扇子と団扇は何が違うのか、たためる扇は役人のメモから生まれた

文化と価値観の話
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扇子と団扇のいちばんの違いは、折りたためるかどうかです。この一点だけが決め手で、ほかの特徴はそこから枝分かれしています。

そして出自も別です。団扇は古代の中国やエジプトまでさかのぼる古い道具で、日本へは大陸から入ってきました。いっぽう折りたためる扇のほうは平安時代の日本で生まれたとされています。しかもその最初の姿は、涼をとる道具ですらありませんでした。役人が儀式の手順を書きつけた木の札を、ひもでとじて束ねたもの。それが扇子の祖先です。

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扇子と団扇はどこで分かれるのか

違うのは折りたためるかどうかの一点だけ。その一点が構造や出自にどこまで効いているかを、下の表で追ってみます。

折りたたんで閉じた扇子のイラスト
見るところ扇子団扇
折りたたみできるできない
生まれた場所平安時代の日本とされる古代の大陸から伝わった
骨の組み方要(かなめ)で骨をとめ、折った紙を貼る柄から骨が放射状に広がり、紙を貼る
得意なこと持ち歩く・儀礼・芸能の所作広い面でしっかり風を送る
漢字の意味扇=軽い戸(とびら)団=丸い

折りたためるかどうかが唯一の決め手

素材でも大きさでも用途でもなく、たためるかどうか。ここだけが両者を分けます。竹と紙でできている点も、風を送る点も共通しているので、残るのは畳む機構の有無だけなのです。

骨をまとめる「要」があるかどうか

扇子は端にあけた穴へ小さな釘を通し、骨を一点でまとめています。この釘が「要(かなめ)」です。団扇には要がなく、柄から骨がそのまま広がっていくので、開いたままの形しか取れません。

たためる扇は懐に入る

畳めば細い棒になるため、袖や懐に差して持ち歩けます。この携帯性が、扇子を「あおぐ道具」から「身につける道具」へ押し上げました。儀礼の場で手に持ち、贈り物にもなったのは、しまえる形だったからです。

「扇」と「団扇」は字の成り立ちが違う

漢字を分解すると、二つの道具が別々の発想から名づけられたことが見えてきます。片方は動きから、もう片方は形から来た名前です。

「扇」はもともと軽い戸を指した

「扇」の字は「戸」と「羽」でできています。もとは軽い戸、つまり開け閉めするとびらを表す字でした。羽のようにぱたぱたと動く板戸から、あおぐ道具の意味へ広がったとされています。

「団扇」は丸い扇と書いて「うちわ」と読む

「団」には「丸い」という意味があります。つまり団扇とは、字の上では「丸い扇」。ただし「うちわ」という読みは字の意味とつながっておらず、日本語の「うちわ」に漢語を当てた読み方です。

風を起こす力は団扇のほうが強い

涼しさだけを比べるなら、勝つのは団扇です。それでも扇子が消えなかったのは、風以外の役割を引き受けたからでした。

面積と柄の長さが効く

団扇は面が途切れておらず、柄が長いぶん大きく振れます。切れ目のない一枚の面をまるごと使えるので、同じ力なら送れる風の量が多くなります。夏祭りの屋台や七輪の前で団扇が選ばれるのは、この単純な理由からです。

扇子は風より所作の道具になった

能や日本舞踊では、扇子が刀にも杯にも手紙にも見立てられます。落語家が持つ扇子も同じです。そばをすする箸になり、煙管になり、釣り竿にもなります。風を送るためだけの道具なら、こうした役は回ってこなかったでしょう。

団扇の出発点は「翳」という長柄の道具

団扇のもとをたどると、涼しさとは無関係の道具にたどり着きます。翳(さしば)と呼ばれる、長い柄のついた大きな面です。

朝顔の絵が描かれた団扇のイラスト

翳は顔を隠すための道具だった

翳は古代中国で、位の高い人のそばで従者が掲げるものでした。あおぐのではなく、姿を隠します。見えないことが尊さの演出になっていたわけです。

隠すことが権威の演出になった

今の団扇よりずっと大きく、柄も長いのが翳の特徴です。高貴さと神秘性を増すために顔をさえぎり、あわせて虫やわざわいを払う道具でもあったとされています。役割としては、うちわよりも日傘や几帳(きちょう)に近いものでした。

高松塚古墳の女子群像も手にしている

奈良県の高松塚古墳の西壁に描かれた女子群像、いわゆる「飛鳥美人」。その先頭に立つ女性が持っているのが、団扇または翳だと見られています。群馬県の大室古墳群などからは、翳をかたどった六世紀の埴輪も出土しました。

