マラソンの42.195キロという数字が世界共通の決まりになったのは、1908年のロンドン五輪ではありません。国際陸上競技連盟がこの距離を標準として認めたのは、13年あとの1921年です。
ロンドンで測られた26マイル385ヤードは、その大会かぎりの数字でした。次の1912年ストックホルムは約40.2キロ、その次の1920年アントワープは約42.75キロ。同じ五輪の同じ種目でありながら、走る長さは大会ごとに違っていたのです。
距離がそろうまでに、四半世紀かかっている

初期の五輪マラソンで、いちばん短い回といちばん長い回の差は約2.75キロあります。フルマラソンを4時間で走る人なら、15分以上に相当する幅です。まずはその振れ方を、大会ごとに並べて見てみましょう。
| 大会 | 距離 | 備考 |
|---|---|---|
| 1896 アテネ | 約40km | 第1回。マラトンからアテネへ |
| 1900 パリ | 約40.26km | 市街地を回るコース |
| 1904 セントルイス | 約40km | 未舗装路と粉塵の悪条件 |
| 1906 アテネ | 約41.86km | 中間大会。現在は五輪として扱われない |
| 1908 ロンドン | 42.195km | 26マイル385ヤード |
| 1912 ストックホルム | 約40.2km | 1908年より2キロ短い |
| 1920 アントワープ | 約42.75km | 五輪マラソン史上最長 |
| 1924 パリ以降 | 42.195km | 1921年の標準化を反映 |
※ 中間大会(ちゅうかんたいかい)とは、1906年にアテネで開かれた大会のことです。当時は正式な五輪として開催されましたが、国際オリンピック委員会は現在これを公式の大会に数えていません。
1916年は第一次世界大戦のため中止となりました。表を縦に見ると、40キロ台前半で上下していた数字が1924年から一本の線に収まっています。その線が引かれるまでの経緯を、名前の由来からたどってみます。
名前のもとになった走りは、最も古い記録に出てこない

マラソンという名の出どころは、紀元前490年のマラトンの戦いです。勝利を伝えるためアテネまで走った伝令の話は広く知られていますが、この出来事を同時代にいちばん近い場所から記録した歴史家は、その走りについて何も書いていません。
| 記した人 | 時期 | 走者の名 | 走った区間 |
|---|---|---|---|
| ヘロドトス | 紀元前5世紀 | フェイディピデス | アテネ→スパルタ(約240km) |
| プルタルコス | 1〜2世紀 | テルシッポス、またはエウクレス | マラトン→アテネ |
| ルキアノス | 2世紀ごろ | フィリッピデス | マラトン→アテネ(告げて絶命) |
| ブラウニングの詩 | 1879年 | フェイディピデス | 両方を一人の物語に統合 |
走者の名前も、走った区間も資料ごとに食い違う。しかも時代が下るほど、話はきれいに整っていきます。その順に見ていきます。
ヘロドトスが書いたのは、スパルタへの使いだった
二日で240キロを往復した男
戦いの30年から40年ほどあとに書かれたヘロドトスの記述に登場するのは、アテネからスパルタへ向かった走者です。援軍を求めるための使いで、その距離はおよそ240キロ。ヘロドトスは「アテネを発った翌日にスパルタへ着いた」と記しています。
今のマラソンの5倍を超える道のりを、山越えで駆け抜けた計算になります。ところがこの箇所には、マラトンからアテネへ走って勝利を告げたという話が一行も出てきません。
途中で神に呼び止められる場面まで書いてある
ヘロドトスはこの走者について、パルテニオン山で牧神パンに出会った逸話まで書き添えています。パンは「自分は役に立ってきたのにアテネ人は自分をないがしろにしている」と不平を述べたのだそうです。
神との遭遇という細部まで書き残す筆が、勝利を告げて息絶えた伝令については沈黙している。この不釣り合いが、後世の研究者にとって重い意味を持ちます。
「マラトンからアテネへ」の初出は、およそ500年後
プルタルコスは走者を別の名前で書いている
マラトンからアテネへの走りが記録に現れるのは、紀元後1世紀から2世紀のプルタルコスの文章が最初とされます。『アテネ人の名声について』の中で、彼はすでに失われた先行の著作を引きながらこの逸話を紹介しました。
ただし走者の名は「エルキアのテルシッポス、あるいはエウクレス」。私たちが知っているフェイディピデスという名前ではありません。出来事から500年以上が経ってから、しかも別人の名で書かれた話なのです。
「われら勝てり」が加わるのはさらに1世紀あと
今の物語にいちばん近い形を書いたのは、プルタルコスからおよそ100年後のルキアノスです。勝利を告げて倒れ、そのまま息絶えるという筋立てがここで出そろいます。
もっともルキアノスは風刺で知られる書き手でもあり、この記述の史実性には疑問が呈されてきました。研究者のあいだでは、後世の創作である可能性が高いと見る立場が有力です。
今の形にまとめたのは19世紀の詩だった
1879年、二つの話が一人の走者に重なる
スパルタへの使いと、マラトンからの報告。別々だった二つの話を一人の人物の物語としてつなげたのが、ロバート・ブラウニングが1879年に発表した詩『フェイディピデス』です。
この詩が19世紀末のヨーロッパで広く読まれ、伝令の逸話は史実のように受け取られていきました。近代マラソンの誕生は、その熱がいちばん高かった時期と重なります。
名前そのものも一つに定まっていない
走者の名前にも揺れがあります。ヘロドトスの写本の多くは「フェイディピデス」ですが、パウサニアス・プルタルコス・ルキアノスはいずれも「フィリッピデス」と書きました。
写字生の書き誤りとする見方もあれば、意図的な変形とする見方もあります。名前も、走った区間も一致しない。死んだかどうかさえ、資料をさかのぼるほど像がぼやけていきます。
競技そのものが、1894年の提案から生まれた

