神輿には何が乗っているのか——祭りのあいだだけ神が宿る

神輿を担ぐ法被姿の人たちのイラスト 歴史と変遷の話
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神輿(みこし)に乗っているのは、その神社にまつられている神様の御霊(みたま)です。ただし乗っているのは祭りのあいだだけ。浅草の三社祭では、宮出しの数日前の夜7時に「本社神輿神霊入れの儀」が行われ、社殿の神霊が3基の神輿へ移されます。乗っていただき、町を回り、社殿へお帰りいただく。その往復のための乗り物が神輿です。

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神輿に乗るのは神社の祭神

大幣を手にした神主のイラスト

辞典の定義は「神霊が乗る輿」

日本大百科全書は神輿を、神幸のときに神霊が乗る乗り物とされる輿だと説明しています。形は四角・六角・八角などがあり、屋根には鳳凰(ほうおう)か葱花(そうか)を飾るのが典型です。神幸の日にはまず神社で御霊移しを行い、行列ではその神輿が中心に置かれます。豪華な飾りは、乗る相手が神様だからこそのものといえます。

三社祭は3基に3柱の神霊

浅草神社の本社神輿は一之宮・二之宮・三之宮の3基です。一之宮には土師真中知命(はじのまなかちのみこと)、二之宮には桧前浜成命(ひのくまのはまなりのみこと)、三之宮には桧前武成命(ひのくまのたけなりのみこと)の神霊が移ります。nippon.comの三社祭ガイドによると、浅草神社にまつられた三社大権現の神霊を移すこの儀式は夜7時に始まります。案内の日程では宮出しの3日前で、祭りはここから動き出すといってよいでしょう。

神田祭では200基に一斉に移す

数が多い祭りでは、神霊入れも大がかりになります。神田祭の「氏子町会神輿神霊入れ」では、各町会が持つ大小200基もの神輿に、神田明神の神職が回って御神霊を移していきます。場所は町会ごとの神酒所や御仮屋で、行われるのは夕暮れどき。神田明神の案内では、これで神田・日本橋・大手丸の内・秋葉原の一帯が「神田祭」一色に染まるとのこと。

祭りが終わると神輿はどうなる?

鳥居と社殿のイラスト

神霊は社殿へ帰る

町を回り終えた神輿は神社へ戻り、神霊は本来の社殿へお帰りになります。三社祭なら、氏子の町を巡った本社神輿が夜8時半ごろに宮入りし、神輿庫に納まったところで祭りが締めくくられる流れです。神様が神輿にいるのは、神霊入れから宮入りまでの数日間に限られます。

ふだんの神輿は空の器

毎年、祭りのたびに神霊入れの儀式を行うということは、裏を返せばそれ以外の日の神輿は空だということです。神輿庫や町会の倉庫で一年を過ごすあいだ、そこにあるのは神様の乗り物だけ。神社の境内で見かける神輿に手を合わせたくなる人もいるでしょう。けれども祭りの数日間の神輿は、それとは別のものとして扱われているのです。

なぜ神輿を担いで町を回る?

法被を着てうちわを持つ男の子のイラスト

神様が外へ出る「神幸」

担ぐのは、神様に社殿の外へお出ましいただき、氏子の町を回っていただくためです。この神霊のお出ましを神幸(しんこう)と呼び、神輿はそのための乗り物にあたります。日本大百科全書によると、昼間の神幸が一般的になると見物人が集まるようになりました。祭りが「参加するもの」から「見るもの」へ広がったのは、この行列があったからです。

御旅所は神様の仮の宿

神輿の行き先には御旅所(おたびしょ)が設けられることがあります。祭礼のとき神輿が渡ってきて一時安置される場所で、頓宮(とんぐう)とも呼ばれます。京都の祇園祭がその典型です。7月17日の神幸祭で八坂神社の3基の神輿が夕方に町を巡り、夜に入るのが四条寺町の御旅所。神輿が神社へ戻るのは7月24日の還幸祭の深夜で、神様はおよそ一週間を町なかで過ごすことになります。

浅草では44か町を丸一日かけて

三社祭の本社神輿が動き出すのは、朝6時の宮出しからです。宮出しに集まる担ぎ手はおよそ3000人。3基は浅草神社の氏子44か町をそれぞれ丸一日かけて回り、町会ごとに均等な時間が割り振られます。三之宮なら1町会あたりおよそ40分です。どの町にも同じように神様に来ていただく、という考え方が時間割にまで表れています。

神輿をわざと揺らすのはなぜ?

