サンタクロースの赤い服は、コカ・コーラの広告が生んだものではありません。赤い衣装のサンタは、同社の広告に登場する1931年より半世紀以上も前から描かれていました。
では赤はどこから来たのか。たどっていくと、4世紀の司教の祭服と、19世紀アメリカの雑誌の挿絵に行き着きます。コカ・コーラが果たしたのは、すでにあった赤い姿を世界中へ運ぶ役割でした。
赤い服はいつから赤かったのか

サンタの服が赤くなるまでには、およそ70年の助走があります。まず時系列を押さえておくと、コカ・コーラの位置づけが見えやすくなります。
| 時期 | できごと |
|---|---|
| 1810年 | アレクサンダー・アンダーソンが、暖炉の靴下に贈り物を入れる聖ニコラウスを版画にする |
| 1823年 | 詩「聖ニコラウスの訪問記」が匿名で新聞に載る。服は「毛皮」とだけ書かれ、色の指定はない |
| 1836年ごろ | 画家ロバート・W・ウィアーが、赤をまとった聖ニコラウスを描く |
| 1864年 | ムーアの詩の挿絵版で、サンタが黄色い服で登場する |
| 1881年 | トーマス・ナストの「メリー・オールド・サンタクロース」で、赤い上着の姿が広く知られる |
| 1902年 | 雑誌『パック』の表紙に、現在とほぼ見分けのつかない赤いサンタが載る |
| 1931年 | コカ・コーラの広告に、ハッドン・サンドブロムの描いたサンタが登場する |
1823年の詩に色の指定はない
現在のサンタ像の土台になった詩は、1823年12月23日にニューヨーク州の地方紙トロイ・センティネルへ匿名で掲載されました。空飛ぶそり、八頭のトナカイ、煙突から入る場面。今おなじみの道具立ては、この一編でほぼ出そろっています。ところが衣装の色だけが、どこにも書かれていません。
「頭からつま先まで毛皮」という一行
詩が服について述べているのは、実質一行だけです。「彼は頭からつま先まで毛皮をまとい、その服は灰とすすですっかり汚れていた」。素材は毛皮、状態は煤けている。それ以上の指定はありません。当時の読者は、この一行から好きな色を思い描くことができました。
行商人にたとえられた小さな体
続く行では、おもちゃの包みを背負った姿を「荷を開けたばかりの行商人のよう」と書いています。詩は彼を「陽気な老いた小妖精」とも呼びました。今のような大男ではなく、煙突を抜けられるくらい小さな存在として想像されていたわけです。
最初に赤で描かれたのは1830年代
絵の世界では、色はもっと早くから試されていました。聖ニコラウスの資料をまとめるセント・ニコラス・センターによれば、画家ロバート・ウォルター・ウィアーが1836年ごろに描いた聖ニコラウスは、すでに赤をまとっています。コカ・コーラの広告より、およそ95年も早い。
アメリカ最初のサンタ像は1810年
図像の系譜をたどったパブリック・ドメイン・レビューは、起点に1810年の一枚を置いています。アレクサンダー・アンダーソンがニューヨーク歴史協会のために作った版画で、暖炉のそばの靴下へ贈り物を入れる姿が描かれました。赤い服が現れるより、四半世紀ほど前のことです。
黄色いサンタも緑の帽子もあった
ただし赤ですぐ固まったわけではありません。同じ系譜では、1864年に出たムーアの詩の版でサンタは黄色い服を着ています。1868年の砂糖菓子の広告になると、上着は赤いのに帽子だけが緑。色はまだ、絵ごとに揺れていました。
1881年に赤が代表の色になった
赤を決定づけたのは、風刺画家トーマス・ナストでした。ナストは1863年から1886年まで、週刊誌『ハーパーズ・ウィークリー』にクリスマスの絵を描き続けます。その数は33枚。コカ・コーラ社自身の社史も、ナストが上着の色をタン(黄褐色)から今日知られる赤へ変えたと記しています。
1881年の「メリー・オールド・サンタクロース」
連作のなかで最も知られているのが、1881年の「メリー・オールド・サンタクロース」です。丸い体、白いひげ、そして赤い上着。今のサンタとほとんど変わらない姿が、この一枚でそろいました。
