養殖業者のいけすから逃げた鯉を、それと知りながら捕まえて持ち帰ると、遺失物等横領罪(刑法254条)にあたります。広い湖に逃げて取り戻せなくなっても、鯉は飼い主のものだからです。1981年(昭和56年)、秋田県の湖で網にかかった錦鯉を売った漁師に、最高裁判所がこの結論を示しました。事件の流れと、窃盗でも「拾い得」でもない理由をたどります。
網生けすから逃げた錦鯉の事件

湖に浮かぶ網生けすから鯉が逃げた
舞台は秋田県の湖につながる水路でした。そこには鯉の養殖業者が「網生けす」を設けていました。網生けすとは、水の中に網で囲いを作り、魚を飼っておく仕掛けのことです。ある日、その網から錦鯉と緋鯉(ひごい)が逃げ出しました。
その日のうちに漁師の網へ約60キロ
同じ水路では、雑魚を獲る漁師が網を仕掛けていました。逃げた鯉はその日のうちに、この漁師の網に入り込みます。量は約60キログラム。最高裁の決定文は、一尾の重さを「約一キログラム程度」と書いています。単純に割れば60尾前後の鯉が、まとめて網に入ったことになります。
漁師は知りながら別の人に売った
漁師は、鯉が近くの養殖業者のいけすから逃げたものだと分かっていました。それでも鯉を獲って、別の人に売り渡します。二人はそろって起訴されました。漁師の罪名は遺失物横領、買い取った側は当時の呼び名で「賍物故買(ぞうぶつこばい)」です。
最高裁が出した答えは遺失物横領罪

1981年2月20日、上告は退けられた
事件は仙台高等裁判所をへて最高裁判所の第三小法廷に上がりました。最高裁は1981年2月20日、二人の上告を退ける決定を出しています。裁判官4人全員が同じ意見でした。決定は、湖に逃げた鯉でも遺失物横領罪の対象になると述べ、同じ考えに立った高裁の判断を「相当」としました。
取り戻せなくても持ち主のもの
決定がまず認めたのは、広い湖に逃げた鯉を飼い主が取り戻すのは難しいという現実です。そのうえで、取り戻しにくいからといって罪の対象から外れるわけではないと続けました。
右鯉を他人が飼養していたものであることを知りながらほしいままに領得した以上、同被告人について遺失物横領罪が成立するのは当然であり
最高裁判所第三小法廷 昭和56年2月20日決定
買い取った人の罪も認められた
漁師から鯉を買った人の上告も、同じ決定で退けられました。盗んだ物だけでなく、横領で手に入れた物も「財産に対する罪」で得た物にあたります。それを知って買えば、買った側にも罪が成り立つ仕組みです。いまの刑法では256条2項が、こうした物を有償で譲り受ける行為を罰しています。
窃盗罪にならないのはなぜ?

窃盗は人が管理している物を取る罪
窃盗罪(刑法235条)は「他人の財物を窃取した」場合の罪です。ここでいう他人の財物は、誰かが手元に置いて管理している物を指します。法律の言葉では、この「管理している状態」を占有(せんゆう)と呼びます。財布をポケットから抜き取れば、持ち主の占有を破ったことになり窃盗です。
網の外に出た鯉は管理を離れた
網生けすの中にいる間、鯉は養殖業者の管理の下にあります。ところが網から逃げ出せば、その管理はもう届きません。持ち主はいるけれど、持ち主の手を離れている。刑法254条の「占有を離れた他人の物」は、まさにこの状態を指す言葉です。司法試験でもこの事件をもとに、窃盗罪が成立するという記述を誤りとする問題が出ています。
刑の重さは10倍ちがう
二つの罪では、刑の上限が大きく離れています。窃盗罪は10年以下の拘禁刑または50万円以下の罰金。遺失物等横領罪は1年以下の拘禁刑、または10万円以下の罰金か科料です。人の管理を破って奪うことと、手を離れた物をくすねることを、法律は別の重さで量っています。
※ 拘禁刑(こうきんけい)とは、懲役と禁錮をひとつにまとめた刑罰です。2025年6月1日から、刑法の「懲役」はこの名前に置き換わりました。科料(かりょう)は1,000円以上1万円未満の、いちばん軽いお金の刑です。
鯉がいる場所で扱いは三つに分かれる

