だるまの目は、願いをかけるときに「左目」から入れるのが一般的です。この左は、だるま自身から見た左。向かい合って筆を持つ私たちからは右側の目にあたります。願いが叶ったら、残る右目(向かって左)を入れて仕上げます。言い方が二通りあるだけで、指している目は同じです。
「左目」はだるまから見た左

発祥の寺は「向かって右」と案内している
縁起だるま発祥の寺とされる群馬県高崎市の少林山達磨寺は、目入れを「向かい合ったときの右側の目から」と案内しています。一方で歳時記の解説や売り場の説明書きは「左目から」と書くのが普通です。前者は見る側を主語にし、後者はだるまを主語にしているだけ。二つの説明は食い違っていません。
写真に写った人の左手と同じ数え方
写真に写った人の左手は、見ている側からは右に写ります。だるまの左右もこれと同じで、こちらの都合ではなくだるまの体を基準に数えられています。置き物を一人の相手のように扱ってきた感覚が、言い方にそのまま残っているわけです。
舞台の上手・下手は客席が基準
同じ日本の習わしでも、基準が逆のものはあるものです。芝居の「上手(かみて)」「下手(しもて)」は客席から見た呼び名で、舞台に立つ役者にとっては左右が入れ替わります。だるまは見る側でなく、だるま本人を基準にしている点が、取り違えやすさのもとになっています。
なぜ左目から入れる?

仁王像の「阿」になぞらえる説
寺の門に立つ仁王像は、口を開いた阿形(あぎょう)と口を結んだ吽形(うんぎょう)の一対です。多くの寺で、向かって右に立つのは阿形のほう。阿は物事のはじまり、吽は終わりを表すので、はじまりの側にあたる目から入れるのだという説明があります。
ただし並びが逆の寺もあります。運慶・快慶らの作で知られる東大寺南大門の像は、向かって左が阿形です。筋は通っていても、決め手になるほど強い根拠ではありません。
南を向けて飾ると左目が東にくる
だるまは顔が南から東を向くように飾るとよいとされます。南を向いて座れば、左手の側は東。日が昇る方角の目から先に開く、という筋書きで左目を説明する人もいます。こちらも言い伝えの域を出ず、どの説が正しいと決める記録は見当たりません。
もう片方の目を入れるのは、願いが叶ったとき

叶ったときか、一年を無事に過ごせたとき
発祥の寺の説明は、心を静めて片目を入れるところから始まります。もう一方の目を入れるのは、願いが叶ったときか一年を無事に過ごせたとき。合格や当選のように区切りのはっきりした願いなら結果が出たとき。家内安全のような願いなら一年の節目が、その時期にあたります。
選挙事務所のだるまも同じ順番
選挙事務所に置かれるだるまも、一般には立候補のときに左目、当選が決まってから右目を入れます。開票の夜、万歳のあとに候補者が筆を執る場面はおなじみでしょう。産地や店によって案内が少しずつ違うこともあるので、迷ったら買った店の説明に従うのが確実です。
叶わなかったときも目を入れてから納める
願いが届かなかった場合も、残った目を入れてから供養に出すのが作法とされています。片目のまま処分せず、寺社に納めるか、小正月のどんど焼きで焚き上げてもらいます。そのうえで新しいだるまに願いをかけ直すわけです。供養が難しいときは、自治体のごみの決まりに従って出してもかまいません。
※ 開眼(かいげん)とは、仏像や仏画に目を描き入れて魂を迎える儀式のことです。だるまの目入れも、この言葉で呼ばれます。
寺で頼めば和尚が最初の一筆を入れる
だるまの開眼は、少林山達磨寺に頼むこともできます。その場合、最初の一筆を点じて魂を込めるのは和尚です。開眼料に決まった額はなく、気持ちで納める志納です。自分で入れても寺で入れてもらっても、願いを込めるという中身は変わりません。
最初から両目を入れてもいい?

