上司が会議を終えて席に戻ってきたとき、いまの職場で無難なのは「お疲れ様です」のほうです。文化庁の調査でも、目上に「お疲れ様」を使う人は約7割で、「ご苦労様」は15%ほどでした。ただ「ご苦労様は目下へ」という作法は意外に新しく、昭和の小説には課長が社長に「御苦労さまです」と声をかける場面が普通に出てきます。
目上には「お疲れ様」が無難とされる

目上へは約7割が「お疲れ様」
文化庁は2006年2〜3月、全国の16歳以上を対象に「国語に関する世論調査」(平成17年度)を行いました。会社で一緒に仕事をした人へ、仕事が終わったときに何と声をかけるかを尋ねたものです。有効回答は2,107人でした。
自分より職階が上の人に対しては「お疲れ様(でした)」が69.2%で、ほかを大きく引き離しました。「御苦労様(でした)」は15.1%、「ありがとう(ございました)」は11.0%です。
部下へは「ご苦労様」が3割台半ば
同じ調査で、職階が下の人に向ける言葉も聞いています。こちらは「お疲れ様」が53.4%、「御苦労様」が36.1%でした。目上向けと比べると「御苦労様」が21ポイント高くなります。
部下に対しても「お疲れ様」のほうが多い点は見逃せません。「ご苦労様」は目下専用の言葉というより、目上には避けられがちな言葉、というほうが実態に近そうです。
男性のほうが「ご苦労様」をやや多く使う
目上向けの回答を男女で分けると、「お疲れ様」は男性67.2%・女性71.1%でした。「御苦労様」は男性17.7%、女性12.8%です。差は数ポイントですが、男性のほうが「ご苦労様」を口にしやすい傾向が見えます。
年代で答えが分かれるのはなぜ?

20〜40代は8割前後が「お疲れ様」
目上への言葉を年代別に見ると、「お疲れ様」は20代・30代・40代で7割台後半から8割強に達しました。いま職場の中心にいる世代ほど、目上には「お疲れ様」という感覚がはっきりしています。
60歳以上は「ご苦労様」に抵抗が少ない
反対に「御苦労様」が高かったのは、16〜19歳と60歳以上です。文筆家のパオロ・マッツァリーノ氏の紹介では、目上への「ご苦労様」を容認した人は20〜40代で10%前後でした。それが50代で14.3%、60代以上で20.2%と、年代が上がるほど増えていきます。
部下に向ける言葉でも、60歳以上では「お疲れ様」と「御苦労様」がともに4割強で並びました。年配の人には、「ご苦労様」を上下どちらにも使える普通のねぎらいと感じている人が少なくないようです。
年代差は「教わった作法」の差
この差は、言葉の意味が変わったというより、社会に出たときに教わった作法の違いとみられます。60代以上が社会人になった昭和の中ごろには、目上に「ご苦労様」と言っても失礼とは受け取られていなかったからです。10代で「御苦労様」が多いのは、まだ職場の作法に触れていないためかもしれません。
「ご苦労」はもともと感謝の言葉

400年前の辞書にも「ゴクラウ」
『日本国語大辞典』によると、「御苦労」の古い用例は1603〜04年の『日葡辞書』にさかのぼります。ポルトガル人宣教師がまとめた日本語の辞書で、「ゴクラウ アッテ クダサレイ」という例文が載っています。意味は、相手を敬ってその骨折りを言う語、つまり「お骨折り」です。
※ 日葡辞書(にっぽじしょ)とは、イエズス会の宣教師たちが長崎で刊行した日本語・ポルトガル語の辞書のことです。当時の話し言葉を知る資料として重んじられています。
狂言では丁寧なお礼として使われた
他人の骨折りに感謝する言葉の用例としては、狂言『右近左近(うこんさこん)』の「是は何れも様、近頃御苦労に存まする」が挙がっています。「皆様、このたびはご苦労をおかけしました」というへりくだった口ぶりで、目下に向けた言葉ではありません。
「御苦労様」は江戸中期のあいさつ語
「様」の付いた「御苦労様」の用例は、1763〜69年の談義本『根無草(ねなしぐさ)』に見えます。『日本国語大辞典』は、他人の骨折りを感謝する丁寧な言葉で、あいさつ語として使うことが多いと説明しています。語釈のどこにも、目上・目下の区別は書かれていません。
昭和の課長は社長に「御苦労さま」と言った

