電球を発明したのは本当にエジソンか、彼が解いたのは別の問題だった

モノと道具の話
スポンサーリンク

電球を発明したのはトーマス・エジソンではありません。彼が炭素のフィラメントを光らせたのは1879年ですが、電気で線を白熱させて明かりを取り出す試みはその40年以上前から続いていました。白熱ランプとして世界で最初の特許が下りたのも、1841年のイギリスです。

では、エジソンは何をした人なのでしょうか。答えは1880年1月27日に登録された米国特許223,898号の第1請求項に、そっけない形で書かれています。そこで押さえられているのは明るさでも寿命でもなく、「高い抵抗をもつ炭素のフィラメント」という一点だけでした。抵抗の高さは、道路の下に埋める銅の量に直結します。

フィラメントとは、電球の中で電流によって高温になり、光を出す細い線のことです。炭素や金属が使われてきました。

スポンサーリンク

「最初の人」の痕跡は、国ごとに別の場所に残っている

イギリスには世界初の白熱ランプ特許が、カナダとロシアには1874年の特許が、そして京都には竹の記念碑があります。「電球を発明したのはだれか」という一つの問いに対して、国ごとに違う名前の痕跡が残っているのが、この技術の歴史です。まず、だれが何をしたのかを時代順に並べておきます。

人物年(国)何をしたか
ハンフリー・デービー1802年(英)2,000個の電池で白金を白熱させ、電気から光が取り出せることを示した
マルセラン・ジョバール1838年(ベルギー)炭素のフィラメントを真空のガラス球に入れた
ウォーレン・ド・ラ・ルー1840年(英)真空管に白金のコイルを封入。白金が高価で商品にならず
フレデリック・ド・モレインズ1841年(英)白熱ランプとして世界で最初の特許を取得
ジョン・W・スター1845年(米)炭素フィラメントの電球で特許。商業生産には至らず
ジョゼフ・スワン1860〜1880年(英)炭化した紙、のちに処理した木綿糸で実用化。1880年に英国特許
アレクサンドル・ロディギン1874年(ロシア)ロシアで白熱電球の特許を取得
ウッドワードとエヴァンス1874年(カナダ)窒素を詰めた筒に炭素棒。特許は1879年にエジソンが買い取った
トーマス・エジソン1879〜1880年(米)高抵抗の炭素フィラメントで特許。発電から配線まで一式を組み上げた

この表には入れなかった名前がもう一つあります。ドイツのハインリヒ・ゲーベルは1893年になって「自分は1854年に最初の白熱電球を作った」と主張し、アメリカの法廷を巻き込む騒ぎになりました。その顛末は後半で触れます。

エジソン以前の40年——「光らせる」だけならできていた

電流を細い線に流せば、線は熱くなって光ります。この事実自体は19世紀の初めにはもう知られていました。難しかったのは光らせることではなく、線が焼き切れずに何百時間も光り続けること、そしてその明かりが家庭で買える値段になることのほうです。

白金でできたこと、できなかったこと

地下室に2,000個の電池

1802年、イギリスのハンフリー・デービーは白金の細片に電流を通して白熱させました。電源は王立研究所の地下に据えた2,000個の電池です。部屋一つを電源で埋めてようやく細い光が得られるという状態で、実用にはほど遠いものでした。ただし「電気は光になる」という出発点はここで置かれています。

融けにくいが、高すぎる金属

その後の実験者が白金に飛びついたのは、融点が約1,768度と高く、白熱させても融け落ちにくいからでした。1840年にはウォーレン・ド・ラ・ルーが真空管の中に白金のコイルを封じ、電流を流して光らせています。技術的には成功でしたが、白金は当時も今も貴金属です。「一軒の家に何十個も吊るす」用途にはまったく釣り合いませんでした。

世界で最初の白熱ランプ特許は1841年

モレインズの真空球

1841年、イギリスのフレデリック・ド・モレインズが白熱ランプの特許を取得しました。真空のガラス球の中に白金の線を通す構造で、炭素も併用しています。エジソンの特許より38年早く、内容としては「真空・フィラメント・封入」という三点セットをすでに備えていました。

炭素にたどり着いたスター

1845年にはアメリカのジョン・W・スターが、炭素フィラメントを使った電球で特許を取っています。素材選びとしては後年の正解に届いていたことになります。ただし商業生産はされませんでした。真空の質と電源の供給という、電球単体では解けない条件が揃っていなかったためです。

