サーカスの丸いテントは、古代ローマの円形の競技場から受け継いだものではありません。受け継いだのは名前だけです。ラテン語のキルクス(circus)は「輪」を意味し、その語がイギリスで生まれた新しい見世物に貼りつきました。
テントが丸いのは、中の演技場が円いからです。そしてその演技場が円いのは、馬が円を描いて走っていたからでした。円を駆ける馬の背では体が外へ押されます。そのぶん内側へ傾いて立てるので、揺れる背の上でも姿勢を保ちやすくなる。18世紀のロンドンで元騎兵が見つけたこの都合が、250年たった今も天幕(てんまく)の形を決めています。
名前と円い舞台と布のテントは別々に生まれた
この三つは一つの流れのように語られがちですが、生まれた時代も場所も別です。取り違えたまま読むと話が合わなくなるので、まず別々に並べておきます。

| できたもの | 時期と場所 | きっかけ |
|---|---|---|
| 円い演技場(リング) | 1768年・ロンドン | 元騎兵が開いた馬術学校。円を走ると馬の背に立ちやすい |
| 「サーカス」という名前 | 1782年・ロンドン | 競合の興行が「ロイヤル・サーカス」と名乗った |
| 布の大テント | 1825年・アメリカ | 町から町へ運ぶため、木の小屋を天幕に替えた |
古代ローマのキルクス・マクシムスは、この表のどこにも入りません。関わっているのは、名前の語源をさかのぼる線だけです。
近代サーカスはいつどこで始まったのか
出発点は1768年のロンドンです。フィリップ・アストリーという元騎兵が、テムズ川の南岸に小さな土地を手に入れ、そこで馬術を教えはじめました。

元騎兵の軍曹がテムズ川の南に開いた馬術学校
アストリーは17歳で第15軽騎兵連隊に入り、七年戦争を戦って軍曹まで上がった人物です。1766年に除隊したとき、手元に残っていたのは馬を扱う技術だけでした。
朝は馬術を教え、午後は客に見せた
借りた土地は「ハーペニー・ハッチ」と呼ばれた一角で、ブラックフライアーズ橋とウェストミンスター橋のあいだにありました。午前は生徒に乗り方を教え、午後は同じ場所で自分の妙技を見せる。教習所と見世物小屋を時間で使い分ける商売です。
授業料と木戸銭の二本立てにしたのは、たんに稼ぎのためだけではなかったようです。円を描いて走る馬の芸は、そもそも馬術の練習から出てきたものでした。教えることと見せることが地続きだったわけです。
1768年の会場は屋根のない囲いだった
最初の会場に建物らしいものはなく、板で囲っただけの吹きさらしでした。雨が降れば興行は流れ、冬は客も来ません。丸いテントどころか、屋根すらまだ無いところから始まっています。
道化と軽業が加わった1770年の興行
1770年の興行から、内容が大きく変わります。馬の芸に軽業(かるわざ)が混ざり、最後にパントマイムが付くようになりました。リングの中に粗末な舞台を組み、馬を使わない出し物もそこで見せています。日本大百科全書は、この年をもって「近代サーカスは誕生した」と書いています。
馬の芸だけでは客が飽きた
同じ演目を繰り返せば客は減っていきました。アストリーは綱渡りの芸人や道化、楽隊を呼び込み、番組を組み合わせで見せる形に切り替えました。今のサーカスが「いろいろな芸の詰め合わせ」なのは、この時点で決まった性格です。
道化が加わったのも偶然ではありません。馬の出し物と出し物のあいだには、道具を入れ替える時間がどうしても空きます。その空白を埋める役として、笑いを取る人間が必要になりました。
冬に興行するため1778年に屋根を付けた
1778年から翌年にかけての冬、アストリーは会場に屋根をかけました。これで寒い季節も客を入れられるようになり、興行は年間を通じた商売になります。円い演技場を屋根で覆うという組み合わせが、ここで初めて形になりました。
「サーカス」と名乗ったのはアストリーではない
近代サーカスを作った人物は、自分の興行をサーカスと呼んでいません。その名を最初に掲げたのは、あとから出てきた競合相手でした。
1782年のロイヤル・サーカス
