「肴(さかな)」という字に、魚偏は入っていません。部首は「肉」です。
酒の席に出るものを「さかな」と呼ぶのは、魚が多いからだと思われがちです。ところが、順番は逆でした。先にあったのは「酒(さか)」と「菜(な)」を足した言葉のほうで、そこには野菜も木の実も、さらには歌や踊りまで含まれていたとされています。魚が「さかな」の座を奪ったのは、ずっとあとの話です。
いつ、何を「さかな」と呼んでいたのか

言葉の意味は、千年かけてゆっくり移動することがあります。「さかな」はその見本のような語なので、まず移動の順路を年表にしておきます。
| 時期 | 「さかな」が指していたもの | 「魚」の側の動き |
|---|---|---|
| 奈良時代ごろ | 酒に添えて食べるもの全般(酒菜) | 魚は「うお」「いを」と呼ばれていた |
| 室町時代ごろまで | 酒席に出る食べ物に加え、歌・踊り・話題などの余興も | 魚は引き続き「うお」 |
| 江戸時代ごろ | 酒席の主役だった魚そのものを指す用法が広がる | 「うお」と「さかな」が並び立つ |
| 1948年(昭和23年) | —— | 当用漢字音訓表の「魚」は「ギョ」「うお」だけ |
| 1973年(昭和48年) | —— | 音訓表の改定で「さかな」が「魚」の訓に加わる |
魚を「さかな」と読むのは、国の表記の目安のうえでは半世紀ほどの歴史しかありません。私たちが当たり前に使っている読みは、意外なほど新しい住人なのです。
「さか」と「な」に分けると、意味が見えてくる

「さかな」は「酒(さか)」と「菜(な)」を組み合わせた語だとされています。二つに割って、それぞれの正体を見ていきます。
「さか」は酒屋・杯と同じ「さか」
「さけ」は複合語になると「さか」に化ける
酒屋(さかや)・杯(さかずき)・酒盛り(さかもり)・酒場(さかば)。どれも「さけ」ではなく「さか」で始まります。日本語では、語のうしろに別の語がくっつくと前の語の母音が入れ替わることがあるためです。「さかな」の「さか」も、この仲間だと考えられています。
※ 転音(てんおん)とは、二つの語が結びついて一語になるとき、前の語の母音が別の音に変わる現象のことです。母音交替とも呼ばれます。
雨具・船旅・風上と同じ仕組み
同じ変化は身のまわりに散らばっています。雨(あめ)は雨具(あまぐ)や雨戸(あまど)へ、船(ふね)は船旅(ふなたび)へ。風(かぜ)が風上(かざかみ)、金(かね)が金物(かなもの)になるのも同じ型です。木(き)から木立(こだち)も同様。
つまり「さかな」の頭には、まぎれもなく酒が乗っています。魚は、この時点ではまだどこにも出てきません。
「な」はおかず全部をまとめて指す言葉だった
菜っ葉・惣菜に生き残っている「な」
「な」は「菜」の字を当てられる語で、主食に添える副食物をまとめて指しました。青菜・菜っ葉・惣菜(そうざい)といった語に、その用法がそのまま残っています。関西で今も使われる「お菜(おさい)」も同じ流れです。
古い時代の「な」は、魚も野菜もひとまとめ
注意したいのは、この「な」が野菜専用の語ではなかった点です。上代(じょうだい/奈良時代ごろまで)の「な」は、魚であれ野菜であれ、飯や酒に添えるものを広く覆う言葉でした。だからこそ「酒の菜」は、干した貝でも木の実でも成り立ったわけです。
「主食ではないもの」という、ずいぶん大ざっぱなくくり。そのゆるさが、のちの意味の引っ越しを可能にしました。
室町のころは、踊りや噂話まで「さかな」だった

