「情けは人の為ならず」の情けは、最後は自分のためになります。人にかけた情けは巡り巡って、よい報いとなって返ってくるという意味です。文化庁の平成22年度(2010年度)の調査では、この本来の意味を選んだ人が45.8%でした。「その人のためにならない」は45.7%と、ほぼ半々に割れています。辞典に載る有名なことわざ30語を十のまとまりに分け、意味と出どころをたどってみましょう。
名人の失敗は誰を引き合いに出した?

名人でも失敗する、と言うことわざは三つあります。猿・弘法大師・河童と、引き合いに出す相手が違うだけで中身は同じ。辞典もこの三つを互いの類語として並べています。
猿も木から落ちる
木登りの上手な猿でも、時には誤って落ちる。その道に優れた人でも失敗はある、というたとえです。『精選版 日本国語大辞典』が古い用例に挙げるのは、俳諧集『鷹筑波(たかつくば)』(1638年)の句でした。
『ことわざを知る辞典』は、凡人の少しの失敗は仕方がないという含みもあると説明しています。失敗した相手を慰めるときの言葉で、自分の失敗に当てると言い訳めいて響きます。
弘法にも筆の誤り
書の名人とされる弘法大師(空海)でも、書き損じることはある。用例は江戸中期の滑稽本(1782年)までさかのぼれます。三つの中ではいちばん格の高い言い方でしょう。相手を名人になぞらえて持ち上げながら、失敗を軽く流せるのが強みです。
河童の川流れ
水の中を自在に泳ぐ河童でも、流されることがある。三つのうちこれだけが、実在しない生きものを引き合いに出しています。用例は江戸後期の滑稽本(1829年)にあり、三つの中では新しい部類に入ります。猿や弘法大師より、得意なことでの思わぬしくじりを言う場面に向いた語です。
先回りの用心を説く三つ

失敗のあとでなく、起きる前に手を打つ側の言葉です。用心の深さが少しずつ違い、度が過ぎると皮肉にも転じます。
急がば回れ
急ぐときほど、危ない近道より遠回りでも確実な道を選んだほうが早く着く。出典としてよく挙がるのは「武士(もののふ)のやばせの船は早くともいそがば廻れ瀬田の長橋」という歌です。江戸初期の笑話集『醒睡笑(せいすいしょう)』(1628年)が、連歌師の宗長の歌として引いています。
ただ『ことわざを知る辞典』の見方は逆でした。歌からことわざが生まれたのではなく、すでに知られていたことわざを歌に詠み込んだのだろう、というのです。
石橋を叩いて渡る
壊れるはずのない石の橋まで、叩いて確かめてから渡る。用心の上に用心を重ねることを、大げさに言った形です。「石橋を叩いても渡らない」と続ければ、慎重すぎて動けない人への皮肉に変わります。同じ慎重さでも、褒め言葉と皮肉の両方に使えるところがこの語の面白さでしょう。
転ばぬ先の杖
転んでからでは杖は間に合いません。前もって用心しておけば失敗しない、という教えです。『ことわざを知る辞典』は、英語の Prevention is better than cure(予防は治療にまさる)を近い言い回しに挙げています。横山エンタツの『漫才読本』(1936年)には「転ばぬ先の杖、傷害保険はどうだ?」という一節も見えます。
続ける値打ちはどう数で表された?

続ければ報われる、という教えは数の多い系統です。年数・距離・量と、長さを目に見える数に置き換えたのがこの三つでした。
石の上にも三年
冷たい石でも三年座り続ければ温まる、という意から。三年はきっちりの年限ではなく、長い間のたとえです。用例は俳諧の『毛吹草(けふきぐさ)』(1638年)に見え、江戸の前期にはもう使われていました。井原西鶴の『西鶴織留(さいかくおりどめ)』(1694年)にも出てきます。
千里の道も一歩から
どんな大きな事業も、手近な一歩から始まる。もとをたどると『老子』第六十四章の「千里の行(こう)も足下より始まる」に行き着きます。
面白いのは、老子が言った文脈です。もめごとは小さいうちに手を打つほうが楽だ、という話の中の一句でした。いまは「こつこつ始めよう」という励ましとして使われ、意味の重心が少しずれています。
塵も積もれば山となる
ごくわずかなものでも、数多く積み重なれば大きなものになる。出どころは仏典『大智度論(だいちどろん)』だと辞典は記しています。千数百年前の経典の一節が、いまは貯金や勉強の話で持ち出されているわけです。小さな努力も続ければ大きな成果になる、という励ましの意味でも使われます。
立ち直りと根気を言った三つ