1782年、チャールズ・ヒューズという興行主が「ロイヤル・サーカス・アンド・エクエストリアン・フィルハーモニック・アカデミー」を開きます。作詞家で台本書きのチャールズ・ディブディンと組んだ、たいそう長い名前の劇場です。この頭の一語だけが切り取られ、新しい見世物全体を指す普通名詞になりました。
アストリー自身は「円形劇場」と呼んでいた
アストリーの側は自分の場所を「乗馬場」あるいは「アンフィシアター(円形劇場)」と称していました。同じ1782年にはパリにも進出し、そちらは「イギリス風円形劇場」を名乗ります。発明した人と名付けた人が別なので、サーカスの誕生年は資料によって1768年と1770年に分かれます。
古代ローマの競技場とはつながっているのか
つながっているのは言葉だけです。ローマのキルクスは、猛獣や道化のいる見世物小屋ではなく、馬車を走らせる競走場でした。

キルクス・マクシムスは戦車競走の競馬場
キルクス・マクシムスは「最大の競走場」という意味の名前です。ここで行われていたのは戦車競走で、4台の戦車が周回コースを5周または7周して順位を競いました。現代の競馬場やサーキットの先祖と考えたほうが実態に近いものです。
全長600メートルの細長い楕円を周回した
帝政初期の歴史家ディオニュシオスの記述では、トラヤヌスが再建したこの施設は全長600メートル、幅は平均200メートルありました。形は細長い楕円で、真ん中には仕切りの構造物が通っています。つまり、ローマのキルクスはそもそも「丸」ではありません。
円形闘技場コロッセウムとも別の建物
丸いローマ建築といえばコロッセウムが浮かびますが、あちらは剣闘士の戦いや猛獣の見世物を行った円形闘技場で、キルクスとは用途も形も違います。サーカスの起源として語られる「ローマの円形」は、名前の似たキルクスと、丸い闘技場の記憶が混ざった像なのでしょう。
ラテン語のキルクスは「輪」を指す
語そのものの意味は素直です。日本大百科全書はサーカスの語源をラテン語のキルクスとし、「輪」を意味すると説明します。改訂新版世界大百科事典も、円周や回転を意味する語だとしています。
英語のサークルと同じ根から出ている
円を指すこの語を小さくした形が、ラテン語のcirculus(小さな輪)です。英語のcircle(円・仲間の輪)はここから来ています。ローマ人は競走場を「輪」と呼び、18世紀のロンドンっ子は円い馬場を「輪」と呼んだ。同じ言葉を別の丸に使ったことになります。
百科事典は「言葉のつながりだけ」と書いている
日本大百科全書も、サーカスの起源をキルクス・マクシムスに置く見方があること自体は書いています。ただし、ことばとしてのつながりはあっても近代サーカスとは区別したほうがよいという断りが続く。サーカス史の事典サイト「サーコピディア」も、ローマのキルクスは現代の競走路の先駆であり、共通点は語だけだと明言しています。
誤解が生きのびている二つの足場
専門の事典がはっきり否定しているのに、ローマ起源説はなかなか消えません。誤解が生きのびるにはそれなりの足場があります。
猛獣と見世物という共通のイメージ
ライオンや象が出てきて、大観衆が沸く。この絵はローマの闘技場にもサーカスにも当てはまります。中身の系譜が別でも、思い浮かぶ光景が重なると、人はそこに血筋を見てしまいます。
「円形」という言葉が両方に使える
円形競技場、円形闘技場、円形劇場。どれも似た語で、しかもアストリーは自分の会場を円形劇場と呼んでいました。名前が近く、形も丸い。二千年の隔たりは、こうした語の手触りの前では簡単に見えなくなります。
演技場はなぜ円いのか
理由は馬です。直線を走る馬の背に立つのは難しく、円を描いて走る馬の背なら立てる。この違いが、演技場の形を決めました。

円を駆けると馬の背に立ちやすい
アストリーが発見したのはこの一点でした。円を走る馬の上では体が外へ押されるので、乗り手は内側へ傾いて立つことができます。傾いたまま支えが釣り合うので、上下に揺れる背の上でも姿勢が崩れにくくなるのです。
※ 遠心力(えんしんりょく)とは、円を描いて動くものが外へ押されるように感じる力のことです。カーブを走る電車で体が外に傾くのと同じ働きで、円を走る馬の上では乗り手の体を外側へ押します。
