校歌は学校が勝手に作れる歌ではなかった——1945年まで、歌詞と楽譜を文部省へ出して認可を受けていた

歴史と変遷の話
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校歌は、学校が思い立てば作れる歌ではありませんでした。1945年まで、新しい校歌を定めるには作詞者名・作曲者名・歌詞・楽譜、さらに「歌詞の説明」を添えて文部省へ申請する必要がありました。認可を受けて、はじめて正式な校歌として認められたとされています。

いま思い浮かべる校歌は、たいてい山や川の名前から始まります。あの形がどこから来たのかをたどっていくと、行き着くのは明治の役所に積まれた書類の束でした。

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  1. 学校が決められたこと、国が握っていたこと
  2. 校歌より先に、儀式の歌があった
    1. 1891年の儀式規程が出発点だった
      1. 祝日大祭日に式を開くことが義務になった
      2. そこで歌う唱歌は、学校が選べなかった
    2. 1893年に告示された8曲
      1. 君が代・勅語奉答・一月一日など
      2. 「学校の歌」ではなく「日付の歌」だった
  3. 校歌は、作るたびに認可を受ける歌だった
    1. 何を添えて出していたか
      1. 歌詞と楽譜、そして「歌詞の説明」
      2. 道府県を経由して文部省へ届いた
    2. 認可を受けた最初の校歌
      1. 1893年、東京市下谷区忍岡尋常高等小学校
      2. 「日本最古の校歌」がはっきりしない理由
  4. 同じ歌詞の校歌が、いくつもの学校で歌われていた
    1. 学校ごとに違う歌になるまで
      1. 「校歌」という名前の共通の一曲
      2. 長崎県では、ほぼ同じ歌詞の校歌が複数の学校に
    2. 東京音楽学校への注文が個別化を進めた
      1. 1907年から1945年までに456件
      2. 1930年以降に依頼が急増した
  5. 山と川ばかり出てくるのは、校歌が郷土の歌になったから
    1. 数えてみると、本当に多い
      1. 中学校300校の歌詞で目立つ言葉
      2. 弥彦山は14校、大分では約半分が山の語で始まる
    2. 郷土教育が校歌を地域の歌にした
      1. 大正期に、学校の周りの風景が歌詞へ入った
      2. 1930年ごろ、地域の人も歌う「郷土歌」に
  6. 学校は、誰に聞かせるために校歌を作ったのか
    1. 依頼状から読み取れる動機
      1. 「優れた校歌」を手に入れたい
      2. 式典で、学校の外の人に披露するため
    2. 校歌は、学校の自己紹介だった
      1. 環境と徳目を結びつけて独自性を出す
      2. 土地の名前が必要になる仕組み
  7. 校歌と呼ばない学校、校歌が全国に流れる日
    1. 大学では、呼び名も有無もばらばら
    2. 甲子園という、いちばん大きな発表の場
    3. ポップ調の校歌と、統廃合で残る歌
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学校が決められたこと、国が握っていたこと

校歌の歩みは、年表として並べるより「どこまでが学校の裁量だったか」で切ったほうが見通せます。同じ時期でも、決められる部分と決められない部分がはっきり分かれていました。

時期学校が決められたこと国が握っていたこと
1891年
(明治24)
式の進め方の細部祝日大祭日に式を行う義務。式で歌う唱歌は事前の認可制
1893年
(明治26)
——式で歌う8曲を告示。曲目そのものを国が指定
1894年
(明治27)
学校独自の歌を作ること自体校内で歌う唱歌はすべて文部大臣の認可が必要に
1907〜
1945年
誰に作詞作曲を頼むか。歌詞に何を詠み込むか認可申請は継続。書類を通らなければ校歌ではない
1945年
以降
制定も改訂も廃止も学校の裁量認可制は消滅

右の列が空になるまでに、およそ半世紀かかりました。校歌が「その学校のもの」になるのは、意外なほど新しい出来事です。

校歌より先に、儀式の歌があった

順番でいえば、学校の歌より式典の歌が先です。校歌という仕組みは、儀式のために用意された唱歌の枠組みに後から乗るかたちで広がりました。

1891年の儀式規程が出発点だった

祝日大祭日に式を開くことが義務になった

1891年6月17日、文部省令第4号として小学校祝日大祭日儀式規程(しゅくじつたいさいじつぎしききてい)が出されました。紀元節や天長節といった日に、教員と児童が講堂に集まって式を行うことが定められています。御真影(ごしんえい)への敬礼、教育勅語の奉読、そしてその日にふさわしい唱歌の斉唱。式次第の中に、歌が組み込まれていました。

対象になった日は全部で11日とされます。学校にとって歌は、音楽の授業より先に「式の部品」として現れたことになります。

そこで歌う唱歌は、学校が選べなかった

この規程では、式で歌う歌詞と楽譜について文部省の認可を受けるものとされました。学校が独断で曲を選ぶことはできず、道府県を通して事前に申請する必要があったと説明されています。

