯をくむ人にはありがたい軽さでしょう。

銭湯は1万8千軒から1,493軒に

銭湯の木の下駄箱のイラスト

ピークは1968年

全国公衆浴場業生活衛生同業組合連合会の集計では、組合に入っている銭湯は1968年(昭和43年)の1万7999軒が最多でした。2026年4月1日現在は1493軒です。半世紀あまりで、およそ12軒に1軒まで減ったことになります。壁の数が減れば、富士山を描く仕事も減るのが道理です。

絵師は数十人から3人に

かつては数十人の銭湯絵師が働いていましたが、2017年のnippon.comの記事では、銭湯の大きなペンキ絵を描く絵師は全国でわずか3人とされています。田中みずきさんは2004年に中島盛夫さんに弟子入りし、2013年に独立した、その若い一人です。

絵そのものが宣伝になる時代

広告との縁は、形を変えて続いています。大田区の銭湯には、映画の撮影をきっかけに区の依頼でゴジラの絵が4か月だけ描かれました。壁の下の小さな看板が絵の費用を出した時代から、絵そのものが町の宣伝になる時代へ。富士山を支えてきた仕組みは、いまも少しずつ姿を変えています。

銭湯の富士山は、日本の原風景が自然に壁へ現れたものではありません。掛川出身の画家の思い出。看板の広告料。浴室を明るく見せたいという職人の工夫。それらが東京の風呂屋で百年かけて塗り重ねられてきた一枚です。数年ごとに上から塗りつぶされても、次の一枚がまた同じ山を描いてきました。

参考

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