外へ押される力が体を支える
綱渡りの芸人が長い棒を持つのと似た理屈です。体をまっすぐ立てようとするより、傾いた姿勢で力が釣り合っているほうが安定します。曲乗りの芸人が内側へ深く傾いて回っているのは、格好をつけているわけではありません。
直線では立ち上がる余裕がない
直線のコースだと、馬はすぐ端まで走り切ってしまいます。立ち上がって、跳んで、また降りる。一連の芸を見せるには、走り続けられる道が必要でした。円は終わりのない直線だと考えると、なぜこの形が選ばれたのかが分かります。
42フィート(約13メートル)という寸法
円なら何でもよかったわけではなく、大きさにも最適があります。アストリーが試行の末に落ち着いた直径42フィート、約13メートルという値が、そのまま今日の国際標準になりました。
最初の囲いは60フィート以上あった
初期の演技場は直径60フィート台、およそ19メートルあったとされます。広すぎると弧がゆるく、外へ押される力が足りません。逆に小さすぎれば馬が速度を出せない。42フィートは、馬が駆けられて、なおかつ乗り手が立てる境目の値でした。
今も世界共通なのは芸を持ち運べるから
寸法が動かないことには実利があります。どの国のどの団に呼ばれても、リングの直径が同じなら芸人は稽古した通りに演じられます。助走の歩数も、着地の位置も測り直さずに済む。13メートルという数字は、芸人が国境を越えて働くための共通規格でもあるのです。
客席から見た円の都合
馬の都合で決まった形は、見る側にも具合がよく働きました。アストリーは乗り手の安全と客の見やすさの両方を計って大きさを詰めたと伝えられます。
どの席からも中心までの距離が近い
四角い舞台を正面から見る形だと、良い席と遠い席の差が大きく開きます。円を取り囲む配置なら、どの席も中心からの距離はほぼ等しい。半径7メートルほどの円を囲む客席は、最後列でも演者の表情が見える距離に収まります。
馬が観客の前を何度も通る
円を回る馬は、同じ客の前を何度も通過します。正面がないので、誰かが背中しか見ない時間は長く続きません。舞台に「表と裏」を作らないという性質は、のちに空中ブランコや綱渡りが加わってからも効き続けました。
テントはなぜ円いままなのか
テントは演技場より半世紀以上あとの発明です。円い演技場がすでにあり、それを覆う布が来た。順番がこうだったので、天幕も円くなりました。

布に変わったのは1825年のアメリカ
木の建物を全面的に布の天幕へ置き換えたのは、アメリカの興行主ジョシュア・パーディ・ブラウンでした。1825年のことで、この方式は1830年代の半ばには当たり前になっています。
町から町へ運ぶには木の小屋が重すぎた
当時のアメリカには、常設の劇場を満席にできる町がまだ少なく、開拓地は西へ動き続けていました。客のいる場所へ小屋ごと移るには、木組みでは重すぎます。布と支柱と杭だけで組める天幕は、巡業という商売の形そのものを作りました。
興行の禁止を避けて町の外に張った
ブラウンが天幕を思いついたきっかけについては、巡業先で見世物興行が禁じられていたため、市域の外に布張りの会場を立てたという話も伝わっています。真偽をたどるのは難しいものの、建物を持たない身軽さが規制をかいくぐる力にもなったことは想像がつきます。
円は布を張るのに都合がいい
形の理由は演技場だけではありません。布を張る構造そのものが、円や長円を選ばせます。
中心の柱で吊り、周囲を綱と杭で引く
大テントは、中央の太い柱で屋根を持ち上げ、周囲から綱を張って地面の杭に留める仕組みです。重さの大半は中央の柱が受け持ち、外周の細い柱は布の形を決める役に回ります。布が引っ張り合って形を保つので、力は均等にかかるほうが具合がよい。円はその条件にいちばん素直に合う形です。
※ マストとは、天幕の中央で屋根を持ち上げる太い柱のことです。英語ではキングポールと呼び、この柱を何本立てるかで屋根の形が決まります。
梁がいらないから畳んで運べる
四角い建物で広い空間を作るには、天井を渡す梁(はり)が必要になります。梁は長く重く、分解しても運びにくい部材です。円い天幕は布の張力で屋根を支えるため、その梁を省けます。畳めば荷台に載る屋根、という発明の核心はここにありました。