スワンが30年かけたもの

真空が足りなかった1860年

イギリスのジョゼフ・スワンは1850年ごろから、炭化した紙をガラス球に封じる方式に取り組みました。1860年には動く装置を見せるところまで到達しています。しかし球の中に残った空気がフィラメントを痛め、寿命も効率も足りません。素材の問題ではなく、真空を引く道具の問題でした。

1878年、ポンプが追いついた

スワン自身、1863年に水銀を使う真空ポンプの設計を英国科学振興協会で発表しています。それでもまだ足りず、彼が実用の域に踏み込むのは1878年、真空技術に長けたチャールズ・スターンと組んでからでした。18年の空白は、あきらめていた期間ではなく、道具の進歩を待っていた期間だったといえます。

1878年から1879年——二人がほぼ同時に届いた

実用的な白熱電球が形になった時期は、大西洋の東と西でほとんど重なっています。スワンが公開の場で光らせたのは1878年末から1879年初め。エジソンが13時間半の点灯記録を出したのは1879年10月でした。

スワンが人前で光らせた三度

失敗に終わった1878年12月18日

最初の公開はニューカッスル化学協会での実演でした。ところが電流を流しすぎてランプが壊れ、ごく短時間しか光りません。翌1879年1月17日、同じ場所でやり直して成功しています。うまくいかなかった回まで日付が記録に残っているのは、それだけ注目されていたということでもあります。

700人が見た1879年2月3日

決定的だったのは、ニューカッスル文学哲学協会での実演です。700人を超える聴衆の前で電球が灯りました。スワンはやがて自宅アンダーヒルを電球で照らし、1881年にはロンドンのサヴォイ劇場へおよそ1,200個を納めています。全館を電気照明だけでまかなった公共建築としては、世界で最初の例とされています。

エジソンの13時間半

炭化した木綿糸、113オーム

1879年10月22日、エジソンの研究所は炭化させた木綿糸を真空球に入れて点灯させました。助手チャールズ・バチェラーの記録では、明るさは0.5燭光(しょっこう)ほど。抵抗は最初113オームで、温まると140オームまで上がっています。この一本が13時間半光り続けました。電力を上げてさらに1時間ほど粘らせたところ、球が過熱して割れています。

燭光(しょっこう)とは、古い明るさの単位です。ろうそく1本分の光がおよそ1燭光にあたります。

出願は1879年11月4日

その2週間後、エジソンは特許を出願します。登録は翌1880年1月27日、番号は223,898。明細書が炭化させる素材として挙げるのは、木綿糸や麻糸・木の薄片・いろいろに巻いた紙です。なお彼は1878年10月にも「電灯の改良」で出願していました。そちらはまだ白金を軸にした段階の内容です。

竹という当たりくじ

実験ノートに並ぶ20品目

木綿糸で光ったあとも、素材探しは続きました。1879年10月27日のリストには、バチェラーが炭化させた20品目が並んでいます。

  • 木材と紙
  • 加硫繊維・セルロイド
  • ランプの綿芯・亜麻
  • コルク
  • ヤシの繊維と殻
  • 釣り糸

手当たり次第に見えますが、狙いは一つでした。焼いても形が崩れず、細く均一な繊維です。

1,200時間という桁違い

やがて有望だと分かったのが、麻やヤシ、竹のようなイネ科・タケ亜科の繊維でした。日本産の竹を炭化させたフィラメントは、1,200時間を超えて光ったとされています。13時間半から1,200時間へ、ほぼ90倍。ここでようやく、電球は「実験室の見世物」から「売れる商品」に変わりました。

エジソンが解いたのは「銅が高い」という問題

ここからが、彼が「発明者」として名を残した本当の理由です。特許223,898号の冒頭には、この発明の目的がこう書かれています。高い抵抗をもつランプを作り、電気の光を実用的に分割できるようにすること。明るさでも寿命でもなく、抵抗の高さが最初に来ているのは偶然ではありません。

直列でつなぐか、並列でつなぐか

1個切れると全部消える

当時の電灯は、複数のランプを一本の線に数珠つなぎにする直列方式が普通でした。この配線では、どれか1個が切れると回路全体が途切れます。1個だけ消したくても消せません。古い電飾で1球切れると全部暗くなるのと同じ理屈です。

直列とは、部品を一本道につないで同じ電流を順に流す配線のことです。並列は、部品ごとに電流の通り道を別々に用意する配線を指します。

並列にすると突きつけられる代償

家庭で使うなら、部屋ごとに点けたり消したりできる並列方式でなければ話になりません。ところが並列にすると、幹線には全ランプ分の電流がまとめて流れます。抵抗の低いランプを何百個もぶら下げれば、幹線を通る電流は跳ね上がる。その電流に耐える太い銅線を街じゅうに敷く費用が、電灯事業の最大の壁になっていました。