マラソンは古代ギリシャの競技ではありません。古代の祭典にこの種目は存在せず、1894年にフランス人が提案してはじめて生まれた新しい種目です。
言い出したのは陸上関係者ではなく言語学者
1894年9月15日の手紙
提案者はミシェル・ブレアル。言語の歴史を研究するフランスの言語学者でした。国際オリンピック委員会の創立総会に出席した直後、1894年9月15日付でクーベルタンに手紙を送り、伝令の故事にちなむ長距離走を新種目として提案します。
スポーツの実務家ではなく、言葉と古代の物語に通じた学者の思いつきだった。この出自が、種目名の付き方にも表れています。
当時の陸上競技は1500メートルまでだった
ブレアルの提案がなければ、1896年の第1回大会に1500メートルを超える走種目は組まれていませんでした。長すぎる距離を走らせることはスポーツの精神に反する、という反対意見もあったと伝えられます。
つまりマラソンは、当時の陸上競技の常識からはみ出した種目として始まりました。40キロという長さそのものが、最初から例外だったことになります。
1896年アテネの約40キロ
優勝したのは水運びで生計を立てていた青年
第1回大会のコースは、マラトンからアテネの競技場までのおよそ40キロ。優勝したのはギリシャのスピリドン・ルイスで、記録は2時間58分50秒でした。水を運ぶ仕事をしていた無名の青年が、自国開催の花形種目を制したことになります。
その年の3月22日に行われた選考レースでは、カリラオス・バシラコスが3時間18分で勝っています。初期の記録が今より1時間近く遅いのは、道の状態と補給の考え方が今とはまるで違ったためです。
提案者は銀の杯を用意していた
ブレアルは提案するだけでなく、パリの宝飾職人に優勝者用の銀杯を作らせました。この杯はルイスの手に渡り、後年まで一家に伝えられます。
新種目を思いつき、賞品まで自分で用意する。学者の私的な熱意から始まった競技が、100年以上たっても世界中で走られているわけです。
1908年ロンドンの、26マイル385ヤード

問題の42.195キロが走られたのは、1908年7月24日のロンドン五輪です。国際オリンピック委員会が示していた目安は「約25マイル、または40キロ」でしたが、実際に設定されたコースはそれより2キロ以上長くなりました。
ウィンザー城の芝生から、競技場のトラックへ
55人が出て、27人が着いた
スタートはウィンザー城の東側の芝生。ゴールはロンドン西部に建てられたホワイトシティ競技場です。16か国から55人が出走し、完走は11か国の27人にとどまりました。
王室の許可を得て城の敷地からスタートさせるという発想が、結果として世界標準の数字を生むことになります。ただし、そこに385ヤードが加わった理由は、後述するようにはっきりしていません。
先にゴールした男が失格になった大会
この大会は、競技場に最初に入ったイタリアのドランド・ピエトリが何度も倒れ、係員に助け起こされて2時間54分46秒でゴールしたことでも知られます。援助を受けたとの抗議が認められ、彼は失格となりました。
優勝は2時間55分18秒のジョニー・ヘイズ。ピエトリの姿が新聞や絵葉書で世界に広まり、マラソンという種目の知名度を一気に押し上げたと言われています。
385ヤードが付いた理由は、はっきりしない
よく語られる王室の話には、裏づけが見つかっていない
広く流布しているのは「王妃が子どもたちに見せるため城の窓の下からスタートさせ、ゴールを貴賓席の正面に合わせたので385ヤード伸びた」という説明です。日本語の解説記事でも、この形でよく紹介されます。
ところがオリンピック史の研究者からは、この話を裏づける証拠が見つからないとして「神話」と呼ぶ指摘が出ています。スタートの合図を王女が務めたことは事実とされますが、それは当日の成り行きに近く、距離とは関係がないという見方です。
走る向きを変えた結果とする説明もある
別の説明では、競技場内は当初トラック1周ぶんを走る計画で、その距離は586ヤードほどありました。観客から見やすいよう走行方向を時計回りに変え、入場口も変更した結果、トラック部分が385ヤードに縮まったとされます。
王室の要望なのか、動線の都合なのか。国際オリンピック委員会の博物館でさえ「なぜこの半端な距離が選ばれたのか、連盟の記録は説明していない」と認めています。世界でいちばん有名な数字の由来が、実のところ確定していないのです。
1921年、いくつもの数字から一つが選ばれた

