割り箸はなぜ根元がつながっているのか、わざわざ割る形にしたわけ

モノと道具の話
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割り箸の根元がつながっているのは、「この箸はまだ誰も使っていません」と目で見せるためだったと説明されています。江戸の鰻飯屋(うなぎめしや)が、洗う手間の代わりに思いついた形だという見方です。

言われてみれば、二本を最後までつなげておく理由は他に見当たりません。運びやすさなら束ねれば済みますし、割る手間は客に押しつけることになります。それでも「二本つながったまま出す」という一点は、二百年ちかく変わっていません。いつからあるのか、なぜ二本つながっているのか、どう割ればきれいに割れるのか。順にたどってみましょう。

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一膳の割り箸について、答えと出どころを先に置く

この記事で追いかける問いは五つ。答えだけを並べても「本当だろうか」が残るので、どの資料がそう言っているのかを横に添えました。

問いいまのところの答え出どころ
いつからある江戸後期の文政(1818〜30)ごろ、三都で使われ始めた『守貞謾稿』
言葉はいつから1709年の出納簿に「わりばし」の文字がある近世の帳簿記録
なぜ割る形か未使用であることを客に見せるため江戸料理・文化研究家の説明
「元禄」の名前は金を減らした元禄小判になぞらえた呼び名箸業界の由来説明
きれいに割るには横に寝かせ、上下に開く作法・マナーの解説

五つのうち、いちばん資料が食い違うのが最初の「いつから」です。そこから始めます。

「わりばし」はいつからあるのか——資料ごとに答えがずれる

いちばん具体的に年代を書き残しているのは、江戸の風俗を細かく記録した『守貞謾稿(もりさだまんこう)』です。

文政のころ、三都の鰻飯屋で

書き留められた一文

『守貞謾稿』には、鰻飯には「必ず引裂箸を添ふる也。この箸文政以来ころより三都ともに始め用ふ」とあります。三都とは江戸・大坂・京のことで、文政年間はおよそ1818年から1830年にあたります。当時は「割り箸」よりも引裂箸(ひきさきばし)という呼び名のほうが通っていました。

名のある店は使わなかった

同じ記録には、鰻飯屋以外の食べ物屋でも使うけれど「名のある店は使わない」という趣旨の一節もあります。つまり登場したころの割り箸は、格の高い店が避ける安価な箸でした。丁寧なもてなしの記号として高級な割り箸が出てくるのは、ずっとあとの話になります。

それより百年ちかく早い帳面の記録

1709年の出納簿にある三文字

ところが、1709年(宝永6年)に書かれた出納簿のなかに「杦(すぎ)はし」「はし」と並んで「わりばし」が記されている、という指摘があります。文政より百年ちかく前です。この帳面の「わりばし」が今と同じ形だったのかまではわかりませんが、言葉そのものは江戸中期にすでにあったことになります。

明治生まれとする説明もある

いっぽう農林水産省の広報誌は、割り箸を「明治時代にスギの端材を活用するために生まれた」ものと紹介しています。竹の引裂箸と杉の割り箸を、別々の起点として数えているのでしょう。江戸中期・江戸後期・明治と三つの答えが並ぶのは、どれかが誤りだからではありません。数えている対象が違うのです。

竹から杉へ、材料が入れ替わる

最初の使い捨て箸は竹だった

引裂箸は竹製でした。竹は繊維がまっすぐ通っていて、割れ目が横へ逃げにくい材です。刃を入れて途中で止めておけば、手で引き裂ける箸ができます。名前の「引裂」は、まさにその作り方と使い方から来ています。

吉野の樽づくりが出した余り

杉の割り箸の産地として知られるのが、奈良県吉野郡の下市町(しもいちちょう)です。町の説明では、酒樽の材料である樽丸を取ったあとの端材が捨てられるのを惜しんで考案されたとされています。1862年(文久2年)に巡礼僧の杉原宗庵(すぎはらそうあん)が製法を提案した、という伝えも残ります。町には、南北朝のころ里人が後醍醐天皇に杉箸を献上したという言い伝えまであるそうです。