20年以上かけて寄っていった姿
ナストのサンタは、最初から今の形だったわけではありません。1863年1月3日に載った第一作は南北戦争のさなかに描かれ、北軍の宿営地で贈り物を配る愛国的な装いでした。服も体つきも、20年以上のあいだに少しずつ寄っていきます。
赤はどこから来た色なのか

画家たちが赤を選び続けた背景には、もっと古い層があります。サンタの原型とされる聖ニコラウスが、司教だったことです。
聖ニコラウスは4世紀の司教だった
モデルとされるのは、4世紀に小アジアのミラで司教を務めたニコラウスです。ミラは当時リュキアと呼ばれた地方にあり、現在のトルコ南部の町デムレにあたります。飢饉(ききん)のさなかに食糧を確保した話や、325年のニカイア公会議に加わったという伝えが残っています。
※ 司教(しきょう)とは、キリスト教で複数の教会を束ねる地位にある聖職者のことです。
本人についてわかっていることは少ない
ところが生涯の確かな記録は、驚くほど残っていません。セント・ニコラス・センターも、死の詳細さえ不明だと記しています。伝わっているのは同時代の記録ではなく、後の世に語り継がれた行いの物語のほうです。
750年つづいた巡礼地
ミラにあった墓は、750年にわたって巡礼者を集め続けたと記録されています。墓ににじむ液体は「聖ニコラウスのマンナ」と呼ばれ、聖人としての人気を支えました。赤い服の話が生まれるはるか前から、この人物は広く知られていたわけです。
アメリカへ渡ったのは名前が先だった
「サンタクロース」という呼び名は、オランダ語の「シンタクラース」がなまったものです。ただしニューヨークがまだオランダ領ニューネーデルラントだったころ、聖ニコラウスの習慣が根づいていた証拠は乏しいと、セント・ニコラス・センターは指摘しています。海を渡ったのは、習慣より先に名前でした。
独立後のニューヨークで持ち出された守護聖人
1804年ごろ、ジョン・ピンタードという人物が聖ニコラウスをニューヨークの守護聖人として押し出しました。独立戦争のあと、若い街に古い由緒を与えようとする動きの一環です。1810年のアンダーソンの版画も、この流れから生まれています。
順番は名前・物語・姿
整理すると、渡っていった順番は名前・物語・姿でした。赤い服は最後にやってきた要素で、しかも一度で決まったわけでもありません。半世紀ほどかけて、画家たちが少しずつ寄せていった結果です。
司教から「パイプをくわえた小男」へ
姿を大きく変えたのは、作家ワシントン・アーヴィングです。1809年の『ニューヨーク史』でアーヴィングが描いたのは、聖人らしい司教ではなく、粘土のパイプをくわえたオランダ人の小男でした。厳かな司教像は、ここでいったん崩れます。
1823年の詩が受け継いだ小男の像
14年後の詩がサンタを「小妖精」と呼んだのは、この線の延長にあります。煙突を抜け、すすで汚れ、行商人のように荷を背負う姿。司教の祭服とは、およそ結びつきません。
※ 祭服(さいふく)とは、聖職者が儀式のときに身につける、決められた形の衣装のことです。
司教らしさのうち色だけが戻った
面白いのは、司教らしさがほとんど消えたあとで色だけが戻ってきたことです。冠も杖も落とされ、残ったのは赤。「司教の祭服が由来」という説明が今も語られるのは、この一点だけがきれいにつながって見えるからでしょう。ただし4世紀のニコラウス本人が赤を着ていたと示す同時代の記録は、確認されていません。
コカ・コーラ説はどこまで本当か

では1931年に何が起きたのか。事実そのものは、はっきりしています。
1931年に起きたこと
コカ・コーラ社は1931年、画家ハッドン・サンドブロムにクリスマス広告用のサンタを描かせました。最初の一枚が載ったのは『サタデー・イブニング・ポスト』誌です。以後この絵は、『レディース・ホーム・ジャーナル』誌や『ナショナル ジオグラフィック』誌にも繰り返し掲載されていきます。
モデルは引退したセールスマン
