大正3年(1914年)7月4日、大審院(だいしんいん)は人気浪曲師・桃中軒雲右衛門(とうちゅうけんくもえもん)の浪花節(なにわぶし)を「著作権法でいう音楽の著作物ではない」と判断しました。その場で節をつけて語る芸で、旋律が決まっていないという理由です。レコードを無断でコピーした業者は無罪となり、困った業界の働きかけで大正9年(1920年)に著作権法が改められました。
※ 大審院(だいしんいん)とは、明治から昭和の戦後すぐまで置かれていた、いまの最高裁判所にあたる裁判所です。
雲右衛門はどんな浪曲師だった?

明治末に一世を風靡した語り手
浪花節は三味線を伴奏に、物語を「節(ふし)」と「語り」で聞かせる芸です。いまは浪曲とも呼ばれます。雲右衛門(1873〜1916年)は旅回りの祭文語りの父のもとで芸を覚え、関西や九州を回って人気を集めた人物です。明治40年(1907年)6月、東京の本郷座で「義士銘々伝」を27日間口演し、大評判になりました。
得意演目は赤穂浪士の物語
看板は忠臣蔵、つまり赤穂浪士の討ち入りにまつわる話です。「武士道鼓吹(ぶしどうこすい)」をうたい文句に、なめらかな語り口と、ほどよい抑揚で聞かせたといわれます。当時は吉田奈良丸・京山小円と並んで「浪花節三傑」の一人に数えられていました。
ただ、同じ忠臣蔵の題材は、ほかの浪曲師もこぞって演じていました。筋はみな同じで、違うのは節回しや声の調子です。この「中身は同じ、違いは語り方」という浪曲の性質が、のちの裁判で大きな意味を持ちます。
高価なレコードはこうして生まれた

ドイツの技師が銀座で録音
明治44年(1911年)12月、銀座の蓄音器店「三光堂」の録音室で、雲右衛門が5つの演目を吹き込みました。録音したのはドイツから来た技師です。原盤はドイツへ送られ、ライロフォン社がレコードに仕上げて日本へ運びました。発売は明治45年(1912年)5月18日です。
1枚3円80銭、輸入盤より高い
値段は1枚3円80銭でした。当時の国産レコードは1枚1円50銭ほど、輸入盤でも3円ほどだったとされます。両面に録音した当時最新の盤で、中身は実質的に輸入盤だったため、とびきり高価だったわけです。
著作権は横浜の貿易商の手に
発売に先立つ明治45年2月28日、雲右衛門は浪花節の文句集の著作権を登録しました。同じ日、それをドイツ人のリチャード・ヴェルダーマン(判決文では「ワダマン」)へ譲っています。横浜のオランダ系貿易会社で働いていた人物です。吹き込みには1万5000円を投じたと、のちの裁判で主張されています。
発売から2か月で偽物が出回った

正規盤を買って型を取る
新聞広告で発売を知った業者たちは、さっそく三光堂で正規盤を買い求めました。盤に蜜蝋(みつろう)などを塗って液に浸し、電気の力で原版を作るという方法です。こうして同じ年の7月までに、5種類の両面盤を合計1860枚作り、別の商標を貼って売りました。
当時はこうした無断の複製盤を「複写盤」と呼んでいました。録音の技術がまだ珍しい時代でも、コピーの技術はすでに出回っていたことになります。
刑事と民事を一度に訴える
ヴェルダーマンは業者を著作権法違反で告訴しました。あわせて、刑事裁判に乗せる形で約1万4000円の損害賠償も求めています。原告側の主張では、7万枚あまりの注文を受けて2万5000枚を売ったところで偽物が出回り、値下げを強いられたといいます。
※ 附帯私訴(ふたいしそ)とは、当時の刑事訴訟法にあった仕組みで、刑事裁判のなかで被害者が損害賠償も一緒に求められる制度です。
一審と二審は「著作物だ」と認めた

