厄年の年齢を調べると、見た先によって答えが変わります。神社本庁の案内では女性の本厄は19歳・33歳・37歳・61歳ですが、川崎大師の案内に37歳はなく、代わりに60歳が並びます。しかも前者は数え年、後者は満年齢です。
同じ「厄年」という言葉を使いながら、中身が揃っていません。この食い違いは間違いではなく、千年ぶんの経緯がそのまま残った跡です。年齢の一覧をさかのぼっていくと、厄年が何度も姿を変えてきたことがわかります。
厄年の年齢は、どこで見るかで変わる

代表的な二つの案内を横に並べてみます。揃っているのは男性の25歳・42歳と、女性の19歳・33歳だけです。
| 項目 | 神社本庁 | 川崎大師 |
|---|---|---|
| 年齢の数え方 | 数え年 | その年の満年齢 |
| 男性の本厄 | 25・42・61歳 | 25・42・60歳 |
| 女性の本厄 | 19・33・37・61歳 | 19・33・60歳 |
| 前厄・後厄 | 本厄の前後1年 | 本厄の前後1年 |
神社本庁は全国の神社を包括する組織で、川崎大師は真言宗の大本山です。どちらも由緒の面では申し分ありません。それでも一覧が一致しないところに、厄年という習慣の性格が出ています。
数え方が1つ違うだけで、厄年は1〜2年ずれる

年齢の一覧より先に効いてくるのが、数え方の違いです。同じ人が同じ年に、厄年でもあり厄年でもない、という状態が起こります。
数え年は、元日に全員が同時に歳をとる
※ 数え年(かぞえどし)とは、生まれた時点をすでに1歳と数え、以後は元日を迎えるたびに全員が1つ歳を加える数え方です。誕生日は関係しません。
生まれた日に、もう1歳
12月31日に生まれた子は、その日が1歳です。翌日の元日には2歳になります。生後2日で2歳という計算は今の感覚とはずれますが、神社本庁が厄年の基準に置いているのはこの数え年です。
満年齢との差は、誕生日をはさんで変わる
換算は単純です。その年の誕生日を迎える前なら満年齢に2を足し、迎えた後なら1を足せば数え年になります。つまり同じ人でも、1月生まれと12月生まれでは厄年表の見え方が1歳ぶんずれるわけです。
満年齢で数える寺もある
川崎大師は「その年の満年令」と明記している
川崎大師は厄年のページで、年齢を数えるのに「その年の満年令」を使うとはっきり書いています。数え年が当然という前置きを置かず、あえて宣言しているのは、そうでない寺社が多いからでしょう。この一言があるおかげで、参拝者は迷わずに済みます。
同じ人が、二つの厄年表を持つことになる
1986年生まれの男性を例にとります。2026年の満年齢は誕生日前なら39歳、数え年なら41歳です。川崎大師の表ではまだ厄年に入りませんが、数え年で見る神社では41歳=前厄にあたります。厄払いに行く年が、参る先しだいで変わるわけです。
平安時代の厄年は、男女とも12年おきだった

男女で年齢が違うのは、後からできた形です。平安時代の記録に出てくる厄年は、男女の区別がありません。しかも数字がきれいに等間隔で並んでいるのです。
『色葉字類抄』が並べた八つの年齢
13・25・37・49・61・73・85・97
平安末期の辞書『色葉字類抄(いろはじるいしょう)』の「厄」の項には、この八つの年齢が並んでいます。現在の男性の25歳・61歳と、女性の37歳はここに入っています。一方で大厄とされる男性42歳と女性33歳は、この列のどこにもありません。
12年おき=生まれ年の干支に戻る年
13から97まで、差はすべて12です。数え年の13歳は、生まれた年と同じ十二支がひと巡りして戻ってくる年にあたります。年男・年女の年が節目として意識され、そこに慎みが結びついたと考えると、等間隔の理由は説明がつきます。
文献に残るいちばん古い「厄年」
『宇津保物語』の一文
厄年という語の初見とされるのが、平安中期の『宇津保物語(うつほものがたり)』楼上巻上です。左大臣が厄年にあたるので大饗(たいきょう)を催した、という趣旨の記述が出てきます。災いを避けるために身を縮めるのではなく、盛大な宴を開いている点が目を引くところです。
『源氏物語』に出てくる三十七歳
『源氏物語』では、37歳が慎むべき年として語られます。女性の33歳は、鎌倉初期の史書『水鏡(みずかがみ)』の序に見えるとされる年齢です。年齢がばらばらの文献に散らばっていて、一つの表としてはまだ定まっていなかったのでしょう。
写本ごとに年齢が入れ替わる
『拾芥抄』は版によって数字が違う
中世の百科事典『拾芥抄(しゅうがいしょう)』では、永正7年(1510年)の写本が13・25・37・49・61・73・99を挙げています。ところが寛永9年(1632年)の刊本では73が消え、代わりに85が入ります。書き写す過程で入れ替わったのか、当時の理解が違ったのかは判然としません。
揺れていること自体が語るもの
年齢が版ごとに動くのは、確定した根拠が背後になかったからだと考えられます。動かせない理屈があるなら、写し手は数字を変えません。神社と寺で今も一覧が食い違うのは、この揺れの延長線上にあります。
男25・女33の形は、江戸時代に固まった