抵抗を上げると、銅が減る

同じ電力なら、抵抗が高いほど電流は小さい

電力は電圧と電流のかけ算で決まります。同じ明るさ(同じ電力)を得るとき、抵抗の高いランプを高い電圧で使えば、流れる電流は小さくて済むわけです。エジソンはランプ1個の抵抗をおよそ100オームに設定しました。スワンをはじめ当時のライバルのランプは抵抗が低く、直列でしか使えないものだったとされています。高い抵抗を前提にしたことは、電圧の選び方にもつながりました。アメリカの家庭用電圧が110ボルト前後になった出発点は、ここにあるといわれます。

電線の損失は電流の2乗で効く

なぜ電流の大小がそこまで重要なのか。電線の中で熱として捨てられる電力は、電流の2乗に比例するからです。電流が半分になれば損失は4分の1に減り、同じ損失を許すなら電線の断面積も小さくて済みます。銅を減らすというのは、そのまま初期投資を減らすということでした。

比べる点低い抵抗のランプ高い抵抗のランプ
つなぎ方直列が前提並列にできる
1個ずつの点灯できないできる
幹線を流れる電流大きい小さい
必要な銅線太く、高価細くて済む
配電の採算合いにくい合わせられる

特許の文面が言っていること

「電気の光を実用的に分割する」

特許の目的に書かれた「実用的な分割」という言い回しは、当時の課題をそのまま表しています。アーク灯は出力が数十キロワット級で明るすぎ、街路や広場にしか使えません。強い光を家庭サイズの小さな明かりに割り、しかも一つずつ独立に扱う。エジソンが解こうとしたのは、光を作る問題ではなく光を配る問題でした。

100オームから1万オームまで

明細書には具体的な数字も出てきます。適切に炭化させた木綿糸を、100万分の1気圧まで引いたガラス球に入れれば100〜500オームの抵抗が得られる。さらにフィラメントを螺旋状に巻けば1万オームに達すると書かれています。フィラメントを細長くして巻くという形の選択は、見た目のためではなく抵抗値のためでした。

電球だけでは、部屋は明るくならない

発電機からメーターまで

電球が売れるには、その手前と奥に何もかもが必要です。

  • 発電機
  • 幹線と引き込み線
  • ソケット・スイッチ・ヒューズ
  • 使った分を測って請求する電力量計

エジソンの陣営はこれらを電球と一緒に設計しました。歴史家がエジソン版を「最初の実用化」と呼ぶとき、そこには素材と真空だけでなく、この一式が含まれています。

1882年9月4日、パールストリート

ニューヨークのパールストリート257番地に置かれた発電所が送電を始めたのは、1882年9月4日でした。区域は0.25平方マイルほど。初日に灯ったランプは400個前後で、顧客は90軒に届きません。それが1年後には約1万個、513軒まで伸びています。銅の計算が正しかったことは、この伸び方が証明しました。

「発明者」は法廷で争われた

だれが発明したのかという問いは、歴史家より先に裁判所が扱いました。しかも国ごとに結論が違います。アメリカでは一度エジソンの特許が無効とされ、イギリスでは彼が勝てず、ドイツからは「1854年に作っていた」と名乗る人物が現れました。

アメリカ——一度は無効とされた

1883年、特許庁の判断

1883年10月8日、米国特許庁はエジソンの特許がウィリアム・ソーヤーの先行技術に基づくものだとして無効と判断しました。ソーヤーもまた白熱電球の開発者で、紙の炭素フィラメントを使うランプで知られています。少なくともこの時点では、公的機関が「エジソンが最初ではない」と言っていたわけです。

1889年、覆した一語

争いは続き、1889年10月6日の判決でエジソン側の主張が有効と認められます。認められたのは電球一般ではなく、「高い抵抗をもつ炭素のフィラメント」という改良点でした。彼の権利を最終的に支えたのは、光る仕組みそのものではなく抵抗という一語だったことになります。

イギリス——勝てないので合併した

スワンの特許は強かった

本国では勝てたエジソンも、イギリスでは事情が違いました。スワンは1880年11月27日に英国特許4933号を得ており、実際に家と劇場を照らした実績もあります。先に使われている国で「自分が発明者だ」と主張しても通りません。

1883年、エディスワンの誕生

訴訟の行き着いた先は、勝敗ではなく合併でした。1883年、両者の会社は統合してエジソン・アンド・スワン統一電灯会社となります。通称はエディスワン。二人の名前を縮めてくっつけた社名が、決着のつかなさをそのまま表しているようにも見えます。