「うちわ」という呼び名はどこから来たのか

「団扇」は当て字なので、語源は漢字の外にあります。有力なのは、翳という言葉そのものを含んだ説です。

「打つ翳」とする説が一般的

大きな翳に対し、実用的な小型の翳を区別して呼んだ。それでハエや蚊などの虫を打ち払うことから「打つ翳」となり、「うちわ」になった——というのが一般的な説とされています。翳は「は」とも読み、この読みが語尾に残った形です。

「打ち羽」と書く説もある

もう一つ、鳥の羽を束ねたものを打ち振ったことから「打ち羽」だとする説も伝わります。どちらの説も「打つ」を共有しているのが面白いところで、名前の由来はあおぐ動作ではなく、払う動作のほうにありました。

あおぐ団扇になったのは室町時代の末

今わたしたちが思い浮かべる、竹の骨に紙を貼った軽い団扇。この形が定着したのは室町時代の末だとされています。

竹の骨と紙で軽く作れるようになった

軽くて扇部がへたらない構造として、竹骨と紙の組み合わせが選ばれました。庶民が気軽に持てる値段になったのはここからで、江戸の安政年間(一八六〇年ごろ)には年間八十万本が作られていたといいます。

軍配団扇は板や鉄で堅く作られた

同じころ、まったく逆方向に進化した団扇もあります。戦国時代以降の軍配団扇です。漆塗りの網代(あじろ)や革、板、薄い鉄板まで使って堅固に作られました。あおぐためではなく、指図と身を守るための道具。相撲の行司が持つ軍配は、その名残です。

扇子の始まりは役人が束ねた木の札

いっぽう扇子のほうは、団扇とはまるで違う場所から出発しました。宮中の事務です。

笏を手にした平安時代の公家のイラスト

木簡をとじたものが檜扇になった

最初に現れた扇は檜扇(ひおうぎ)と呼ばれます。長さ三十センチほどで、幅二〜三センチの薄い檜の板を重ねたもの。奈良時代から平安時代の初めごろに姿を見せました。

※ 木簡(もっかん)とは、紙が貴重だった時代に文字を書きつけるのに使われた、短冊形の細長い木の札のことです。

儀式の手順を持ち歩く必要があった

宮中の儀式は次第(しだい)が細かく、役人は手順の覚書を持ち歩かなければなりませんでした。そこで木簡を何枚も並べ、端に穴をあけてひもでとじる。めくれば読めて、たためば束になる。この工夫が檜扇の始まりだという説が有力です。

紙が貴重だった時代の解決策

つまり扇子の祖先は、涼をとる道具ではなくメモ帳でした。手帳を綴じるリングの位置に、のちの「要」が来ている。そう考えると、扇子のかたちが少し違って見えてくるでしょう。

現存する最古の檜扇は八七七年のもの

実物もいくつか残っています。土の中から出たものと、寺に伝わったもの。最古とされる品はそれぞれ別です。

平城京跡からも出土している

発掘品では平城京跡から出たものが現存最古とされ、長屋王邸の跡からは年号を記した木簡とともに檜扇が見つかっています。木簡と扇が同じ場所から出てくるのは、起源の説と符合する取り合わせです。

東寺の千手観音像の中から見つかった

伝えられてきた品のほうでは、京都・東寺の千手観音像を修理していたときに腕の中から出てきた檜扇が最古です。元慶元年(八七七年)と記されていました。像の中に納められたまま、千年以上も人目に触れなかったことになります。

板の枚数が身分を示していた

檜扇は誰が持ってもよい道具ではありませんでした。板の数まで決まっていたのです。

男性は二十五橋、女性は三十八橋前後

檜扇の板は「橋(きょう)」という単位で数え、八橋で「一重」としました。成人男性用は二十五橋、女性用は三十八から三十九橋というのが決まりです。男性用は白木に白糸、女性用は彩色を施したものというように、見た目も分けられていました。

紙を貼った蝙蝠扇が夏の扇になった

平安時代の中ごろまでには、五本か六本の細い骨に紙を貼った蝙蝠扇(かわほりおうぎ)が夏の扇として現れます。骨が透けて見える様子がコウモリの翼に似ていたための名で、これが今の扇子の原型です。天禄四年(九七三年)には、扇の出来ばえを競う「扇合せ(おうぎあわせ)」が催された記録も残っています。