人形を飾った山笠を担いで走る人たちのイラスト

辞典にもある「神輿振り」

神輿を前後に揺らしたり左右に振ったりする動きは、勢い余ってのことではありません。日本大百科全書には、道中で神輿が前後に揺れたり右往左往したりする「神輿振り」が記されています。改訂新版 世界大百科事典も、神輿をわざと振り立てたり2基以上の神輿が喧嘩の形をとったりすることが多いと書いています。貴人の輿なら静かに運ぶのが礼儀でしょう。神輿はそこが逆なのです。

魂を振り動かす「魂振り」

揺らす理由としてよく持ち出されるのが魂振り(たまふり)という考え方です。辞書では、活力を失った魂を振り動かして活力を与え、よみがえらせることと説明されています。神輿を荒々しく扱うのは神様の力を新たにするため、という解釈につながる言葉です。ただし辞典類の「神輿」の項目は、この二つを直接結びつけてはいません。揺らす作法の意味づけは、土地や神社ごとの言い伝えに支えられている部分が大きいといえます。

小田原担ぎは揺らさずに走る

担ぎ方には土地ごとの型があります。小田原市の歴史的風致維持向上計画によると、「小田原担ぎ」は漁師の祭りを原型とする担ぎ方です。神輿の動きは漁船の動きと同じとされ、掛け合いの掛け声と木遣(きや)りは網を引き上げる様子がもとになっています。神輿を担いで走ることを、小田原では「跳ぶ」や「突っ駆ける」と呼ぶそうです。

見せ場は、商店の軒先めがけて勢いよく突っ込み、寸前でぴたりと止める動きです。波に乗って現れる神の霊力をそこへ注ぎ、商売繁盛を願うものとされています。揺らすか止めるかは違っても、神様の力を町へ届けたいという点では同じ方向を向いているのでしょう。

神輿はいつ生まれた?

冠をかぶった昔の天皇のイラスト

記録の初見は749年の紫色の輿

改訂新版 世界大百科事典は、記録に残る最初の神輿を天平勝宝元年(749年)としています。聖武天皇が進めた東大寺の大仏造立に際し、宇佐八幡の神が都へ上ったときに乗った紫色の輿です。この話は金色の鳳凰を戴く鳳輦(ほうれん)として紹介されることもありますが、辞典が記すのは「紫色の輿」。現在の神輿の華やかな姿は、のちの時代に重ねられたものと考えたほうがよさそうです。

宇佐と日吉、二つの「最初」

「最初の神輿」を名乗る話は一つではありません。観光庁の多言語解説文データベースにある宇佐神宮の解説は、8世紀の初めに隼人(はやと)の反乱を鎮めに向かう八幡神が神輿に乗り、これが日本最古の神輿とされると紹介しているのです。

一方で同じデータベースの日吉大社の解説には、791年に桓武天皇から2基の輿を贈られた日吉大社が神輿を使った最初の場所とされる、という説明が載っています。それ以前は神様の移動に神木の枝を使っていたという話です。どちらも各神社に伝わる由緒で、辞典は原型を「諸説あり確定していない」としています。

形は天皇の鳳輦にならった

起源の場所は定まらなくても、形の手本ははっきりしています。世界大百科事典の説明では、神輿は皇室の鳳輦に擬したものです。鳳輦は屋根に金銅の鳳凰を据えた天皇の乗り物です。神輿の屋根に鳳凰が輝いているのは、人の世でいちばん格の高い乗り物の姿を神様にも用意した名残といえます。

平安の都で疫病除けと強訴の道具に

祇園祭の山鉾のイラスト

御霊信仰とともに広まった

百科事典マイペディアは、平安時代の中ごろに御霊(ごりょう)信仰とともに神輿が広まったと説明しています。疫病や災いは非業の死をとげた人の怨霊がもたらすと考え、その霊を鎮める祭りを行う信仰です。京都市の観光サイトによれば、祇園祭もおよそ1150年前に疫病が流行した際の御霊会(ごりょうえ)が始まりとされています。神輿は、町から災いを運び出す役目も期待されるようになりました。

