ヨーヨーの発祥を一つの国に決めることは、今のところできません。いちばん古い証拠が残っているのは古代ギリシャで、紀元前440年ごろの壺に、ヨーヨーで遊ぶ少年が描かれています。ただし今わたしたちが手にする「糸の先で空回りし、しゃくると戻ってくる」あの形は、1920年代のアメリカで生まれました。作ったのはフィリピンから来た移民です。
そして「ヨーヨーはもともとフィリピンの武器だった」という有名な話には、裏づけがありません。むしろ、この話がいつ誰の口から広まったのかのほうが、はっきり分かっています。広めたのは歴史家ではなく、ヨーヨーを売っていた玩具会社の実演販売員たちでした。
発祥をめぐる三つの説と、その根拠

どの説がどこまで確からしいのか、根拠と弱点を並べてみます。三つは対等な候補ではありません。残っている証拠の種類が、それぞれ違うのです。
| 説 | 言われる時期 | 根拠 | 弱いところ |
|---|---|---|---|
| 古代ギリシャ | 紀元前440年ごろ | 壺絵と素焼きの円盤が現存 | それ以前は不明。発明の地とまでは言えない |
| 古代中国 | 紀元前1000年ごろ | よく紹介される定番の説 | 中国側にヨーヨーの記録が見あたらない |
| フィリピン | 十数世紀前から | 近代ヨーヨーの直接の親 | 古代までさかのぼる証拠はない |
古い順に並べると中国が先に来ますが、証拠の強さで並べ替えると順番は入れ替わります。以下ではその理由を一つずつ見ていきます。
いちばん古い証拠は古代ギリシャにある

ヨーヨーで遊ぶ人の姿として現存する最古のものは、紀元前440年ごろのギリシャの器に描かれた少年です。絵だけでなく、当時の素焼きの円盤そのものも出土しています。約2500年前には、この遊びがすでに子どもの日常にあったわけです。
紀元前440年ごろの器に描かれた少年
問題の絵は、キュリクスと呼ばれるワイン用の平たい杯に描かれています。少年が片手に糸を持ち、その先で円盤が回っている構図です。
※ キュリクス(kylix)とは、古代ギリシャで酒宴に使われた、浅くて口の広い足つきの杯のことです。内側や外側に人物の絵が描かれることが多く、当時の暮らしを知る資料になっています。
現物はベルリンの古代美術館にある
この杯はアッティカ地方で作られたもので、現在はベルリンの古代美術館(アンティケンザムルング)に収蔵されています。整理番号はF 2549で、ヨーヨーの歴史を語る文章ではほぼ必ず引き合いに出される一点です。
素焼きの円盤そのものも見つかっている
絵だけなら「似た別の道具では」と疑う余地が残りますが、テラコッタ製の円盤が実物として出土している点が大きいところです。ヨーヨー遊びを描いた壺と素焼きの円盤は、アテネの博物館にも展示されているとされます。当時の素材は木や素焼きだったと考えられています。
大人になる節目に、玩具を神へ納めた
なぜ2500年前の玩具が形として残ったのか。ここには古代ギリシャの習わしが関わっているとされます。
子ども時代の遊び道具を祭壇に置く習わし
古代ギリシャでは、子どもが大人の仲間入りをする節目に、それまで使っていた玩具を神に捧げる風習があったと伝えられています。ヨーヨーもその対象でした。手放された玩具が祭壇や神域に納められ、結果として土の中に残ったというわけです。
壺絵は子どもの日常を映す場でもあった
ギリシャの壺絵というと神話や英雄が思い浮かびますが、描かれたのはそれだけではありません。水を汲む女性、走る犬、遊ぶ子ども。日常の断片が同じ筆で残されています。ヨーヨーの少年も、その一枚として今に伝わりました。
ギリシャが発明したとまでは言い切れない
最古の証拠があることと、そこで発明されたことは別の話です。研究者がギリシャ起源を断言しないのには理由があります。
割れやすい素焼きは実用品ではなかった可能性
出土したテラコッタの円盤については、日常的に振り回して遊ぶには脆すぎる、という指摘があります。奉納用に作られた飾り、つまり本物の玩具を模したものだった可能性も残るのです。そうだとすれば、実際に遊ばれていた品は別にあったのでしょう。
木で作られたものは土に残らない
もう一つの事情は、素材の側にあります。当時の玩具の主流は木だったと考えられていますが、木は数千年の間に腐って消えます。残ったのがたまたま焼き物と絵だっただけ、という可能性は消せません。考古学では「無い」ことが「存在しなかった」証明にならない場面がよくあります。
中国起源説は何を根拠にしているのか

