印籠(いんろう)は、薬などを持ち歩くための小さな容器です。テレビの中で高々と掲げられ、その場の全員がひれ伏す、あの箱。本来の中身は権威ではなく、腹痛や切り傷に備えた常備薬でした。
そして、いまも本物の印籠を腰に下げて仕事をしている人がいます。場所は大相撲の土俵の上。まずは、その箱がどういう道具だったのかから見ていきます。
印籠は、三つの部品でひと組の道具

印籠は箱だけでは腰に留まりません。紐でつながった相棒が二つあって、三つそろって初めて「提げ物」として働きます。まずは三つの名前と役割から。
| 部品 | 読み | 役割 |
|---|---|---|
| 印籠 | いんろう | 三段から五段に分かれる本体。薬などを入れる |
| 緒締 | おじめ | 二本の紐を束ねる小さな玉。上下させて段の締め具合を決める |
| 根付 | ねつけ | 紐の先端の留め具。帯の上端に引っ掛けて落下を防ぐ |
着装するときは、印籠の両脇に通した紐を上でまとめて緒締で束ねます。その紐を着物の帯の裏側にくぐらせ、先端の根付を帯の上端に引っ掛けて腰からぶら下げる。着物にポケットがない以上、物を持ち歩くには「提げる」しかありませんでした。
※ 根付(ねつけ)とは、印籠や巾着、煙草入れなどを紐で帯から吊るすときに使った留め具のことです。象牙や木で動物や人物を彫ったものが多く、こちらも後に美術品として扱われるようになりました。
名前は「印」の箱、入っていたのは薬

印籠という名は、もともと印判を入れたことに由来します。日本大百科全書は「初め印判や印肉を収めて携帯するものであったところから、この名がある」と説明しています。ところが江戸時代の印籠に入っていたのは、印ではなく薬でした。
中国から来たのは、置いて使う印判入れだった
日本で小さくなり、腰に提げる形になった
印判を収める箱そのものは中国から渡ってきています。ただしそれは食品の入れ物や床の間の置物にも使われる据え置き式のもので、持ち歩く道具ではありませんでした。小型化して腰から下げる形に進化させたのは日本側です。同じ名前を引き継ぎながら、使い方だけが日本で作り替えられました。
室町の腰には、香料や薬の入った小袋があった
香料・薬・火打石などを入れた小さな袋を腰に下げる習慣は、室町時代にはあったとみられています。『尺素往来(せきそおうらい)』やルイス・フロイスの『日欧文化比較』にその記述があるためです。ただ、袋では中身が潰れるし湿気も防げません。戦国時代になると、貴重品である薬を数種類まとめて運べる頑丈な箱型の容器が現れました。
薬入れになった時期は、資料がそろわない
「室町頃から」と「判然としない」が並んでいる
精選版日本国語大辞典は「もと印判を入れたところからいい、室町頃から薬を入れるようになった」と時期を示しています。ところが世界大百科事典のほうは「薬品入れとしての印籠の成立時期は判然としない」と書き、戦国時代を経て次第に薬入れの体裁が整ったという言い方をとりました。印から薬へ切り替わった一点を、事典どうしが同じようには指せていないわけです。
茶器の棗から名を借りたという説もある
もう一つ、茶の湯との関わりを見る説があります。茶器の棗(なつめ)が積み重ねの様式を持つ「印籠」の名を借り、そこから薬の携帯容器へ発展したのではないか、という見方です。どれも決め手には欠けます。名前の由来ははっきりしているのに、その名前が中身と食い違い始めた時期だけが、ぼんやりしたまま残りました。
紙と漆でできた、三段から五段の箱

印籠の多くは平たい長方形をしていて、三段から五段ほどに分割できます。意外なのは素材です。木の箱だと思われがちですが、最も多いのは紙製でした。
木を使わない理由がある
歪みと割れを避けるための和紙と漆
本体は和紙と漆を何層にも巻いて固めて作ります。木製では歪みやひび割れが起きやすく、持ち歩く装身具としては耐久性に問題があるためです。腰でぶらぶら揺れ、汗にも雨にもさらされる。その条件で毎日使う物として選ばれたのが、木ではなく紙でした。
数える単位は「合」または「具」
印籠の助数詞は「一個」ではありません。合(ごう)、または具(ぐ・そなえ)で数えます。「合」は蓋と身が合わさる器に使われる数え方とされ、「具」はひとそろいの道具を指す言い方。数え方のほうにも、蓋物であり組み物であるという性格が残っています。
段と緒締がひと組で働く
薬を種類ごとに分けて運ぶ
段が分かれているのは、意匠のためではありません。切り傷の薬と腹痛の薬を同じ場所に入れれば混ざってしまいます。数種類を持ち歩ける入れ物として登場した以上、仕切りは機能の中心でした。現代の携帯用ピルケースが仕切られているのと、発想は変わりません。
締めるのは蓋ではなく紐
印籠には留め金がありません。両脇を通る二本の紐を緒締で下へ押さえると、全部の段がまとめて締まります。緒締を上へずらせば、段どうしが開いて中身を取り出せる。箱そのものではなく、紐の締め具が開け閉めを担っているところが、この道具のいちばん巧妙な部分です。
中身より外側が主役になっていく