サンドブロムが最初にモデルにしたのは、友人のルー・プレンティスという引退したセールスマンでした。プレンティスの死後は鏡に映した自分を描き、やがて写真をもとにするようになります。あの顔には、実在の人物の面影が入っているのです。
1931年から1964年まで続いた連作
広告は1931年から1964年まで、30年以上にわたって続きました。おもちゃを配り、手紙を読み、冷蔵庫を漁る。毎年こうした人間くさい場面を重ねたことが、この連作の特徴でした。
1931年より前にも赤いサンタはいた
一方で、赤いサンタはすでに世の中にありました。パブリック・ドメイン・レビューは、1902年に雑誌『パック』の表紙を飾ったフランク・A・ナンキヴェルのサンタを「現在のものと見分けがつかない」と評しています。サンドブロムより29年早い登場です。
ノーマン・ロックウェルの赤いサンタ
1913年からは、ノーマン・ロックウェルが『ボーイズ・ライフ』誌や『サタデー・イブニング・ポスト』誌にサンタを描いています。つまりコカ・コーラの広告が始まる前から、同じ雑誌の読者は赤いサンタを目にしていたわけです。
会社自身が「創っていない」と書いている
米コカ・コーラ社の公式サイトにあるよくある質問は、「コカ・コーラはサンタクロースの伝説を創ったのではない」と明記しています。同じページは1931年以前のサンタについて、背の高いやせた男から小妖精、恐ろしいサンタまでいたとも書いています。
社史が功績を認めているのはナスト
さらに踏み込んでいるのが、同社の社史のページです。そこにはナストが30年にわたってサンタを描き、上着の色をタンから今日の赤へ変えたと書かれています。赤の功績を、自社ではなく19世紀の風刺画家に帰しているわけです。
サンドブロムが下敷きにしたもの
同じページは、サンドブロムがムーアの1823年の詩の描写を手がかりにしたとも説明しています。温かく親しみやすいサンタ像は、100年以上前に書かれた詩から引き出されたことになります。
創ったのではなく選んで固めた
1931年の仕事は、無から生み出すことではありませんでした。すでにあった複数の姿から一つを選び、毎年同じ顔で描き続けること。広告が果たしたのは、その固定化の役割だったといえます。
会社の説明はなぜ日本とアメリカで違うのか

ここで少し妙なことが起きています。同じ会社の公式サイトなのに、英語のページと日本語のページで書いていることが食い違うのです。
| 論点 | 米コカ・コーラ社(英語) | 日本コカ・コーラ(日本語) |
|---|---|---|
| サンタを創ったか | 「伝説を創ったのではない」と否定する | 「つくりあげたのです」と書く |
| 1931年以前の姿 | やせた男・小妖精・恐ろしいサンタがいたと列挙 | ムーアの詩や画家たちの描写に言及 |
| 赤い上着の功績 | 社史でナストが「タンから赤へ変えた」と記す | サンドブロムが共通イメージを確立したと記す |
英語版は「創っていない」と言う
米コカ・コーラ社のよくある質問ページは、冒頭でまず「コカ・コーラはサンタクロースの伝説を創ったのではない」と否定します。そのうえで「ただしコカ・コーラの広告は、今日私たちが知る陽気な人物像を形づくるうえで大きな役割を果たした」と続けます。
否定と自負を、一文ずつ並べる書き方。事実関係を守りながら、自社の貢献も落としていません。企業の広報としては、かなり誠実な部類でしょう。
日本語版は「つくりあげた」と言う
一方、日本コカ・コーラの「『赤い衣装のサンタクロース』のルーツ」というページは、こう書き出します。「1931年、コカ・コーラ社とアメリカ人画家が『真っ赤な衣装と白いあご髭』のサンタクロースをつくりあげたのです」。
同じページの本文は、1822年のムーアの詩にも、100年にわたる画家たちの描写にも触れています。ただし読者の記憶に残るのは、たいてい最初の一文のほうです。
食い違いをどう読むか
どちらも嘘は書いていません。「つくりあげた」を「現在の共通イメージを完成させた」と読めば、英語版とも矛盾しないからです。ただ日本語で「つくりあげた」と言われれば、多くの人は「発明した」と受け取ります。