ドイツ——1893年に現れた「1854年の電球」

ゲーベルの主張と四つの法廷

1893年、ドイツ出身のハインリヒ・ゲーベルが名乗りを上げました。1854年の時点で、高抵抗の炭化竹フィラメントと白金の導入線を全ガラス封じの高真空球に収めた電球を作っていたという主張です。四つの法廷が疑いを表明したものの、エジソンの特許が期限切れになったため最終審の判断は出ませんでした。

2007年に出た結論

この主張は長く「幻の先行発明」として語り継がれます。決着がついたのは2007年、ドイツで刊行された研究書によってでした。1850年代のゲーベル・ランプの話は作り話である、というのがその結論です。150年前の一件に決着がつくまで、裁判より研究のほうが時間を要したことになります。

名前の残らなかった人たち

ルイス・ラティマーの二つの特許

1879年にハイラム・マキシムの会社へ入った製図技師、ルイス・ラティマー(1848〜1928)は、1881年9月13日にジョゼフ・ニコルズとの連名で炭素フィラメントの取り付け方法の特許を取りました。翌1882年1月17日には「炭素の製造工程」の特許も取得しています。フィラメントを厚紙の型で包んで炭化させ、割れを減らす方法でした。彼は1884年にエジソンの会社へ移っています。

買われたカナダの特許

ヘンリー・ウッドワードとマシュー・エヴァンスは1874年7月24日、窒素を詰めたガラス筒に炭素棒を収めるランプでカナダの特許を出願しました。二人は1879年、その権利をエジソンに売っています。エジソンが欲しがったのは光る仕組みではなく、ランプを並列につなぐという請求項のほうでした。

日本に残った竹と、日本で最初につくられた電球

竹のフィラメントの話は、日本と直接つながっています。京都府八幡市の石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)には、エジソンの記念碑が立っています。神社の境内に外国人発明家の碑があるという妙な取り合わせは、フィラメント探しの旅の副産物です。

八幡の真竹

助手が集めた世界中の竹

エジソンは助手のウィリアム・H・ムーアを竹の採集に送り出しました。中国を経て京都に入ったムーアは、府の側から名産地として八幡の竹を紹介され、他の産地の分と合わせて標本を送ったと伝えられています。比較実験の結果もっとも良かったのが、石清水八幡宮の近くの林で採れた真竹(まだけ)でした。この竹を使った電球は平均1,000時間以上光ったとされています。

1934年に建った記念碑

記念碑が最初に境内へ建てられたのは1934年です。1958年に現在地へ移され、建立50周年にあたる1984年にデザインを一新して建て直されました。いまも2月11日の生誕祭と、命日にあたる10月18日ごろの碑前祭が続いています。八幡市は1986年、エジソンの生地であるアメリカ・オハイオ州マイラン村と友好都市の協定を結びました。

日本のあかりの最初

1878年3月25日、工部大学校

日本で初めて電灯がともったのは1878年3月25日、東京・虎ノ門の工部大学校(こうぶだいがっこう)でした。中央電信局の開局祝賀会の席で、イギリス人教師エアトンがグローブ電池50個を使ってアーク灯を点灯させています。この日にちなんで、1927年に3月25日が電気記念日と定められました。エジソンが炭素フィラメントを光らせる1年半前の出来事です。

1882年11月1日、銀座

市民が公の場で電気の光を見たのは、その4年後になります。東京電燈会社が銀座二丁目の大倉組の前に宣伝用のアーク灯を設置し、1882年11月1日に点灯しました。パールストリート発電所の送電開始からわずか2か月後で、日本の受け止めの速さがうかがえます。

藤岡市助と白熱舎

エジソンに会った1884年

藤岡市助(ふじおか いちすけ)は1884年にアメリカへ渡り、エジソンのランプ工場を見学して助言を受けています。帰国後の彼は「日本のエジソン」と呼ばれることになりますが、この呼び名は誇張ではありません。電球の国産化と電灯事業の立ち上げを、どちらも手がけた人物です。

1890年8月の第一号

1890年4月、藤岡は同じ山口県岩国出身の三吉正一(みよし しょういち)と白熱舎(はくねつしゃ)を設立します。同年8月には国産初の白熱電球の試作に成功しました。最初のフィラメントは木綿糸でしたが、エジソンが日本の竹を使ったと聞いて竹フィラメントの炭素電球も手がけています。白熱舎はのちに東京電気となり、東芝の源流の一つになりました。