同じ鯉でも、どこで手に入れたかで法律の見方はがらりと変わります。いけすの中・逃げた後・もとから湖にいる鯉の三つを並べると、次の表のとおりです。
| 鯉のいる場所 | 誰が管理しているか | 持ち帰ったときの扱い |
|---|---|---|
| 網生けすの中 | 養殖業者 | 窃盗罪の問題になる(10年以下の拘禁刑など) |
| いけすから逃げた後 | 誰も管理していないが、持ち主はいる | 持ち主がいると知って持ち帰れば遺失物等横領罪(1年以下の拘禁刑など) |
| もとから湖や川にいる | 誰のものでもない | 捕まえた人のものになる(漁業のルールは別に守る) |
線を引いているのは、鯉の見た目ではなく「持ち主がいるか」と「誰かが管理しているか」の二つです。この事件の鯉は、二つ目の段にあたりました。
逃げた鯉が「誰のものでもない」にならないのはなぜ?

野生の魚は捕まえた人のもの
川や湖にもとからいる魚には、持ち主がいません。民法239条は、持ち主のない動産は「所有の意思をもって占有する」ことで自分のものになると定めています。釣った魚を持ち帰って食べても罪にならないのは、この決まりがあるからです。
持ち主であることと手元にあることは別
では、逃げて湖を泳ぐ鯉は野生に戻ったのでしょうか。最高裁の答えは「いいえ」です。手元から離れても、飼い主が持ち主であることまで消えるわけではありません。落とした財布が道に転がっていても、それは落とした人の財布のままです。鯉もそれと同じに扱われました。
決め手は「知っていた」こと
決定文が二度にわたって書いているのは、漁師が鯉の素性を知っていたという点です。近くのいけすから逃げた鯉だと分かったうえで、自分のものにして売った。横領が罪になるのは、他人の物だと知っていて自分のものにしたときです。見分けのつかない野生の鯉を釣っただけの人とは、ここで道が分かれます。
落とし物の財布と同じ条文で裁かれる

刑法254条が並べる三つの物
刑法254条の条文は「遺失物、漂流物その他占有を離れた他人の物を横領した者」を罰すると書いています。遺失物は落とし物や忘れ物。漂流物は水に流されて漂う物です。そして三つ目が、それ以外で持ち主の手を離れた物全般を受けています。
逃げた鯉は三つ目の「その他」
泳いで逃げた鯉は、落としたわけでも流されたわけでもありません。そのため、条文の三つ目にあたる「占有を離れた他人の物」として扱われます。この罪がよく「占有離脱物横領罪(せんゆうりだつぶつおうりょうざい)」と呼ばれるのは、この三つ目の言葉から来ています。
置き忘れの傘や拾った財布も同じ罪
電車に置き忘れられた傘を持ち帰る。道で拾った財布の中身を使う。こうした身近な場面も、同じ刑法254条の問題になります。生きた鯉と財布では見た目がずいぶん違いますが、法律から見れば「持ち主の手を離れた他人の物」という点で同じ仲間です。
知らずに捕まえたらどうなる?

民法195条は逃げた動物のための決まり
民法には、飼われていた動物が逃げた場合だけを扱う条文があります。195条が対象にするのは家畜以外の動物です。捕まえたときに飼い主の存在を知らなかった人には、その動物についての権利が認められます。条件は、逃げてから1か月以内に飼い主から返すよう求められなかったことです。
「家畜」かどうかは土地柄で決まる
この条文の「家畜」は、ふだんの言葉より広い意味で読まれています。民法の注釈書では「その地方では飼育されて生活するのが普通である動物」と説明されています。たとえば住宅街で捕まえたアオダイショウは野生と見るのが自然です。一方、河川敷にいたニシキヘビは、どこかで飼われていたと考えるほうが自然でしょう。
知っていれば最初から当てはまらない
195条が守るのは、飼い主がいると知らずに捕まえた人だけです。いけすの鯉だと分かっていた漁師は、たとえ1か月待ってもこの条文の外にいます。知らずに捕まえた場合でも、後で飼い主がいると気づいたなら、黙って自分のものにするのは避けたほうが安全です。
届ければお礼をもらえることもある