「紀元前1000年ごろの中国が発祥」という説明は、ヨーヨーの紹介記事でしばしば最有力として登場します。ところが、その根拠をたどると中国側の記録には行き着きません。引き合いに出されているのは、ヨーヨーではなく別の玩具です。
紀元前1000年という数字の出どころ
この年代は、中国の古い遊戯の記録から引かれたものです。ただし、そこに書かれている玩具の名はヨーヨーではありません。
中国側にヨーヨーそのものの記録が見あたらない
ヨーヨーの歴史をまとめた資料は、中国起源説を紹介しつつ「中国にヨーヨー自体の記録がない」とはっきり書いています。似た道具の記録があるだけ、という状態です。古い年代の数字だけが一人歩きしている格好になります。
引き合いに出されるのは空竹という玩具
記録があるのは空竹(くうちく)、日本語でいう中国ゴマのほうです。鼓のような形の胴を、二本の棒に渡した糸の上で回します。ジャグリングの道具「ディアボロ」の元になった遊びで、こちらは確かに中国で古くから親しまれてきました。
空竹とヨーヨーは動かし方が違う
名前が似ているせいで同じ系統に見えますが、二つは遊びの原理からして別物です。並べるとその差ははっきりします。
| 道具 | 糸の使い方 | 回転の作り方 |
|---|---|---|
| ヨーヨー | 軸に巻きつける | 落として巻きをほどき、しゃくって巻き戻す |
| 空竹・ディアボロ | 二本の棒に渡して上に載せる | 糸をこすらせて加速させ、載せたまま回し続ける |
糸を巻き取る道具と、糸の上で回す道具
ヨーヨーの面白さは、ほどけた糸がふたたび巻き戻るところにあります。一方の空竹は、糸の上で回り続けることが眼目で、巻き取るという動作そのものがありません。似ているのは「回る」という一点だけです。
日本には平安時代に輪鼓として入っていた
この空中独楽は輪鼓(りゅうご)の名で平安時代に日本へ伝わり、鎌倉時代には庶民の玩具として広まっていたとされます。ヨーヨーの日本上陸が江戸時代なので、中国ゴマのほうが数百年早い計算です。別系統の道具が、別の時代に、別の名前で入ってきました。
チャイニーズヨーヨーという呼び名の副作用
混同を後押ししたのが呼び名です。英語圏では空竹を「チャイニーズヨーヨー」と呼び、日本語でも中国ゴマ・空中ゴマ・ディアボロと呼び方が割れています。中国の古い玩具=中国のヨーヨーという図式が、翻訳を経て「ヨーヨーは中国生まれ」に化けていったとしても不思議ではありません。呼び名は、無関係な二つの歴史を静かにつなげてしまいます。
武器だったという話に根拠はあるのか

ヨーヨーの雑学として最も有名なのが、フィリピンの狩りの道具・武器だったという話です。これを裏づける記録は、どこにも見つかっていません。話の出どころのほうは、かなり具体的に特定されています。
語られている筋書き
どんな話として流通しているのかを、まず確認しておきましょう。細部は語り手によって変わりますが、骨格はおおむね共通しています。
木の上から重りを落として獲物を仕留めた話
典型的な筋書きはこうです。フィリピンの狩人が木の上に潜み、丈夫な紐をつけた重りを獲物めがけて落とす。外れても紐を手繰れば手元に戻るので、何度でも狙える。この「戻ってくる武器」がのちに玩具になった、と続きます。
16世紀の実在した狩りとの混同
興味深いのは、元になった事実らしきものが実在する点です。16世紀のフィリピンでは、鋭い石を紐に結んで樹上から獲物を狙う狩りが行われていたと伝えられます。この狩りの記憶と、近代ヨーヨーの生まれ故郷がフィリピンだという事実。二つが重なって一つの物語になった、と考えられています。
戻ってくる理由を考えると成り立たない
この説がしりぞけられる決め手は、記録の有無よりも物理のほうにあります。ヨーヨーが手元に返る仕掛けを考えると、武器としては機能しません。
返ってくるのは糸が軸につながっているから
ヨーヨーが戻るのは、回り続ける本体に糸が巻き取られるからです。投げた勢いではなく、残っている回転が糸を巻き上げて本体を引き上げます。一般的なヨーヨーの糸は1メートル前後で、これを超える距離には届きません。獲物に届く距離を投げれば、それはもう別の道具です。
何かに当たれば回転はその場で止まる
仮に届いたとしても、獲物に命中した瞬間に回転は失われます。回転が消えれば糸を巻き上げる力も消えるので、本体は地面に落ちるだけです。当てれば戻らず、戻るなら当たっていない。武器としては、この二つを同時に満たせません。
広めたのは1930年代の実演販売員
では、この話はどこから来たのか。ヨーヨーの歴史研究が指す先は、古代のフィリピンではなく1930年代のアメリカです。
実演者の多くがフィリピン出身だった
当時アメリカ最大のヨーヨー会社だったダンカン社は、街頭での実演販売を宣伝の柱にしていました。腕利きの実演者はフィリピン出身者が多く、彼らの口から「これは祖国で武器として使われていた」という由来話が語られたとされています。武器説は、この宣伝の副産物として広まった都市伝説だと説明されています。
商品の物語としては、よくできていた
売り手の立場で見れば、これは強い物語です。ただの木の玩具が、異国の戦いの道具の末裔になる。子どもが手にしているのは、かつて獲物を仕留めた技の名残ということになります。ダンカン社は最盛期の1962年に4500万個を売ったとされ、その数だけ物語も配られた計算です。商品に歴史の厚みを与える話は、事実かどうかとは別の速さで広まっていきました。
「ヨーヨー」という名前はどこの言葉か