樽丸(たるまる)とは、酒樽の側板にするために杉の丸太を割って作った材のことです。吉野の杉は節が少なく木目が細かいため、水の漏れにくい樽材として重宝されました。

なぜ、わざわざ「割る」形にしたのか

二本をつなげたまま出す形は、使い勝手の面ではむしろ不便です。それでもこの形が選ばれた理由として語られるのが、清潔さの証明でした。

洗う手間の代わりになった形

混みすぎて箸が洗えない

江戸料理・文化研究家の車浮代さんは、割り箸を考え出したのは鰻屋だったと説明しています。客が押し寄せて箸を洗うのが追いつかず、そこで生まれたのが竹製の引裂箸だったという流れです。洗わずに済ませる代わりに、店には別の問題が残りました。

「使い回していない」を目で見せる

洗っていない箸を出せば、客は前の人が使ったものではないかと疑います。根元がつながっていれば、その疑いはひと目で消えます。割られていない箸は、誰の口にも入っていない箸だからです。二本が離れないという一点だけで証明が済む、というのがこの説明の骨組みです。

割る動作そのものが粋になった

片手に丼、歯で割る

江戸後期には、鰻飯の丼を片手に持ち、もう一方の手と歯で箸を割る仕草が江戸っ子らしい振る舞いとして語られたと伝えられます。食べ始めの数秒が、そのまま所作として見られていたわけです。使い捨ての道具に作法が生まれるのは、けっこう早い段階だったことになります。

いまは避けたい割り方

もっとも現在の作法では、歯を使う割り方も、箸を縦に立てて左右へ大きく開く割り方も勧められていません。ひじが張って隣の席に当たる恐れがあるためです。粋とされた所作が、いまは行儀の悪い所作に入れ替わっています。

同じ発想は身のまわりに残っている

封を切らせて安心を渡す

ペットボトルのキャップを外すときのプチッという音。おしぼりの袋。ホテルのグラスにかぶせてある紙のふた。どれも「あなたが最初です」を伝えるための仕掛けで、割り箸の根元と発想は同じです。開ける手間を客に渡すことで、店は説明の手間を省いています。

丁六・小判・元禄・利久・天削——五つの型がある

割り箸は明治から大正にかけて、おおまかに五つの型が出そろいました。名前は聞き慣れなくても、どれも見たことのある形です。

形の特徴登場した時期よく使われる場面
丁六(ちょうろく)断面は長方形のまま。面取りも溝もない明治10年ごろ弁当・持ち帰り
小判(こばん)四方の角を落として断面を小判形に明治10年ごろ日常づかい
元禄(げんろく)角を落とし、割れ目に溝を入れる明治20〜30年代いちばん流通している型
利久(りきゅう)中央が太く両端が細い。両側が使える明治末期ごろ会席・もてなし
天削(てんそげ)持ち手の端を斜めに削り、木目を見せる大正5年ごろ高級店・慶事

丁六と小判——削るかどうかだけの違い

丁六の名は「ちょうど六寸」

丁六は、長さがちょうど六寸(約18センチ)であることから来た呼び名とされます。角を削らず、割れ目に溝も入れません。コンビニの弁当に付いてくるあの箸が、この型です。加工が少ないぶん安く作れます。

角を落とすと小判になる

小判は、丁六の四方の角を削り落とした型です。断面が小判のような形になることが名前の由来と説明されています。この二つは、明治10年ごろに下市の寺子屋の教師だった島本忠雄が考案したと伝えられています。

元禄——金を減らした小判から借りた名前

元禄小判とは何だったのか

元禄小判は、1695年(元禄8年)から通用した小判です。勘定吟味役の荻原重秀(おぎわらしげひで)が主導した改鋳によって、金の割合は規定で約57パーセントまで下がりました。それ以前の慶長小判は8割台とされます。重さは17.76グラムで据え置かれたため、手に持った感じは変わらないまま中身だけが減りました。

木を減らした箸に、同じ名が付いた

元禄箸は、小判型の角をさらに削り、割れ目にも溝を入れて木の量を減らした型です。中身を減らした小判になぞらえて「元禄小判」と呼ばれ、のちに「元禄」と縮まったと説明されています。倹約の記号だった名前が、いまではいちばん見かける割り箸の名前になりました。

利久と天削——もてなしのための形

「休」を嫌って「久」と書く

利久箸は中央が太く両端が細い形で、千利休が考案した箸をもとにしたと言われます。ところが商売で使う道具に「休」の字は縁起が悪い。そこで店が休まず永く続くようにと、「久」の字を当てたと説明されています。明治末に下市の小間治三郎が考案したとする資料が多い一方、下市町は安政年間(1855〜60)の考案としており、年代はそろっていません。

