インスタントラーメンとカップ麺の起源——安藤百福が48歳で始めた小屋の研究

身近な食文化
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インスタントラーメンは、一人の人物の執念から生まれた発明品です。1958年(昭和33年)、日清食品の創業者・安藤百福(あんどうももふく)が世界初の即席麺「チキンラーメン」を開発しました。お湯を注いで2〜3分で食べられるこの麺は、戦後の食糧難が残る時代の日本で爆発的な人気を呼びます。

それまでのラーメンは、店で食べるかスープから手作りするものでした。「誰でも手軽に美味しいラーメンを食べられるようにしたい」という発想は、食の在り方を根本から変えました。

インスタントラーメンとカップ麺の歴史——年表

チキンラーメンの誕生から宇宙食ラーメンまで、主な転換点を時系列で整理しています。

時期できごと
1958年日清食品・安藤百福が「チキンラーメン」を発売。世界初の即席麺が誕生
1962年明星食品が「明星ラーメン」を発売。即席麺市場に競合が参入し始める
1971年日清食品が「カップヌードル」を発売。容器ごと食べるスタイルを確立
1972年連合赤軍あさま山荘事件をカバーするテレビ中継で機動隊員がカップヌードルを食べる姿が放映され、爆発的に普及
1980年代各社が多様なフレーバーを展開。地域限定商品やご当地ラーメンの即席版も登場
2005年日清食品が宇宙食対応の「スペースラム」を開発。野口聡一宇宙飛行士が国際宇宙ステーションで食べる
現在世界の即席麺年間消費量は1200億食超(2023年)。アジアを中心に世界80か国以上で消費される

チキンラーメン発売から約70年で、即席麺は世界の食文化の一部になりました。

チキンラーメン誕生——安藤百福の執念

発明のきっかけ——大阪の闇市の行列

安藤百福がインスタントラーメンを思いついた原点は、戦後間もない大阪の闇市にありました。食料が乏しい時代、ラーメン屋の前に人々が長い行列を作って寒空の中で待つ姿を見て、「安くて美味しいラーメンを誰でも手軽に作れるようにできないか」と考え始めたとされています。

当時の安藤は48歳。事業の失敗で財産も仕事も失った後でした。1957年から大阪府池田市の自宅の小屋で、毎朝4時から深夜まで一人で研究を続けました。試作を繰り返した期間は約1年に及びます。

フライ乾燥技術の確立

インスタントラーメンの核心技術は「フライ乾燥」です。小麦粉の麺をいったん揚げることで、麺に無数の細孔(穴)が生まれます。この穴にお湯が入ることで短時間で麺が戻るという仕組みです。

安藤がこの技術にたどり着いたのは、妻が天ぷらを揚げている様子を見たときだったと言われています。揚げた天ぷらに無数の穴が開いている構造を見て、「麺も同じようにできるはずだ」と気づいたとされます。日常の料理からヒントを得た、まさに偶然と観察力の産物です。

1958年8月25日、「日清チキンラーメン」として発売。価格は当時のそば・うどんの6倍にあたる1袋35円でしたが、「手軽さ」と「美味しさ」で飛ぶように売れました。

カップヌードル——1971年のもうひとつの革命

発泡スチロールカップという発明

チキンラーメンの次の革命は13年後に来ました。1971年、日清食品が「カップヌードル」を発売します。袋麺とカップ麺の最大の違いは「容器」です。発泡スチロールのカップに麺と具材が入っており、お湯を注いでそのまま食べることができます。丼も箸も必要なく、カップ自体が食器の役割を果たすのです。

安藤はアメリカを旅した際、バイヤーが袋麺をカップに入れてフォークで食べる姿からヒントを得たとされています。「容器ごと食べる」という発想は、当時としては画期的でした。

ニューヨークの実演販売と「あさま山荘事件」

カップヌードルは当初、百貨店での実演販売から火が付きました。1971年の発売当初は価格が100円と高めでしたが、ニューヨーク郊外での実演販売で反響を得たことを皮切りに、海外展開の礎が築かれます。

国内での爆発的な普及のきっかけは、1972年の「あさま山荘事件」です。連合赤軍による立てこもり事件を10日間にわたってテレビ中継した際、寒空の中で待機する機動隊員がカップヌードルを食べる姿が全国に放映されました。「屋外でも手軽に食べられる食べ物」として視聴者の印象に強く残り、翌日から販売量が急増したとされています。

世界に広がる即席麺文化

消費量と各国の独自進化

世界麺類工業団体連合(WINA)の調査によると、2023年の世界の即席麺消費量は約1,213億食です。国別ではインドネシア・インド・ベトナムが上位に並び、日本は世界第8位(約57億食)です。

各国で独自の即席麺文化が生まれています。韓国では辛ラーメン(辛라면)が国民食的な存在になり、インドネシアではインドミーが独自の香辛料スタイルで普及。ナイジェリアでもインドミーは主食に準じる扱いを受けています。日本発の技術が各地の食文化と混ざり合い、それぞれの「ご当地即席麺」に育った形です。

日本国内の多様化

日本国内では、チキンラーメンの登場以降、醤油・塩・味噌・豚骨など多様なスープフレーバーが展開されました。有名店との共同開発商品(いわゆる「有名店監修」シリーズ)も1990年代以降に普及し、実際の店舗のスープを再現した高価格帯の即席麺も定番化しています。

また、地域限定商品として北海道味噌ラーメン・福岡豚骨ラーメン・京都背脂醤油ラーメンなど、ご当地の味を即席で再現した商品が全国のコンビニ・スーパーに並んでいます。

豆知識——宇宙食ラーメンと安藤百福の最後

スペースラムの誕生

安藤百福の晩年の挑戦は「宇宙でラーメンを食べる」ことでした。宇宙空間では無重力のため液体が飛び散り、通常のカップ麺は食べられません。この問題を解決するため、日清食品は6年の開発期間をかけて「スペースラム」を完成させます。

スペースラムは麺を小さくまとめて口に入れやすくし、スープはとろみをつけて飛び散らないよう設計されています。2005年、宇宙飛行士・野口聡一が国際宇宙ステーション(ISS)でスペースラムを食べ、安藤の夢が実現しました。この時、安藤は94歳でした。

安藤百福が最後に語ったこと

安藤百福が96歳で逝去したのは2007年1月5日のことです。亡くなる直前まで日清食品の業務に関わり、「食が人類を救う」という信念を持ち続けたと伝えられています。

自伝や各種インタビューで安藤が繰り返したのは「食は万世の本」という考えです。食べることは命の根本であり、美味しいものを手軽に届けることに生涯をかけるだけの価値があると信じていました。チキンラーメンの発明が48歳・カップヌードルが61歳・宇宙食が94歳——後半生のすべてが、食への熱量で貫かれた人生でした。

一食35円の袋麺が、今では宇宙ステーションにまで届いた。安藤百福が小屋で揚げ続けた麺は、約70年後に1,200億食を超える規模になっています。次にカップ麺を食べるとき、その小屋の研究を少し思い出してみてください。