「油を売る」の油は、江戸時代に町で売り歩かれた髪油のことです。行商人が女性客を相手に話し込みながら商ったことから、仕事の途中で無駄話をして怠ける意味になりました。ここでは油を売るをはじめ、辞典に載る有名な慣用句30語を体・動物・仕事の現場・意味のずれといった系統に分け、由来とともに紹介します。
油を売っていたのは江戸の髪油の行商人

髪油売りは女性客と話し込みながら売った
江戸時代の女性は、髪を結うときに髪油を使っていました。その油を町で売り歩く商人がいて、客の女性と世間話をしながら商うのが常だったとされています。精選版日本国語大辞典も、髪油を売り歩く者が「婦女を相手に話し込みながら商った」ところから来た語だと説明しています。話し込むのも商売のうちだったはずですが、はた目には長話にしか見えません。そこから、仕事の途中で時間をつぶして怠けるという今の意味が生まれました。
1801年の川柳にはもう出てくる
辞典が挙げる古い用例は、雑俳『柳多留拾遺(やなぎだるしゅうい)』(1801年)の「江戸の水のむと油をうりたがり」という句です。江戸の水になじむと油を売りたがるようになる、という皮肉に読めます。都会暮らしで怠けぐせがつく様子をからかったのでしょう。19世紀の初めには、説明なしで通じる言い回しだったことになります。髪油の行商が町から消えた今も、二百年以上使われ続けている計算です。
頭・目・耳の慣用句は何を言い分ける?

頭が下がるは思わず起きる敬意
相手の行いに感心して、自然と敬う気持ちになることを言います。よく似た「頭を下げる」は自分の意思でする動作ですが、こちらは「下がる」という自動詞です。下げようと思って下げるのではなく、思わず下がってしまう。動詞ひとつの違いで、敬意が心の底から出ていることを伝えているわけです。
目から鱗が落ちるは聖書から来た
何かをきっかけに、急に物事の実態がよく見えるようになるたとえです。出どころは新約聖書の「使徒行伝」第9章で、目の見えなくなった人の目から鱗のようなものが落ち、再び見えるようになる場面に由来します。日本語の古い用例は『引照新約全書』(1880年)にあります。明治の聖書翻訳とともに入ってきた言い方で、30語の中では珍しく海の向こうから来た語です。
耳が痛いは非を認める受け答え
他人の言葉が自分の弱点を突いていて、聞くのがつらいことを指します。「それを言われると耳が痛い」のように、言われた本人が口にする形でよく使われる語です。自分から言えば、相手の指摘を認めたという合図にもなります。反論せずに受け止める、角の立たない返し方として定着しました。
手・足・腹の慣用句は動作で心を表す

手を焼くは扱いにくさそのもの
扱いに困る、てこずるという意味です。熱いものをつかんで手をやけどする感覚を思い浮かべると、思うようにならない相手を前にした気分がよく伝わります。近い語に「手に余る」がありますが、余るのは量や力量の話。焼くのほうは量ではなく、扱いにくさそのものを言っています。
足を洗うは室町時代の用例がある
汚れた足を洗うように、悪事や好ましくない世界から抜け出すことです。精選版日本国語大辞典は、娼妓(しょうぎ)や芸人が勤めをやめて普通の暮らしに戻る意味も挙げています。古い用例は『玉塵抄(ぎょくじんしょう)』(1563年)に見え、室町時代までさかのぼる語です。今では、やっかいな仕事や悪い習慣をやめる場面にも広く使われています。
腹を割るは本心が腹にあるという見方
本心を隠さずに打ち明けることです。腹は本心のしまわれている場所だ、という見方が前提にあります。用例は長塚節の小説『開業医』(1909年)の「腹を割っていふ人でなくては頼もしくない」という一文です。「腹を探る」「腹が立つ」「腹に一物」と並べると、日本語が心の中身を腹に置いてきたことがよく分かります。
気持ちを顔や体で言う慣用句は?

