参勤交代の目的は大名の財力を削ることだったのか、通説が揺らいだわけ

駕籠に乗った大名 歴史と変遷の話
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参勤交代(さんきんこうたい)を義務づけた法令には、大名の供の人数を減らせという条文が同居しています。寛永12年(1635年)の武家諸法度(ぶけしょはっと)です。

大名の財布を軽くするための制度だったなら、この指示は辻褄が合いません。近年の研究では、参勤交代の目的は財政の圧迫ではなかったという見方が強まっています。では、何のための制度だったのでしょうか。

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通説と、いまの見方が分かれるところ

食い違いは「何のための制度か」という一点に集まっています。大名の出費が重かったこと自体は、いまも否定されていません。

論点広く教えられてきた説明近年の見方
制度の目的大名の財政を疲弊させ、反乱を起こせなくする将軍と大名の主従関係を確かめる「奉公」
大名の出費幕府が意図して負わせた制度に伴って生じた結果
供の人数幕府が多く連れさせた幕府はたびたび減らすよう命じている
妻子の江戸居住人質人質の性格は否定されていない
制度の寿命幕末まで続いた文久2年(1862年)に事実上ほどけた

幕府が何を命じ、何を命じなかったのか。制度の中身から確かめていきます。

参勤交代は、将軍に対する「軍役」だった

参勤交代の本体は、大名が兵を連れて主君のもとへ出仕する軍事的な奉公です。戦のない時代に、戦のかたちだけが残ったものと言い換えてもいいかもしれません。

※ 軍役(ぐんやく)とは、主君から領地を認められた武士が、その見返りに兵や馬を出して従軍する義務のことです。

「参勤」と「交代」が指しているもの

江戸へ出仕し、領地へ帰る

「参勤」は領地を出て江戸へ出仕すること、「交代」は江戸を離れて領地に戻ることを指します。二つを合わせて一往復です。原則は1年おきの在府と在国で、交代の時期は毎年4月と定められていました。

もとの字は「参覲」だった

正しくは参覲交代(さんきんこうたい)と書きます。「覲」は目上の人に会いに行くという意味の字で、役人の書き誤りから「勤」の字が広まったと言われています。制度の名前そのものに、財政の話は一文字も入っていません。

行列は、軍勢の縮小版だった

供の内訳は石高で決まっていた

享保6年(1721年)に8代将軍・徳川吉宗が定めた規定では、10万石の大名なら馬10騎・足軽80人・中間(ちゅうげん)や人足140〜150人という目安が示されています。騎馬と足軽という数え方は、そのまま戦場の編成です。行列は大名の私的な旅ではなく、いつでも動かせる兵力の提示でした。

※ 石高(こくだか)とは、土地の生産力を米の量で表した数値です。大名の格や、負担すべき軍役の規模を決める物差しになりました。

領地を認めてもらう代わりの奉公

大名の領地は、将軍から与えられ認められたものという建前でした。その見返りが奉公です。江戸城で将軍に拝謁する行為は、この関係を一年ごとに更新する手続きにあたります。定期的に顔を合わせない主従は、数十年もすれば実質を失いますから、この更新には意味がありました。

義務になる前から、大名は江戸へ来ていた

家康・秀忠のころは自発的な出仕

関ヶ原の戦いのころ、諸大名は自分の判断で江戸に出向き、徳川家への恭順を示していました。慶長5年(1600年)には、加賀の前田家が当主の母である芳春院(ほうしゅんいん)を江戸へ送っています。謀反の嫌疑を解くために自ら差し出した人質で、彼女はそのまま10年以上を江戸で過ごしました。義務ではないからこそ、行かないことが敵意の表明になったわけです。

寛永12年(1635年)の武家諸法度

3代将軍・徳川家光が改めた19か条の武家諸法度に、「大名・小名在江戸交替相定ムル所ナリ。毎歳夏四月中、参勤致スベシ」という条文が入りました。起草したのは儒学者の林羅山(はやしらざん)とされています。義務づけられたのは当初おもに外様(とざま)大名で、譜代(ふだい)大名に及ぶのはもう少し後のことでした。

