花火大会はなぜ夏に多いのか——江戸の涼み舟の商い

歴史と変遷の話
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隅田川の花火は、享保の飢饉とコレラで亡くなった人を弔うために始まった——よく語られるこの説明は、明治から昭和にかけての四十年ほどのあいだに組み上がったものです。コレラが日本で最初に流行したのは1822年(文政5年)で、起源とされる1732年にはまだ入ってきていません。

では、なぜ花火は夏に上がるのでしょうか。江戸の記録をたどると、花火は行事というより商品でした。金一分を出せば、その夜のうちに上げてもらえたのです。買い手が川に出ているのが夏の三か月だった——答えの骨格はそこにあります。

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「いつ生まれたか」と「なぜ夏か」は、答えの出どころが違う

この記事は二つの問いを扱います。花火という見世物がいつ日本に来たのかという問いと、それがなぜ夏に集まるのかという問い。前者の答えは室町から江戸初期の日記や外交記録にあり、後者の答えは江戸の商売の記録にありました。出どころが別なので、先に切り分けておきましょう。

できごと
1447年京都の浄華院で「唐人」が火を使った見世物を披露したと『建内記』が記す
1582年臼杵の聖堂で、イエズス会宣教師が復活祭に火を使う
1613年駿府城で徳川家康が花火を見物。『駿府政事録』に記載
1659年鍵屋弥兵衛が江戸で玩具花火を売り始める
1733年両国の川開きで花火。のちに「起源」とされる年
1808〜10年ごろ鍵屋の番頭が暖簾分けし、玉屋が興る
1843年玉屋が火事を出し、江戸を追放されて一代で消える
1879〜87年西洋の薬品が輸入され、花火に色が増える
1961年両国の川開きが中断
1978年「隅田川花火大会」と名を変えて復活

日本人が最初に見た花火は、家康より百六十年以上早い

「最初に花火を見た日本人は徳川家康」という話が広く出回っています。ただし、それより古い記録が室町時代の公家の日記に残っています。

1613年、駿府城の一夜

『駿府政事録』が書き留めた見世物

1613年(慶長18年)、長崎に商館を建てたイギリス人ジョン・セーリスが明の商人とともに家康に面会し、その数日後に花火を披露しました。家康は尾張・紀伊・水戸それぞれの初代藩主と並んでこれを見物したと『駿府政事録(すんぷせいじろく)』は記します。

もっとも、このときの花火は夜空に開くものではありません。筒を立てて黒色火薬を詰め、火をつけると先から火の粉が噴き出す——今でいう手持ち花火や噴出花火に近いものだったようです。

政宗説が定説になれない理由

これより24年早い1589年(天正17年)に、伊達政宗が米沢城で花火を見たとする説もあります。ただし一次史料での裏づけが十分でないため、こちらは有力な候補どまり。年代が古いほど記録は「あったらしい」の域を出にくくなります。

1447年、京都の寺の境内

『建内記』が伝える「風流事」

公家の日記『建内記(けんないき)』には、1447年(文安4年)に浄華院(じょうけいん)で法事のあと、境内で「唐人」が火を使う「風流事」を行ったと書かれています。記述はかなり具体的で、次のような品目が並びました。

  • 竹枠に薄・桔梗・仙翁花・水車の形をかたどったもの
  • 縄を伝って走る火
  • 火をつけると駆け回る「鼠」
  • 手に持つと流星のように飛ぶもの

「鼠」は、今のねずみ花火とほぼ同じ発想でしょう。家康の一夜より166年前に、しかも一種類ではなく数種類が同じ晩に披露されていたことになります。

「最初の一人」を決めない方がいい理由

火薬を使った見世物は、記録に残った回だけが起きたわけではありません。文字を書き残す立場の人が居合わせた夜だけが史料になります。だから「最初に見た日本人」を一人に絞る問いは、実のところ「最初に日記を書いた人は誰か」に近い問いに変わってしまうのです。

宣教師が持ち込んだ火

1582年、臼杵の聖週間

1582年(天正10年)、現在の大分県臼杵市にあった聖堂で、ポルトガル人のイエズス会宣教師が復活祭に火を使ったという記録が『イエズス会日本年報』『フロイス日本史』に残っています。大友宗麟(おおともそうりん)が聖週間の祭儀を公開の催しにしたもので、布教のために人を集める狙いがあったとされます。

三つの記録に共通するもの

1447年の寺、1582年の聖堂、1613年の城。担い手も宗派も別々ですが、いずれも「人に見せるため」に火を使っています。武器としての火薬が先にあって、そこから見世物が派生した——という順序で語られがちなところ。ところが日本に残った初期の記録に限れば、火薬は最初から見せ物の顔で現れているのです。

