山を歩いていて仲間が「ちょっとお花摘みに」と言って草むらへ消えていく。優雅な響きですが、これは登山で「トイレに行ってくる」を指す隠語です。女性なら「お花摘み」、男性なら「キジ撃ち」。花や猟という、トイレとはおよそ縁のなさそうな言葉が、なぜ用足しを意味するのでしょうか。答えは、どちらも「しゃがんだ後ろ姿の見立て」にあります。
結論——どちらも「しゃがんだ姿」が別の何かに見えるから

先に全体像をまとめます。ふたつの言葉は使う人と由来がきれいに対応していて、覚えてしまえば混乱しません。
| 隠語 | 主に指す相手 | 由来とされる見立て |
|---|---|---|
| キジ撃ち | 男性の用足し | 薮にしゃがんで身を潜める姿が、キジを狙う猟師に似ている |
| お花摘み | 女性の用足し | しゃがんだ姿が、野の花を摘んでいる姿に見える |
どちらも「排泄」という言葉を避け、しゃがんだ格好をまったく別の行為に見立てているのが共通点です。以下、それぞれの言葉を順にたどってみましょう。
「キジ撃ち」——薮に潜む猟師の後ろ姿から

キジ撃ちは、男性が山中の屋外で用を足すこと、それを指す言葉です。鉄砲で鳥を撃つ物騒な語ですが、狙いは「姿勢がそっくりだ」という一点にあります。
キジ猟の姿勢と用足しの姿勢が重なる
キジは草むらに潜む鳥
キジは危険を感じても、すぐには飛び立たずに草むらへ身を伏せて隠れることが多いとされる鳥です。そのため猟師も、地面近くに身を低くして薮にじっと潜み、獲物を狙います。この「腰を落として草むらにうずくまる」構えが、まさに用を足すときの姿勢と重なります。
前かがみの後ろ姿が「猟」に見える
登山道から少し外れた薮の中で、人が背を丸めてしゃがんでいる。事情を知らなければ「何かを狙っているのだろうか」と見える——その見立てがそのまま言葉になったのが「キジを撃つ」です。直接的な表現を避けつつ、山という舞台にふさわしいユーモアをまとわせた言い換えなのです。
「大キジ」「小キジ」の使い分け
大便は「大キジ」、小便は「小キジ」
キジ撃ちには、さらに細かい言い分けがあります。大便を「大キジ(大雉)」、小便を「小キジ(小雉)」と呼び分けるのです。「ちょっと大キジ撃ってくる」と言えば、それだけで時間がかかることが仲間に伝わり、待つ側も心づもりができます。隠語でありながら、実用的な情報伝達も兼ねているわけです。
登山家・田部井淳子の記録にも
この言い分けは、女性初のエベレスト登頂者として知られる登山家・田部井淳子さんの著書『山の単語帳』(世界文化社、2012年)にも収められています。同書でも、キジ撃ちは男性の、花摘みは女性の屋外での用足しという整理です。興味深いことに、一般の国語辞典や隠語辞典を引いてもこれらの語はほとんど載っておらず、登山という世界の中で受け継がれてきた専門的な言い回しであることがうかがえます。
「お花摘み」——しゃがんで花を摘む見立てから

一方の「お花摘み」は、主に女性が屋外で用を足すことを指す言葉とされています。キジ撃ちが猟の見立てなら、こちらは野草を摘む見立て。同じ「しゃがむ」でも、ずいぶん印象がやわらぎます。
しゃがんだ姿が花を摘む姿に
草花に埋もれてかがむ姿の見立て
高山や野原でしゃがみこんでいる姿は、遠目には野の花に手を伸ばしているようにも見えるでしょう。実際に用を足しているのだとしても、「お花を摘んでいる」と言い換えれば、その場の空気を壊さずに席を外せます。花の咲く山道という舞台とも自然になじむ、上品な言い換えです。
直接口にしない気遣い
そもそも登山は、初対面の人と同じパーティを組むことも多いレジャーです。「トイレに行きたい」とはっきり言うのがはばかられる場面で、誰も気まずくならずに用件を伝えられる。お花摘みという言葉には、そうした仲間内の思いやりがこめられています。
お花摘みには大小の言い分けがある?
キジ撃ちほど細かく分けない
キジ撃ちには「大キジ・小キジ」の区別がありますが、お花摘みの側でそこまで細かく言い分ける例はあまり聞かれません。もともと「花を摘む」という上品な言い換えの性格上、それ以上具体的に踏み込まないほうが言葉の雰囲気に合っている、ということなのかもしれません。言葉づかいの細やかさにも、男女で少し違いが出ているのは面白いところです。
なぜ男女で言葉を分けるのか