僧兵が担いだ日吉の神輿

神輿の神威は、政治の場でも使われました。比叡山延暦寺の僧兵は日吉社の神輿を担いで京へ入り、朝廷に要求を突きつけたのです。神輿に手を出せば神罰が下ると恐れられたため、朝廷は容易に追い払えません。日本大百科全書は、日吉の7基の神輿がたびたび強訴に使われたことを名高い話としています。

※ 強訴(ごうそ)とは、寺社の僧や神人(じにん)が神仏の権威を盾にして、集団で朝廷や幕府に訴えや要求を押しつけることです。延暦寺は日吉社の神輿を、興福寺は春日社の神木を担ぎ出しました。

白河法皇も手を焼いた山法師

院政で権勢をふるった白河法皇でさえ、思いどおりにならないものとして「賀茂川の水・双六の賽・山法師」を挙げて嘆いたと伝えられます。山法師とは比叡山の僧兵のこと。洪水やさいころの目と同じ扱いをされるほど、神輿を担いだ一団は手ごわい相手だったわけです。

江戸の天下祭は山車が主役だった

だんじりを引く法被姿の人たちのイラスト

行列は36番45本前後の山車

いまの東京の祭りは神輿が花形ですが、江戸時代は違いました。神田祭の公式サイトによると、幕府の庇護を受けた神田祭は神輿や山車の行列が江戸城の内曲輪(うちぐるわ)まで入り、将軍や御台所が上覧したことから「天下祭」と呼ばれました。行列の中身は36番45本前後の山車に附祭(つけまつり)などが加わったもので、神輿は2基。数でも見物の目当てでも、主役は車輪で引く背の高い山車のほうでした。

電線が山車を止めた

明治に入っても、明治17年に46本、明治20年に40本と山車は盛大に繰り出されました。転機は明治25年で、台風などを避けて祭りの月が9月から5月に移ります。そのうえ不景気と電線の架設が重なり、背の高い山車は町を進めなくなりました。山車は各町に飾り付けられるだけの存在になっていきます。

大正に「神輿渡御祭」へ

国立国会図書館の解説も、大正時代には山車が姿を消し、神社の神輿が渡御する「神輿渡御祭」になったと記しています。氏子の各町は自前の町神輿を作って担ぐようになり、渡御が長いときは1週間にもなったそうです。頭上の電線が、祭りの主役を差し替えたことになります。神田明神は大正11年に神輿2基を大鳳輦1基に改めましたが、翌年の関東大震災で焼失しています。

浅草の本社神輿は戦後に作り直された

浅草の雷門のイラスト

家光ゆかりの7基は空襲で焼失

浅草神社には戦前、7基の神輿がありました。徳川家光から寄進された3基、保存のために新調された3基、そして氏子町会から寄贈された四之宮です。それが第二次世界大戦の空襲ですべて焼けました。現在の一之宮と二之宮は昭和25年、三之宮は昭和28年に氏子から奉納されたものです。焼け跡から間もない時期に、町の人たちが真っ先に作り直したのが神様の乗り物でした。

四之宮には東照宮の神霊が乗った

焼失した四之宮には、祭礼のときに東照宮の御神霊を移していたと浅草神社は説明しています。もとは田町の町神輿で、重すぎて担ぎ手がいなくなったため奉納されたもの。それでも本社の3基よりは軽く、わざと乱暴に担がれて「暴れ神輿」の異名をとりました。乗せる神霊に合わせて神輿を用意するという考え方は、神輿が中身ありきの道具だということをよく示しています。

「神輿を担ぐ」という言い回し

人をおだてて上の立場に据えることを「神輿を担ぐ」と言います。担がれる側は自分では動かない、という含みが効いた比喩です。もともと神輿に乗るのは神様で、担ぐ人たちは乗る相手を敬って肩を貸していました。本来の姿を知ると、この言い回しの遠慮のなさが少し違って見えてきます。

宮入りを終えた神輿は、来年の祭りまで空のまま蔵で眠ります。中に誰もいない一年があるからこそ、神様が乗る数日間はあれほどにぎやかになるのかもしれません。

参考

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