名前についても、広く信じられている説明と、研究者の見解がずれています。よく語られるのは「タガログ語で来い来いという意味」という説ですが、こちらも裏づけは強くありません。
「来い来い」説の弱いところ
戻ってくる玩具に「来い来い」という名がついた、という説明は確かに魅力的です。ただし、この意味づけを裏づける古い用例が示されたことはありません。
印刷物での初出は1860年の辞書
「yo-yo」という語が活字に現れる最初の例は、1860年に編まれたフィリピンの言語の辞書だとされます。来い来い説は後年の解説として広まったもので、語そのものの由来は今も確定していません。
研究者が挙げるのはイロカノ語
言語の側から調べた研究では、フィリピン北部で話されるイロカノ語の「yóyo」に由来するという見方が有力です。タガログ語という説明とは、そもそも指している言語が違います。フィリピンには百を超える言語があり、どれか一つを国の言葉として当てはめると、こうしたずれが起きます。
ヨーヨーと呼ばれる前の名前
この玩具がヨーヨーという名で呼ばれるようになったのは、20世紀に入ってからです。それ以前のヨーロッパでは、まったく別の名前で流行していました。
18世紀フランスの「エミグレット」
1700年代のフランスでは、この玩具が上流階級の間で流行しました。呼び名は「エミグレット(l’émigrette)」や「アンクロワイヤブル」など複数あり、亡命や流行を思わせる語が当てられています。革命期の空気がそのまま玩具の名前になったわけです。
19世紀イギリスの「バンダロー」と1866年の特許
1800年代の英語圏では「バンダロー(bandalore)」が通り名でした。アメリカでは1866年に、オハイオの二人の発明家が金属製のこの玩具で特許を出願しています。技術としては、近代ヨーヨーより60年以上早く出願されていたことになります。
商標から普通名詞になるまで
「ヨーヨー」は一時期、一社だけが使える商標でした。今わたしたちが何気なく使えるのは、裁判でその独占が解けたからです。
1930年代に商標となり、他社は別の名で売った
ダンカン社は1930年代のはじめに「yo-yo」を商標として登録しました。以後、他社はこの玩具を「リターニングトップ(戻る独楽)」などと呼ばざるをえなくなります。同じ物なのに名前を使えないという、奇妙な状態が30年以上続きました。
1965年の判決で独占が解けた
決着したのは1965年、ダンカン社と競合のロイヤルトップス社が争った控訴審です。裁判所は、yo-yoという語はすでにこの玩具を指す一般的な言葉になっていると判断しました。商標としての価値を失ったダンカン社は、そのまま経営に行き詰まったと伝えられます。売りすぎて名前を失う、という皮肉な結末でした。
日本ではいつから遊ばれていたのか