柱の本数で屋根の形が変わる
ひとくちに丸テントといっても、輪郭は一様ではありません。中央に立てる柱を何本にするかで、屋根の稜線が決まります。
| マストの本数 | 上から見た形 | 使われた例 |
|---|---|---|
| 1本 | 頂点がひとつの円錐 | 小ぶりな天幕 |
| 2本 | 前後に伸びた長円 | 木下サーカスが改良後に使った形 |
| 4本 | リングを囲む丸屋根 | 1926年のドイツ式(ザラサニ) |
1本なら円錐、2本なら長円
柱が1本なら、布は頂点から裾へ落ちる円錐形になります。2本立てれば頂点が二つでき、上から見た輪郭は前後に伸びた長円になる。写真で見るサーカス小屋が「丸」と「楕円」のあいだで揺れるのは、この柱の数の違いです。
4本柱の丸屋根はドイツ式と呼ばれた
1926年、ドイツの興行主ハンス・シュトッシュ・ザラサニが新しい天幕を作ります。リングを4本の柱で囲み、その上に円い丸屋根をかけた形です。この型はのちにドイツ式と呼ばれました。柱をリングの外に追い出すことで、客の視線を遮らない円い空を天井に作った形です。
円が三つに増えた国と、一つを守った国
円がひとつという前提は、19世紀のアメリカで崩れます。リングを横に並べて二つ、三つにする興行が現れ、天幕は横長に伸びていきました。

アメリカで二つ、三つへ増えた経緯
増設の動機は単純で、客席を増やすためでした。円が一つだと、囲める席の数には上限があります。円を並べれば天幕を横に広げられ、売れる椅子が増えます。
天幕が大きくなるほど席が売れた
鉄道で移動する大興行が育ち、一晩で何千人を入れる規模が求められた時代です。三つのリングを埋めるには、より多くの芸人と動物、より大きな行列が要ります。見世物は規模を競う方向へ走りました。
最初の三つリング興行の年は資料で違う
1871年のバーナムとクープの興行を挙げる資料、1881年に組んだバーナムとベイリーの新興行を「史上初の三つリング」とする資料、1888年とする資料があります。二つへの増設は1872年ごろとされ、増える流れ自体は1870年代から80年代のことで一致します。誰を最初と数えるかだけが定まっていません。
三つ同時では目が追いつかない
三つのリングで同時に芸が進むと、観客はどこを見るか選ばされます。英語で「三つリングのサーカス」が「てんやわんやの騒ぎ」を指す言い方になったのは、この見づらさの裏返しです。
芸の細部より規模で競うことになった
遠くの席から三つ先のリングを眺めれば、指先の繊細な技は届きません。届くのは大きな動きと音と数です。規模を売りにした興行は、結果として芸そのものを見せる場を狭めたという評価も残っています。
ヨーロッパは一つの円を守った
ヨーロッパの多くの団は、リングを増やしませんでした。一つの円を全員で囲むという形は、演劇に近い見せ方として残ります。
1970年代に一つリングが見直された
1970年代、アメリカやカナダの若い演者たちがヨーロッパの一つリングに刺激を受け、規模ではなく芸を見せる興行へ回帰します。舞台芸術としてのサーカスを掲げる現代の団が円を一つに戻したのは、この流れの先にある選択です。
座席の呼び名に円が残っている
今のサーカスの座席案内にも「リングサイド」という区分が並びます。最前列を「円のそば」と呼ぶ言い方が生きているのは、客席が円を取り囲む配置のままだからです。舞台の前ではなく円の周り。座席表はいちばん素朴な形で、この見世物の設計を書き残しています。
日本では長く「曲馬団」と呼ばれていた
日本に西洋式の興行が入ってきたのは明治です。ただし「サーカス」という呼び名が定着するまでには、そこから半世紀ほどかかりました。

※ 曲馬(きょくば)とは、走る馬の上で立ったり跳んだりして見せる芸のことです。明治から大正のあいだ、日本ではこの語をもとに一座全体を「曲馬団」と呼んでいました。
チャリネ大曲馬団が持ち込んだ西洋式
きっかけは、イタリア人チャリネの一座でした。1886年と1889年に来日して評判を取り、これ以後、西欧風の興行が日本でも行われるようになります。
