英語圏で誰かがくしゃみをすると、周りの人はすかさず「Bless you(ブレス・ユー)」と声をかけます。この習慣がどこから始まったのかは、じつははっきりしていません。くしゃみを命にかかわる危うい瞬間と見る古い感覚が根にある、と考えられています。有名な「ペスト起源説」は、当時の記録に裏づけが見つからない言い伝えです。ローマ時代にはすでにくしゃみへ声をかける習慣があったので、起源とまでは言えません。
「Bless you」はもともと何という言葉?

「God bless you」を縮めた形
「Bless you」は「God bless you(神があなたを祝福しますように)」の「God」が落ちた形です。祈りの言葉がそのまま日常のあいさつになったもので、さかのぼると中世の英語の言い回しにたどり着きます。今でも丁寧に言いたいときや年配の人は、「God bless you」と省かずに言うことがあります。
言われたら「Thank you」と返す
声をかけられた側は「Thank you(ありがとう)」と返すのが作法です。くしゃみ・祝福・お礼で、短いワンセットのやりとりになっています。見ず知らずの相手でも、電車で隣り合っただけの人でも同じです。日本にはこの習慣がほとんどないので、はじめて言われると少し戸惑うかもしれません。
信仰がなくても使うあいさつ
「神」という語が入っていても、今の英語圏でこれを宗教的な祈りと受け取る人は多くありません。信仰の有無にかかわらず、誰もが言い、誰もが受け取る決まり文句です。日本語の「お大事に」と同じくらいの軽さで交わされている、と考えるとわかりやすいでしょう。
ペスト起源説はどんな話?

590年、ローマを疫病が襲った
舞台は西暦590年のローマです。この年に疫病が広がったことは、同じ時代の司教トゥールのグレゴリウスが書いた『フランク史』に記録されています。病はまず教皇ペラギウス2世を襲い、まもなく命を奪いました。後を継いだのが、のちに「大教皇」と呼ばれるグレゴリウス1世です。
新しい教皇は町じゅうに祈りを呼びかけた
『フランク史』によると、グレゴリウスは人々に3日間詩編を歌い、神のあわれみを願うよう命じました。3時間ごとに歌い手の列が通りを進み、「キリエ・エレイソン(主よ、あわれみたまえ)」と唱えながら教会へ向かったといいます。祈りのさなかにも、1時間のうちに80人が倒れて亡くなったと書かれています。
くしゃみに祝福をという筋書き
ペスト起源説は、この出来事に続きを足した話です。当時はくしゃみが病の最初のしるしと受け止められていた。そこで教皇は、くしゃみをした人にすぐ「God bless you」と祝福を与えるよう定めた。命を落とすかもしれない相手を言葉で守った、というあらすじで、日付まで「600年2月16日」と添えて語られることもあります。
起源説には裏づけがない

同じ時代の記録にくしゃみは出てこない
疫病と祈りの行列は記録に残っていますが、『フランク史』のこの場面にくしゃみの話は一度も出てきません。教皇が祝福を命じたという話は、ずっと後の時代の本や記事で語られるようになったものです。疫病の年に祈りを呼びかけたのは事実でも、「くしゃみに祝福を」という部分には出どころが見当たりません。
ローマ人は1世紀にくしゃみへあいさつしていた
起源説にとってさらに分が悪いのが、もっと古い記録です。西暦77年ごろ、ローマの博物学者プリニウスは『博物誌』第28巻で「くしゃみをした人にあいさつするのはなぜか」と問いかけています。人づきあいを嫌ったことで知られる皇帝ティベリウスでさえ、馬車に乗っているときにもこの礼を求めた、とも書いています。590年より500年以上も前に、似た習慣はもうあったわけです。
くしゃみはペストの典型的な症状ではない
もう一つの弱点は病気の中身です。この時代の疫病は腺ペストだったとみられていますが、くしゃみは腺ペストの代表的な症状ではないと指摘されています。高い熱やリンパ節の腫れのほうがずっと目立つ病です。くしゃみを病の最初のサインとする筋書きそのものが、少し無理をしているといえます。
なぜくしゃみに声をかけるようになった?

