家紋には、登録簿がありません。「この紋はこの家のものだ」と役所が決めた記録は、昔もいまも存在しないのです。
これは推測ではありません。特許庁が商標の審査基準をまとめた文書には、家紋について「公的機関等の特定の者により登録・管理等されているものではない」「誰しもが自由に利用できるもの」と書かれています。世界には、国が紋章を管理して名乗るのに手続きが要る国もあります。それに対して日本の家紋は、少なくとも八百年ものあいだ野放しのまま受け継がれてきました。
家紋には、持ち主を決める仕組みがなかった

家紋の来歴は「誰も決めていない」の一言でほぼ片づきます。ただ、その一言だけでは、なぜ武士でもない町人までが紋を持てたのかが見えてきません。同じころに生まれたヨーロッパの紋章と並べてみると、日本の家紋がどれだけ変わった仕組みだったかがはっきりします。
| 問い | 日本の家紋 | ヨーロッパの紋章 |
|---|---|---|
| 誰が決めるのか | 決める機関がない。使い始めた人がそのまま使う | 国王や紋章院が授け、登録する |
| 誰が持てたのか | 公家・武家から町人・役者・遊女まで。身分の制限なし | 王侯から始まり、貴族・騎士へ。のちに一部の市民層まで |
| 図案が重なったら | 重なってかまわない。同じ紋の家が全国にある | まったく同じ図案が二つあってはならないのが原則 |
| 単位は何か | 家。代々受け継ぐ | 個人。長男と次男でも図案を変える |
| 新しく作れるか | 自由。いまも新しい紋が生まれている | 授与や登録の手続きが要る |
右の列と左の列は、どちらも十一世紀ごろに始まったとされています。それでいて、たがいに影響し合った形跡はありません。似た必要から、まるで違う答えが出た。その違いが、いまも日本の家紋を「証明できないもの」にしています。
始まりは戦場ではなく、牛車の見せびらかしだった

家紋の出発点は、戦の目印ではありません。平安時代の公家が、自分の牛車に好きな模様を描かせたのが始まりとされています。
都大路を走る、動く名刺
牛車につけた「車紋」
平安時代の貴族の牛車は、外から見ればどれも似た形をしていました。停めておけば取り違えます。そこで胴の部分に自分好みの模様を描き、目印としたのが車紋(くるまもん)です。西園寺実季(さいおんじ さねすえ)や徳大寺実能(とくだいじ さねよし)といった公家が、その紋をつけた車で都大路を披露して回ったと伝えられています。
実用だけが目的ではなかったところが、家紋らしいところです。人目につく場所に出す以上、模様の趣味の良し悪しがそのまま持ち主の評価になります。目印であると同時に、自分の優雅さを見せる道具でもありました。
一代限りの趣味が、家のものになるまで
最初のうち、その模様はあくまで本人の好みでした。一代限りで消えるはずのものです。ところが公家の社会では家柄も職務も世襲で受け継がれるようになり、父や祖父が好んだ模様を子孫がそのまま使う流れが生まれます。個人の趣味が、いつのまにか家の看板に変わっていったわけです。
始まりの年代は、資料によってそろわない
平安中ごろ説と平安末期説
ここで正直に書いておくと、家紋がいつ始まったかは資料によって食い違います。特許庁の文書が引く事典は「平安時代中ごろ」とし、家紋の解説記事の多くは「平安時代末期」を挙げます。九〇〇年代とする説と、一一〇〇年代とする説では二百年ほどの開きがある計算です。
ずれる理由ははっきりしています。届け出も台帳もない習慣なので、「この年から始まった」と示す一次資料が残らないのです。管理されなかったことの代償が、起源の曖昧さとして今日まで残っています。
『愚管抄』に出てくる牛車の紋
比較的はっきりした手がかりの一つが、一二二〇年ごろに慈円が書いた歴史書『愚管抄』(ぐかんしょう)です。ここに牛車の紋についての記述があるとされ、鎌倉時代の初めには紋が定着していたことがうかがえます。逆にいえば、文字で確認できるのはそのあたりまで。それ以前は、絵巻に描かれた模様から推し量るしかありません。
武家が使い始めたのは、命がかかっていたから
源氏の白旗と平氏の赤旗
武家が紋を持つようになったのは、公家より遅い平安末期とされます。動機はまるで違いました。源氏が白い旗を、平氏が赤い旗を掲げたように、戦場で味方を撃たないための識別が出発点です。おしゃれの話が、生き死にの話に変わったわけです。
旗指物・幕・馬印へ広がる
戦国時代になると、紋の出番は一気に増えます。旗指物(はたさしもの)・陣幕・甲冑・馬印と、目に入るところにはたいてい描かれました。遠くからひと目で「あれは誰の隊か」がわかることが、そのまま戦力になりました。図案が単純で、はっきりした形をしているのは、遠目に効くことが求められた名残でもあります。
※ 馬印(うまじるし)とは、戦場で大将の居場所を示すために、そばに立てた目印のことです。豊臣秀吉の千成瓢箪(せんなりびょうたん)のように、紋とは別の形をとることもありました。
身分に関係なく持てた、世界的に珍しい印