今わたしたちが目にする一覧が現れるのは、江戸時代です。そこへ至る途中には、仏典を経由した別の並びが挟まっていました。
仏典に混じっていた33・37・42
『仏説灌頂菩薩経』の並び
『仏説灌頂菩薩経(ぶっせつかんじょうぼさつきょう)』には、7・13・33・37・42・49・52・61といった年齢が列挙されています。平安の等間隔の列にはなかった33・42が、ここで顔を出します。厄年が神道だけの習慣ではなく、仏教側の年忌の考え方とも混ざりながら育ったことを示す並びです。
元をたどると中国の医書に行き着く
年齢に忌みを結びつける発想そのものは、中国由来と考えられています。古代中国の医書『黄帝内経(こうていだいけい)』には九年きざみの年忌の並びがあり、そこにも61が含まれます。暦や占い、医学がひとまとまりで伝わってきた時代の名残です。
『和漢三才図会』で現在の形になる
男25・42・61/女19・33・37
江戸中期の百科事典『和漢三才図会(わかんさんさいずえ)』は、厄年を俗に男性25・42・61歳/女性19・33・37歳とすると記しています。今日の一覧とほぼ同じです。厄年が男女で分かれた形は、この頃までに定着したとみられます。
典拠として挙げた並びと、実際の年齢が合っていない
興味深いのは、同書が典拠として中国の医書を引きながら、その九年きざみの並びと俗習の年齢が噛み合っていない点です。25と61は重なりますが、42も19も33も入りません。権威ある出典を後から当てはめたものの、現実に行われている年齢のほうを書き換えるには至らなかった、という形に見えます。
42は「死に」、33は「散々」
よく知られた語呂合わせ
男性の42歳は「4・2」で死に、女性の33歳は「3・3」で散々に通じるので忌む、という説明が広く伝わっています。覚えやすく、腑に落ちる説明です。厄年の話でまず出てくるのも、たいていこの語呂合わせでしょう。
数字が先か、語呂が先か
ただし平安の列には42も33もありません。二つの数字が現れるのは仏典や中世以降の記録で、しかも語呂合わせの理由が同時に書かれているわけではありません。語呂は数字が定着した後に添えられた説明である可能性が高いといえます。断定できる資料は見当たらず、諸説あるままです。
「厄」はもともと「役」だったという説

年齢の変遷よりも意外なのは、厄年がかつて祝う年だったという説明でしょう。しかもこれを述べているのは、神社を包括する神社本庁自身です。
神社本庁は「晴れの年齢」と説明している
還暦と同じ扱いだった
神社本庁の厄祓いの案内によれば、厄年は本来「晴れの年齢」でした。長寿を祝う還暦などと同じ扱いだったという説明です。災難に身構える年ではなく、一人前として認められる区切り。今の受け止め方とは、ほとんど逆を向いています。
宮座への加入、神輿担ぎ
※ 宮座(みやざ)とは、地域の氏子のなかで神社の祭りや運営を担う集団のことです。加入できる年齢や条件は土地ごとに定められていました。
その年齢に達すると、宮座に加わったり神輿を担いだりと、祭りの中心に近い役目が回ってきました。神社本庁は、厄年の「厄」は神にお仕えする神役の「役」であるといわれる、と説明しています。厄年とは、役が当たる年だったという読み方です。
役を務めるための慎みが、災難の年に変わった
神事の前には身を清める
神事を担う人は、その前に物忌み(ものいみ)をして身を慎みます。飲食や行動を控え、汚れを避ける期間を置くわけです。役年に当たった人が生活を引き締めるのは、災いを恐れたからではなく、務めに備えるためだったことになります。
宮座が薄れ、慎みだけが残った
近代に入って宮座のような仕組みが弱まると、役目の中身は見えにくくなります。残ったのは「この年は気をつける」という慎みの部分でした。そこへ「厄」の字と語呂合わせが重なり、災難の年という理解が前に出た──役年説は、この筋道で今の姿を説明します。ただし語源の証明ではなく、有力な説の一つという扱いです。
統計のほうは、厄年に何も見つけていない