ばらばらだった距離を一本化したのは、1921年5月の国際陸上競技連盟の決定です。ここで42.195キロが、以後すべてのマラソンの標準として採用されました。
※ 国際陸上競技連盟(IAAF)とは、1912年に設立された陸上競技の国際組織です。2019年に名称をワールドアスレティックスへ変更しました。
記録を比べるために、長さをそろえる必要があった
距離が違えば、タイムは並べられない
40キロと42.75キロでは、同じ「マラソンの記録」として比較できません。1920年アントワープで出たタイムは、1912年ストックホルムより2.55キロ長い道のりを走った結果です。大会や国をまたいで選手を選ぶには、まず物差しをそろえる必要がありました。
統一を求める声は、主催者・選手・各国の連盟の側から上がっていたと説明されます。1921年の決定は、その要求への回答という位置づけになります。
なぜ1908年の数字だったのかは、記録に残っていない
選択肢は他にもありました。第1回の約40キロという切りのよい数字も、直近の1920年の42.75キロもあったのです。それでも選ばれたのは、13年前の一度きりのコースで測られた端数付きの数字でした。
その理由を書いた記録は残っていないとされます。ロンドン大会が規模の大きい大会だったことや、ピエトリの一件で強く記憶されていたことが影響したとする推測はありますが、いずれも推測の域を出ません。
すでにあった大会が、数字のほうに合わせていった
ボストンはスタート地点を町ひとつ分ずらした
1897年に始まったボストンマラソンは、当初24.5マイル(約39.4キロ)のコースでした。標準に合わせるため、1924年に26マイル385ヤードへ延長し、スタート地点をアッシュランドからホプキントンへ西に移しています。
1924年はパリ五輪の選考を兼ねた年でもありました。世界のあちこちにあった「だいたい40キロの長距離走」が、この時期に一斉に同じ長さへ揃えられていきます。
「1908年からずっと同じ」という説明は事実と合わない
マラソンの由来を紹介する文章では、「1908年以降の五輪はすべて26マイル385ヤードで行われている」という一文をしばしば見かけます。しかし冒頭の表のとおり、1912年は約40.2キロ、1920年は約42.75キロでした。
大会記録という一次情報に当たれば、すぐに食い違いがわかる主張です。有名な逸話ほど、確かめられないまま繰り返されていくのだと気づかされます。
数字のほうを、もう少し細かく見る

42.195キロは、繰り上げて丸めた数字
26マイル385ヤードを現在の換算で計算すると、1マイル1609.344メートル、1ヤード0.9144メートルですから42194.988メートルになります。42.195キロは、そこから小数点以下を繰り上げた値です。
差は1.2センチほど。ヤード・ポンド法で決まった長さをメートル法で書き直したために、割り切れない端数が残りました。
公認コースは、必ずわずかに長く測る
コースの計測は、選手が通れる範囲でいちばん短い経路(縁石から30センチ内側を通る線)に沿って行われます。そのうえで「短計測防止係数」として1.001が掛けられる決まりです。
※ 短計測防止係数とは、計測に使う自転車のふらつきや路面の避けなどで実際より短く測ってしまう事故を防ぐための係数です。1キロを1001メートルとして測るため、公認コースは規定より数十メートル長くなります。
つまり公認レースのコースは、42.195キロぴったりではなく、必ず少しだけ長い。1908年の端数にこだわって統一した距離を、現代の計測はあえて上振れさせて守っているわけです。
「マラトン」はウイキョウの生える土地
地名マラトンは、ギリシャ語でウイキョウを指す語に由来し、その草が茂る土地を意味すると説明されます。ウイキョウは英語でフェンネル。魚料理の香りづけやハーブティーでおなじみの、セリ科の植物です。
ただし語源そのものは確実ではなく、外来語の可能性を指摘する言語学者もいます。世界中の人が口にする競技名の根が、野原の草の名前かもしれないというのは愉快な話でしょう。
40.2キロの大会に出た、日本人第一号
距離が定まる前の1912年ストックホルム大会に、日本から金栗四三(かなくり しそう)が出場しています。記録的な暑さのなか26.7キロ地点で意識を失って倒れ、近くの農家で介抱されました。目が覚めたのは競技が終わった翌朝だったといいます。
棄権の意思が大会側に伝わっておらず、彼は記録上ずっと「競技中」のままでした。1967年3月21日、55周年の式典に招かれてゴールした際のアナウンスは「タイム、54年と8か月6日5時間32分20秒3」。日本のマラソンの父と呼ばれる人物は、距離がそろう前の時代を走っていたことになります。
1921年の会議で第1回大会の約40キロが採られていたなら、ゴールゲートに掲げられる数字は切りのよい二桁だったかもしれません。42.195という半端さに神話的な意味はなく、ある夏の日に一度だけ測られた道のりが、たまたま生き残っただけでした。走る人の足が刻んでいるのは伝説の距離ではなく、1908年のロンドンで出た測量の結果なのです。
参考
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