逃げた家畜は遺失物法の「物件」
遺失物法は、届け出の対象になる「物件」に「逸走した家畜」を含めています。逸走(いっそう)は、逃げ出すことです。拾った人は、すみやかに持ち主へ返すか、警察署長に差し出すよう求められます。財布を拾ったときと同じ手順が、逃げた動物にも用意されているわけです。
報労金は価格の5〜20%
届けた物が持ち主に戻ると、拾った人はお礼を受け取れます。遺失物法28条は、物の価格の100分の5以上100分の20以下を「報労金(ほうろうきん)」として払うよう定めています。持ち主が見つからなければ、公告から3か月後に拾った人のものになる決まりもあります(民法240条)。黙って売るより、届けたほうが筋の通った道です。
迷い犬や迷い猫は自治体にも頼める
犬と猫だけは、窓口がもう一つ。遺失物法4条3項は、動物愛護管理法にもとづいて都道府県などに引き取りを求めた人には、警察へ届ける決まりを当てはめないとしています。迷子の犬猫を見つけたときは、警察だけでなく保健所などの窓口に相談してもかまいません。
釣った鯉が問題になる場面はある?

いけすの中の鯉をすくえば話が変わる
同じ鯉でも、網生けすの中に手を入れてすくい取れば、養殖業者が管理している物を奪うことになります。この場合は窃盗罪の問題になると考えられます。最高裁の事件で漁師が窃盗に問われなかったのは、鯉が自分から網の外へ出ていたからでした。
川の釣りには遊漁券がいることも
野生の魚なら誰のものでもない、という話には別のルールが重なります。川や湖の多くでは、漁業協同組合が漁業権を持ち、稚魚の放流などで魚を増やしてきました。組合員でない人が漁業権の対象の魚を釣るには、遊漁券(ゆうぎょけん)を買う必要がある場所もあります。罪名は窃盗とは別ですが、ルール違反には変わりありません。
2ページの決定文に残った細部

理由はわずか十行あまり
裁判所のウェブサイトで読める決定文は2ページで、2ページ目には裁判官の名前が1行あるだけです。上告の理由に当たらないと述べた後、「なお」と続けて鯉の扱いを説明した十行あまりが、この事件の核心です。のちの教科書や試験問題が引き継いだのは、この短い一節でした。
錦鯉と緋鯉、二つの名前
決定文は逃げた鯉を「錦鯉及び緋鯉」と書き分けています。緋鯉は赤や黄の単色系の鯉、錦鯉は色や模様の入った観賞用の鯉です。どちらも、川や湖で見かける黒っぽい真鯉(まごい)とは色がまるで違います。鯉の種類まで書き留めた決定文からは、湖の野生の鯉とは見分けのつく鯉だったことがうかがえます。
「賍物故買」という古い罪名
買い取った人の罪名「賍物故買」は、いまの刑法には見当たりません。賍物(ぞうぶつ)は財産の罪で手に入れた物のことで、故買は事情を知りながら買い取ること。現在は「盗品譲受け等」という見出しの条文で、同じ行為を扱っています。罪名の古さが、40年以上前の事件であることを物語っています。
網生けすの網が囲えたのは鯉の体だけで、持ち主との結びつきまでは囲っていませんでした。だから網を抜けた鯉は、管理の外に出ても持ち主のものとして湖を泳ぎ続けます。最高裁の短い決定は、目に見える網とは別に、目に見えない持ち主の印が鯉についてまわることを確かめたのです。
参考
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