家紋のいちばん変わっている点は、貴族や武士の専有物にならなかったことです。江戸時代には、百姓も町人も、役者や遊女までが自由に紋を用いていました。
町人と役者が広げた
元禄のころには庶民に定着していた
江戸時代は士農工商の身分がはっきりしていた社会でしたが、家紋についてはその線引きが働きませんでした。元禄期(一六八八〜一七〇四年)にはすでに庶民のあいだに定着していたとされます。室町時代には商人が店の看板に紋を使い始めていたという記録もあり、身分より先に商売の必要が紋を求めた形です。
このころ下層の庶民に好まれたのが、五三桐でした。秀吉が使って出世した縁起のよい紋だから、という理由だったといわれます。天皇から下賜される格の高い紋が、めでたい柄として長屋にまで降りてきたわけです。止める人がいなければ、紋はこうして身分の段差を下りていきます。
歌舞伎役者は、紋を配って売り出した
広める力になったのが歌舞伎役者です。当時の役者は今でいう人気タレントで、その紋がそのまま流行の柄になりました。手ぬぐいや風呂敷に自分の紋を染め抜き、襲名披露の折に配るという売り出し方も行われていたといいます。憧れの役者と同じ紋を身につける感覚は、いまのグッズとそう遠くありません。
ヨーロッパの紋章は「授けられるもの」だった
一四八四年に生まれた紋章院
同じころのヨーロッパでは、話がまるで違います。紋章はまず王侯のものとして始まり、十三世紀半ばまでに下位の貴族や騎士へ広がりました。イングランドでは一四八四年に紋章院が創設され、紋章の調査と管理を担います。誰が何を名乗ってよいかを、機関が決める仕組みです。
※ 紋章院(College of Arms)とは、イングランドで紋章の授与・登録・管理を行う公的機関です。スコットランドではロード・ライアン卿裁判所が同じ役割を担っています。
同じ図案が二つあってはならない
ヨーロッパの紋章には、まったく同じ図案が二つ存在してはならないという原則があります。しかも単位が家ではなく個人なので、同じ家の中でも当主と長男と次男で図案を変えます。婚姻関係を正確に表そうとするため、デザインは細かく複雑になりました。日本の家紋が円の中に収まる単純な形なのとは、成り立ちからして正反対です。
だから、同じ紋の家がいくらでもある
十大家紋という「よく見る顔ぶれ」
重複を禁じる者がいないので、人気のある図案には使用者が集中しました。とくに広く使われた十種は「十大家紋」と呼ばれています。身分に関係なく使われた紋ばかりで、公家の家にも農家の墓石にも同じ紋が並びます。
| 紋の名 | 読み | 由来・意味とされるもの |
|---|---|---|
| 藤 | ふじ | 藤原氏ゆかり。分家が全国に広がり使用者も多い |
| 桐 | きり | 鳳凰が止まる霊木とされ、皇室の副紋から下賜された |
| 片喰 | かたばみ | 石畳の隙間にも生える繁殖力から、家の存続を願う |
| 鷹の羽 | たかのは | 鷹を尊ぶ武家の気風から。矢羽根に通じる勇壮さ |
| 木瓜 | もっこう | 鳥の巣とも、瓜の切り口ともいわれる。子孫繁栄の意 |
| 柏 | かしわ | 神事に供物を載せた葉。神職の家に多い |
| 蔦 | つた | 絡んで伸びる姿から、家運の伸長を願う |
| 橘 | たちばな | 常緑で実がなる木。古くから吉祥の木とされた |
| 沢瀉 | おもだか | 矢じりに似た葉から「勝ち草」と呼ばれた |
| 茗荷 | みょうが | 「冥加(神仏の加護)」に音が通じる縁起物 |
誰の家紋でもない「通紋」
重複を気にしない文化は、ついに「誰が使ってもいい紋」まで生みました。着物の世界でいう通紋(つうもん)です。五三桐や蔦、揚羽蝶などがそれにあたり、貸衣装や既製の喪服にはあらかじめこうした紋が入れられてきました。自分の家の紋がわからない人でも、とりあえず着られるようにという配慮です。紋章院のある国では、まず成り立たない発想でしょう。
自由だったからこそ、一部の紋だけが禁じられた