豆知識:電球はそのあと、こう変わった

炭素フィラメントの電球が主役だったのは、実は20年ほどにすぎません。その後の改良でだれの名前が残ったのか、そして寿命がどう決められたのかを見ておきます。

炭素からタングステンへ

1904年のハンガリー特許

1904年12月13日、ハンガリーのシャーンドル・ユストとクロアチアのフラニョ・ハナマンがタングステンフィラメントのランプでハンガリー特許34541号を取得しました。同じ1904年、ハンガリーのタングスラム社が製品として売り出しています。融点3,400度前後のタングステンは、炭素より高い温度で使えるぶん効率で勝りました。

曲げられるタングステン

問題は、タングステンが硬くてもろく、細い線に加工しにくかったことです。ゼネラル・エレクトリックのウィリアム・クーリッジは1906年、焼き固めたタングステンから延性のある材料を作る方法を編み出しました。同社が延性タングステン線の電球を売り始めたのは1911年です。以後100年、家庭の電球はこの材料でできていました。

寿命が取り決めで決まっていた時期がある

ガスを詰めると効率が倍に

1913年、GEのアーヴィング・ラングミュアが、真空の代わりに不活性ガスを詰めると効率が2倍になり球の黒ずみも減ることを見つけました。1917年にはコイルをさらにコイルに巻く二重コイルの特許が出ています。二重コイル電球を最初に作ったのは、1921年に白熱舎の後身である東京電気にいた三浦順一(みうら じゅんいち)だとされています。

1924年、1,000時間という上限

1924年12月、オスラムやフィリップス、GEといった各国の主要メーカーがフィーバスというカルテルを結びました。取り決めの一つが、加盟社の電球の定格寿命を1,000時間以下に抑えることでした。当時の電球は1,500〜2,500時間もっていたといわれます。カルテルは1939年ごろに解消しますが、1,000時間という数字はそのあとも標準として残りました。

消えていく製品、消えない一個

1901年から点いている電球

カリフォルニア州リバモアの消防署には、1901年から点きっぱなしの電球があります。オハイオ州のシェルビー電気が1890年代の終わりに手作りした炭素フィラメント球で、ギネス世界記録にも登録されました。長寿の理由として挙げられるのは、手作りの厚いガラス・4ワット前後という低い消費電力・めったに消さないことの三つです。

白熱電球と蛍光灯の終わり

日本の一般白熱電球は、法律ではなくメーカーの判断で姿を消しました。東芝ライテックが2010年3月に生産から撤退し、三菱電機照明が2011年3月、NECライティングとパナソニックの製造子会社も2012年内に終えています。水銀に関する水俣条約のもとでは、一般照明用の蛍光ランプも2027年末までに製造と輸出入が禁止されることが決まりました。

だれが発明したのかという問いに、100年以上たっても各国そろった答えは出ていません。それでも私たちは、毎日その名前を手にしています。電球やLEDの口金に書かれたE26やE17のEは、ねじ込み式の口金を指すエジソンスクリューの頭文字です。数字のほうはミリ単位の直径にすぎません。法廷でも歴史書でも決着しなかった名前が、規格記号という飾り気のない場所にだけ、静かに残り続けています。

関連記事

安全ピンの「安全」は何を指すのか——15ドルの借金から
安全ピンの「安全」は、留めた服が外れないという意味ではありません。1849年に取られた特許の本文には、布に差し込むときに「指を傷つける危険がない」と書かれています。守られているのは、まず使う人の指のほうでした。しかも、発明した本人はこれを「...
ライターとマッチはどちらが先か、数え方で順番が入れ替わるわけ
ライターの原型が世に出たのは1823年、こすって火がつくマッチが売られはじめたのは1827年です。順番でいえば、複雑なほうが先に生まれています。とはいえ、この「3年差」はそれほど固い数字ではありません。マッチをどこから数えるかを一段ずらすだ...
コンセントにはなぜ穴が2つあるの?電気の流れと安全の工夫
家庭用コンセントに穴が2つある理由を、電気のしくみ・安全設計・国際規格などの視点から詳しく解説。見えない技術と工夫に迫る記事です。
関東と関西で、電気の周波数が違うのはなぜか
なぜ関西と関東で電気の周波数が違うのか?ドイツとアメリカから始まった歴史、インフラの分断、災害時の課題までをやさしく解説。
電力の「ワット」は人の名前だった、馬力を考えたのも同じ人
電子レンジの「600W」、ドライヤーの「1200W」。この W は、スコットランドの技術者ジェームズ・ワット(1736〜1819年)の名字です。しかも、話には続きがあります。いま自動車のカタログに残っている「馬力」という単位を考え出したのも...