室町時代ごろまでの「肴」は、魚肉に限らない使い方が一般的だったとされています。それどころか、食べ物ですらないものまで肴と呼ばれていました。
出陣の肴は、鮑と栗と昆布
式三献という酒の作法
室町期の武家には、酒を三度ずつ三回に分けて飲む「式三献(しきさんこん)」という作法がありました。出陣のときに添えられた肴は、打鮑(うちあわび)・勝栗(かちぐり)・昆布の三品です。宮中の儀式から武家へ広がり、婚礼や接待の席でも重んじられました。
「打って・勝って・喜ぶ」の語呂合わせ
この三品が選ばれた理由は味ではありません。打鮑の「打つ」、勝栗の「勝つ」、昆布の「よろこぶ」を並べた縁起担ぎだと言われています。鮑は貝、栗は木の実、昆布は海藻。三つそろって、魚は一匹も含まれていません。
食べ物ですらない「肴」
肴謡・肴浄瑠璃という言葉
酒席に興を添える謡や浄瑠璃は、肴謡(さかなうたい)・肴浄瑠璃と呼ばれました。皿の上に乗っていなくても、酒をうまくするものであれば肴だったのです。踊りも同様に扱われています。
「噂を肴に」は古い用法の生き残り
今も「人の噂を肴に飲む」「思い出話を肴にする」という言い方をします。あれは比喩として新しく生まれた表現ではなく、食べ物以外も肴と呼んだ時代の用法が、そのまま化石のように残ったものです。日常語のなかに、室町の宴席がひとつ埋まっている計算になります。
「肴」の字は中国から来た
部首は魚ではなく「肉」
「肴」は中国で作られた漢字で、火を通した鳥獣や魚の肉、ごちそうを意味しました。音読みはコウ。酒肴(しゅこう)・佳肴(かこう)といった熟語に、その意味が残っています。部首は肉部(にくづき)で、音を担う「爻」と肉を組み合わせた字だと説明されます。日本語の「さかな」という和語に、あとからこの字が当てられたという順序です。
常用漢字表には載っていない字
これだけ日常的な語でありながら、「肴」は常用漢字表に入っていません。人名用漢字には含まれ、漢字検定では準1級の範囲です。居酒屋の品書きで見かけるわりに、新聞や教科書ではあまり出会わない字だったわけです。
江戸で「さかな=魚」に傾いた

「さかな」が魚そのものを指すようになったのは、江戸時代ごろだとされています。言葉が変わったというより、酒席に並ぶ皿の中身が変わったことが先でした。
酒席の主役が魚になった
刺身と焼き魚が食卓の中心へ
江戸では醤油が広まり、流通の発達とあわせて魚介が身近な食材になっていきました。刺身や焼き魚が酒の相手として定番の位置を占めるようになります。肴として出されるものの多くが魚介であれば、両者を区別する必要はだんだん薄れていきます。
言葉が中身に引っ張られる
「肴を持ってきて」と言えば魚が出てくる。それが何十年も続けば、聞き手のなかで「肴」と「魚」は同じ引き出しに入ります。よく出てくる中身が、器の名前を乗っ取ってしまう。調理器具だった「鍋」が料理名にもなったのと、方向としては同じ動きです。
広がったのではなく、狭まって移った
もとの意味のほうが広い
語の意味が変わるとき、範囲が広がる場合と狭まる場合があります。「さかな」は後者です。酒に添えるもの全部という広い範囲から、そのなかの代表選手だけに焦点が絞られました。もとの意味を知ると、現代の用法のほうが窮屈に見えてきます。
二つの意味は今も同居している
おもしろいのは、古い意味が追い出されていないことです。「今日のさかなは鰤(ぶり)」と言えば魚のことですが、「枝豆を肴に一杯」と言えば魚ではありません。同じ音の語が、千年ぶんの意味を二つ抱えたまま使われ続けています。
では「うお」はどこへ行ったのか

