山道の休憩中に仲間が「ちょっとお花摘みに」と言って薮へ消えていく。これは登山で用を足しに行くことを指す言い方で、女性なら「お花摘み」、男性なら「キジ撃ち」と呼び分けます。どちらも、しゃがんだ後ろ姿を別の行為に見立てた言葉です。キジ撃ちは薮に潜んでキジを狙う猟師の姿、お花摘みは野の花を摘む姿に由来するとされています。
キジ撃ちは猟師の姿から生まれた

薮にしゃがむ姿が猟師に似ている
キジ撃ちは、男性が山の中の屋外で用を足すことを指す山の隠語です。登山家の田部井淳子さんがまとめた『山の単語帳』では、キジを撃つ猟師が薮に潜む姿に似ていることが由来だと説明されています。登山道から少し外れた茂みで背を丸めてしゃがむ人は、遠目には獲物を待ち伏せしているようにも見えるわけです。
キジは草地の地面で暮らす狩猟鳥
見立ての相手にキジが選ばれたのにも、それなりの理由がありそうです。キジは草原や耕地、明るい林などにすみ、おもに地上で餌をとる鳥とされています。歩くのも走るのも得意で、長い距離は飛びません。1947年には日本の国鳥に選ばれましたが、同時に狩猟鳥でもあり、銃猟で年に数十万羽が捕られてきたと『日本大百科全書』は記しています。
地面の茂みにいる鳥を狙うなら、猟師も身を低くして薮に入るしかありません。山の人々にとって身近だった猟の構えが、そのまま用足しの言い換えに転用されたと考えると、物騒な響きにも納得がいきます。
大便は大キジ・小便は小キジ
キジ撃ちには、さらに細かい呼び分けがあります。『山の単語帳』によると、大便を「大雉(おおきじ)」、小便を「小雉(こきじ)」と言うことがあるそうです。「大キジ撃ってくる」と一言添えれば、少し時間がかかることが仲間に伝わります。待つ側も荷物を下ろして休むかどうか決めやすく、隠語でありながら実用の情報まで運んでいるのが面白いところです。
お花摘みはなぜ「花」なのか?

しゃがんだ姿が花を摘む姿に見える
お花摘みは、女性が屋外で用を足すことを指します。『山の単語帳』の説明では、由来は花を摘む姿に似ていること。草の間にかがみこむ姿は、たしかに足もとの花へ手を伸ばしているようにも見えます。キジ撃ちと同じ「しゃがむ」を見立てながら、こちらは猟ではなく花を選んだぶん、ぐっと穏やかな言葉になりました。
大小の呼び分けは記録に見当たらない
キジ撃ちには大キジ・小キジの区別がありますが、神戸市立中央図書館がまとめたこの言葉の調査記録を見ても、お花摘みの側にそうした呼び分けは出てきません。「花を摘む」という柔らかい言い換えに、大きい・小さいを付け足すとかえって生々しくなります。言葉の雰囲気を守るには、細かく分けないほうが都合がよかったのかもしれません。
なぜ男女で呼び名を分けるのか?

誰が離れたかがそれとなく伝わる
山では用を足すために道を外れると、仲間から姿が見えなくなります。呼び名が男女で違えば、誰が何のために離れたのかを、はっきり口にしなくても全員が察せます。人目を避けたい人がいる方向へ視線を向けないといった気配りも、この一言でしやすくなるでしょう。性別が分かるだけで、待つ側の心づもりはずいぶん変わります。
勇ましい猟と柔らかい花の語感
鉄砲を構える「キジ撃ち」はどこか勇ましく、野の花を摘む「お花摘み」は柔らかい響きです。それぞれの語感が、男性・女性のイメージと結びついて定着したという見方もできます。とはいえ、これはあくまで語感から見た解釈の一つです。使い分けを定めた決まりがあるわけではなく、仲間うちの習わしとして続いてきたものと言えます。
国語辞典には載っている?

大きな辞典7冊に記載なし
2017年、神戸市立中央図書館に「雉撃ち」「花摘み」の意味を辞書で調べてほしいという相談が寄せられました。図書館は『日本国語大辞典』『隠語大辞典』『日本俗語大辞典』のほか、『山のことば辞典』『山岳事典』など山の専門辞典まで当たっています。ところが調べた7冊のどれにも、この二つの言葉は載っていませんでした。
意味を示したのは『山の単語帳』
この相談で答えの根拠になったのは、田部井淳子さんの『山の単語帳』(世界文化社、2012年)の15ページにある「雉撃ち お花摘み」の項でした。女性初のエベレスト登頂者として知られる田部井さんが、山の自然や道具、登山にまつわる言葉を写真と文章で解説した小事典です。辞典の編集者より、山を歩いてきた人のほうがこの言葉をよく知っていたことになります。
山の仲間うちで受け継がれた言葉
辞典に載らないのは、この二つが登山者どうしの口づてで広まった言葉だからでしょう。文字に書かれる機会が少なく、山で一緒に歩く先輩から後輩へと伝わってきたと考えられます。俗語や隠語を集めた辞典からも漏れていたことは、それだけ山の中だけで通じる言葉だった証しとも言えそうです。
隠語が要ったのは山にトイレが無いから