口が滑るは口のせいにできる
言ってはいけないことを、うっかり言ってしまうことです。言ったのは自分なのに、口が勝手に動いたという言い方になっています。この他人事のような形のおかげで、失言の言い訳にも使えます。「つい口が滑って」と言えば、悪気のなさまで一緒に伝わるのが便利なところです。
鼻が高い・顔が広いは見える場所で言う
鼻が高いは、誇らしく得意なこと。身内の活躍を喜ぶ場面でよく使われます。同じ鼻でも「鼻にかける」になると、自慢して嫌味だという悪口に変わります。顔が広いは、つきあいが広く知り合いが多いことです。「顔が利く」まで行くと、知られているだけでなく無理を通せる力まで含みます。
首を長くするは遠くを見る仕草
今か今かと待ち焦がれる様子を言います。来る人や知らせを少しでも早く見つけようと、首を伸ばして遠くをのぞく仕草がそのまま語になりました。待つ相手は人でも便りでもかまいません。多くは「首を長くして待つ」の形で使われ、待ち遠しさを体の伸び具合で見せています。
舌を巻く・肝を冷やすは体の反応で測る
舌を巻くは、あまりの見事さに驚き感心すること。精選版日本国語大辞典は言い負かされて黙る意味も挙げ、最も古い用例を921年の歌合(うたあわせ)としています。千年以上使われてきた古株です。肝を冷やすは、危ない目にあってひやりとすること。肝は昔から度胸の宿る場所とされ、「肝が据わる」はその反対に落ち着いた様子を言います。
動物の慣用句はその動物の評判を借りる

猫の手と猫を被るで猫は二役
猫の手も借りたいは、手が足りず非常に忙しいこと。用例は浄瑠璃『関八州繋馬(かんはっしゅうつなぎうま)』(1724年)の「猫の手もかりたい忙しさ」で、ここでの猫は役に立たないものの代表です。猫を被るは、本性を隠しておとなしく見せること。用例は歌舞伎『盲長屋梅加賀鳶(めくらながやうめがかがとび)』(1886年)です。こちらの猫は、おとなしい生きものの代表として登場します。
馬が合うは乗り手との呼吸から
気がよく合う、意気投合するという意味です。馬と乗り手の呼吸がぴったり合うところから、人どうしの相性に転じたとされています。古い用例は浮世草子『傾城禁短気(けいせいきんたんき)』(1711年)の「いづくの者も馬があふて」。江戸時代の半ばには、すでに人づきあいの言葉として使われていました。
犬猿の仲は水と油より険しい
きわめて仲が悪い間柄を言います。同じ意味の「水と油」と比べると、二つの語の違いが見えてきます。水と油は混ざり合わない物どうしですが、犬と猿は顔を合わせれば争う生きものどうし。にらみ合う気配まで含む分、犬猿の仲のほうが強く響きます。
鶴の一声と雀の涙は鳥の格の差
鶴の一声は、大勢の議論をひと言で静める有力者の発言です。用例は『有馬大鑑迎湯抄』(1678年)にあり、辞典には胡銅(こどう)製で紋のない花入れの名という別の意味も載っています。雀の涙は、ごくわずかなもののたとえ。小さな鳥の、さらに涙という二段構えで少なさを言います。格の高い鶴は場を動かす大きな声、小さな雀はわずかな涙という対比になっています。
芝居や相撲の現場から生まれた慣用句

板に付くの板は舞台
経験を積んで、仕事ぶりや態度がしっくり合うことです。ここでの「板」は舞台のことで、もとは役者の芸が舞台に調和する様子を言いました。今は服装や肩書きが似合う場合にも使います。織田作之助の『夫婦善哉』(1940年)には「蝶子のマダム振りも板についた」という一文があります。
元の木阿弥は戦国の身代わり話から
一度よくなったものが、再び元の状態に戻ることです。よく知られるのは戦国武将の筒井順昭(つついじゅんしょう)の話。病死した順昭の死を子の順慶(じゅんけい)が成長するまで隠すため、声の似た木阿弥という男を寝所に寝かせて来客をあざむいたといいます。順慶が成長して喪が明かされると、木阿弥は元の身分に戻りました。ただ、ことわざを知る辞典は出家した人が元の暮らしに戻った話など別の説も挙げ、由来は定かでないとしています。
胸を借りるは相撲の稽古
相撲で、上位の力士に稽古の相手をしてもらうことを言います。そこから、実力のある人に練習相手になってもらう意味で広く使われるようになりました。借りるのが力でも技でもなく、胸なのが独特です。ぶつかっていく側と、それを胸で受け止める側の関係が、そのまま言葉に残っています。
御破算と拍車をかけるは道具の言葉
御破算は、そろばんの珠を全部払って新しい計算ができる状態にすること。「御破算で願いましては」の読み上げでおなじみで、そこから今までの行きがかりを捨てて白紙に戻す意味になりました。拍車は乗馬靴のかかとに付ける金具で、馬の腹に当てて進ませます。拍車をかけるは物事の進み方を一段と速めることで、用例は菊池寛の『恩讐の彼方に』(1919年)にあります。
本来の意味とずれて使われるのはどれ?