由来がどうであれ、実際に厄年は危ないのかは気になるところです。ここははっきりしていて、裏づける統計は見当たりません。
裏づける数字が見当たらない
「証明する統計はみられない」
男性42歳や女性33歳で事故や病気が増えるという説明は各所で見かけますが、それを示すデータは提示されていないのが実情です。厄年を科学的根拠のない習慣として扱う記述のほうが一般的です。厄年にあたる年齢だけ死亡率や事故率が跳ね上がる、という報告も見当たりません。
42歳・19歳・33歳が節目に重なりやすい
男性の42歳は働き盛りで責任が増える時期にあたり、女性の19歳や33歳は進学や就職、出産と重なりやすい年代です。神社本庁の案内も、体調不良や災難といった災厄が起こりやすい時期という言い方をしています。変化が多ければ、心身の不調も起こりやすい。厄年に何かあったとき、人はそれを厄年のせいだと結びつけて記憶しがちです。
病気のデータから作られた「新厄年」
75万8,207人分のレセプトを分析
※ レセプトとは、医療機関が健康保険へ提出する診療報酬明細書のことです。誰がいつどんな病気で受診したかが記録されています。
2012年9月、年齢研究所が「新厄年」という試算を発表しました。20〜73歳の75万8,207人分のレセプトから、脳血管疾患・認知症・変形性膝関節症・骨粗鬆症・虚血性心疾患・糖尿病・がんの7疾患について、性別と年齢ごとの発症率を積み上げたものです。発症リスクが急に上がる折れ目を新厄年と定義しました。
伝統の厄年とは、ほとんど重ならない
| 区分 | 男性 | 女性 |
|---|---|---|
| 伝統的な厄年(数え年) | 25・42・61歳 | 19・33・37歳 |
| 新厄年(2012年の試算) | 24・37・50・63歳 | 25・39・52・63歳 |
男性の63歳と女性の63歳は7疾患の発症率が急上昇する折れ目で、新しい大厄にあたるとされました。伝統の一覧と並べると、重なるのは男性の24歳と25歳あたりくらいです。数字の出どころが違えば、節目の年も違ってきます。
読むときの注意
この試算を出した年齢研究所は、健康食品を扱う企業が2012年に設立した研究機関です。査読を経た論文として発表されたものではありません。数字の規模は大きいものの、伝統的な厄年を検証した研究ではない点は押さえておきたいところです。
厄は、もともと「落とす」ものだった

厄年の過ごし方として今も残る風習には、祈祷とは別の系統のものがあります。共通しているのは、厄をその場にとどめないという発想です。
わざと落とす
身につけている物を落とす
厄落としの本来の形は、いつも身につけている物をわざと落とすことだといわれます。大切な物を先に失っておくことで、その年に起きるはずだった悪いことを済ませてしまう理屈です。落とした物が身代わりになる、という受け止め方もされてきました。
年の数だけの銭や豆を捨てる
大晦日や節分の夜に、自分の年齢の数だけ包んだ銭や豆を辻に捨てる風習も伝わっています。地域によっては、ふんどしを道に落としてくるという形もありました。厄払いといえば社寺での祈祷を思い浮かべますが、こちらは家と道で完結する作法です。
配って、みんなに背負ってもらう
餅まきと振る舞い
厄年の人が餅やお菓子をまき、大勢に拾ってもらう地域もあります。宴席を開いて振る舞う形も同じ考え方です。一人ぶんの厄を大人数で分け持てば、一人あたりは小さくなるという発想でした。『宇津保物語』の左大臣が大饗を催したのも、この線でつながって見えてきます。
贈るなら長いもの
厄年の人へは長いものを贈ると良いとされます。ベルトやネクタイ、マフラーなどが選ばれるのは、長寿や「長く続く」という願いに結びつけられてきたためです。厄年を気にしている相手へ何か渡したいときの、無難な手がかりです。
後厄には「挑厄」という呼び名もあった
江戸期の記述に残る言い方
『和漢三才図会』には、男性42歳の前年を前厄・翌年を挑厄(はねやく)と呼んで前後3年を忌む、という記述があるとされます。後厄という言い方が一般化する前に、別の呼び名が使われていたことになります。厄を跳ね返す、跳ね上がるといった語感が読み取れる字面です。
3年で見る形は江戸時代にはあった
前厄・本厄・後厄と3年ひと組で数える習慣も、この記述から江戸期にはすでにあったとわかります。一方で、地域や社寺によっては大厄にだけ前後を付ける形もあり、こちらも一律ではありません。厄年は細部に入るほど、統一されていないことが見えてきます。
神社と寺で年齢が違う。数え方も揃わず、写本ごとに数字が入れ替わる。統計にも姿は見えません。それでも厄年は千年ものあいだ受け継がれてきました。一致していないという事実こそが、この習慣の正体を教えてくれます。厄年は危険な年齢を言い当てる仕組みではなく、節目で一度立ち止まるための口実。年齢が揃わないまま千年ももったのは、揃っている必要がそもそも無かったからです。
参考
- 神社本庁「厄祓い」
- 大本山川崎大師平間寺「厄年」
- 『和漢三才図会』
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