一度ではうまくいかないことを前提にした三つです。失敗や長い時間を織り込んでいる点が、前の三つと違います。
七転び八起き
七度転んで八度起き上がる。何度失敗しても、そのたびに奮い立つことを言います。転んだ数より起きた数が一つ多く、最後は立っている形で終わるのがこの数字の妙。辞典には、人生の浮き沈みが激しいことのたとえという意味も載っています。
好きこそ物の上手なれ
好きなことには自然と熱が入るので、上達が早い。江戸中期の俳諧書『其角十七回』(1723年)には「器用さと稽古とすきと三つのうちすきこそものの上手なりけれ」という狂歌が引かれています。
器用さ・稽古・好きを並べ、そのうち「好き」を最上位に置いた形です。将棋の名人・大橋宗桂もこの歌をよく口にしたと伝えられます。
雨垂れ石を穿つ
小さな力でも根気よく続ければ、いつかは成し遂げられる。『漢書』枚乗伝(ばいじょうでん)の「泰山の霤は石をも穿つ」が出どころで、二千年以上前の文章です。たとえに選ばれたのが、雨垂れという最も弱い力だという点。そこにこの語の妙があります。
情けは巡り巡って自分に返る

人との距離の取り方を説く三つです。題名の「情けは人の為ならず」もここに入ります。
情けは人の為ならず
人にかけた情けは相手のためになるだけでなく、巡り巡って自分にも返ってくる。「為ならず」は「ためではない」の意味で、「ためにならない」ではありません。『デジタル大辞泉』も、親切はその人のためにならないという意味で使うのは誤りだと注記しています。
文化庁の国語に関する世論調査では、平成12年度に本来の意味が47.2%、逆の意味が48.7%でした。平成22年度は45.8%対45.7%で横並びです。年代別では20代と30代の6割近くが逆の意味を選び、60歳以上では本来の意味が55.4%と上回りました。
親しき中にも礼儀あり
親しい間柄でも、守るべき礼儀はある。遠慮がなくなりすぎると不和のもとになる、という戒めです。注意したいのは表記で、辞典の見出しは「仲」ではなく「中」。変換候補につられて「仲」と書きがちな語なので、辞典を引くときは「中」で探すのが確実でしょう。類語に「親しき中に垣をせよ」があります。
類は友を呼ぶ
気の合う者や似た者どうしは、自然と寄り集まる。『易経』繋辞上伝(けいじじょうでん)の「方は類を以て聚まり、物は群を以て分かる」から来ています。褒め言葉にも皮肉にもなり、どちらに転ぶかは文脈しだいです。
集団の中の身の処し方は?

集団に入ったあとの話をする三つ。個人より場のほうが強い、という前提が共通しています。
朱に交われば赤くなる
人は交わる相手によって、善にも悪にも染まる。西晋の傅玄(ふげん)が皇太子の教育係の心得を書いた文章にある「朱に近づく者は赤く、墨に近づく者は黒し」が由来とされます。
朱は赤い顔料で、少し付いただけでもすぐ赤く染まります。いまは子の友人関係を案じるときなど、悪い影響を心配する場面で使われるのがほとんどです。
出る杭は打たれる
才能を現す者はとかく憎まれ、出過ぎたふるまいをすれば非難される。辞典は「出る釘は打たれる」という形も載せています。文化庁の平成18年度の調査では、「出る杭」を使う人が73.1%、「出る釘」が19.0%でした。挑戦を止める側の言い分にも、覚悟を促す側の言い分にもなる語です。
船頭多くして船山に上る
指図する人が多すぎると統一が取れず、見当違いの方へ物事が進む。船が山を上がっていくという、ありえない絵で混乱ぶりを見せた言い方です。辞典の見出しは「登る」ではなく「上る」。坂口安吾の文章には「船山に登る」の形も見え、書き手によって字は揺れてきました。
自分の狭さに気づかせる三つ

見えている範囲がすべてではない、と告げる三つです。二つは中国の古典から、一つは昔の室内の明かりから来ています。
百聞は一見に如かず
百回聞くより、一度自分の目で見るほうが確かでよくわかる。『漢書』趙充国伝(ちょうじゅうこくでん)が出どころです。前漢の老将・趙充国が、異民族への対応策を問われた場面の言葉でした。報告を何度聞くより現地で見るほうがよいと述べ、自ら出向いて指揮を取りたいと願い出たといいます。
井の中の蛙大海を知らず
井戸の中の蛙は、外に大海があることを知らない。狭い知識にとらわれて得意になっている様子を言います。もとは『荘子』秋水篇の「井蛙(せいあ)は以て海を語るべからず」です。蛙の側に悪気はなく、知りようがないだけだという点。そこがこの語の苦みでしょう。
灯台下暗し
灯台のすぐ下はかえって暗い。身近なことほど、案外わかりにくいというたとえです。この灯台は岬の灯台ではなく、油で火をともした室内の照明具を指します。用例は『毛吹草』(1638年)にあり、洋式の灯台が日本に建つより二百年以上前の言葉でした。
あとで重みがわかるものは何?