「川開き」は慰霊の日ではなく、涼み商売の開幕日だった

夏に花火が上がる理由は、江戸の「川開き」にさかのぼります。ただし、これは追悼の行事ではありませんでした。川で遊ぶ商売の解禁日です。

川開き(かわびらき)とは、川での納涼や舟遊びを許す期間の始まりを告げる日のことです。期間の終わりは「川仕舞い」と呼ばれました。

五月廿八日に始まり八月廿八日に終わる

『江戸名所図会』が記す三か月

『江戸名所図会(えどめいしょずえ)』は両国の川開きについて、「五月廿八日に始まり八月廿八日に終わる」と書いています。旧暦なので、いまの暦だとおおよそ七月から十月の初めにかけて。まるまる三か月が「涼みの季節」として区切られていました。

ここで一つ気づくことがあります。現在の隅田川花火大会は7月最終土曜日の開催で、江戸の開幕日とほぼ同じ位置に置かれているのです。三か月の入口だった日付が、いまは一夜きりの本番になりました。

河岸に夜店、川に納涼船

この三か月のあいだ、両国橋のたもとの広小路と河岸には夜店の出店が許されました。川面には納涼船や屋形船が浮かび、橋の上は人で埋まります。花火はその賑わいの中心に置かれた目玉であって、賑わいの理由そのものではなかった、という順序です。

花火は「行事」ではなく「注文で焚くもの」だった

『守貞謾稿(もりさだまんこう)』とは、幕末に喜田川守貞がまとめた風俗の記録です。江戸・京・大坂の暮らしを細かく比べており、当時の値段や慣習を知る手がかりになっています。

大花火は、数えるほどしかなかった

『守貞謾稿』は川開きの夜について「今夜初めて、両国橋の南辺において花火を上ぐるなり」と記したうえで、こう続けます。

今夜大花火ありて、後、納涼中、両三回また大花火あり

大きな花火が上がるのは初日と、あとは三か月のうち二、三回だけ。それが実態でした。

毎晩どんどん打ち上げていたわけではありません。「江戸の夏は連夜の花火」というイメージは、後世が浮世絵の華やかさから逆算した像に近いようです。

金一分以上で、その夜に上げてもらえた

では大花火のない夜はどうだったのか。同じ『守貞謾稿』が答えを書いています。「大花火なき夜は、遊客の需に応じて、金一分以上これを焚く」。客が求め、代金を払えば、その晩に上げてもらえたのです。

金一分がどれくらいか。公定の相場では一両が四千文で、その四分の一が一分ですから千文ほど。かけ蕎麦が一杯十六文の時代ですので、蕎麦にして六十杯ぶんという勘定になります。幕末には実勢の相場が一両八千文を超えることもあり、換算には幅がありますが、遊びに来た客が思いつきで払える額ではありません。

涼み舟の客がいる季節にしか成り立たなかった

買い手が川に出ている季節にしか成り立たない

注文で焚くものである以上、注文する人がその場にいなければ商売になりません。納涼船を仕立てて料理を取り、そのうえ花火代まで出せる客。そういう客が河岸に集まるのは、涼みが許された三か月のあいだだけでした。花火が夏に寄ったのは、季節の情緒よりも先に、客のいる時期がそこだったからです。

花火師の側の宣伝でもあった

売り手の事情も重なります。隅田川で大々的に打ち上げたのは、鍵屋と玉屋という花火師が自分の腕を見せるための宣伝だった、という説もあるほどです。やがて鍵屋が下流、玉屋が上流と持ち場を分け、二軒が張り合う形になりました。「かぎやー」「たまやー」の掛け声は、この競争を客が囃したものです。

「飢饉とコレラの慰霊が起源」という話は、明治以降に組み立てられた

それでも多くの解説は、隅田川の花火を1733年(享保18年)の慰霊から説き起こします。前年の飢饉とコレラの死者を弔うため、八代将軍・徳川吉宗が水神祭と川施餓鬼(かわせがき)を営み、花火を上げた——という筋書きです。この話がどこから来たのかは、2018年の研究でかなり細かく追跡されました。

まず、年表と合わない

コレラの日本初流行は1822年

最大の綻びはここです。コレラが日本で最初に流行したのは1822年(文政5年)とされており、1732年には国内に入っていません。「前年のコレラの死者を弔って翌1733年に花火を上げた」という筋書きは、九十年ほど先の出来事を先取りしてしまっているわけです。

明治の新聞は開始年を百年ぶらしていた

明治期の新聞が両国の花火の始まりに触れた記事を並べると、「凡そ二百年前」「百数十年前」「明暦以前」と、書くたびに年代が動いています。その幅はおよそ百年。当時の江戸っ子にとっても、始まりは既に分からなくなっていたことになります。

四十年かけて完成した「伝承」

1903年、根拠のない「享保十八年」が現れる

具体的な年号が初めて紙面に載ったのは1903年(明治36年)の記事でした。ここで「享保十八年」という数字が出てきますが、その典拠は一切示されていません。以後、この年だけが独り歩きしていきます。