「財力を削るため」と言い切れなくなった理由

通説が揺らいだ理由は、史料のなかに逆向きの命令がいくつも残っているからです。順に見ていきます。

幕府は「供を減らせ」と繰り返し命じている

義務化した同じ法令に、減員の条文がある

参勤交代を定めた寛永12年の武家諸法度には、こう書かれています。

従者ノ員数近来甚ダ多シ、且ハ国郡ノ費、且ハ人民ノ労ナリ。向後ソノ相応ヲ以テコレヲ減少スベシ

供の数が多すぎる——領国の出費になり領民の負担にもなるので、身分相応まで減らせ。そういう趣旨です。財政を締め上げたい相手に、わざわざ節約を勧める理屈は立ちません。

八代吉宗も人数の上限を示した

先ほどの享保6年の規定も、性格としては同じ方向を向いています。石高ごとに騎馬や足軽の数を示すことは、上限を引くことでもありました。1635年と1721年、およそ90年をはさんで同じ趣旨の指示が出ているわけです。一度きりの気まぐれとは考えにくいところです。

飢饉のときには、大名を国元へ帰している

寛永の大飢饉と寛永19年(1642年)

寛永17年(1640年)から寛永20年(1643年)にかけて、牛の疫病・旱魃・水害・冷害が重なる大飢饉が起こりました。幕府は寛永19年5月、諸大名に領地へ帰って対策にあたるよう指示しています。財政を絞ることが狙いなら、江戸に留め置いたほうが早いはずでした。

譜代大名への義務化は、その流れで生まれた

この帰国指示が、譜代大名も参勤交代を義務づけられる契機になったとされています。飢饉という非常事態への対処が、結果として制度を全大名へ広げました。制度が全大名に広がった経緯をたどっても、財政圧迫という設計図は出てきません。

窮乏は目的ではなく、結果だった

人数を押し上げたのは、藩どうしの見栄

江戸に入る行列が立派だったという評判は、町の噂として広まりました。噂が耳に入れば、次の藩は恥をかくまいとして人数を足します。幕府が減らせと言っても効き目が薄かったのは、行列の規模が家の格を示す看板になっていたからでした。出費は上から命じられたというより、横の目線が膨らませた面が大きかったことになります。

当時の批判は、運用に向けられていた

江戸時代の儒学者たちも、参勤交代の華美を厳しく批判しました。ただしその矛先は、制度そのものの意図ではなく、身の丈を超えた運用と浪費に向いています。批判の文章が後の時代に読み替えられ、「幕府の狙いは大名いじめだった」という筋書きに使われた面もあると指摘されています。

何にお金がかかったのか——道中より、江戸

出費の中身を見ると、重かったのは往復の旅そのものではありませんでした。藩の予算表がそれを示しています。

佐賀藩の予算に見る内訳

明暦元年(1655年)の割合

佐賀藩の明暦元年の予算では、参勤に要した費用が銀472貫と米1200石で、年間予算の20%にあたりました。これに対し江戸屋敷の経常費は銀731貫430匁と米453石で、28%を占めています。国元での経費は48%でした。

道中より重かった、江戸での暮らし

20%と28%を足せば、予算のほぼ半分が江戸がらみです。しかも大きいほうは行列ではなく、屋敷の維持と滞在の費用でした。参勤交代の負担といえば大名行列が思い浮かびますが、実際に効いていたのは江戸に居を構え続けることだったわけです。

行列の三分の一は、日雇いだった

文政10年(1827年)の加賀藩

加賀藩の文政10年の行列は総勢1969人で、うち686人が臨時に雇われた人々でした。侍身分ではない者が、およそ三分の一を占めていた計算になります。数千人の隊列は、藩の家臣だけで組まれていたわけではありません。

人を手配する業者がいた

こうした臨時雇いは「通日雇(とおしひやとい)」と呼ばれ、六組飛脚問屋(むつくみひきゃくどんや)という仲介業者が人を送り込んでいました。当初は宿場ごとに雇っていたものの、かえって高くつくため、国元から江戸まで通しで同行する形に変わっています。行列を支える裏方の労働市場が、街道沿いに育っていたことになります。

大名の側も、節約に知恵を絞った

城下を出たら、人数を落とす

出発のときは立派な装いで大人数を見せ、町はずれまで来たら半分ほどに減らす。そんな運用が普通に行われていました。江戸に入る直前でまた人を足せば、見られる場所だけが豪華になります。見栄は必要なところで張り、道中は現実的に済ませたということです。

