「コーヒー税」があった時代とは?嗜好品と課税の歴史をさかのぼる

一般教養の話
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コーヒーを1杯飲むたびに税金を払っていた時代がありました。18〜19世紀のヨーロッパでは、コーヒー・紅茶・タバコといった「嗜好品」は贅沢品とみなされ、禁止令や重税の対象になることが珍しくなかったのです。その背景には、財政上の理由だけでなく、「国民の体に悪い」「国産品を守れ」という政治的な思惑が絡んでいました。

嗜好品と課税の歴史年表

コーヒーや紅茶をめぐる課税・禁止の歴史を整理すると、こうなります。

時期国・地域できごと
1633年オスマン帝国スルタン・ムラト4世がコーヒーハウスを閉鎖令。違反者には死刑
1689年〜イギリス茶に輸入関税を導入。税率は最大119%に達した時期も
1756年スウェーデンコーヒー輸入を禁止。その後も禁止・課税を繰り返す
1773年アメリカ(英国植民地)茶税に反発したボストン茶会事件。独立運動の火種に
1777年プロイセンフリードリヒ大王がコーヒー禁止令。「農民はビールを飲め」
19世紀以降各国産業革命後、嗜好品税は財政の柱として定着

ヨーロッパで相次いだコーヒー禁止令と課税

プロイセン王の「農民はビールを飲め」宣言

1777年、プロイセン(現在のドイツ北部)の国王フリードリヒ2世(大王)は有名な布告を出しました。コーヒーの輸入・焙煎(ばいせん)を王室の専売とし、一般国民には事実上禁止したのです。

その理由が奮っていました。「コーヒーを買うために大量の外貨が流出している。農民はコーヒーの代わりにビールを飲むべきだ」というのです。当時のプロイセンにとって、国内で生産できるビールとは違い、コーヒー豆は全量輸入に頼る品でした。つまりコーヒー禁止は、貿易赤字対策でもあったのです。

禁令を取り締まるために「コーヒースニッファー(嗅ぎ手)」と呼ばれる密偵(みってい)が各地に配置され、違法なコーヒー焙煎の煙の匂いを嗅いで回ったとされています。

スウェーデンでは5回も禁止・解禁を繰り返した

スウェーデンは1756年から1820年代にかけて、コーヒーの輸入禁止を5回繰り返したことで知られています。禁止の度に密輸が横行し、禁止を解くたびに今度は高い関税をかけるという繰り返しでした。

皮肉なことに、現在のスウェーデンは世界でも有数のコーヒー消費国に数えられます。1人あたりの年間消費量は日本の約2倍とされており、「フィーカ(fika)」と呼ばれるコーヒー休憩の文化が今も根付いているのです。

イギリスの茶税が歴史を動かした

ボストン茶会事件は「税への反発」から始まった

嗜好品への課税が歴史を動かした最大の例が、1773年のボストン茶会事件です。イギリスは17世紀末から植民地アメリカにも茶税を課しており、税率は時に100%を超えるほど高額でした。

「代表なくして課税なし」というスローガンのもと、植民地の人々は一方的な課税に反発しました。そして1773年12月、ボストン港に停泊していた東インド会社の船から、抗議者たちが342箱もの茶葉を海に投げ捨てたのです。この事件がアメリカ独立革命の導火線になったことは、よく知られているとおりです。

紅茶という一杯の飲み物への課税が、やがて新しい国家の誕生につながった——嗜好品税が政治史に与えた影響として、これほど劇的な例はないかもしれません。

豆知識 — オスマン帝国でコーヒーは「革命の道具」だった

ヨーロッパよりも早く、オスマン帝国ではすでに17世紀にコーヒーが政治問題になっていました。1633年、スルタン・ムラト4世はコーヒーハウスを全土で閉鎖する命令を出しました。理由は「コーヒーハウスに人々が集まり、政府批判をしているから」というものです。

当時のコーヒーハウスは情報交換・議論・娯楽の場であり、現代でいうSNSに近い機能を果たしていました。支配者からすれば、人々が自由に集まって意見を交わす場所は、体制への脅威に映ったのです。ムラト4世の禁令では違反者に死刑が適用されたとも記録されています。

コーヒー税・禁止令は財政問題だけでなく、「人々を管理したい」という権力の欲求とも深く結びついていました。現代でも酒税・タバコ税が「健康への害を抑制する」名目で設けられているように、嗜好品への課税には常に経済と権力が絡み合っています。一杯のコーヒーに込められた歴史は、思いのほか重いものがあります。