印籠の役割は、時代とともに移っていきました。薬箱として始まり、装身具になり、やがて中身を必要としない工芸品になります。
| 時期 | 印籠の立ち位置 |
|---|---|
| 室町時代 | 香料や薬を入れた小袋を腰に下げる習慣があった |
| 戦国時代 | 薬を数種類運べる頑丈な段重ねの箱として登場 |
| 江戸時代前期 | 武士や町人に常備薬を携行する習慣が浸透 |
| 江戸時代中期以降 | 実用機能が薄れ、加飾された印籠が流行。装身具から愛玩品へ |
| 幕末から明治 | 技術が精緻になり、完全な美術工芸品として扱われる |
| 現在 | 大相撲の三役格以上の行司が装束の一部として下げる |
江戸の武士と町人に広まった常備薬の習慣
浮世絵に何度も描かれている
印籠は江戸時代の浮世絵やさまざまな史料に頻繁に登場します。武士だけの持ち物ではなく、町人にも常備薬を携行する習慣が広まっていたためです。医者がすぐ来ない時代に、痛み止めや傷薬を身につけて歩く。当時の暮らしで印籠がどう扱われていたかは、こうした絵や記録の積み重ねから読み取られています。
地位を映す装身具でもあった
同時に、江戸時代の一時期の印籠は権力や地位を象徴する装身具だったとみられています。腰に下がる小さな箱は、ちょうど正面から見える位置。誰の目にも入る場所に置かれた持ち物が、持ち主の格を語り始めるのは自然な流れでした。腕時計や鞄が持ち主を語ってしまう感覚に近いかもしれません。テレビドラマが印籠を権力のシンボルとして描いたのも、この延長線上にあると指摘されています。
江戸中期以降は愛玩品、幕末以降は美術工芸品
蒔絵・螺鈿・象嵌・切金
江戸中期を過ぎると、実用の機能は次第に失われます。表面に投入されたのは蒔絵(まきえ)・螺鈿(らでん)・象嵌(ぞうがん)・切金(きりかね)といった技法。日本大百科全書は印籠蒔絵師として古満(こま)家の休伯や寛哉・梶川文竜斎・小川破笠・尾形光琳らの名を挙げ、江戸時代を代表するぜいたくな工芸品だと評しました。腰から下げる薬箱に、一流の蒔絵師が集まったわけです。
優品は海外へ出ていった
明治に入って洋装が広まると、腰から物を提げる習慣そのものが消えます。行き場を失った印籠と根付は、美術品として海外へ流れました。清水三年坂美術館を創設した村田理如は、1980年代に自分がコレクションを始めた頃には優品がすでに流出しきっており、日本国内には全くと言っていいほど残っていなかったと述べています。ニューヨークのメトロポリタン美術館が江戸期の蒔絵印籠を所蔵しているのも、この流れの結果です。
水戸黄門はなぜ印籠を見せるのか

