破魔矢の「はま」は、もともと魔のことではありませんでした。藁(わら)や蔓(つる)を丸く編んだ的の名前が「はま」で、それを射るための弓矢だから「はま弓」「はま矢」と呼ばれた、というのが辞典の説明です。
つまり矢が狙っていたのは、目に見えない魔ではなく、正月の広場を転がっていく輪でした。「破魔」という字は後から当てられたもので、字が付いたあとに「魔を破る矢」という理解が広まったとされています。的の名前がいつ魔に置き換わったのか、順を追って見ていきます。
ひらがなに戻すと、答えの半分が見えてくる

「破魔矢」と漢字で書くかぎり、答えは字の中に隠れたままです。いったん「はまや」という音に戻して、いつ・どこで・何を指した言葉だったのかを時代順に並べてみます。
| 時期 | 「はまや/破魔矢」が指したもの |
|---|---|
| 675年ごろ〜 | 宮中の正月行事「射礼(じゃらい)」で射られた弓矢。天皇の前で射手が的を競った |
| 中世〜近世の民間 | 「はま」という輪の的を射たり打ち落としたりする正月の年占(としうら)と遊び |
| 戦国期(1565年ごろ) | 「御はま矢」という語が毛利輝元の書状に登場。贈答品として扱われている |
| 江戸時代 | 男児の初正月・初節供に贈る飾り物。板に弓矢と押し絵の武者人形を飾った |
| 1760年代ごろ | 江戸・矢口の新田社の門前で矢が売られ、参詣者が持ち帰って守りにした |
| 1803年 | 『匠家故実録(しょうかこじつろく)』に上棟式の破魔弓・破魔矢の作法が記される |
| 現在 | 初詣で授与される正月の縁起物。上棟式や初正月の飾りとしても残る |
並べてみると、宮中の儀式・民間の遊び・贈り物・初詣の授与品という別々の顔が、同じ音の言葉に折り重なっているのが分かります。ひとつの起源から一本道で今に至ったわけではありません。
「はま」は的の名前だった

語源をたどると、破魔矢の「はま」は矢の性能ではなく、標的の呼び名にたどり着きます。江戸時代の有職故実書『貞丈雑記(ていじょうざっき)』を引く事典の記述が、その手がかりです。
藁で編んだ輪と、その真ん中の穴
直径30センチほどの輪に、6〜9センチの穴
『貞丈雑記』によれば、大和国(奈良県)吉野郡や土佐国(高知県)で、正月に子どもが弓を射るときの的を「はま」と呼んだといいます。縄を巻いて直径1尺ほどの輪を作り、その中に鍋敷きのような形の、さしわたし2〜3寸の穴をあけたものでした。1尺は約30センチ、2〜3寸は約6〜9センチにあたります。
「はま」を射るから「はま弓・はま矢」
この輪を射る道具だから、弓は「はま弓」、矢は「はま矢」。漢字を当てる前は「浜弓」「浜矢」と書かれることもありました。魔を破るという意味は、この段階のどこにも入っていません。
「破魔」という字が意味を連れてきた
もとは仏教の言葉
「破魔」は本来、魔を打ち破る・煩悩を退けるという意味の仏教語とされます。音が同じというだけの理由で「はま」にこの字が当てられ、以後は「悪魔を破る矢」のように解されるようになった——というのが事典の説明です。
当て字が先か、魔除けの意識が先か
ただし、年の初めに弓を射る行事にはもともと悪いものを祓う気分が伴っていたとも言われます。字が意味を連れてきたのか、すでにあった意識に字がぴたりと合ってしまったのか。そこは断定しにくいところです。
出典どうしで食い違うところ
「はま」は的そのものか、穴のことか
先の記述は「はま」を的の穴だとしますが、辞典の別の項目では「破魔弓で射る的。藁や蔓を円形に編んで作る」と、輪そのものを指しています。ごく小さな差に見えて、狙いが穴なのか輪なのかで競技の難しさはまるで変わります。
限られた土地の記録である点
この記述が名前を挙げる土地は、吉野郡と土佐だけです。全国どこでも同じ的を「はま」と呼んでいた証拠にはなりません。語源の説明としてよく引かれますが、根拠の広さはその程度だと踏まえておくと安全です。
射る行事のほう——宮中の「射礼」と民間の「破魔打ち」