1951年の小説『三等重役』の一場面
源氏鶏太(げんじけいた)の小説『三等重役』は1951年に刊行され、映画にもなったサラリーマン小説です。作中では、人事課長が社長室を訪ね、仲人に出かけるためモーニングを着込んだ社長に「そりゃア御苦労さまです」と声をかけます。部下から社長への言葉として、何の引っかかりもない書きぶりです。
この場面を紹介したマッツァリーノ氏は、当時は課長が社長を「ご苦労さま」とねぎらうのは普通で、マナー違反という考えはなかったと述べています。
江戸の文献は「下から上」が多いという指摘
同じ記事では、江戸時代の文献ではむしろ目下から目上への「ご苦労さま」の用例が多いと、複数の国語学者が指摘していることにも触れています。時代劇で殿様が家臣に「ご苦労であった」と言う場面を見慣れていると意外ですが、上から下へ限る言葉ではなかったわけです。
「目上に失礼」が広まったのは昭和の後半以降
「目上にご苦労様は失礼」という教えがいつ生まれたのか、はっきりした記録は見当たりません。一般向けの解説では1980年代ごろから言われ始め、1990年代に広まったとするものが多く見られます。新人研修やマナー本を通じて広まった作法とみるのが自然でしょう。
いまの辞書は「同輩以下に用いる」と書く

辞書が作法を後追いした
小学館の『デジタル大辞泉』は「御苦労」の意味を三つに分けています。その二つ目、人に仕事を頼んだときなどに労をねぎらう語には「同輩以下に用いる」と注記があります。例文は「遅くまでご苦労だったね」です。
江戸の用例を集めた『日本国語大辞典』にはこの注記がありません。現代語の辞書のほうが、昭和の後半以降に定着した使い分けを取り込んだ形です。
「ご苦労なことだ」には皮肉の意味も
「御苦労」には、骨折りが無駄に見えることをからかう使い方もあります。『日本国語大辞典』は夏目漱石『吾輩は猫である』の「此暑いのに御苦労にも冬帽を被って」を引いています。「この暑いのにご苦労なことだ」と言われて、ほめられたと感じる人はいないでしょう。
同じ辞典は、1870年代の仮名垣魯文(かながきろぶん)『西洋道中膝栗毛』から「御苦労さまなこんでござる」という皮肉の用例も挙げています。目上に使うと引っかかる感じがするのは、こうした含みを帯びやすい言葉だからかもしれません。
目上をねぎらう言葉に正解はある?

ねぎらいは上から下へ、という考え方
相手の労をねぎらうこと自体が、立場の上の人から下の人へ向ける行いだという考え方もあります。この立場に立つと、目上に「お疲れ様」と言うのも厳密にはふさわしくない、という意見になります。とはいえ7割の人が使っている言葉なので、社内で「お疲れ様です」と言って失礼と受け取られることはまずないでしょう。
感謝の一言を添えると角が立たない
文化庁の調査で目上に「ありがとう(ございました)」と返す人は11.0%でした。少数派ですが、ねぎらいの上下を気にせずに済む言い方です。「お疲れ様でした。ありがとうございました」と重ねれば、上下の感覚に敏感な人にもやわらかく届きます。
年配の人の「ご苦労様」は失礼のつもりではない
逆に、年配の取引先や親戚から「ご苦労様」と言われて、見下されたと感じる必要はありません。60歳以上の4割強が部下にも「お疲れ様」と並べて使う言葉で、昭和の職場では上下を問わない普通のねぎらいでした。相手の世代を思い浮かべれば、同じ一言でも聞こえ方が変わってきます。
江戸の狂言では丁寧なお礼で、昭和の課長は社長に向けて使い、令和の職場では目上に避けられる。「ご苦労様」は、意味を変えないまま向ける先だけが入れ替わってきた言葉です。いま目上に「お疲れ様」を選ぶのも、数十年後にはまた別の作法に変わっているのかもしれません。
参考
- 文化庁「平成17年度『国語に関する世論調査』の結果について」
- 『精選版 日本国語大辞典』『デジタル大辞泉』「御苦労」(コトバンク)
- 『精選版 日本国語大辞典』「御苦労様」(コトバンク)
- 文春オンライン「「ご苦労さま」は目上への言葉、「お疲れさま」はチャラい流行語…正しい“敬語”の奇妙な変遷」(2020年)
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