流れに棹さすは逆らう意味ではない
棹を川底に突いて流れに乗るように、物事が思いどおりに進むことです。棹は流れを止める道具ではなく、舟を進める道具でした。文化庁の「国語に関する世論調査」では、「傾向に逆らって勢いを失わせる」と答えた人が平成24年度で59.4%。本来の意味を選んだ人は23.4%にとどまりました。それでも平成14年度の12.4%からは少しずつ増えています。
檄を飛ばすは励ます意味ではなかった
自分の主張を広く知らせて同意を求め、人々に決起をうながすことです。「檄」は人を呼び集めるための文書のことで、「激励」の「激」とは別の字になります。平成29年度の同じ調査では、「元気のない者に刺激を与えて活気づける」と答えた人が67.4%いました。辞典も、励ます意味で使うのは誤用が定着したものだと補っています。
白羽の矢は犠牲者を選ぶ印だった
人身御供(ひとみごくう)を求める神が、望む娘の家の屋根に人知れず白羽の矢を立てるという俗説から来ています。もとは、多くの中から犠牲者として選び出されることでした。今は多くの中から抜てきされる、という明るい意味で使うのが普通です。平成29年度の調査では「白羽の矢が当たる」と言う人も15.1%いましたが、本来の言い方は「立つ」です。
鯖を読む・図に乗る・二の足を踏むの由来は?

鯖を読むの由来は説が分かれる
数を実際より多く言ったり少なく言ったりしてごまかすことを指します。「読む」は数えるという意味で、年齢を若く言う場面でおなじみの語です。由来には、魚市で早口に数える「いさば読み」が縮まったという説や、傷みやすい鯖を急いで数えるので数がいい加減になったという説などがあります。広く知られた話でも、一つには決まっていません。
図に乗るはもとは調子よく運ぶこと
いい気になって勢いづく、つけあがるという意味です。精選版日本国語大辞典によると、もとは自分の思うように事がはこぶこと。「ず」には「頭」の字を当てることも多いとされます。井原西鶴の『日本永代蔵』(1688年)には「何事しても頭に乗って、今は金銀うめきて」とあります。商売がうまく回る良い意味から、調子づいて増長する悪い意味へと傾いていきました。
二の足を踏むは一歩は出ている
一歩目は踏み出したものの、二歩目はためらって足踏みする様子から、思い切れずに迷うことを言います。まったく動けないのではなく、一歩は出ているのがこの語の肝です。用例は二葉亭四迷の『其面影(そのおもかげ)』(1906年)にあり、「二の足を踏む父や兄」を説き伏せる場面で使われています。
慣用句とことわざはどう違う?

意味が足し算にならないのが慣用句
慣用句は、二つ以上の語が結びついて全体で特定の意味を表すものです。「油」と「売る」の意味をいくら足しても「怠ける」にはなりません。部分の意味から全体が読めないところに、慣用句らしさがあります。そのため直訳が利きません。「足を洗う」を英語で wash one’s feet と置き換えても、仕事をやめる意味は伝わらないのです。
ことわざは文になって教えを含む
「猿も木から落ちる」は主語と述語のそろった文で、名人でも失敗するという教えを含みます。一方の「油を売る」は述語だけ。誰が売るのかは場面が決め、教訓も入っていません。ただし辞典によっては、慣用句をことわざや格言まで含む広い言葉として扱うため、下の違いは見分けるときの目安です。
| 見る場所 | ことわざ | 慣用句 |
|---|---|---|
| 形 | 主語と述語がそろった文 | 述語だけの句が多い |
| 内容 | 教訓や風刺を述べる | 状態や動作を言い表す |
| 例 | 猿も木から落ちる | 油を売る |
30語を並べてみると、慣用句が借りているのは体と動物と、暮らしの現場でした。説明しなくても誰もが知っているものを借りたからこそ、短いひと言で通じ、何百年も残ってきたのでしょう。髪油の行商はとうに町から消えましたが、言葉のほうはいまも元気に売り歩かれています。今日もどこかで、誰かが油を売っているはずです。
参考
- 「油を売る」精選版 日本国語大辞典・デジタル大辞泉(コトバンク)
- 「流れに棹さす」デジタル大辞泉ほか(コトバンク)
- 「元の木阿弥」デジタル大辞泉・ことわざを知る辞典(コトバンク)
- 「慣用句」(コトバンク)
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