破魔矢の由来として事典が挙げるもうひとつの流れが、正月に弓を射る行事です。宮中の格式ばった儀式と、村の広場の遊びと、性格の違う二つが同じ由来欄に並んでいます。
宮中の「射礼」は正月17日の競技だった
板の的を36歩の距離から射る
射礼は、宮中で毎年正月17日に行われた歩射(ぶしゃ)の競技です。天皇が臨席するなか、豊楽殿(ぶらくでん)に三重の輪を描いた2尺5寸の板的を南北2か所へ据え、射手は的から東へ36歩離れた場所から矢を放ちました。成績の良い者は禄を賜り、宴に招かれることもあったといいます。
射手は30人から20人へ絞られた
2日前の15日には、兵部省(ひょうぶしょう)が親王以下五位以上の官人から射手候補30名を選び、稽古をさせて20名に絞りました。日没までに全員が射終わらなければ翌日に持ち越し、これを射遺(いのこし)と呼びます。原型は天武天皇4年(675年)の儀式とされ、南北朝期の応安年間ごろまでは続いたとみられています。
民間の「破魔打ち」は年を占う勝負ごと
転がる輪を、枝を投げてさえぎる
破魔打ちは正月の年占の一種で、二組が対抗して勝負によりその年の運勢を占うものでした。辞典の説明では、一方が藁や樹枝で丸く作った的を投げ転がします。相手はそれに木の枝を投げてさえぎり、境界線を越えれば勝ちになります。矢で射抜くという説明もあり、地域や時代で遊び方には幅があったようです。
勝ち負けがそのまま占いだった
ここで大事なのは、当たり外れが娯楽の得点で終わらなかった点です。組の勝敗が、その年の豊凶や吉凶を告げるものとして受け取られました。矢は魔を退ける道具である前に、年の見通しを尋ねる道具だったわけです。
宮中と民間は、ひとつの流れなのか
的の形からして違う
宮中の的は2尺5寸の板、民間の的は藁や蔓の輪。素材も形も別物です。事典が両方を由来に挙げるのは、「正月に弓を射る」という一点で重なるからで、片方がもう片方から生まれたと書いているわけではありません。
合流したと読むのが穏当
宮中の儀式はやがて絶え、民間の遊びのほうは男児の玩具として残りました。別々に走っていた二本の流れが、正月の弓矢という共通点でひとまとめに語られるようになった。そう読むほうが、資料の食い違いを無理なく受け止められます。
初詣で授けるようになったのは江戸から

神社の授与所に破魔矢が並ぶ光景は、意外に新しいものです。参詣者が矢を買って持ち帰る習慣の始まりとして名前が挙がるのが、東京都大田区の新田神社(にったじんじゃ)でした。
門前で売られていた「義興の矢」
『武江年表』が書きとめた光景
『武江年表(ぶこうねんぴょう)』は、江戸の出来事を年ごとに書きとめた記録です。宝暦の末ごろから矢口の新田社に参詣者が増え、境内で矢を売り始めた——参詣人はそれを求めて守りにした、という趣旨の記述があると紹介されています。宝暦の末は1760年代前半にあたります。
祀られていたのは矢口で討たれた武将
新田神社が祀るのは、新田義貞の次男・新田義興(にったよしおき)です。正平13年(1358年)10月10日、多摩川の「矢口の渡」で謀略により最期を遂げ、その霊を鎮めるため墳墓の前に社殿が建てられたと伝わります。門前の茶店では、義興の矢と称するものが売られていたそうです。
平賀源内が考えたと伝わる「矢守」
五色の紙と、神域を越えない篠竹
社伝では、この茶店の矢をヒントに、平賀源内が魔除けの「矢守」を新たに考案したとされています。使ったのは、源氏の白旗が根づいたものと伝わり決して神域の外には生えないという篠竹(しのだけ)。これを五色の紙で矢に仕立て、新田家の旗印を付けたものが正月の名物になったといいます。
買うのは2本、置いていくのが1本
参拝客は矢を2本求め、1本を神殿に供え、もう1本を持ち帰って魔除けにしたと伝えられます。これは新田家に伝わる「水破・兵破(すいは・ひょうは)」という二筋の矢にちなむものだそうです。今の破魔矢が1本で授与されるのとは、数からして違っていました。
どこまでが確かな話か
源内の名は伝承として付いている
矢が売られていたこと自体は江戸の記録に残ります。しかし「源内が考案した」という部分は社伝・伝承として語られるもので、同時代の証文が示されているわけではありません。源内には、土用の丑の日にうなぎを食べる習慣を広めたという有名な逸話もあり、こちらも確かな一次資料は見つかっていないとされます。
※ 社伝(しゃでん)とは、神社に代々伝えられてきた由緒や言い伝えのことです。文書として残る同時代の記録とは区別して扱われます。
浄瑠璃の当たりが参詣者を呼んだ
源内はこの神社の縁起をもとに、福内鬼外(ふくちきがい)の筆名で浄瑠璃『神霊矢口渡(しんれいやぐちのわたし)』を書きました。明和7年(1770年)に江戸で初演されて評判をとり、のちに歌舞伎にもなっています。参詣の人出が芝居の当たりに押し上げられたことは、時期を見るかぎり確かでしょう。
家にある破魔矢は、どれにあたるのか