日本にヨーヨーが入ってきたのは江戸時代の中ごろで、当時は「手車」「あまのつりごま」と呼ばれていました。カタカナのヨーヨーとして再上陸するのは昭和に入ってからです。つまり日本では、同じ玩具が二度別の名前で流行しました。
江戸の手車とあまのつりごま
18世紀に中国を経て長崎へ渡り、そこから上方へ広まったとされます。記録は浮世絵にも随筆にも残っています。
享保年間の上方で売られた、土製の菊花形
享保年間(1716〜36年)には「お蝶殿の手車」の名で上方の人々に親しまれていました。土を焼いた菊の花の形の器を二つ合わせた作りで、素材からしても今のヨーヨーとはずいぶん違います。伴蒿蹊(ばんこうけい)の『近世畸人伝』には、享保の初めごろ京で手車を売り歩く老人の記事が載っているそうです。
浮世絵と随筆に残る江戸の記録
明和7年(1770年)の鈴木春信の浮世絵『よし原美人合わせ』には、手車で遊ぶ姿が描かれています。嘉永6年(1853年)に成った喜田川守貞の『守貞謾稿(もりさだまんこう)』では「あまのつりごま」の名で江戸の玩具として紹介されました。天から吊られた独楽という見立てで、糸で上下する動きをよく言い表しています。
昭和七年から八年の大流行
二度目の波は昭和に入ってからで、洋行帰りの教員がアメリカから持ち帰ったことがきっかけと伝えられます。この流行は勢いも収まり方も極端でした。
1個10銭、親が学校に禁止を訴えた
最初に飛びついたのはモダンボーイやモダンガールで、やがて小学生にまで一気に広がりました。1個10銭のヨーヨーをねだられ続けた親が、学校に禁止を訴え出たという話まで残っています。小田原の近郊では1日に3万個を作っていた記録があり、供給側の熱も相当なものでした。
議事堂の警備中に遊んだ警官が免職に
同じころ、国会議事堂の警備中にヨーヨーで遊んでいた警察官が懲戒免職になる事件が起きています。大人までがそれだけ夢中になったということでしょう。ところがブームは翌年の初夏にはもう沈静化しており、実質1年ほどで過ぎ去りました。
1997年のハイパーヨーヨー
三度目の波は、1997年4月にバンダイが始めたハイパーヨーヨーの展開です。規模でいえば、ヨーヨーの歴史上最大のブームになりました。
最初の2年で2700万個
ブーム開始から2年で2700万個を売り上げ、量販店では品切れが続きました。1998年4月4日のイベントには約4万人が集まり、以後この日は「ヨーヨーの日」と呼ばれるようになります。技を競う文化が根づいたのもこの時期で、のちの競技シーンにつながりました。
震災の年に見直された「電気のいらない玩具」
意外な再評価もありました。2011年の東日本大震災のあと、電力を使わずに遊べる玩具としてハイパーヨーヨーがあらためて注目され、当時の展開が一気に伸びたと記録されています。2500年前と同じく、糸と円盤だけで成立する道具の強みです。
ヨーヨーをめぐる小さな話

最後に、本筋から少し外れる話をいくつか。どれも、この単純な玩具がどこまで行ったかを示しています。
スペースシャトルに乗って宇宙へ行った
ヨーヨーは宇宙飛行を2度経験しています。1985年4月12日のディスカバリー号では無重力での挙動を調べる実験に使われ、1992年7月31日のアトランティス号では教育用の映像記録のために持ち込まれました。重力がないので落ちていかず、糸の端まで進んだら跳ね返るように戻ってきます。
30分以上回り続けた世界記録
糸の先で空転させ続ける「スリープ」の記録は、2012年に香港の競技者が出した30分28秒30とされています。手を離してから30分、円盤は回り続けた計算です。江戸の土製の手車からは想像もつかない領域です。
1929年、手彫りで1日30万個
近代ヨーヨーの父であるペドロ・フローレスは、1928年にカリフォルニア州サンタバーバラで製造を始めました。翌1929年にはロサンゼルスとハリウッドの工場で従業員600人を抱え、1日30万個を作るまでになっています。彼の発明は糸を軸に結ばず輪にして掛けたことで、これによって本体が下で空回りし、複雑な技が可能になりました。
武器だったという話も、来い来いという語源も、後から付いてきた飾りでした。中国起源説も同じです。その飾りを一枚ずつ外していくと、紀元前の少年が手にしていたものと今日の競技者が回しているものが、同じ形で残ります。糸と円盤、それだけです。2500年かけて世界中を巡り、名前も持ち主も入れ替わったのに、道具のほうはほとんど変わっていません。
参考
- 日本玩具博物館「『ヨーヨー』と『手車』」
- YO-YO.JP ラッキー・マイゼンハイマー著「ヨーヨーの歴史」日本語訳
- The Strong National Museum of Play「Out of this World: A Brief History of the Yo-Yo」
- 一般社団法人日本ヨーヨー連盟「ヨーヨーとは」
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