山小屋は電気も水道も届かない場所にある
そもそも屋外で用を足す場面が多いからこそ、それを口にする言葉が必要になりました。環境省が山小屋のトイレ整備を補助するときの条件には、商業電力・上水道・下水道・車道のどれかが使えない場所にあることが挙げられています。山の上は、街の当たり前が届かない場所なのです。次のトイレまで何時間も歩く山域は、いまも珍しくありません。
し尿が沢の水を汚していた
百名山ブームで特定の山に登山者が集まった時代について、環境省の資料はこう振り返っています。当時の山小屋のトイレの多くはし尿を処理しないまま地面へしみ込ませるか、流してしまう方式でした。その結果、大腸菌が沢の水を汚し、周りの生き物への影響も心配されました。分解されないトイレットペーパーが山肌に残って悪臭を放っていたことも、資料に記されています。
富士山は小屋じまいの前に流していた
とくに問題になったのが富士山です。1998年ごろまでは、冬に山小屋を閉める前にたまったし尿を斜面へ流していました。これが大きく取り上げられたことをきっかけに、環境省は1999年度から山小屋のし尿処理施設の整備費の半分を補助する事業を始めます。2009年度までに全国100か所で整備が進み、富士山にも2002〜2006年度に公衆トイレが38か所つくられました。
いまは携帯トイレを持って山へ

持って行き、使い、持ち帰る
トイレを建てられない山では、登山者が自分で始末する方法が広がっています。北海道の大雪山国立公園では、山中にトイレがほとんどないのが前提です。そこで携帯トイレを「持って行き・使い・持ち帰る」よう呼びかけてきました。トムラウシ山やニペソツ山の登山口には、使用済みの携帯トイレを入れる回収ボックスも置かれています。
※ 携帯トイレとは、吸水シートや凝固剤の入った袋に用を足し、においや水分を閉じ込めて持ち運べるようにした登山・防災向けの用具のことです。
東大雪では7割が携帯トイレを持参
環境省の北海道地方環境事務所が入林簿を集計したところ、東大雪地域で携帯トイレを持っていた人の割合は70%で、前の年より5ポイント上がりました。日帰りの初中級者向けの山では60%前後にとどまる一方、トムラウシ山のような長いコースでは90%前後。南沼のキャンプ指定地に泊まった330人では99%に達し、周りのトイレ跡はごくわずかになったそうです。
隠れるために植物の上へ入らない
同じ事務所は、身を隠すために登山道を外れて植物の生えた場所へ踏み込まないよう求めています。携帯トイレ用のブースがない場所では、ポンチョや傘で目隠しをする、仲間にしばらく人の通行を止めてもらうといった工夫もすすめています。登山道の外に生える植物を守ることが、それだけ重く見られているわけです。キジ撃ちやお花摘みの「薮へ消える」姿は、少しずつ過去のものになりつつあります。
英語ではトイレをどう言い換える?

女性の「鼻におしろいをはたいてくる」
トイレを遠回しに言いたい気持ちは、英語圏も同じです。「powder one’s nose(鼻におしろいをはたく)」は、主に女性がトイレへ行くときの婉曲な言い方として使われてきました。化粧直しを口実にするあたり、上品に席を外すという点ではお花摘みと発想が近いと言えます。
「犬のことで人に会ってくる」
もう一つの有名な言い回しが「see a man about a dog(犬のことである人に会ってくる)」です。本当の用件を言わずに少し席を外すときの決まり文句で、多くはトイレの婉曲表現として使われました。禁酒法の時代には、こっそりお酒を手に入れに行く意味でも使われたとされ、いまではやや古めかしい表現です。
景色に見立てるのは山の言葉らしさ
英語の二つは、化粧直しや架空の用事といった「口実」で本題をぼかしています。それに対してキジ撃ちとお花摘みは、しゃがんだ姿そのものを山の景色の中の別の行為に見立てました。猟師が歩き、花が咲く山という舞台があってこそ成り立つ言い換えです。
キジを狙う猟師も、花を摘む人も、山道から少し外れた薮の中にいます。トイレの無い場所で用を足すという気まずい場面を、山の風景の一コマに置き換えてしまう。二つの隠語には、山を歩く人たちの照れくささと、仲間への気づかいが同時に詰まっています。
参考
- レファレンス協同データベース「山で使う言葉『雉撃ち(雉を撃つ)』『花摘み(花を摘む)』の意味を辞書で調べてほしい。」(神戸市立中央図書館)
- 田部井淳子『山の単語帳』(世界文化社、2012年)
- 環境省「山岳環境等浄化・安全対策緊急事業費補助の概要」(山岳トイレ整備の背景)
- 環境省 北海道地方環境事務所「山登りには携帯トイレを持ちましょう。」
関連記事






