学校や会社はなぜ4月に始まるのか、桜ではなくお金の都合だった

帳簿と電卓のイラストに「年度は4月」の文字 社会と仕組みの話
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入学も入社も、日本では4月が1年の始まりです。この区切りは、明治19年(1886年)に国の会計年度が4月始まりになったことから来ています。学校は国の予算で動く都合から、会社は国や取引先と足並みをそろえる都合から、あとで同じ区切りに合わせました。決め手は桜ではなく、当時の大蔵卿が抱えていた財政のやりくりです。

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年度の始まりは明治のうちに3度変わった

卓上カレンダーのイラスト

最初の会計年度は10月始まり

※ 会計年度とは、国や会社がお金の出入りを区切って管理するための1年間のことです。ふだん使う「年度」は、この区切りがもとになっています。

明治政府が初めて会計年度を定めたのは明治2年(1869年)9月で、始まりは10月でした。当時の国の収入の中心は、江戸時代と変わらず年貢米です。秋に米を取り入れてから1年を数えるのは、農業の国らしい自然な区切りでした。

太陽暦への切りかえで1月始まりに

明治6年(1873年)に太陽暦が採り入れられると、会計年度も1月から12月までの暦年に改まりました。ちょうど米で納めていた税をお金で納める流れが進み、その最初の納期が1月に置かれていたためとみられています。暦と税の納期が、そろって動いた形です。

1875年からは7月始まり

明治8年(1875年)には、こんどは7月から翌年6月までに変わります。土地の税である地租(ちそ)を納め終える期限が5月だったので、その年の税をその年のうちに使う形に整えたのです。つなぎ目の明治8年1月から6月は、わずか半年の会計期間になりました。この半年に1年分の地租が入り、3000万円を超える余りが出たといいます。

4月に決めたのは誰?

そろばんのイラスト

大蔵卿・松方正義の提案

4月への変更を言い出したのは、大蔵卿(おおくらきょう)の松方正義(まつかたまさよし)です。明治17年(1884年)10月、松方は会計年度を改めるための文書を3通そろえて出しました。どれも、いまの年度は税の納期と合わず国の財政に大きな損が出ている、という趣旨です。

※ 大蔵卿とは、明治18年に内閣制度ができる前の、国のお金を扱う大蔵省のトップのことです。松方は内閣制度のもとで初代の大蔵大臣になりました。

明治18年度は9か月だけ

提案は認められ、明治19年度から年度は4月1日に始まり翌年3月31日に終わる形になりました。つなぎ目にあたる明治18年度は、1885年7月から翌年3月までの9か月しかありません。短い年度を1つはさんで、新しい区切りに乗りかえたわけです。

140年変わっていない区切り

いまの財政法も第11条で、国の会計年度を4月1日から翌年3月31日までと定めています。明治19年に決まった形は、それから一度も改められていません。日本大学の甲斐素直(かいすなお)氏は2019年の論文で、この区切りが「決して合理的なものではない」のに続いてきたと書いています。

「お金の都合」とはどんな都合?

酒蔵に並ぶ大きな木の酒樽のイラスト

紙幣を刷らずにやりくりする

松方は、金や銀と引きかえられない紙幣を減らすことに力を注いだ財政家でした。大隈重信(おおくましげのぶ)が財政を握っていた時代は、税が入るまでのつなぎを予備の紙幣でしのげました。松方はその手を使わず、明治17年9月に大蔵省証券という借り入れの仕組みを設けます。借りれば利子がかかり、松方自身がその額を「数百万円」と見積もっていました。

※ 大蔵省証券とは、税が入ってくるまでの短い間、国がお金を借りるために出した証券のことです。

4月にそろえた先は酒税の納期

当時の税の柱は、土地にかかる地租と、2番目に大きい酒税でした。酒税の納期は4月・7月・9月の3回で、4月始まりにすると最初の納期が年度の頭に来ます。一方で地租のうち一番大きい田の分は、11月から12月と2月から3月に納める決まりでした。4月という月は、地租よりも酒税の暦にぴったり合っていたのです。

先に使った酒税の穴を埋める

甲斐氏は、3通の文書のうち1通にだけある一節に注目しています。そこには、本来は翌年度に入るはずの7月と9月の酒税を、資金繰りのために前の年度へ組み入れてきたと書かれていました。9か月だけの明治18年度は、酒税の収入がまったく入らない形にされました。甲斐氏はこれを、先に使ってしまった酒税の帳尻を年度の切りかえで合わせたものと読み解いています。

米の税とイギリスの説はどこまで本当?