時間・縁・忠告と、過ぎてから効いてくるものを扱う三つです。どれも言われた瞬間より、あとで思い出す言葉といえます。
覆水盆に返らず
一度こぼした水は盆には戻らない。周の呂尚(太公望)は読書ばかりで暮らしを顧みず、妻は離縁して去りました。のちに呂尚が斉に封じられると、妻は復縁を求めます。呂尚は盆の水を地にこぼし、元に戻せたら応じようと言って断りました。
出典は『拾遺記』とされます。盆は食器を載せるお盆ではなく、素焼きの浅い器のこと。もとは夫婦の縁について言った語で、いまは失敗一般に広く使われています。
光陰矢の如し
月日の過ぎるのは飛ぶ矢のように早い。「光」は日、「陰」は月を指します。『精選版 日本国語大辞典』が古い例に挙げるのは『曾我物語』(南北朝期ごろ)の一節でした。六百年以上前から、人は同じことを嘆いていたことになります。
良薬は口に苦し
よく効く薬は苦くて飲みにくい。同じように、ためになる忠告ほど聞くのはつらい、という意味です。出典を『孔子家語』六本篇とする辞典と、『韓非子』外儲説左上とする辞典があります。忠告する側が前置きに使うことの多い言葉です。
かみ合わない組み合わせで笑わせる三つ

教訓の中身より、たとえの絵づらが記憶に残る系統です。届かない、通じない、風流がわからない。うまくいかない様子を一枚の絵で見せています。
二階から目薬
二階から下にいる人へ目薬をさそうとする。もどかしくて効き目がないことのたとえです。辞典によれば江戸前期には「二階から目薬をさす」の形があり、上方のいろはがるたには「二階から目薬」として採られました。届かないことを言うために、わざわざ高低差を持ち出した構図です。
馬の耳に念仏
馬にありがたい念仏を聞かせても、何の意味もない。いくら意見しても効き目がない相手を言います。類語は「馬耳東風」「犬に論語」「牛に経文」「糠に釘」と数多く、聞き手の動物を替えた形がずらりと並ぶのも面白いところです。
花より団子
花見に行っても、花を眺めるより団子を食べるほうがいい。風流より実利を取ることのたとえです。室町時代の『新撰犬筑波集(しんせんいぬつくばしゅう)』(1532年ごろ)に「花よりもだんごとたれか岩つつじ」という句が見え、五百年近い歴史があります。風流を解さない自分を笑う、自嘲の言葉にもなります。
欲と偶然はどう描かれた?

思いどおりにならないことと、思いがけず転がり込むこと。運を扱った三つです。
棚から牡丹餅
棚の下にいたら牡丹餅が落ちてきた。努力せずに思いがけない幸運を得ることをいいます。古い例は江戸中期の『譬喩尽(たとえづくし)』(1786年)にある「棚から牡丹餅落したやうな」。略した「たなぼた」のほうが日常でよく聞く、珍しいことわざです。
二兎を追う者は一兎をも得ず
二匹の兎を同時に追えば、結局どちらも捕まえられない。日本古来の言い方ではなく、西洋のことわざの翻訳です。
『ことわざを知る辞典』によれば、幕末にオランダ語・フランス語・英語から並行して入ってきたものと見られています。明治10年(1877年)に『西洋諺草』で紹介され、小学校の修身や国語の教科書を通じて急速に広まりました。
犬も歩けば棒に当たる
正反対の二つの意味を持つ語です。ひとつは、何かをしようとすれば災難にも遭うという戒め。もうひとつは、出歩けば思わぬ幸運に出会うという励まし。江戸いろはかるたの最初の札として知られます。文字どおりに読めば災難の意味ですが、『ことわざを知る辞典』によれば、実際の用例は大半が幸運の文脈だそうです。
30語の出どころを並べ直すと、中国の古典・仏典・江戸の俳諧・幕末の翻訳とばらばらでした。それでも辞典の上では、どれも同じ「ことわざ」として隣り合っています。45.8%と45.7%という数字も、二つの読みがまだ生きている証拠でしょう。人にかけた情けと同じで、言葉もまた、巡り巡って思わぬところから返ってくるのかもしれません。
参考
- 文化庁「平成22年度『国語に関する世論調査』の結果について」
- コトバンク「情けは人の為ならず」(デジタル大辞泉・ことわざを知る辞典)
- コトバンク「急がば回れ」(ことわざを知る辞典)
- コトバンク「二兎を追う者は一兎をも得ず」(ことわざを知る辞典)
関連記事