「うお」は消えたわけではなく、特定の場所に残りました。残り方には、はっきりした偏りがあります。
今も現役の「うお」
魚河岸・魚市場・うお座
魚河岸(うおがし)、魚市場(うおいちば)、星座のうお座。いずれも「さかながし」とは読みません。古い時代に定着した複合語や固有名詞では、「うお」がそのまま化石化しています。「魚心あれば水心」ということわざも同じです。
地名と部首名にも残っている
新潟の魚沼(うおぬま)、富山の魚津(うおづ)といった地名も「うお」です。魚偏の部首名についても、漢和辞典では「うおへん」と読むのが一般的で、「さかなへん」の呼び方も併用されています。看板や地図に刻まれた読みは、流行に流されにくいのです。
生き物は「うお」、食べ物は「さかな」
語源がニュアンスとして残る
川を泳いでいるものは「うお」、皿に乗っているものは「さかな」。そんな使い分けの感覚があると言われます。「さかな」がもともと食べる側の言葉だったことを思えば、この住み分けは筋が通っています。語源は消えても、手ざわりだけが残るという例です。
国語施策が追いついたのは1973年
1948年に告示された当用漢字音訓表では、「魚」の読みは「ギョ」と「うお」だけでした。「さかな」が加わったのは1973年の改定で、現行の常用漢字表にも引き継がれています。江戸から数えれば二百年以上あとに、公式の表がようやく実態に追いついた形です。
※ 当用漢字音訓表(とうようかんじおんくんひょう)とは、日常で使う漢字の読み方の目安として国が示した表のことです。のちの常用漢字表に引き継がれました。
「あて」「つまみ」——呼び名は東西で分かれた

酒に添えるものの呼び名は、「肴」ひとつではありません。地域と時代によって、別の言葉が育ちました。
| 呼び名 | 主に使う地域 | 由来とされるもの | 指す範囲の感覚 |
|---|---|---|---|
| 肴(さかな) | 全国 | 酒(さか)+菜(な) | 酒と合わせる料理全般。やや改まった語感 |
| あて | 近畿を中心とした西日本 | 酒に「あてがう」もの | 小皿の珍味やお通しに使われやすい |
| つまみ | 全国(江戸で広まったとされる) | 手で「つまむ」もの | 手軽に口へ運べるもの |
上方の「あて」
酒に「あてがう」から
「あて」は、酒にあてがうおかず、という意味から生まれた語だとされています。芝居や浄瑠璃に関わる人たちの隠語だったという説も伝わります。京都や大阪の店で「本日のあて」と書かれていたら、それは酒に寄り添う小皿のことです。
近畿を離れると通じにくい
「あて」は方言的な広がり方をした語で、全国どこでも通じるわけではありません。近畿を離れると、酒の席の言葉として受け取ってもらえないことがあります。同じ皿を指しているのに、県境をまたぐと言葉のほうが先に伝わらなくなるわけです。
江戸の「つまみ」
箸を使わず口へ運べるもの
「つまみ」は「つまむ」から来た語で、手でつまんで食べられる軽いものを指しました。枝豆、するめ、豆菓子。腰を据えて食べる料理ではなく、酒の合間に手が伸びるものというニュアンスがあります。
三つの言葉の境目は薄れている
現在では、肴・あて・つまみはほぼ同じ意味で使われることが増えました。「今日のつまみ」に煮込みや天ぷらが出てきても、誰も違和感を持ちません。言葉の輪郭がぼやけていく過程を、私たちは今まさに目撃していることになります。
「な」の正体には、別の説もある

ここまで「酒菜」説を軸に説明してきましたが、語源の世界に確定はつきものではありません。「な」が何だったのかについては、少数ながら別の見方も残っています。
「な」は魚のことだとする説
古い文献には、食用にする魚を「な」と呼んだ例があります。そこから「さかな」は「酒魚」の意だったとする見方が生まれました。ただ、上代の「な」がもともと副食物全般を覆う語だったことを踏まえると、魚だけを取り出す解釈にはやや無理があるとも指摘されます。
「なぐさむ」の「な」とする説
酒席を慰める、楽しませるという意味の「なぐさむ」に結びつける説もあります。食べ物以外の余興まで肴と呼んだ事実とは相性がよい説明です。もっとも、音の対応を示す材料は乏しく、一般には酒菜説が有力とされています。
語源に「唯一の正解」を求めない
複数の説が並ぶとき、どれかを正解に決めたくなります。けれども語源は、記録の残っていない口語の領域で起きた出来事です。有力な説と、退けられていない別説。その両方を抱えておくほうが、言葉の実像には近いのかもしれません。
魚が「さかな」の名を手に入れたのは、料理が上手だったからでも、栄養があったからでもありません。単に、酒の席にいつもいたからです。名前は、そこにいる時間の長さで決まっていきます。
この先、酒の席の主役がまた入れ替わることもあるでしょう。そのとき「さかな」という言葉が何を指すことになるのかを決めるのは、辞書ではなく、その日その席で杯を傾けている人たちのほうです。
関連記事