天を斜めに削ると木目が出る

天削は、持ち手側の端(天)を斜めに切り落とした型です。斜めの断面には木目が大きく現れるので、材のよさがそのまま見えます。杉の柾目を使った杉柾天削は最高級品とされ、大正5年ごろに樽丸の余材から発達したと伝えられています。

きれいに割れる箸と、割れない箸がある

割り箸が斜めに裂けてしまうのは、力の入れ方だけの問題ではありません。箸の型と木の性質が、かなりの部分を決めています。

溝があるかどうかで難易度が変わる

元禄の溝は割れ道の案内

元禄箸の割れ目に入った溝は、木の量を減らすためだけのものではありません。溝が端まで通っていると、そこに力が集まって割れ目が最後まで導かれます。牛乳パックの折り目や板チョコの溝と同じ役目です。

丁六には案内がない

いっぽう丁六には溝がありません。割れ目のきっかけが浅いため、力の向きがずれると割れが横へ流れます。弁当の箸ばかり失敗する気がする、というのは気のせいではないわけです。

力のかけ方を変えてみる

縦に開かず、横に寝かせて上下へ

作法の解説でよく勧められているのは、箸を横向きに寝かせて持ち、上下に開くように割る方法です。下の一本を利き手でしっかり支え、上の一本をゆっくり引き上げます。縦に立てて左右へ開く割り方は、勢いがついて両手が大きく広がりがちです。

膝の上で、静かに

割る位置をテーブルの上ではなく膝のあたりに下げると、隣の席に手が当たる心配が減ります。片方の手にだけ力が入ると、割れ目は強いほうへ寄っていくのです。急がずゆっくり引くほうが、結果として速く終わります。

失敗の理由は木の側にもある

繊維が斜めに走っていると割れが逃げる

木は繊維の方向に沿って裂けます。割り箸は繊維が縦に通るよう木取りされていますが、材によっては繊維がわずかに斜めを向いているのです。そうなると割れ目は溝を離れ、繊維のほうへ曲がって進みます。うまく割れない一膳に当たったときは、腕よりも木目を疑ってよさそうです。

ささくれをこすり合わせない

割ったあとに二本をこすり合わせる人は多いのですが、マナーの解説ではこれを避けるよう書かれています。安物の箸を出されたと言っているように見えるため、というのがその理由です。気になるささくれは、指でつまんで取り除きます。

豆知識:「割り箸は森林破壊」は、国産と輸入で別の話になる

1980年代から1990年代にかけて、割り箸は使い捨ての象徴として批判されました。ただし国産と輸入品では、木の出どころがまるで違います。

国産は建築材を取ったあとの残りから

背板と間伐材が原料になる

吉野の割り箸は、植えた杉を建築用に製材したあと、外側に残る利用度の低い背板(せいた)から作られています。箸のために木を伐るのではなく、伐った木の使い残しを箸にしている形です。間伐材を使うものも多く、原料としては端材の再利用にあたります。

工場は十数年で七割が消えた

国産の割り箸工場は、1993年には全国で359あったとされます。それが2009年には99にまで減りました。安価な輸入品との価格差が理由で、環境批判が落ち着いたころには産地のほうが細っていたことになります。

輸入品は別の木でできている

アスペン・シラカバ・竹

日本で使われる割り箸の大半は輸入品で、中国産が大きな割合を占めます。材料はアスペン(ヤマナラシ)やシラカバ、竹などです。杉の端材から作る国産の話をそのまま輸入品に当てはめられないのは、この違いがあるためです。

輸入量はピークの半分近くまで減った

貿易統計をまとめた資料によると、割り箸の輸入量は2005年の254億膳あたりを頂点に、2024年には約129億膳まで減っています。2006年前後には中国側の税制変更を理由に値上げが相次ぎ、プラスチック箸へ切り替える外食店も出ました。減った理由は環境意識だけではないわけです。

割り箸は、手間を省くために生まれた道具です。洗う手間をなくし、返す手間をなくし、片づける手間もなくしました。それでもたった一つ、割るという手間だけは客の側に残しています。

残されたその数秒は、もともと店から客への短い挨拶のようなものでした。この箸は誰も触っていません、と手渡しで伝える方法が他になかったからです。次に袋から出した一膳がうまく割れなくても、二百年前の約束が指先に残っていると思えば、少しは腹も立たないかもしれません。

参考

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