ここで冒頭の場面に戻ります。三つ葉葵の紋所が入った印籠を掲げて正体を明かす、あの筋書き。あれは江戸時代の作法でも、講談から続く定番でもなく、テレビドラマが作った演出です。
あの場面を考えたのは脚本家だった
宮川一郎の案で、毎回の佳境に置かれた
1969年8月4日に始まったTBS系『ナショナル劇場』枠の『水戸黄門』で、脚本家の宮川一郎が出した案がもとになっています。毎回の佳境に三つ葉葵の印籠を見せ、「この紋所が目に入らぬか!」で正体を明かす。この形が定着したことで、印籠は薬箱ではなく身分証の代名詞になりました。
出す人物も、出さない回もあった
最初から様式が固まっていたわけではありません。最終的には格之進が出す形に落ち着きます。それまでは光圀本人・助三郎・八兵衛・弥七・お新・おるいも印籠を出したことがありました。八兵衛が石段を駆け上がりながらかざした回もあれば、そもそも印籠が登場しない回もある。定番の場面は、番組の中で少しずつ整えられていきました。
小道具の印籠も、紙と漆でできていた
使われた小道具にも歴史があります。第34部までは和紙を厚く貼って漆を塗ったもので、これは江戸時代の印籠と同じ作り方でした。第35部からは5代目若島宗齋が制作した本物の輪島塗に変わり、全部で3個が作られています。柄も第4部で固定され、輪島塗になった際に波と紋と雲の描き方が変わりました。
講談の時代は、書いた名前で正体が割れた
「梅里」と記された短歌
物語の伝統的な型では、光圀は自分の俳号を書き記して正体をほのめかします。梅里(ばいり)は実在の光圀が用いた号で、テレビシリーズにもこの型は残りました。第11部では鎌倉彫の職人が「梅里」と記された短歌を見て、目の前にいるのが光圀だと悟る場面があります。正体を明かす道具は、もともと紙と筆でした。
光圀は諸国を回っていない
そもそも旅の前提が創作です。実在の徳川光圀は『大日本史』編纂のために史局員を各地へ派遣していますが、本人が出向いた先は限られています。世子時代の鎌倉遊歴と、藩主時代の江戸と国元の往復。あとは領内巡検をしている程度で、諸国を漫遊した記録は一切確認されていません。「天下の副将軍」という肩書きも、江戸幕府の職制には存在しない役職でした。
※ 黄門(こうもん)とは、光圀が就いていた権中納言(ごんちゅうなごん)という官職の、中国風の呼び名(唐名)です。当時は目上の人の実名を口にすることが避けられたため、居住地の「水戸」と官職名を組み合わせて呼びました。
紋所が効く世界は、どう作られているか
葵紋の制限は享保8年(1723年)から
三つ葉葵が特別扱いされたのは事実です。徳川家の権威が高まると葵紋全般の使用がはばかられるようになり、正式な制限は享保8年、1723年に始まります。松平家には遠慮させ、伊奈家には禁止する一方で、本多家は「丸に立葵」の使用を許されました。ただしこの年は光圀の没後です。物語の舞台となる元禄の時点では、紋の扱いはドラマが描くほど一枚岩ではありませんでした。
江戸の身分証明は紙だった
現実の旅で身元を示したのは、箱ではなく書類です。往来手形(おうらいてがた)に書かれたのは氏名・居住地・宗旨・旅の目的など。発行するのは名主や旦那寺で、関所を通るには関所手形も使われました。紋の入った箱を一つ掲げれば全員が平伏する世界は、この手続きを一つの動作へ圧縮した劇の約束事だったといえます。
※ 往来手形(おうらいてがた)とは、江戸時代に旅をするとき携行した通行証のことです。身分証明書と旅行許可証を兼ねており、旅先で行き倒れた場合の弔いの依頼まで書かれているものもありました。
いまも印籠を腰に下げている人がいる

ドラマの外で印籠を毎場所きちんと身につけている職業が、大相撲の行司です。
土俵の上の、三役格以上の行司
立行司は短刀と印籠、三役格は印籠だけ
行司の階級は装束にそのまま表れます。最高位の立行司(たてぎょうじ)は左腰の前に短刀・右腰の後ろに印籠を下げ、房の色は木村庄之助が総紫で式守伊之助が紫白。次位の三役格行司は房が朱になり、印籠だけを下げます(横綱土俵入りの先導をするときは帯刀します)。幕内格から下は、腰の持ち物がありません。
中身は気付け薬だったと説明される
この印籠については、江戸時代に気付け薬(きつけぐすり)を入れていたことの名残だと説明されています。土俵の上で誰かが倒れたときのための薬、という理屈です。当時の中身を直接示す史料が示されているわけではないので断定はできません。それでも、いま日本で毎日のように人前に出ている印籠が、権威の証としてではなく薬入れの子孫として残っているのは確かです。
言葉のほうは、木と金属の世界に残った
印籠継手・印籠决り
建築や配管の現場では、いまも「印籠」が使われます。片方に出っ張りを設け、もう片方に受口を作って隙間なくつなぐ方式が印籠継手(いんろうつぎて)。木材で同じように突き合わせる仕口は印籠决り(いんろうじゃくり)と呼ばれます。段どうしがぴたりと収まる印籠の合わせ目が、そのまま精度の高い接合の代名詞になりました。
「水戸黄門の印籠」という比喩
もう一つの残り方が比喩です。反論の余地がない大義名分や決定的な証拠を指して「水戸黄門の印籠」と言うことがあります。薬入れとしての印籠を知らない人にも、この言い回しだけは通じる。番組が生んだ意味のほうが、道具そのものより広く行き渡ったわけです。
印籠は、途中で二つに枝分かれした道具でした。有名になったほうは中身を空にして紋だけを見せる小道具になり、名の知られないほうは薬を入れる箱のまま、行司の腰に残っています。掲げられて拍手を浴びるのは前者。それでも、道具として本来の役目を果たし続けているのは、土俵の上で誰にも注目されない後者のほうです。
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