独特の技能による音楽の演述
大正元年(1912年)11月11日、東京地方裁判所は業者たちを有罪とし、罰金を科しました。雲右衛門の語りは古人の伝記に曲節と声の調子をつけた「音楽的な演述」で、本人独特の技能から生まれたもの、というのが理由です。それを機械でコピーすれば著作権の侵害になる、と述べています。
新聞報道によれば、損害賠償も2000円が認められました。三光堂は新聞広告で偽物業者の有罪判決をわざわざ知らせています。翌大正2年(1913年)12月9日、東京控訴院の二審も同じ結論でした。
美声は天からの授かりもの
この一審判決に、すぐさまかみついた人がいます。ドイツで法律を学んだ弁理士の荒木虎太郎です。法律新聞に何度も批判を書いた荒木は、こう論じました。富士山の景色が美しくても美術ではないように、雲右衛門の美しい声も天から授かったもので人がこしらえたものではない、と。
荒木の考えでは、著作物は作る人の「思想」が形になったものです。どれほど技巧があっても、楽譜を作ったわけでも筋が独創的なわけでもない浪花節は当てはまらない、という理屈でした。
大審院はなぜ判断をひっくり返した?

楽譜がなくても音楽にはなる
意外なことに、大審院は「楽譜がないから駄目」とは言っていません。楽譜を使う伝統のない日本の音楽でも、新しい旋律を含む曲なら音楽の著作物になりうる、と認めています。さらに、そうした曲のレコードを別の盤に写すことも、著作権の侵害に当たると述べました。
その場限りの節は「瞬間創作」
問題にされたのは、旋律がどこまで決まっていたかです。即興で生まれ、その場で消える演奏は「瞬間創作」にすぎない、と大審院は考えました。演奏者がいつでも同じように繰り返せるほど旋律が固まっているか、楽譜にして書き留めた場合でなければ、著作物として守られないという線引きです。
雲右衛門の浪花節は、録音の瞬間にその場で節をつけて演じたものとされました。普通の浪曲師にはない新しい旋律があることは認めつつ、繰り返せるほど固まっていたとは示されていない、という結論です。判決は浪花節を「低級音楽」の一種と書いており、当時の浪曲の扱われ方もうかがえます。
正義に反するが罰する法がない
大審院も、業者のしたことを良しとしたわけではありません。判決には次のような一節があります。
他人がお金を出して吹き込ませた曲をほかの盤に写し取り、売ってもうけるのが正義の観念に反するのは言うまでもない。しかし取り締まる法律のない今日では、問わずにおくほかに道はない。(大審院判決、筆者による現代語訳)
こうして業者たちは無罪となり、損害賠償の請求も退けられました。著作権が無い以上、守られるべき「権利」の侵害も無い、という考え方です。
3つの裁判所はどこで分かれたか

同じレコードを前にして、裁判所ごとに見たところが違います。並べると、争点がどこにあったかがはっきりします。
| 裁判所 | 浪花節は著作物か | 見たところ | 結論 |
|---|---|---|---|
| 東京地裁(1912年11月) | 著作物 | 本人独特の技能による音楽的な演述 | 有罪・賠償を認める |
| 東京控訴院(1913年12月) | 著作物 | 一審と同じ | 有罪・賠償を認める |
| 大審院(1914年7月) | 著作物ではない | 旋律が繰り返せるほど固まっていたか | 無罪・賠償の請求を退ける |
一審と二審は「語りの巧みさ」を作品とみなし、大審院は「決まった旋律があるか」を物差しにしました。声の調子や間の取り方といった芸の部分は、どの裁判所の物差しでもうまく測れなかったともいえます。
判決のあと、複写盤はどうなった?

コピー業者がお墨付きを得る
判決のあと、既製のレコードを無断で写して安く売る業者は後を絶ちませんでした。当時のレコードは寄席やお座敷の芸を吹き込んだものがほとんどで、大審院のいう「著作物」に当たるものはわずかだったからです。業界最大手の日本蓄音器商会も、吉田奈良丸や京山小円の浪花節レコードをめぐる裁判で、大審院で複写業者に敗れました。
正規盤より多い2735種類
業界誌『蓄音器世界』が大正7年(1918年)に行った調査があります。正規のレコード会社5社が出したレコードは1803種類でした。これに対し、複写盤業者5社の複写盤は2735種類にのぼっています。
同じ1918年には、著作権の無いレコードを写すことは法令が禁じておらず各人の自由だ、とする大審院の判決も出ました。法律の上では、コピーする側が堂々と商売できる状態が続いたわけです。
大正9年の改正で何が変わった?