魂が飛び出すという考え
よく挙げられる理由の一つは、くしゃみで魂が体から飛び出してしまうという考えです。息が勢いよく抜ける様子が、命そのものが抜け出るように見えたのかもしれません。そこで「神のご加護を」と唱え、無事であるよう祈った、という説明です。中世のヨーロッパでは、抜けた魂を悪魔が奪いに来るとも語られました。
悪いものが入り込む隙
向きが逆の説もあります。くしゃみの瞬間は体が無防備になり、その隙に悪霊が入り込むというものです。この場合の「Bless you」は、悪いものをはね返す盾の役目を果たします。出ていくのを防ぐか、入るのを防ぐか。違いはあっても、くしゃみを危うい瞬間と見る点は共通しています。
不吉なしるしをはらう言葉
魂や悪霊の説と並んで、くしゃみを「何かの前ぶれ」と見る考えも古くからありました。平凡社『世界大百科事典』によると、古代ローマには凶兆を退ける「Absit omen!(不吉なことが起こりませんように)」という言葉がありました。ユダヤの伝承では、くしゃみをした人に「Hayim tobim(よい人生を)」と命が続くことを願ったそうです。どれも、声をかけることで悪い流れを断ち切ろうとしています。
くしゃみで心臓は止まる?

止まった心臓を動かす応援という俗説
「くしゃみをすると心臓が一瞬止まる」という話も、由来の説としてよく出てきます。止まった心臓がまた動き出すように「Bless you」と声をかけた、というものです。声かけを一種の応援と見る考え方ですが、これも古い記録に裏づけがあるわけではありません。
実際には一瞬ゆっくりになる程度
くしゃみの前に大きく息を吸い、一気に吐き出すと、胸の中の圧力が大きく変わります。アーカンソー大学医学部の心臓の専門医は、このとき迷走神経が刺激されて脈が少しゆっくりになることがあると説明しています。ただし心配するようなものではないそうです。「止まったように感じる」体感が、言い伝えとして残ったのでしょう。
「神の加護」型と「健康」型の二つの系統

各国の声かけを並べると
くしゃみへの決まり文句は英語だけのものではありません。ヨーロッパの主な言語を並べると、言葉の中身が大きく二つに分かれることがわかります。
| 言語 | かける言葉 | 意味 |
|---|---|---|
| 英語 | Bless you | (神の)祝福がありますように |
| スペイン語(スペイン) | ¡Jesús!(ヘスス) | イエスの名を口にする |
| フランス語 | À tes souhaits(ア・テ・スエ) | あなたの願いがかないますように |
| ドイツ語 | Gesundheit(ゲズントハイト) | 健康 |
| イタリア語 | Salute(サルーテ) | 健康を |
| スペイン語 | ¡Salud!(サルー) | 健康を |
| ロシア語 | Будь здоров(ブーチ・ズダローフ) | 健康でいて |
神の加護を願う言葉
英語の「Bless you」や、スペインで聞かれる「¡Jesús!」は、神の名や祝福で相手を守ろうとする系統です。くしゃみを危うい瞬間と見た昔の感覚が、言葉の形に色濃く残っています。フランス語の「À tes souhaits」は神を持ち出しませんが、相手の幸いを願う点ではこちらに近い言葉です。
健康そのものを願う言葉
ドイツ語の「Gesundheit」は、そのものずばり「健康」という意味です。イタリア語の「Salute」、スペイン語の「Salud」、ロシア語の「Будь здоров」も同じく相手の体を気づかいます。宗教的な祝福というより、日本語の「お大事に」に近い実用的な言葉です。
アメリカでは両方が飛び交う
英語が主のアメリカやカナダでは、「Bless you」と並んでドイツ語の「Gesundheit」もそのまま使われます。ドイツ系の移民が持ち込んだ言葉が英語に入ったもので、英語の文献では19世紀の終わりには例が見られます。宗教色を出したくない場面で、あえて「Gesundheit」を選ぶ人もいるようです。
くしゃみの回数で意味が変わる言い伝え

