ひらがなとカタカナはなぜ2種類あるのか、両方残ったのはどうして?

日本語の本を読み「あ」「い」「う」を思い浮かべる人のイラスト 言葉と論理の話
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ひらがなとカタカナが2種類あるのは、同じ「万葉仮名」から別々の目的で生まれたからです。ひらがなは漢字をくずして手紙や和歌を書き流す文字として、カタカナはお経の行間に読み方を書き込むため漢字の一部を取った文字として育ちました。受け持つ仕事が重ならなかったので、どちらも消えずに今日まで残っています。

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出発点は同じ「万葉仮名」

古い巻物のイラスト

漢字の音だけを借りて日本語を書いた

日本語にはもともと自前の文字がありませんでした。中国から漢字が伝わると、人々はその「意味」ではなく「音」だけを借りて日本語を書くようになります。たとえば山を表す「やま」を「夜麻」と書くやり方です。ひらがなもカタカナも、この書き方から枝分かれしました。

※ 万葉仮名(まんようがな)とは、漢字の意味に関係なく音だけを借りて日本語を書き表した文字の使い方です。『万葉集』に多く見られることから、この名で呼ばれます。

1音ごとに漢字1字を書く手間

万葉仮名の弱点は手間でした。1つの音を書くのに、画数の多い漢字をまるごと1字書かなければなりません。それでも奈良時代には、正倉院に残る私的な手紙や土器への落書きのように、日常のちょっとした場面でも万葉仮名が使われていました。こうした気軽な書き物が、のちのひらがなにつながっていきます。

ひらがなはどうやって生まれた?

筆で習字をする人のイラスト

漢字の草書をさらに簡単にした形

ひらがなは、万葉仮名の漢字を続け書きの草書体でくずし、それをさらに簡単にして生まれました。「安」をくずせば「あ」、「以」をくずせば「い」になります。字を丸ごと流れるように書くため、角のない曲線が多いのが特徴です。くずしかけの段階の字は「草仮名(そうがな)」と呼ばれ、ひらがなへの途中の姿にあたります。

年代のわかる最古の例は867年

ひらがなは、9世紀の中ごろに都の人々を中心に形になったと考えられています。年代がはっきりしている最古の資料は、貞観9年(867年)に讃岐国(いまの香川県)の役人だった藤原有年が書いた「有年申文(ありとしもうしぶみ)」です。漢文の文書のなかにひらがなが混じっていて、現在は東京国立博物館に所蔵されています。

宴会の土器にも書かれた「使い捨て」の文字

2014年には、京都にあった9世紀の貴族の屋敷跡(藤原良相邸跡)から、墨でひらがなを書いた土器がまとまって見つかりました。宴会などで使ったあと捨てられたものとみられます。初期のひらがなは日付も名前も書かない私的な文字で、残す必要のない場面で使われました。古い実物がとても少ないのは、そのためだと考えられています。

ひらがなは女性が作った文字なのか

和歌を詠む平安時代の女性のイラスト

初期の書き手は男性の役人や僧

「ひらがなは平安の女性が生んだ」とよく言われますが、国立国語研究所の解説はこれを退けています。誕生期のひらがなで、女性が書いたとはっきり言える資料は1つもありません。先ほどの藤原有年のほか、天台宗の僧・円珍(814〜891年)が病床で書いた手紙の末尾にもひらがなの文があります。作り手は、漢字を使いこなせる男性たちだったとみるのが今の考え方です。

「女手」の呼び名は後から定着した

それでもひらがなには「女手(おんなで)」という別名があります。公の文書を漢字で書くのが男性の役目だった時代に、女性は和歌や手紙でひらがなを盛んに使いました。やがて宮仕えの女性たちの日記や物語が生まれ、『源氏物語』や『枕草子』へと実を結びます。女性のイメージは、文字が成熟したあとに重なったものだったわけです。

『古今和歌集』で公の場へ

私的な文字だったひらがなが表舞台に立ったのは、905年に天皇の命で編まれた『古今和歌集』からとされます。和歌を仮名で記す勅撰集が出たことで、ひらがなは公の地位を得ました。30年ほどのちには紀貫之が、女性の筆を装ってひらがなの『土佐日記』を書いています。男性がわざわざ女性のふりをしたところに、当時の書き分けの意識が見て取れるでしょう。

カタカナはお経の行間で生まれた

説法する僧侶のイラスト

奈良の寺の学僧が読み方を書き込んだ

カタカナの始まりは、平安時代の初めに奈良の大寺院で学んでいた僧たちだと考えられています。中国語で書かれたお経を日本語の語順で読むため、彼らは字の横や行のあいだに読み方や助詞を書き込みました。この書き込みを「訓点(くんてん)」と呼びます。せまい余白に小さく速く書くには、万葉仮名はあまりに画数が多すぎました。

漢字の一部だけを取り出す

そこで僧たちは、漢字の一部分だけを取って音の印にしました。「阿」から「ア」、「伊」から「イ」、「宇」から「ウ」という具合です。もとから画数の少ない字は、そのまま使われました。「千」が「チ」に、「二」が「ニ」に、「八」が「ハ」になったのがその例です。全体をくずしたひらがなとは、作り方が正反対でした。

最初は人によって字の形がばらばら

カタカナは誰か1人の発明ではありません。僧たちがそれぞれ自分用のメモとして使い始めたため、10世紀の中ごろまでは同じ音に違う形の字がたくさんありました。その違いは平安時代の後期にかけて少しずつ整理され、12世紀ごろにはいまの形に近い字体にまとまっていきます。

どちらか1つにまとまらなかったのはなぜ?