家内安全や健康の願いなら両目でもよい
健康祈願や家内安全のように、合否や当落の区切りがない願いでは、はじめから両目を入れることもあります。目の入れ方は家庭によってさまざまで、どれも間違いではないとする解説もあるほどです。高崎の職人にも、だるまの目は仏像と同じく神聖なもので、本来は両目がそろってこそ力を発揮するという考え方があります。
仙台の松川だるまは黒目が入っている
仙台の松川だるまは、顔のまわりを群青と金粉で縁取り、胴に宝船や福の神を浮き出させた張り子です。このだるまは大きく開いた黒目が描かれた姿で、家や店の神棚に祀られてきました。四方八方から無病息災や家内安全を見守る目だと説明されています。始まりは天保年間(1830〜1844年)で、伊達藩士の松川豊之進が作ったと伝えられます。
目入れの習わしは東日本に多い
高崎のだるま職人によれば、目を空けて売り、あとから入れる習わしは東日本に多いものです。西日本では、黒目の入った鉢巻き姿のだるまがよく見られるといいます。片目のだるまは全国共通の決まりではなく、地域の習わしの一つと考えたほうが実態に近そうです。
片目のだるまは江戸の姿ではない

江戸のだるまは両目が描かれていた
目を空けて売り、買った人が描き入れる形は、だるまの歴史では新しいほうに入ります。江戸時代の縁起だるまは、あらかじめ目が入った姿で売られていました。達磨大師の力は目に宿ると信じられ、両目がそろっているほうが魔除けになると考えられていたためです。
疱瘡の流行で、目の大きなだるまが好まれた
江戸時代、疱瘡(ほうそう)は子どもを中心に命を奪う病として恐れられました。病室には赤い屏風を立て、看病する人も赤い着物を着て、赤い張り子を枕元に置きました。だるまはその疱瘡除けとして江戸でさかんに贈られた張り子の一つです。高熱で視力を失う人も多かったため、黒々とした大きな目のだるまが人気を集めたといいます。
※ 疱瘡(ほうそう)とは天然痘のことです。高い致死率に加え、治っても顔にあとが残ったり視力を失ったりすることがありました。日本では明治の中ごろに種痘が広まるまで、長く人々を苦しめました。
目の描き方への注文が白目のだるまを生んだ
願掛けの品だけに、買う人から目の描き方に注文が付くようになりました。それなら自分で入れてもらうのがいい、と作り手の側が考え、片目や白目のだるまが出てきたと伝えられています。願掛けの作法が先にあったのではなく、客の注文に応えた売り方のほうが先だったことになるでしょう。
当選の目入れはテレビで広まった
「願いが叶ってから目を入れる」という印象が強まったのは、テレビの時代に入ってからだと職人は話します。選挙で当選した議員が筆で目を入れる姿が、毎回のように茶の間へ流れました。全国の家庭が同じ場面を見たことで、片目のだるまが「正しい姿」として定着していったのでしょう。
だるまはなぜ赤い?

達磨大師は赤い衣で描かれてきた
だるまのモデルは、禅宗の祖とされる達磨大師(だるまだいし)です。絵の中の大師は、赤い衣を頭からまとった座禅の姿で描かれるのが通例でした。壁に向かって九年座り続けたという伝説があり、手足のない丸い形はその座禅姿を写したものとされています。
赤は魔除けの色だった
赤には特別な力があると考えられ、縄文時代から神聖視されてきた色です。疱瘡除けに赤を使ったのも、この信仰の延長にあります。疱瘡神は赤を好むので喜ばせて帰ってもらうためとも、赤の力で追い払うためとも解釈されています。大師の衣の色と魔除けの色が、たまたま重なっていたわけです。
色ごとの意味は寺と売り場で違う
いまは白・黒・黄・緑・ピンク・金など、さまざまな色のだるまが売られています。一般には白が合格祈願、黒が商売繁盛や出世と案内されることが多く、白いだるまはもともと赤と組んで紅白になるよう作られたものです。
ところが少林山達磨寺は、色によって意味の違いはないと説明しています。願いを込めて目を入れることで意味を持つのだ、という立場です。色選びは好みで決め、願いは目入れのときに込めればよいと考えると、迷わずに済みます。
縁起だるまは高崎の飢饉から始まった