折りたためる扇は本当に日本生まれか

ここまで日本起源として書いてきましたが、この点には中国側からの異論があります。決着はついていません。

説法をしているお坊さんのイラスト

九八八年、宋の宮廷に届いた二十本の檜扇

日本起源説のいちばんの支えは、中国の正史に残る贈り物の記録です。

『宋史』日本伝に残る贈り物の目録

北宋の端拱元年、日本でいう永延二年(九八八年)のこと。宋に渡った僧・奝然(ちょうねん)の弟子である喜因が、皇帝へ品々を献上しました。その目録に、金銀蒔絵の扇箱へ納めた檜扇二十本と蝙蝠扇二本が並んでいます。中国の正史に日本の折りたたみ扇が登場する、最も早い記録です。

中国では「倭扇」「高麗扇」と呼ばれた

北宋の郭若虚(かくじゃくきょ)は『図画見聞志(とがけんぶんし)』で、高麗の使者が献じた折りたたみ扇について「もとは倭国より出づ」と書きました。徐兢(じょきょう)が一一二四年にまとめた『宣和奉使高麗図経(せんなほうしこうらいずきょう)』にも、高麗の人が使う絵入りの折扇は日本製だと語ったとあります。日本から高麗を経て中国へ届いたため、倭扇とも高麗扇とも呼ばれていました。

中国側には「腰扇」という反論がある

これに対し、折りたたみ扇はもっと前から中国にあったとする説があります。根拠になるのは、六世紀に書かれた歴史書の一行です。

『南斉書』に出てくる日よけの扇

『南斉書(なんせいしょ)』劉祥伝に「司徒の褚淵(ちょえん)が入朝するに、腰扇をもって日をさえぎる」という記述があります。五世紀の宮廷の情景です。この「腰扇」が折りたたみ扇なら、日本より五百年ほど古いことになります。

元の胡三省が「今の折畳扇」と注をつけた

この読み方を決定づけたのが、元の時代の学者・胡三省(こさんせい)です。『資治通鑑(しじつがん)』の注で「腰扇とは腰に帯びるもので、今これを折畳扇という」と書きました。清の銭泳(せんえい)もこの注を引いて、隋や唐のころには折りたたみ扇があったと述べています。

決着がつかないまま残っている問い

ただ、胡三省が注を書いたのは十三世紀です。五世紀の「腰扇」を八百年後の人が言い換えている点に、疑問が向けられてきました。

実物も絵も見つかっていない

腰扇が折りたたみ扇だったことを示す出土品や絵画、具体的な形の描写は、今のところ確認されていません。文字が一つあるだけでは、その道具がどんな形だったかまでは決められないわけです。

「腰にさす扇」でない読み方もできる

腰扇とは腰に帯びる扇ではなく、中ほどが細く両端が広い形を指した名ではないか。そう読む研究者もいます。もしそちらが正しければ、腰扇は折りたためなくてもよいことになります。判断を保留したまま、両論を並べておくのが今のところ誠実な扱いでしょう。

日本の扇は中国とヨーロッパを回って帰ってきた

起源の議論はさておき、扇子が海を何度も往復した道具であることは間違いありません。しかも行った先で姿を変え、変わった姿で日本へ戻ってきています。

帆を張って海を進む帆船のイラスト

明で両面貼りになり「唐扇」として戻った

中国へ渡った折りたたみ扇は、明の時代に大量に作られるようになりました。そこで加えられた改良が、日本へ逆輸入されます。

それまでの日本の扇は片面貼りだった

日本の扇は骨の片側だけに紙を貼るものでした。中国では両面に紙を貼るようになり、これが室町時代(一三三六年〜一五七三年)に唐扇(とうせん)として日本へ入ってきます。以後、日本でも唐扇にならった両面貼りが作られました。今わたしたちが手にする扇子は、この「里帰り版」の子孫です。

十六世紀にヨーロッパへ渡った

中国を経由して、東洋の扇はさらに西へ運ばれます。折りたためるという特徴が、ここでも高く買われました。

十七世紀には現地で作られ始めた

東洋の扇が伝わったのは十六世紀で、十七世紀にはヨーロッパでも扇が作られるようになりました。異国の文物を盛んに取り入れていたスペインが最初の受け手となり、そこから各国へ広がっていきます。貴族の女性の持ち物として、日本や中国とは違う独自の様式が育ちました。

絹扇として日本へ逆輸入された

そのヨーロッパ式の扇も、やがて日本へ入ってきます。生まれたのが絹扇(きぬせん)です。木簡から始まった道具が中国で両面貼りになり、ヨーロッパでは絹を張られる。二度にわたって故郷へ戻ってきたことになります。

明治には輸出品になっていた

行き来を繰り返した末に、扇は日本の輸出品として数えられるまでになりました。数字で見ると規模がはっきりします。

一八七二年の一年で八十万本

明治五年にあたる一八七二年、日本からは一年で八十万本の扇が輸出されたとされています。海外で日本の工芸が注目を集めていた時期の数字で、扇はその代表選手の一つでした。