歌そのものより先に、歌を通す手続きができていた。この順番が、のちの校歌の性格を決めていきます。

1893年に告示された8曲

君が代・勅語奉答・一月一日など

1893年8月12日、文部省告示第3号の別冊として「祝日大祭日歌詞並楽譜」が官報に載りました。収められたのは、君が代・勅語奉答(ちょくごほうとう)・一月一日・元始祭(げんしさい)・紀元節(きげんせつ)・神嘗祭(かんなめさい)・天長節(てんちょうせつ)・新嘗祭(にいなめさい)の8曲です。

祝日大祭日とは、戦前の日本で定められていた国の祝祭日のことです。紀元節(2月11日)や天長節(天皇誕生日)などが含まれ、学校ではその日ごとに式が開かれました。

「学校の歌」ではなく「日付の歌」だった

この8曲は、どの学校で歌っても同じ歌です。曲名を見ればわかるとおり、歌に結びついているのは学校ではなく日付のほう。北海道の小学校でも九州の小学校でも、11月23日には新嘗祭の歌が響いていたことになります。

自分の学校を歌う歌は、この共通の枠のあとに生まれました。

校歌は、作るたびに認可を受ける歌だった

1894年には、式典に限らず学校内で歌われる唱歌すべてに文部大臣の認可が必要とされました。校歌もこの網の中にあり、1945年まで申請と認可の対象であり続けたとされています。

何を添えて出していたか

歌詞と楽譜、そして「歌詞の説明」

提出物として挙げられているのは、作詞者名・作曲者名・歌詞・楽譜、それに歌詞の説明です。最後のひとつが独特で、詩の言葉が何を意味しているのかを書き添えなければなりませんでした。

比喩の意図まで文章にして役所へ出す。作詞というより、答案の提出に近い作業だったのかもしれません。

道府県を経由して文部省へ届いた

申請は学校から直接ではなく、道府県を通す経路をとりました。ひとつの校歌ができるまでに、学校・地域の役所・国という三段の机を通っていたことになります。

とはいえ制度ができた当初は、音楽教育そのものが十分に広まっていませんでした。この規定と無縁のまま過ぎた学校も少なくなかったようです。

認可を受けた最初の校歌

1893年、東京市下谷区忍岡尋常高等小学校

校歌の成立を史料から追った須田珠生の研究では、実際に認可を得た最初の例として1893年の東京市下谷区忍岡(しのぶがおか)尋常高等小学校が挙げられています。制度が動き出した年に、さっそく手を挙げた学校があったわけです。

「日本最古の校歌」がはっきりしない理由

最古の校歌としてよく名前が挙がるのは、東京女子師範学校(現在のお茶の水女子大学)の歌でした。昭憲皇太后から下賜(かし)された和歌に旋律を付けたもので、成立は1875年とも1878年とも紹介されます。

ただし同校の記録では、この歌は当初「学道」という唱歌として扱われていました。校歌という位置づけになったのは1900年だったとされ、最初から校歌だったわけではありません。教育理念を歌詞に盛り込んだ現代型の校歌としては、1904年の旧制愛知一中(現在の愛知県立旭丘高等学校)を最初とする見方もあります。

同じ歌詞の校歌が、いくつもの学校で歌われていた

校歌が学校ごとに違う歌になったのも、最初からではありません。ひとつの曲を全国で「校歌」と呼んで歌っていた時期があったと指摘されています。

学校ごとに違う歌になるまで

「校歌」という名前の共通の一曲

初期には、曲名がそのまま「校歌」である一曲が各地で歌われていました。いまの感覚でいえば、全国の学校が同じ一曲を自分の校歌として歌っていたことになります。

長崎県では、ほぼ同じ歌詞の校歌が複数の学校に

須田の調査では、長崎県の複数の学校でほとんど同じ歌詞の校歌が歌われていた例も報告されています。学校の個性を歌うどころか、隣の学校と歌詞を共有していた時期があったわけです。

校歌が「一校に一つ」になるには、作ってくれる相手が必要でした。

東京音楽学校への注文が個別化を進めた

1907年から1945年までに456件

東京音楽学校に残る「作曲委託関係書類」には、1907年から1945年までに計456件の校歌作成の委託が記録されています。学校側が依頼状を書き、専門家に作ってもらう流れができていきました。

東京音楽学校とは、1887年に設立された官立の音楽教育機関です。現在の東京藝術大学音楽学部にあたり、作曲や演奏の専門家を多く輩出しました。

1930年以降に依頼が急増した

この委託件数は1930年以降に急増したことが分かっています。同じころ、校歌そのものも全国へ広がりました。数十年かけて、校歌はようやく「どの学校にもあるもの」になったのです。

山と川ばかり出てくるのは、校歌が郷土の歌になったから

校歌の歌詞に山や川の名前が並ぶのは、作詞者の趣味ではありません。校歌が地域の歌として機能した時期があり、その形が型として残りました。

数えてみると、本当に多い

中学校300校の歌詞で目立つ言葉

全国36都道府県の中学校300校の校歌を書き写して語を数えた愛好家の調査があります。地域名を除いて集計した結果の上位は、次のとおりでした。

順位出現回数
1位われら419回
2位197回
3位中学188回
4位母校175回
5位172回
6位171回
7位170回
8位169回
9位ああ168回
10位希望160回