全体が自由だったぶん、権力の側は自分の紋を守るために個別の禁令を出しました。裏を返せば、禁令を出さないかぎり誰にも止められなかったということです。
権力者は、自分の紋を囲い込んだ
秀吉が桐紋の無断使用を禁じた
豊臣秀吉は天皇から桐紋の使用を許され、それを自らの権威の印としました。ところが人気が出れば真似されます。そこで一五九一年と一五九五年に、菊紋や桐紋を勝手に使うことを禁じる規制を出したと伝えられています。自分が下賜されて得た紋を、今度は他人から囲い込む側に回ったわけです。
幕府が葵紋を締め上げた
江戸幕府も同じ道をたどります。一六八八年の鶴字鶴紋禁令、一七二二年(享保七年)の葵紋使用禁止令などが知られています。三つ葉葵は徳川家の紋として広く知れ渡っていましたが、その知名度こそが真似を呼び、禁令を必要にしました。よく知られた紋ほど守るのが難しいという構図は、このころから変わっていません。
明治政府は、菊紋を皇室のものに絞った
社寺の菊章を禁じた明治二年の布告
明治に入ると、菊紋の整理が段階的に進みます。明治二年(一八六九年)八月には、社寺がむやみに菊章を用いることを禁じる布告が出されました。それまで神社や寺が掲げていた菊紋が、原則として使えなくなったのです。
明治四年、皇族以外は使用禁止に
仕上げが明治四年(一八七一年)六月十七日の太政官布告第二八五号「皇族ノ外菊御紋禁止ノ件」です。これにより、皇族以外が菊紋を用いることが禁じられました。数ある家紋のうち、菊だけが法令によって持ち主の定まった紋になったといえます。
空いた席に、桐紋が座った
五七桐が日本国政府の紋になった経緯
菊紋が皇室専用になると、政府は自分たちを示す紋を別に必要とします。そこで選ばれたのが、菊に次ぐ格とされた五七桐でした。首相官邸の演台や、閣僚の記者会見の背景で見かける桐の紋がこれにあたります。もとをたどれば皇室の副紋であり、秀吉が使い、いまは政府が使っている。持ち主が三度替わった紋です。
パスポートの表紙と中身で紋が違う
この使い分けは、手元でも確認できます。日本のパスポートは、表紙に菊をかたどった紋章、顔写真のページには桐の紋が用いられています。国を表す場面は菊、政府の事務を表す場面は桐。明治の整理が、いまも一冊の中で共存しているわけです。
| 年 | できごと |
|---|---|
| 1591・1595年 | 豊臣秀吉が菊紋・桐紋の無断使用を禁じる規制を出したとされる |
| 1688年 | 鶴字鶴紋禁令 |
| 1722年 | 幕府が葵紋の使用を禁じる |
| 1869年 | 社寺がむやみに菊章を用いることを禁じる布告 |
| 1871年 | 太政官布告第285号で皇族以外の菊紋使用を禁止 |
| 2017年 | 特許庁が「家紋からなる商標登録出願の取扱い」を新設 |
「うちの家紋」を証明する書類は、どこにもない

登録簿がないということは、自分の家の紋を公的に確かめる方法もないということです。戸籍にも登記にも、家紋を書く欄はありません。
調べる手がかりは、書類ではなく物のほうにある
墓石・紋付・仏壇を当たる
実際の調べ方は、意外なほど地道です。先祖代々の墓石に彫られた紋を見る。実家に残る紋付の羽織や黒留袖を確かめる。仏壇や提灯、古い風呂敷を探す。親族の年長者に聞く。役所ではなく、家の中の物が唯一の手がかりになります。
ここでよくある行き違いが、名字から家紋を割り出そうとすることです。同じ名字でも家ごとに紋は違いますし、逆に無関係な家が同じ紋を使っていることもあります。名字と家紋は、ゆるく関係することはあっても一対一では対応しません。
関西に残る「女紋」という別の道筋
受け継ぎ方も一通りではありません。近畿の商家などでは、祖母から母、母から娘へと女性のあいだで伝わる女紋(おんなもん)の風習がありました。有能な入婿を迎えて家を継がせる形が多かったため、女系に伝わる紋が自然に生まれたとされています。嫁いで姓が変わっても、この紋だけは持っていく。家の紋とは別の系統が、同じ家の中を流れているわけです。
着物の世界では、女性の紋をさらに細かく分けることもあります。誰でも使える通紋、その家に伝わる女性専用の替紋、自分だけのために誂えた私紋。同じ「家紋」の一語の下に、これだけの種類が並ぶこと自体、決まりを定める側がいなかった証しでしょう。
紋はいまも増え続けている
数は一万とも、二万五千ともいわれる
総数がはっきりしないのも、管理者がいないからです。特許庁の文書は「一万紋以上とも二万紋以上とも言われている」と記し、二万五千以上とする研究者の調査もあります。分類の数え方を細かくとった資料では、二四一の分類のもとに五一一六種を数えたものもあります。公的な調査が一度も行われていないので、どれも推定の域を出ません。
一つの家が十以上の紋を持つこともあった
数え上げにくい理由はもう一つあります。武家では、公式に用いる定紋(じょうもん)のほかに替紋(かえもん)を持つのが普通でした。表紋・裏紋・本紋・替紋と、一家で十以上の紋を使い分けた例も伝えられています。「一家に一紋」という前提そのものが、実は成り立っていないのです。
管理されない印が、商標の場面でだけ揉める