少林山と心越禅師の一筆達磨
少林山達磨寺は元禄10年(1697年)、禅の道場として開かれました。開山として仰がれているのは、中国から渡ってきた僧・心越禅師(しんえつぜんじ)です。水戸の徳川光圀が深く帰依した人物でしたが、寺が開かれる前の元禄8年に亡くなっています。そのため、あとから開山として迎える「追請開山」という形がとられました。
天明3年の浅間山噴火と大飢饉
天明3年(1783年)、浅間山の大噴火をはじめとする天変地異が続き、一帯は大飢饉に見舞われます。困った農民を救うため、九代目住職の東嶽(とうがく)和尚が心越禅師の「一筆達磨坐禅像」をもとに木型を彫りました。張り子だるまの作り方を村人に伝え、正月七草大祭の縁日で縁起物として売られるようになります。これが縁起だるまの始まりとされています。
蚕が「起きる」ことと重なった
上州(じょうしゅう、いまの群馬県)は養蚕の盛んな土地でした。蚕が桑の葉を食べ始めることを「起きる」と言い、繭を作る場所へ移すことは「上蔟(じょうぞく)」、つまり養蚕が「上がる」と言いました。起き上がるだるまと言葉が重なり、繭がたくさん取れた年には「大当たり」としてだるまに目を入れたそうです。
群馬や埼玉、東京の多摩地方にだるま市が多いのも、このあたりが江戸から明治にかけての養蚕地帯だったためとされています。倒れても起き上がる玩具の性質が、繭の出来という暮らしの問題に結びついたわけです。
年間90万個、全国の8割
高崎だるまの年間生産量は公称90万個で、全国のだるまの8割を占めるといわれます。横浜の開港で赤い染料が手に入りやすくなったことや、明治の生糸輸出で養蚕農家が潤ったことも、産地が育つ追い風になりました。
丸い形と顔に込められたもの

倒れない仕組みは中国の玩具から
倒しても起き上がる仕組みは、だるまが最初ではありません。中国の唐の時代には「酒胡子(しゅこし)」という酒席の遊び道具があり、明の時代には倒れない翁の人形「不倒翁(ふとうおう)」が登場します。これが室町時代の日本に伝わって「起き上がり小法師(こぼし)」になり、江戸時代に達磨大師の姿と結びつきました。
眉は鶴、ひげは亀
高崎だるまの顔をよく見ると、眉は二羽の鶴が向かい合う形、鼻から口ひげにかけては二匹の亀が向かい合う形になっています。長寿の縁起物が、そのまま顔の造作になっているのです。顔の両脇には「家内安全」「商売繁盛」などの願いごとが、腹には「福入」と書かれます。
日本三大だるま市
だるまを買う場として名高いのが、次の三つの市です。高崎の市は、縁起だるまが生まれた少林山達磨寺そのものの縁日にあたります。
- 少林山七草大祭だるま市(群馬県高崎市・少林山達磨寺/1月6〜7日)
- 厄除元三大師(やくよけがんざんだいし)大祭だるま市(東京都調布市・深大寺/3月3〜4日)
- 毘沙門天大祭だるま市(静岡県富士市・妙法寺/旧暦の正月7〜9日)
飾る場所は目線より高く
発祥の寺のおすすめは、神棚があればその左側、無ければ目線より高い場所です。方角を気にするなら、顔が南から東を向く置き方がよいとされます。合格祈願なら勉強部屋に置くなど、願いに合わせて場所を選ぶ人もいます。
左右の言い方が二通りあるのは、だるまを物として扱っていないからです。棚の置き物なら「右の目」で済むところを、わざわざ相手の体を基準に数え直している。筆先が触れるのは、こちらから見て右の目。けれどそれは、向かい合うだるまにとっての左目です。
参考
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