世界地図のイラスト

「イギリスにならった」は否定されている

イギリスの会計年度も4月に始まるため、日本はそれをまねたという説明をよく見かけるでしょう。甲斐氏はこれを「完全な誤り」とし、4月始まりは日本が独自に決めたものだと述べています。松方の文書が挙げる理由も、あくまで国内の税の納期でした。

米の税に合わせるなら別の月になる

秋に取れた米をお金に換えて納めるので1月始まりでは間に合わなかった、という説もよく紹介されます。ただ、地租は明治6年の地租改正からお金で納める税に変わっていました。田の地租の納期を基準にするなら、11月始まりか1月始まりのほうが理にかなうと甲斐氏は指摘します。米の暦がそのまま4月を決めたとは言いにくいのです。

米が決めたのは最初の10月始まり

米と年度の結びつきそのものは、たしかにありました。ただしそれがはっきり表れたのは、年貢米に合わせた明治2年の10月始まりのほうです。いまでも米の取引で使われる「米穀年度(べいこくねんど)」は、収穫のあとの11月から数えます。

学校が4月にそろったのは明治の半ば

桜と校舎のイラスト

はじめは9月入学の学校もあった

明治の学校は、最初から4月にそろっていたわけではありません。1885年にできた英吉利法律学校(いぎりすほうりつがっこう。いまの中央大学)の設立願書には「入学ノ期ハ毎年九月トス」とあります。1学年は9月11日から翌年7月10日まで。創立者たちの母校である東京大学法学部の決まりを受け継いだもので、ほかの法律系の学校も同じでした。

会計年度と徴兵猶予の期限に合わせた

中央大学の年史によると、明治の半ばから諸学校は相次いで4月新学期に移りました。入学と卒業を、会計年度と徴兵猶予の出願期限にそろえるためです。師範学校・小学校・中学校・高等女学校が切りかわり、新しくできた国の学校もそれにならいました。甲斐氏も、教育の年度は会計年度に引きずられて4月になったと書いています。

※ 徴兵猶予とは、学生などが兵役につく時期を先に延ばしてもらえる制度のことです。

小学校は1892年から全国で4月

小学校は、明治25年(1892年)4月から全国いっせいに4月始まりになったとされます。国の決まりとして書き込まれたのはさらに遅く、明治33年(1900年)の小学校令施行規則でした。いまも学校教育法施行規則に、小学校の学年は4月1日に始まり翌年3月31日に終わると定められています。

大学の4月入学は遅れてやってきた

入学式に向かう子どもたちのイラスト

大学の本科は秋始まりのまま残った

小学校や中学校が4月に移っても、大学の本科は秋始まりを続けたところがありました。中央大学は予科の年限を1年半にして4月入学を受け入れる一方、本科と専門部は9月始まりのままです。1913年(大正2年)には本科の4月化も検討されました。ところが予科を大きく組み直す必要があり、このときは見送られています。

中央大学の切りかえは1919年4月

きっかけは1918年2月の高等試験令でした。2年以上の予科をもつ私立専門学校の卒業生は、予備試験が免除されることになったのです。中央大学は予科を2年に延ばし、本科と専門部も4月始まりに改めて、1919年4月から実施しました。年史は、この年から「桜の季節の入学式」が登場したと書いています。

会社まで4月始まりが多いのはなぜ?

張り切るスーツ姿の新入社員2人のイラスト

決算の月は会社ごとに決められる

会社の1年(事業年度)は、法律で4月始まりと決められているわけではありません。法人税法は、事業年度を会社の定款などで定めた会計期間としています。何月に始めて何月に締めるかは、会社ごとに選べるのです。それでも日本では、4月から翌年3月までを1年とする会社が目立ちます。

3月決算の上場会社は2269社

金融庁の集計では、2025年3月期に3月末で決算を迎えた上場会社は2269社ありました。国の予算は4月から動き、学校を3月に卒業した新人も4月に入社してきます。役所や取引先と同じ区切りにしておけば、予算の話も人の受け入れも1年の流れに乗せやすい。会社の年度が4月に寄るのは、こうした実務の積み重ねと考えられます。

重なった区切りは動かしにくい

国の財布の区切りに学校が合わせ、学校の卒業に会社の採用が合わせる。こうして重なった区切りは、1か所だけ動かそうとしても簡単にはいきません。東京大学が2012年に秋入学への移行を打ち出したとき、総長は入学時期だけでなく社会の仕組みそのものを問い直す構想だと説明しました。それほど、4月の区切りは社会の奥まで根を張っています。

「年」と「年度」は3か月ずれている

カレンダーを見る人のイラスト

2026年3月は2025年度

1月から12月までが「年(暦年)」、4月から翌年3月までが「年度」です。2026年3月は、暦の上では2026年でも、年度でいえば2025年度に入ります。役所の書類や学校の学年で数字が1つずれるのは、この3か月の差があるためです。

明治5年の12月はたった2日

太陽暦への切りかえは、明治5年11月に急に決まりました。旧暦の明治5年12月3日が、新しい暦の明治6年1月1日になったのです。甲斐氏によれば、この切りかえで12月はわずか2日となり、役人の月給を1か月分払わずに済みました。明治6年はうるう月があって13か月分の月給が要る年だったため、合わせて2か月分が浮いた計算です。

桜の下の入学式も、4月1日の入社式も、元をたどれば明治の大蔵省の帳簿に行き着きます。研究をたどって見えてくるのは、米でもイギリスでもなく、酒税の納期と借金の利子でした。春らしい始まりの景色は、ずいぶん実務的な都合の上に咲いていたのです。

参考

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