誰のものでもない紋が問題になるのは、誰かがそれを独り占めしようとしたときです。二〇一七年、特許庁はこの事態に向けた審査の考え方を新しく設けました。
二〇一七年、特許庁が家紋の審査ルールを作った
自由を認めたうえでの、例外の線引き
平成二九年八月に新設された「家紋からなる商標登録出願の取扱い」は、まず家紋が自由に使えるものだと確認します。そのうえで、時代劇や地域おこしで有名になった紋には経済的な価値が生じていると指摘し、無関係な第三者が独占するのは「社会公共の利益に反する」と述べています。自由の原則と、例外の線引きが一つの文書に同居している形です。
※ 商標審査便覧とは、特許庁が商標の審査で用いる取扱い方針をまとめた文書です。法律そのものではありませんが、実際の審査はこれに沿って進みます。
対象は「伝統的な家紋」に絞られている
興味深いのは、すべての家紋を対象にしていない点です。文書は「既存の家紋の改変や新たな家紋の創作について法的な制約等がない」ため、新しい紋が次々に作られている現状を認めています。全部は追えない。だから戦国武将の紋や神紋・社紋・寺紋といった伝統的なものに限る、という割り切りです。
三つ葉葵の商標は、取り消された
異議申立てで登録が覆った例
実際の事件もあります。水戸徳川家の三つ葉葵によく似た商標が登録された件では、異議申立て(異議2016-900059)を受けて登録が取り消されました。弁理士事務所の解説によれば、商標法四条一項の複数の号が認められた結果だといいます。あの印籠でおなじみの紋も、法律上の持ち主がいるわけではありません。それでも「無関係の人が独占するのはまずい」という判断は働くのです。
逆に、認められた六文銭
すべてが拒まれるわけでもありません。真田家で知られる六文銭については、いったん拒絶されたあと審判で登録が認められた例があります。どの紋がどこまで守られるかは、知名度や出願の経緯を総合して個別に判断される。一律の答えがないところに、登録簿を持たない印の扱いにくさが表れています。
豆知識 — 単純すぎて登録できない紋がある

「○」や「×」に近すぎる紋
先の特許庁の文書には、思わぬ理由で登録できない紋の例が図つきで載っています。加藤清正の蛇の目(じゃのめ)紋と、丹羽長秀の直違(すじかい)紋です。
理由は「極めて簡単、かつ、ありふれた標章」にあたるから。蛇の目は太い輪、直違は斜めに交差した二本の線で、たしかに記号に近い形です。遠くからでも見分けられるようにと単純化を突き詰めた結果、図案が記号そのものに行き着いてしまいました。戦場で有利だった単純さが、四百年後の審査では不利に働く。なかなか皮肉な巡り合わせです。
紋を正確に描ける人が減っている
着物に家紋を墨で手描きする紋章上絵師(もんしょううわえし)という職人がいます。コンパスと細い筆だけで円と線を引き、寸分たがわぬ紋を描き上げる仕事です。着物を着る機会が減り、プリントで紋を入れる技術も広まりました。その結果、担い手は東京で十人ほど、全国でも数十人といわれます。
誰でも自由に使える印なのに、正確な形で残せる人は数えられるほどしかいない。管理する機関がないという事情は、技術を守る側にも同じように効いています。
家紋には、所有者という考え方がそもそも似合いません。誰かに認められて持つ印ではなく、使い続けているうちに、その家のものとして通るようになった印だからです。だから家紋を調べるという行為も、書類をたどる作業にはなりません。墓石を撫で、簞笥の奥の羽織をひらき、年長者の記憶をたどる。八百年ぶん積み重なった「使ってきた」という事実だけが、その紋を自分の家のものにしています。
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