キジ撃ちは男性、お花摘みは女性。なぜわざわざ性別で言葉を変えているのでしょうか。ここには、山ならではの実用的な事情がからんでいます。
「誰が席を外したか」を伝えるため
待つ側・見守る側の心づもり
山ではトイレのために少し離れた場所へ行くと、パーティから見えなくなります。「キジ撃ち」「お花摘み」と言い分けておけば、誰がどこへ向かったのかを、直接的な言葉を使わずに全員がそれとなく分かるのです。とくに人目を避けたい場面では、周囲がそっと視線を外すなどの配慮もしやすくなります。
言葉のトーンをやわらかく保つ
猟に見立てた「キジ撃ち」はどこか勇ましく、花に見立てた「お花摘み」はやわらかい。あくまで通説の範囲ですが、それぞれの語感が、なんとなく男性・女性のイメージと結びついて定着したという見方もできます。もっとも、使い方に厳密な決まりがあるわけではなく、場や仲間うちの慣習によって多少の揺れもあるようです。
山言葉としての広がり
登山用品店の用語集にも載る定番
これらの言葉は今も現役で、登山用品店や山岳サイトの用語集にも「雉撃ち」「花摘み」として当たり前に掲載されています。初めて聞くと戸惑いますが、山を歩く人にとっては共通言語のようなもの。知っておくと、いざ仲間が「お花摘みに」と言って消えたときにも慌てずにすみます。
そもそも、なぜ山では隠語が必要なのか

言い換えの上品さに目が向きがちですが、こうした隠語が根づいたのは、「山にはトイレがない」という切実な事情ゆえなのです。
山にトイレは驚くほど少ない
上下水道も電気もないのが山
山岳地帯には、上下水道・電気・道路といったインフラが整っていない場所が数多くあります。山小屋のトイレも数が限られ、次のトイレまで何時間もかかることは珍しくありません。だからこそ、屋外で用を足す行為そのものが登山では避けて通れず、それを口にするための言葉が必要になったわけです。
し尿がもたらす環境への影響
屋外での用足しは、環境面の問題もはらみます。し尿が水源地の水質を汚したり、用足しの跡を避けて踏み分け道が広がり、高山植物が荒らされたりといった影響が各地で指摘されてきました。近年は登山人口が増えたこともあり、こうした負荷は無視できないものになっています。
いまは「携帯トイレ」の時代へ
持ち帰りが基本マナーに
こうした背景から、人気の山を中心に「携帯トイレ」の普及が進められています。専用の袋に用を足し、使用済みのものは回収ボックスへ、あるいは自分で持ち帰るという考え方です。富士山などでは携帯トイレの利用が強く呼びかけられており、「キジ撃ち・お花摘み」の言葉が指す行為そのものが、少しずつ形を変えつつあります。
※ 携帯トイレとは、吸水シートや凝固剤の入った袋に用を足し、においや水分を閉じ込めて持ち運べるようにした登山・防災向けの用具のことです。
もう一歩——世界の「遠回しトイレ表現」

トイレを直接言わずに済ませたい気持ちは、どうやら世界共通のようです。ただし、日本の「お花摘み」のように自然の情景に重ねる言い方は、意外と珍しいものです。
英語圏はユーモアで包む
英語にもトイレを遠回しに言う表現は豊富にあります。女性が使う「powder my nose(鼻に白粉をはたいてくる)」、男性がよく使う「see a man about a dog(犬のことである人に会ってくる)」など、とぼけたユーモアで本題をぼかすのが特徴です。花や猟といった自然の情景そのものに見立てる日本の言い方とは、少し発想が違います。
「花を摘む」は日本ならではの言い換え
四季の花に恵まれ、山を歩く文化が根づいた土地だからこそ、「お花摘み」という景色に溶けこむ言い換えが生まれたのかもしれません。物騒な「キジ撃ち」と可憐な「お花摘み」が並び立つところにも、言葉遊びを楽しむ余裕がにじんでいます。用足しひとつをこれだけ風流に言い換える——山の言葉には、そんな遊び心がしっかり息づいています。
次に山で誰かが「ちょっとお花摘みに」と席を立ったら、どうか野暮なことは聞かずに送り出してあげてください。花を摘みに行った本人が、いちばんそっとしておいてほしいはずですから。