フランスでは願いから恋へ
くしゃみが続いたときに、かける言葉を変える国があります。フランスでは1回目に「À tes souhaits(願いがかないますように)」、2回目に「À tes amours(恋がうまくいきますように)」と言います。3回目には「Et qu’elles durent toujours(それがずっと続きますように)」と前の言葉に続けるのがお決まりです。
英語圏は7回目に秘密がかなう
英語圏にも、回数ごとに運勢を当てはめる言い回しがあります。『世界大百科事典』が紹介する形では、1回ならキス・2回なら願いごと・3回は手紙と続きます。5回目は銀、6回目は金。そして7回くしゃみをすると、人に言えない秘密がかなうのだそうです。
日本は「一つ褒められ二つ憎まれ」
日本にも同じ型の言い伝えがあります。「一つ褒められ二つ憎まれ、三つ惚れられ四つ風邪をひく」というものです。くしゃみが出ると誰かが噂をしているという感覚は、中国の古い詩集『詩経(しきょう)』にまでさかのぼるといわれます。海外が願いや恋を数えるのに対し、日本は人の評判を数えるのが特徴です。
三つを並べると、回数が増えるほど話が大きくなるところまでよく似ています。
| 回数 | フランス | 英語圏 | 日本 |
|---|---|---|---|
| 1回目 | 願いがかなうように | キス | 褒められる |
| 2回目 | 恋がうまくいくように | 願いごと | 憎まれる |
| 3回目 | それがずっと続くように | 手紙 | 惚れられる |
| 4回目 | — | もっと良いこと | 風邪をひく |
日本にもあった「くさめ」というまじない

くしゃみをすると早死にするという俗信
今の日本にくしゃみへ声をかける習慣はほとんどありませんが、昔は似たまじないがありました。くしゃみをすると早死にするという俗信があり、それを防ぐために「くさめ、くさめ」と唱えたのです。『日本国語大辞典』によると、このまじないの記録は1275年の『名語記(みょうごき)』にまでさかのぼります。
「くしゃみ」はまじないの名前から生まれた
「くしゃみ」という言葉は、この「くさめ」の音が変わったものです。もともとはくしゃみの後に唱える言葉の名前だったものが、くしゃみという動作そのものを指すようになったと考えられています。漢字では「嚔」と書き、「くさめ」は冬の季語にもなりました。
語源は「休息万命」か「くそはめ」か
「くさめ」そのものの語源には二つの説があります。一つは長寿を願う「休息万命(くそくまんみょう)」を縮めたとする説です。もう一つは「くそはめ」から来たとする説で、「糞(くそ)くらえ」と悪いものをののしれば風邪をひかない、という考えに結びつけられています。祈りと悪態という正反対の説が並んでいるのも面白いところです。
徒然草に残る「くさめくさめ」

清水寺への道で唱え続けた尼
鎌倉時代の随筆『徒然草(つれづれぐさ)』第四十七段に、このまじないの場面が出てきます。ある人が清水寺へ参る道すがら、連れの年老いた尼が「くさめくさめ」と言い続けていました。何を言っているのかと尋ねても、尼は答えずに唱えるのをやめません。
比叡山にいる養い君のための祈り
何度も聞かれて、尼はようやくわけを話します。くしゃみをしたときにこう唱えないと死んでしまうと言われている。自分が育てた若君が比叡山にいて、ちょうど今くしゃみをしているかもしれないから唱えているのだ、と。兼好法師はこの尼の思いを、めったにない真心だと書きとめています。
唱える人と祝う人の違い
欧米では、くしゃみをした人の周りが「Bless you」と声をかけます。いっぽう徒然草の尼は、遠く離れた相手のくしゃみを思って自分でまじないを唱えました。声を出す人の位置は違っても、くしゃみをした誰かの命を言葉で守ろうとする気持ちは同じです。
ペストの話が生まれるずっと前から、人はくしゃみに不安を感じ、そのたびに言葉を添えてきました。医学が進んだ今、くしゃみがただの体の反応だということは誰もが知っています。それでも「Bless you」が交わされ続けるのは、その一言が相手を気づかう合図として役目を変え、生き残ったからでしょう。七百年前の尼の「くさめ」も、今日どこかで聞こえる「Bless you」も、同じやさしさから出た言葉です。
参考
- Perseus Digital Library「Pliny the Elder, The Natural History, Book 28, Chapter 5」
- Internet Medieval Sourcebook(フォーダム大学)「Gregory of Tours: History of the Franks」
- コトバンク「くしゃみ」(改訂新版 世界大百科事典)
- コトバンク「嚔(くさめ)」(精選版 日本国語大辞典)
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