1886年と1889年の来日
チャリネの興行は東京の秋葉原で行われ、大変な人気を集めたと伝えられます。この成功を受けて、有田や木下、シバタといった国内の大一座が組まれていきました。日本のサーカスの系譜は、ここから始まると言っていいでしょう。
芥川龍之介は「サアカス」と書いた
精選版日本国語大辞典が「サーカス」の初出例に挙げるのは、芥川龍之介の小説『葱』(1920年)の一文です。「伊太利人のサアカス」と書かれていて、外来語としての呼び方はすでに大正期の小説に現れていたことが分かります。とはいえ看板や新聞が使う名前は、まだ曲馬団のままでした。
呼び名が変わったのは1933年
改訂新版世界大百科事典は、呼称が変わる転機を1933年に置きます。万国婦人子供博覧会を記念して来日した、ドイツのハーゲンベック・サーカス団の興行です。
猛獣を連れたハーゲンベックの興行
この一座は動物調教で世界に知られ、団員と多数の猛獣を引き連れて日本を回りました。各地で大人気を得たことで、「サーカス」という語がそのまま看板の言葉として広まります。大正まで曲馬団だったものが、昭和に入ってサーカスへ移った境目がここです。
丸太小屋から日本初の丸テントへ
日本の丸テントは、意外なほど新しいものです。戦前から戦後しばらくまで、興行小屋は丸太を組んで作られていました。
骨組みは飛行機の格納テントから借りた
1902年に大連で旗揚げした木下サーカスは、戦後もっとも早く丸テントへ切り替えた一座として知られます。同社の沿革には、その組み方がこう書かれています。
飛行機格納テントの骨格をそのまま用い、地上高くウインチで巻き上げて固定し、その周囲に軽い方流れのテントを張った。
木下サーカス「会社概要/歴史」
周囲の柱は丸太、布は9号の木綿帆布(はんぷ)でした。航空機を収める天幕の骨組みが、そのままサーカスの屋根に転用されたわけです。
4本マストは建てにくく2本に改めた
最初の丸テントは4本マストでしたが、組み立てに難があり、2年ほどで2本マストの形に改良されています。柱を減らせば設営は速くなり、そのかわり屋根は前後に伸びた長円に近づきます。日本初の丸テントは、建てやすさと形のあいだで一度やり直されていたのです。
空中ブランコは「ロシア飛び」と呼ばれた
丸テントとともに日本へ入ってきた芸に、空中ブランコがあります。こちらの出どころはヨーロッパで、日本には大陸経由で伝わりました。
パリで生まれた1859年の12分間
空中ブランコが世に出たのは1859年11月12日、パリの興行場シルク・ナポレオンでした。ジュール・レオタールという演者が、12分の演技のなかで空中の宙返りと、ブランコからブランコへの乗り換えを初めてやってみせます。体にぴたりと沿う稽古着が「レオタード」と呼ばれるのは、この人の名前が残ったからです。衣類の呼び名として定着したのは1880年ごろだとされています。
初代唯助がロシアで覚えた飛び方
木下サーカスの沿革によれば、初代唯助は大陸巡業の途中でロシアのサーカスを見学し、空中ブランコを習得したと語り継がれているそうです。ブランコの高さも飛距離も自分の目で何度も確かめたといいます。こうして持ち帰った芸はかつて「ロシア飛び」と呼ばれ、今もフィナーレを飾る演目として残っています。
丸いテントの下では、ローマの競走場も出てこないし、円形闘技場も関係ありません。あるのは、円を走れば馬の背に立てると気づいた元騎兵と、その円を布で覆う知恵だけです。キルクスという語が指していたのは、もともと輪でした。250年かけて、名前と形がようやく同じものを指すようになったのだと思います。
参考
- コトバンク「サーカス」(日本大百科全書/改訂新版 世界大百科事典/精選版 日本国語大辞典)
- Circopedia「Short History of the Circus」
- Philip Astley(フィリップ・アストリー顕彰プロジェクト)
- 木下サーカス「会社概要/歴史」
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