京扇子と江戸扇子は何が違うのか

国内でも、扇子は土地によって別の顔を持っています。見分けるいちばん簡単な方法は、骨の数を数えることです。

白い地紙を開いた扇子のイラスト
比べるところ京扇子江戸扇子
骨の数二十五〜三十五間が主流十五〜十八間
作り方約八十八工程の分業一人の職人が多くを担う
見た目雅やかな絵柄簡素で粋な絵柄
名乗り組合員だけが名乗れるそうした制限はない

骨の本数がいちばん分かりやすい違い

広げて骨を数えれば、たいていどちらか見当がつきます。数え方の単位も独特です。

京扇子は骨が多く、江戸扇子は少ない

京扇子は二十五から三十五間が主流で、多いものでは四十五から六十間にもなります。江戸扇子は十五から十八間。骨が少ないぶん一本ずつの間隔が広く、畳んだときの音が「パチン」と小気味よいのが江戸扇子の身上とされます。

「九寸十一間」という寸法の書き方

扇子の大きさは「九寸十一間」のように書きます。前の数字が親骨の長さで、後ろが骨の数です。一寸は約三センチなので、九寸なら約二十七センチ。袴に合わせる白扇によく使われる寸法です。

作り方が分業か一人仕事か

違いは見た目だけではありません。工房の組み立て方そのものが別です。

京扇子は約八十八の工程に分かれる

京扇子の製作は約八十八もの工程に分かれ、扇骨加工・地紙加工・加飾・折り・仕上げといった専門の職人が受け持ちます。江戸扇子は逆に、一人の職人が多くの工程を通してこなす作り方です。分業と一貫、どちらも理にかなったやり方といえます。

「京扇子」と名乗れるのは組合員だけ

京扇子とは、国産の材料を使って京都・滋賀を中心に作られる扇子を指します。しかもこの名称は、京都扇子団扇商工協同組合の組合員だけが使えるものです。産地の呼び名というより、名乗りに資格が要る呼び名だと考えたほうが正確でしょう。

用途ごとに形と大きさが変わる

扇子には、あおぐ以外の仕事を持つものが少なくありません。仕事が違えば寸法も変わります。

落語の高座扇は七寸五分

落語家が見立てに使う高座扇は七寸五分、約二十三センチと少し大きめで、がっしり作られています。柄は主張しない白無地が多く、骨の数も数本少なめ。箸にも煙管にもなるので、絵があると邪魔なのです。

中啓は「半ば啓く」という名前

能や儀式で使う中啓(ちゅうけい)は、たたんでも上端が銀杏の葉のように開いたままになります。「啓」は「ひらく」の意味で、折りたたみながら半ば開いている状態から中啓と名づけられました。末広(すえひろ)とも呼ばれます。

扇の「要」が「肝心要」になった

最後に、扇子から日本語へ移っていった言葉の話を一つ。毎日のように使っている慣用句が、実はこの道具の部品の名前です。

頭のついた一本の釘のイラスト

骨をとめる小さな釘の名前

「肝心要」の「要」は、扇の末端で骨をとじているくさびのことです。ここが外れれば扇はばらばらになるので、全体を支える一点という意味が生まれました。

鯨の骨や金属で作られた

要は鯨の骨や金属で作られてきました。「要」という漢字自体は当て字で、もとは扇の骨をとめる金具を指す言葉だったとされています。組織の要、チームの要という言い方も、出どころはこの小さな部品です。

別名は「蟹の目」

この釘には「蟹(かに)の目」という別名もあります。扇を閉じて横から見ると、要の頭が左右にぽつりと出ている。その様子をカニの目に見立てたのでしょう。要という言葉の重々しさとは、ずいぶん印象が違います。

末広がりの形が贈り物にされた

扇子には「末広」という呼び名もあります。開くと先のほうが広がる形が、そのまま縁起になりました。

黒留袖を着て末広を手にした女性のイラスト

先細りにならない形への願い

末が広がっていく形は、先細りしないこと、つまり繁栄や招福を意味すると考えられてきました。祝いの席で扇を贈る習わしは室町時代に始まり、今も続いています。結婚式で留袖の帯に差してある祝儀扇が、その末広です。

役所の覚書だった木の札は紙を得て夏の扇になり、海を渡って倭扇と呼ばれました。やがて両面貼りになって帰ってきます。旅の途中で名前も形も変わりましたが、骨をひとつにまとめる小さな釘だけは、千二百年ずっと同じ場所にあります。扇を開くたび、その一点で全部がつながっているわけです。

参考