六法全書のイラスト

書き流す文字と書き込む文字

筆を止めずに文章を書き流すための文字、それがひらがなでした。カタカナは漢文に読みを小さく書き添える、いわば注釈用の文字です。同じ音を表していても、求められる性質がまるで違いました。和歌や物語を書く人はひらがなを、お経や漢籍を読む人はカタカナを使い、両者がぶつかり合う場面はほとんどなかったのです。

漢字とカタカナの文は役所や学問の言葉に

訓点から育ったカタカナは、漢字と組み合わせて硬い文章を書く文字にもなりました。漢文を読み下した調子の「漢字カタカナ交じり文」は、学問の本や公の文書に長く使われます。戦前の法律も、この書き方の文語体でした。ひらがなが柔らかい和文、カタカナが硬い漢文寄りの文という分担が、千年近く続いたことになります。

法律がひらがなになったのは1946年

この分担が大きく変わったのは戦後です。1946年4月、政府はGHQや閣議の了解を得て、新しい憲法の草案をひらがなの口語体で書くことを決めました。作家の山本有三が前文などの素案づくりに協力し、4月17日に草案が発表されます。カタカナ交じりの難しい法令を改めたいという声は戦前からあり、憲法を皮切りにほかの法令もひらがなへ移っていきました。

外来語をカタカナで書くのはいつから?

外国人と通訳をはさんで話す人たちのイラスト

江戸時代までは漢字やひらがなで

いまでは外来語といえばカタカナですが、昔からそうだったわけではありません。江戸時代までは外来語の数が少なく、日本語になじむと漢字やひらがなで書かれました。「煙草(たばこ)」や「襦袢(じゅばん)」がその例で、いまも漢字やひらがなで書かれることがあります。語の出どころで文字を使い分ける学者もいましたが、珍しい例でした。

明治の翻訳小説で増えたカタカナ表記

外来語をカタカナで書くことが増えたのは明治に入ってからです。たとえばジュール・ヴェルヌの『八十日間世界一周』を訳した1888年の本では、「(セリー)酒」「(ポルト)酒」のように括弧付きのカタカナが使われています。一方で「小絨(フランネル)」のように漢字に読みを振る書き方も残っていました。大正・昭和になると、新しい外来語を漢字で書くことはほとんどなくなります。

カタカナは「目立たせる」ための文字

国立国語研究所の解説によると、カタカナには「この語は特別だ」と目立たせる働きがあります。外来語のほか、「ニャー」のような擬音語や、図鑑の動植物名にも使われるのはそのためです。漢文の訓点では、固有名詞に線を引いて目立たせる工夫がありました。カタカナで外来語を際立たせるのは、その原理を受け継いだものだと説明されています。

昔は「あ」が何種類もあった

筆と硯など書道の道具のイラスト

同じ音に別々の元の漢字

長いあいだ、ひらがなには1つの音に何通りもの字がありました。「あ」なら「安」をくずした字のほかに、「阿」や「愛」をもとにした形も使われていたのです。元になった漢字が違えば、同じ「あ」でも見た目はまったく別の字になります。明治の半ばまでは、こうした字が日常の手紙や本にごく普通に混じっていました。

1900年の小学校令で1音1字に

今の形にそろえたのは、1900年(明治33年)の「小学校令施行規則」とその第一号表です。学校で教えるひらがなを1つの音につき1つの字に絞り、カタカナの字体も同じときに定まりました。ただ当時の出版社のなかには、活字を組むときに古い形の字を混ぜてしまうところもあったといいます。新しい決まりが行き渡るまでには、少し時間がかかりました。

選ばれなかった字は「変体仮名」に

このとき選ばれなかったひらがなは「変体仮名(へんたいがな)」と呼ばれるようになりました。いまでも老舗のそば屋ののれんや看板で、「そば」を古い字で書いたものを見かけることがあります。私たちが見なれた「あいうえお」は、120年あまり前に数ある候補から選ばれた形なのです。

名前に残る「平」と「片」の意味

「漢字」と書かれた文字のイラスト

平仮名の「平」は角がなくやさしい

ひらがなは漢字で「平仮名」と書きます。『日本国語大辞典』によると、この「ひら」は角がなく、だれにでも分かりやすいという意味です。「かな」は「かりな(仮の字)」が変わった言葉で、正式な字である漢字に対する呼び名でした。くずして書きやすくした仮の字、というのが名前の中身になります。

片仮名の「片」は一部分

カタカナの「片」は、完全でないこと・一部分であることを表します。漢字の全体ではなく、へんやつくりなど一部だけを取って作った仮名だから「片仮名」です。「片手」「片言」の「片」と同じ使い方だと考えると、覚えやすいかもしれません。2つの名前には、それぞれの作り方がそのまま書き込まれています。

空海と吉備真備の発明という伝説

江戸時代まで、ひらがなは空海が、カタカナは奈良時代の学者・吉備真備(きびのまきび)が作ったと広く信じられていました。空海説は、いろは歌の作者を空海とする俗説から広がったものです。ただ、いろは歌の成立は11世紀ごろとされ、空海の生きた時代とは合いません。どちらの文字も、多くの人が使ううちに形になったと今は考えられています。

同じ祖先から出たひらがなとカタカナ。片方は手紙や和歌の紙の上で、もう片方はお経の行間で育ちました。どちらかが勝ち残る必要がなかったからこそ、2つの文字は千年以上も並んで使われてきたのです。「ねこがニャーと鳴く」と書くたび、私たちは平安の書き手と僧たちの工夫を、1つの文の中で使い分けていることになります。

参考

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