個人の集計なので厳密な統計ではありませんが、山・風・空・野・花といった自然の語が上位に固まる傾向は読み取れます。人を指す「われら」の突出ぶりと、感嘆詞の「ああ」が9位に入る不思議。この2つも、いかにも校歌らしいところです。

弥彦山は14校、大分では約半分が山の語で始まる

地元紙が新潟県内のおよそ90校の校歌を調べたところ、いちばん多く登場した山は弥彦山で14校にのぼりました。大分県では県内全55校の高校を調べた放送局の企画で、およそ半分が山に関する言葉で歌い出されていたと報じられています。

同じ山が別の学校の校歌に何度も出てくる。校歌がその土地の共有物だったことの名残です。

郷土教育が校歌を地域の歌にした

大正期に、学校の周りの風景が歌詞へ入った

大正期になると、学校の周辺の風景を詠み込む歌詞が一般的になったとされています。共通の一曲から抜け出す方法として、目の前の山や川ほど手近な材料はありませんでした。

1930年ごろ、地域の人も歌う「郷土歌」に

1930年前後に校歌が全国へ広まった背景には、郷土教育運動の広がりがありました。校歌は児童生徒だけの歌ではなく、地域の住民にも歌われる郷土の歌として受け止められていったと説明されています。

郷土教育運動とは、昭和初期に盛んになった教育運動です。子どもが暮らす土地の自然・産業・歴史を教材にすることで、地域への理解と愛着を育てようとしました。

学校は、誰に聞かせるために校歌を作ったのか

東京音楽学校へ届いた依頼状を分析した研究からは、学校側の動機が読み取れます。そこに書かれていたのは、生徒のためという言葉だけではありませんでした。

依頼状から読み取れる動機

「優れた校歌」を手に入れたい

まず挙げられているのが、質の高い校歌がほしいという動機です。誰でも作れる歌ではなく、専門家の手による歌を持つこと自体に価値が置かれていました。依頼先は、いまでいえば東京藝術大学にあたる官立の学校。地方の小学校が国内最高峰の音楽機関へ手紙を出していたことになります。

式典で、学校の外の人に披露するため

依頼状から浮かび上がるもうひとつの目的が、自校の校訓や理念を盛り込んだ歌を、式典や儀式の場で外部の人に向けて披露することでした。来賓の前で歌う場面が、はじめから想定されていたわけです。

校歌は内輪の歌である前に、見せる歌でした。

校歌は、学校の自己紹介だった

環境と徳目を結びつけて独自性を出す

研究では、周囲の環境や徳目を児童生徒のあるべき姿と結びつけ、自校の理念を体現する手段として校歌が機能したと整理されています。高くそびえる山を出して志の高さを、絶えず流れる川を出して努力の継続を語る。あの言い回しには、そういう役目がありました。

土地の名前が必要になる仕組み

理念だけを歌えば、どの学校にも当てはまる歌になってしまいます。この学校の歌だと示すには、動かせないものを歌詞に埋め込むのがいちばん確実でした。山と川は移動しません。校名が変われば歌詞を書き換える例があるのに対し、山の名前は書き換えずに済みます。

校歌と呼ばない学校、校歌が全国に流れる日

大学では、呼び名も有無もばらばら

高等教育機関では、正式な校歌を持たない例が珍しくありません。旧帝国大学のうち「校歌」を制定しているのは北海道大学だけ。東北大学・名古屋大学・大阪大学・九州大学は「学生歌」、京都大学は「学歌」という呼び名を使っています。東京大学には応援歌や寮歌はあっても、校歌そのものは見当たりません。

学校法人の名前に合わせて「塾歌」「院歌」「館歌」と呼ぶところもあります。義務教育の学校ほど校歌が当たり前で、上の学校ほど自由。制度に紐づいて広まったものだと考えると、この逆転も筋が通ります。

甲子園という、いちばん大きな発表の場

高校野球で勝利校の校歌が流れるようになったのは、選抜大会が1929年の第6回から、選手権大会が1957年の第39回からとされます。1999年の第71回選抜からは、初戦の2回表と2回裏に対戦する両校の校歌が放送される形になりました。

外の人へ向けて理念を披露するという明治以来の役目が、いまも全国中継で果たされていることになります。

ポップ調の校歌と、統廃合で残る歌

1980年代以降は、ポピュラー音楽を手がける作詞家や歌手による校歌も現れました。少子化にともなう学校の統廃合では、複数の校歌をそのまま残したり、歌を統合したりする対応がとられています。

ちなみに、学校の歌そのものは日本だけのものではありません。イギリスのパブリックスクールやグラマースクールには school song の伝統があり、アメリカの大学には alma mater や fight song が根づいています。公立の小中学校まで一校ずつ自前の歌を持つ形が珍しい、というのが実際のところのようです。

校歌の宛先は、時代とともに移ってきました。はじめは認可を出す役所へ、次に式典に並ぶ来賓へ、そして郷土教育のなかでは町の人へ。書類を受け取る役所も、講堂に座った来賓も、いまはもういません。残ったのは、その土地の山の名前を律儀に覚えている歌のほうです。

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