日本でこの通説がとりわけ強いのは、こうした短い要約が繰り返されてきたためかもしれません。出典が同じでも、要約の仕方ひとつで通説は生まれます。
広告が本当に変えたのは何だったのか

赤を発明したのでないとすれば、30年分の広告は何をしたのか。三つの変化に分けて見ていきます。
姿のばらつきが消えた
サンドブロム以前のサンタは、絵ごとに姿が違いました。コカ・コーラ社自身が挙げるのは、背の高いやせた男・小妖精・恐ろしいサンタの三つ。同じ名前でも、思い浮かべる絵は人によってばらばらだったのです。
毎年同じ画家が、同じ顔を、同じ雑誌に載せ続ける。それが30年以上続いたことで、「サンタといえばこの顔」という基準ができました。広告の力というより、反復の力に近いかもしれません。
恐ろしいサンタが退場した
コカ・コーラ社が挙げる1931年以前の姿には、「恐ろしいサンタ」も含まれていました。サンドブロムの絵に、その気配はありません。赤い頬に白いひげ、輝く目と笑いじわ。会社の説明も、この連作が温かく幸福な人物像を確立したと述べています。
子どもを試す存在から、迎え入れられる存在へ。赤い服よりも、この性格の置き換えのほうが大きな変化だったのかもしれません。
赤が世界へ運ばれた
掲載先は『サタデー・イブニング・ポスト』誌だけではありませんでした。『ナショナル ジオグラフィック』誌などにも載り、やがて商品そのものと一緒に各地へ届きます。飲料の広告は、絵を国境の外へ運ぶ乗り物でもありました。
日本で「サンタの服が赤いのはコカ・コーラのおかげ」という話がよく知られているのも、この運ばれ方と無関係ではないでしょう。絵よりも先に、広告のほうが遠くまで届いたのです。
赤いサンタをめぐる豆知識

土台になった詩は匿名で世に出た
今のサンタ像の土台になった1823年の詩は、作者名なしで新聞に載りました。掲載は12月23日。クリスマスの二日前です。クレメント・C・ムーアが自分の作だと認めたのは、それからかなり後になってからでした。
空飛ぶそりも八頭のトナカイも、煙突を通る設定も、この匿名の一編から広まりました。それでいて服の色だけは、200年たった今も書かれていません。
サンタの体は途中で大きくなった
1823年の詩のサンタは「小妖精」でした。1809年のアーヴィングの本では、パイプをくわえた小男です。大人と同じかそれ以上の体格になるのは、ナスト以降の絵を通じてのことでした。
煙突を通れるという設定は、体が小さかったころの名残と考えると筋が通ります。体格だけ大きくなり、設定はそのまま残った。毎年子どもに不思議がられている理由が、ここにあります。
赤が勝った理由は資料に書かれていない
色の候補が赤だけでなかったことは、絵のほうが残しています。1864年の詩の版では黄色い服。1868年の砂糖菓子の広告では、赤い上着に緑の帽子。別の一枚が広く出回っていたら、今ごろ違う色を当たり前だと思っていたかもしれません。
なぜ赤が勝ったのかを一言で説明してくれる資料は、見つかりませんでした。わかっているのは、赤が「選ばれ続けた」ことのほうです。
サンタの赤は、誰か一人が決めた色ではありませんでした。司教の祭服がうっすら影を落とし、19世紀の画家たちが少しずつ寄せ、20世紀の広告が最後に固定する。100年以上かけて多数決のように決まった色、と言ったほうが近いのかもしれません。今年見かける赤い服には、そのぶんの時間が縫い込まれています。
参考
- The Coca-Cola Company「Did Coca-Cola invent Santa?」
- 日本コカ・コーラ「『赤い衣装のサンタクロース』のルーツ」
- St. Nicholas Center「Origin of Santa」
- The Public Domain Review「A Pictorial History of Santa Claus」
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