海路を使い、荷を売ることもあった

陸路をひたすら歩く以外の選択肢もありました。船を使えば日数と人足代を圧縮できます。道中で領内の産物を売って旅費の足しにした例も伝えられており、藩によっては参勤が商いの機会を兼ねていました。加賀藩の文化5年(1808年)の参勤費用は銀332貫余、金に直して5541両ほどと記録されています。

制度が残したもの——街道、宿場、そして江戸

数百の大名家が毎年入れ替わりで往復すれば、道と町はそれに合わせて姿を変えていきました。参勤交代の副産物は、いまの地図にも残っています。

道が整い、宿場が育った

本陣と助郷

大名が泊まる宿は本陣(ほんじん)と呼ばれ、宿場町の中心になりました。人馬が足りないときには、周辺の村々が助郷(すけごう)として供出を命じられます。行列が通ることは町の稼ぎであり、同時に村の負担でもありました。

※ 助郷(すけごう)とは、宿場の人馬が不足したときに、近隣の村々へ人手や馬の提供を課した江戸時代の負担のことです。

ものと一緒に、話も動いた

橋が架かり、道が広がり、渡し場が整えられていきます。加賀藩が黒部川に架けた愛本橋(あいもとばし)のように、参勤の道筋を確保するために生まれた橋もありました。運ばれたのは荷物だけではありません。江戸の流行や技術、他国の噂が街道を伝って地方へ届き、地方の産物と言葉が江戸へ流れ込みました。全国規模の情報網が、年に一度の往復によって維持されていたわけです。

江戸という都市のかたち

土地の七割が武家地だった

江戸の市街は身分ごとに区分され、武家地がおよそ7割、町人地と寺社地がそれぞれ1割5分ほどを占めていたとされます。享保6年(1721年)の調査では町人の人口が約50万人で、武家などを加えると総勢100万人前後と推計されています。武家地の広さの多くは、諸藩が構えた屋敷でした。

単身赴任の武士たちが暮らしていた

藩邸には、国元から交代でやってくる勤番(きんばん)の武士が住み込みました。妻子を伴わない長期滞在ですから、外食や娯楽の需要が生まれます。屋台や芝居小屋が栄えた背景には、家庭を持たない男たちが大量に住んでいた事情も指摘されています。

終わり方——文久2年(1862年)にほどけた制度

230年近く続いた制度は、幕末に自ら緩められました。緩めた側が、それを元に戻せなくなります。

3年に1度・在府100日へ

妻子の帰国が許された

文久2年8月、幕府は参勤の頻度を3年に1度・江戸滞在100日へと改めました。江戸に住まわせていた大名の妻子も、国元へ帰ることが認められています。外圧への対応に追われるなか、諸大名の負担を軽くして協力を取りつける狙いがありました。

戻そうとしたが、戻らなかった

2年後の元治元年(1864年)9月、幕府は制度を元に戻すよう命じます。ところが従う大名は多くありませんでした。人質が国元に帰り、出仕の頻度が下がった時点で、主従関係を確かめるという制度の芯は失われていたのだと思います。参勤交代の終わりは、幕府の威信が崩れていく過程そのものでもありました。

そもそも例外だった藩もある

すべての大名が1年おきに往復していたわけではありません。距離や役目に応じて、頻度も滞在期間も違っていました。

藩・区分江戸勤務のかたち
多くの大名1年おきに在府と在国を繰り返す(交代は4月)
関東の譜代大名半年ごとの交代
対馬藩3年に4か月の勤務
松前藩5年に4か月の勤務

対馬藩は朝鮮との外交、松前藩は蝦夷地の統治という役目を負っていました。江戸に長く置くより現地にいてもらったほうが幕府にとって都合がよかったわけで、ここでも一律に負担を課す発想は見当たりません。

参勤交代は、大名の家計を痛めました。それは確かなことです。ただ、痛んだという事実と、痛めるために作られたという説明は別のものです。

制度の名前は、もともと「参覲交代」と書きました。目上の人に会いに行って、帰ってくる。答えは最初から表札に出ていたのに、字が一つ変わっているあいだに、私たちは別の話を読んでいたことになります。

参考

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