破魔矢と呼ばれるものは、いま3種類あります。授かった場所と時期で扱いが変わるため、まず自分の家のものがどれかを見分けておくと迷いません。
| 種類 | いつ手に入るか | 扱い |
|---|---|---|
| 初詣の授与品 | 年末から正月にかけて社寺で | 1年で新しくし、古いものは社寺へ納める |
| 初正月・初節供の飾り | 男児の誕生後、親戚や知人から | 飾り物として毎年出す。返納の対象にはしないことが多い |
| 上棟式の破魔矢 | 家を新築するときの棟上げで | 返納はせず、棟に納めたままにする |
置き場所と向きに決まりはあるのか
方角の正解は示されていない
神棚・床の間・玄関・居間などが置き場所として挙げられますが、家庭で祀る場合の方角にとくに正解はないとされます。矢の先を天に向けない、といった目安が語られる程度です。目線より高い位置に置くのがよいとする案内も見かけます。
凶の方角へ向ける説もある
その年の凶方位に矢先を向けるという説明もあります。凶の方角は年ごとに移るため、この説に従うなら向きは毎年変わる計算です。ただし社寺によって案内は一様ではありません。授かった場所で作法を尋ねるのが、いちばん確かな方法です。
返し方と、返せないときの受け皿
基本は授かった社寺へ
初詣で授かった破魔矢は、翌年に新しいものと入れ替え、古いほうは授与された社寺へお返しするのが基本とされています。年の区切りで役目を終える、という考え方です。
1月15日ごろのどんど焼き
遠方で戻れないときの受け皿が、小正月にあたる1月15日ごろの左義長(さぎちょう)です。どんど焼きとも呼ばれ、正月飾りや古いお守りをまとめてお焚き上げする神事として、多くの社寺で行われています。
もう一歩、破魔矢の細部を見る

由来を追いかけていると、本筋から少し外れたところに面白い記録が残っています。数の話と、名前をめぐる話をふたつ。
棟上げの破魔矢は、上と下を向く2本組
家を新築する上棟式では、鬼門の方角へ向けて棟の上に弓矢を立てます。辞典によれば、これは檜(ひのき)で作った2本の矢の形をしたものです。鏑矢(かぶらや)を上に向け、雁股矢(かりまたや)を下に向けるのが作法でした。『匠家故実録』(1803年)にその作格が記されています。矢守と同じく、こちらも2本組です。
「破魔矢」が登録商標だったという話
更新されずに一般名へ戻った
神社の縁起物としての「破魔矢」を、神奈川県のある会社が商標登録していたという説明があります。広く使われるようになったとして更新されず、一般の名前に戻ったとされ、それまで報道では「魔除けの矢」と言い換えられていた時期があったといいます。
言葉のほうがずっと古い
ただし、これは語源の話ではありません。辞典が挙げる「はま矢」の古い用例は、毛利輝元の書状にあります。年次は未詳ながら、1565年ごろと見られているものです。商標が登録されるはるか前から言葉は使われており、由来を会社に結びつけるのは誤りだというのが語源辞典の指摘です。
仏の側にも、金の弓矢の伝えがある
仏教には、青面金剛(しょうめんこんごう)に従う夜叉の一人、烏摩勒伽(うまろきゃ)の持つ金の弓矢を破魔矢の発祥とする伝承があります。烏摩勒伽らを祀る日光の輪王寺では、これにちなんだ龍神破魔矢が授与されています。神社の縁起物という印象が強い破魔矢ですが、寺にも別の筋書きが残っているわけです。
破魔矢の歴史は、引き算の歴史でもありました。まず藁の輪という的が消えました。次に対戦する相手が消え、やがて弓も手から外れます。当たり外れで年を占う勝負そのものも、いつしか姿を消しました。最後まで残ったのは、道具のうちいちばん細くて軽い一本でした。玄関に立てかけられたその矢は、狙う先を失ってなお、正月の空気だけをまっすぐ運んでいます。
参考
- 『デジタル大辞泉』(小学館)「破魔」
- 『デジタル大辞泉』(小学館)「射礼」
- 伊勢貞丈『貞丈雑記』
- 斎藤月岑『武江年表』
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