業界誌の主幹が議員に働きかける
動いたのは『蓄音器世界』を主宰する横田昇一でした。誌上で判決を批判し、法学者にも批判の論文を書いてもらっています。さらに代議士の鳩山一郎に陳情し、鳩山は大正9年(1920年)に著作権法の改正案を帝国議会に出しました。
「演奏歌唱」が著作物の仲間入り
改正著作権法は同じ年の8月19日に公布されました。柱は2つで、ひとつは著作物の例に「演奏歌唱」を加えたことです。楽譜がなくても、演奏や歌そのものが守られる道が開けました。
もうひとつは、他人の著作物を無断でレコードに写す者を偽作者(ぎさくしゃ)、つまり著作権を侵した者とみなす規定です。これで複写盤業者は市場から締め出されていきました。録音した人そのものを著作者とする案もありましたが、議会の審議で削られています。
雲右衛門は改正を見ていない
雲右衛門は大正5年(1916年)11月、肺結核のため40代で亡くなりました。改正の4年前です。巡業で十分な収入を得ていた本人にとって、レコードの権利は大きな関心事ではなかったとみる研究者もいます。改正を推し進めたのは、芸人ではなくレコード業界でした。
今の法律なら雲右衛門は守られる?

演じた人には「著作隣接権」
いまの著作権法(1970年制定)では、演奏や歌は「実演」として扱われます。実演した人には、自分の実演を録音・録画する権利などが認められ、守られる期間は実演から70年です。創作的な旋律を加えていなくても、浪曲師は実演家としてこの権利を持てると解されています。
※ 著作隣接権(ちょさくりんせつけん)とは、作品を作った人ではないものの、作品を人に届けるのに大切な役割を果たす実演家・レコード製作者・放送事業者などに認められる権利です。
レコード会社の権利も別にある
レコード製作者、つまり音を最初に録音して盤にした会社にも、同じく著作隣接権があります。保護期間は発行から70年です。いまなら、三光堂やヴェルダーマンの側は「旋律が固まっていたか」を争わなくても、正規盤のコピーをやめさせることができます。
民法の教科書にも載る理由

「権利」を狭く読んだ代表例
この事件は、著作権だけでなく民法の不法行為(わざと、または不注意で他人に損害を与えたときの責任)の授業でも取り上げられます。当時の民法は、賠償の条件に「権利の侵害」を挙げていました。大審院は、著作権という名前のついた権利が無い以上、賠償も認められないと考えたわけです。
11年後の大学湯事件で方向転換
その後、大正14年(1925年)の「大学湯事件」で、大審院は考え方を改めます。銭湯「大学湯」の老舗としての値打ちのように、法律で名前のついた権利でなくても、守るべき利益を侵されれば賠償の対象になりうるとしました。雲右衛門事件は、その前の厳しい読み方を代表する判決として、いまも名前が残っています。
芸名は沼津の弁当屋から

沼津の「桃中軒」と力士の名前
浪曲史家・正岡容(まさおかいるる)の書いた伝記によれば、「桃中軒雲右衛門」は二つの名前を合わせたものです。沼津の弁当屋「桃中軒」と、親しくしていた相撲取りの天津風雲右衛門から取ったとされます。師匠の妻で三味線弾きのお浜と恋仲になり、西へ向かう旅の途中での改名でした。
弟子入りした革命家
雲右衛門には変わった弟子もいました。孫文の中国革命を支えた宮崎滔天(みやざきとうてん)です。滔天は「桃中軒牛右衛門」を名乗って弟子入りし、雲右衛門の九州での活躍にも縁を結びました。
浪曲師はシンガーソングライター
俳優の小沢昭一は、浪花節を「一種のシンガーソングライターがやる仕事」と評しました。浪曲師は筋に沿って文句やせりふ回しを自分で作り、独特の節をつけて歌います。いまの目で見れば十分に著作者だ、という研究者の見方もあります。
大正3年の大審院は、その場で生まれる節を作品と認めませんでした。けれどその判決が業界を動かし、演奏や歌そのものを守る条文を生みました。その流れは、いまの著作隣接権へと続いています。雲右衛門の「節」は著作物になれなかったものの、日本の著作権の歴史にはひとつの節目を刻んだのです。
参考
- 大谷卓史「桃中軒雲右衛門事件」『情報管理』56巻8号(J-STAGE)
- 細川修一「著作権制度とメディアの編制」(東京大学 社会学研究室)
- 『知的財産法政策学研究』Vol.47(北海道大学)
- 著作権情報センター「著作隣接権とは?」
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