1934年、慰霊と悪疫退散が加わる

1934年(昭和9年)の公式プログラム『両国川開大花火番組』に載った論考で、「慰霊と悪疫退散のため」という目的が付け加えられました。研究によれば、1891年から1934年までの四十年ほどで、花火業者の宣伝という趣旨が慰霊へとすり替わっていったといいます。話の骨組みは明治に、意味づけは昭和に足された、という二段構えです。

消された話と、残っている話

業界団体は令和元年に記述を外した

2018年(平成30年)の研究で成立の経緯が明らかになったことを受け、公益社団法人日本煙火協会は毎年出している小冊子『花火入門』の令和元年版から、この伝承の記述を削除しました。業界の内側からの訂正です。

自治体の公式ページには今も載っている

いっぽうで、台東区の文化探訪ページは現在も「享保18年(1733)に飢饉やコレラにより亡くなった人々の鎮魂のために」と紹介しています。旅行記事や観光案内も同様です。訂正が届く速さは、書き手の立場によってかなり違う——そのことが実地で見える例になっています。

いま夏に集まっている理由は、江戸とは別物

ここまでが江戸の事情です。現在の花火大会が夏に集中しているのは、その事情がそのまま続いているからではありません。日付だけが引き継がれ、理由の中身は入れ替わっています。

日付だけが受け継がれた

1961年を最後に、十六年の空白があった

両国の川開きは戦時中にも途切れましたが、戦後に復活したあと、1961年(昭和36年)を最後にまた止まります。理由は交通事情の悪化と、隅田川の水質汚濁による臭害でした。花火どころではないほど川が汚れていた、というのが直接の引き金です。

1978年、名前を変えて戻ってきた

復活の動きは1974年から始まり、会場を上流に移す形で1978年7月29日の開催が決まりました。名称も「隅田川花火大会」に改められています。現在は7月最終土曜日の開催で、打ち上げ数は約2万発。2025年の人出は約93万人でした。江戸の川開きが三か月の開幕日だったのに対し、今は一年に一夜だけの催しになっています。

夏でなくてもよい、という証拠

熱海は年に十五回、二月にも上げる

熱海市の公式サイトが出している2026年度の日程を見てみましょう。熱海海上花火大会は4月26日に始まり、7月から8月に六回。そのあとも9月・10月・11月・12月と続き、翌2027年2月21日まで組まれています。合計で十五回以上あり、夏はそのうちの一部にすぎません。

何がいまの花火を夏に寄せているのか

技術的に冬の花火が難しいわけではないと分かると、残る理由は人の側の都合になります。学校の夏休みに盆の帰省、そして浴衣という装いの季節。人がまとまって動く時期に合わせている、という説明が素直でしょう。江戸では「客が川に出ている季節」でしたが、いまは「客が帰省と休暇で動く季節」。理由の言葉は変わっても、客のいる時期に合わせている点だけは同じです。

色がついたのは明治になってから

最後に、花火そのものの見え方の話を。江戸の花火は、いま私たちが見ているものとは色が違いました。

和火は橙一色だった

炭火色の濃淡だけで見せていた

明治以前の花火は「和火」と呼ばれ、炭火色といわれる橙色の強弱だけで表現されていました。赤も緑も青もありません。江戸の人が見上げていたのは、線香花火の色をそのまま夜空に大きくしたような光だった、と考えるとイメージしやすいでしょう。

炎色反応(えんしょくはんのう)とは、金属を炎で熱したときに、その金属ごとに決まった色の光が出る現象のことです。花火の色は、火薬に混ぜる金属の種類で決まります。

1879〜87年、薬品が色を連れてきた

1879年から1887年(明治12〜20年)にかけて、西洋の薬品が次々と輸入されます。これで色数が一気に増え、和火に対して「洋火」と呼ばれるようになりました。日本の花火が色鮮やかになってから、まだ百五十年ほどしか経っていないのです。

入ってきた薬品担う役割
塩素酸カリウム強い酸化剤。他の薬品を高温で燃やし、鮮やかな発色を可能にした
炭酸ストロンチウム赤系の色
硝酸バリウム緑系の色
マグネシウム・アルミニウム白く強い光と、尾を引く火花

消えた名前の方が、よく響く

玉屋は一代で終わっている

1843年(天保14年)、玉屋が火事を出して大火となりました。しかも将軍・徳川家慶が日光社参に発つ前夜という間の悪さ。玉屋市兵衛は家財を没収されたうえ江戸を追放され、店はそこで途絶えます。暖簾分けからおよそ三十年、たった一代の商売でした。

鍵屋は1659年から続いている

いっぽうの鍵屋は、1659年(万治2年)に弥兵衛が葦の管に星を詰めた玩具花火を売り出したのが始まりで、現在も宗家鍵屋として十五代目が継いでいます。三百六十年以上の商売です。それでも花火の夜に響く掛け声は「たまやー」の方が多い、とよく言われます。

理由として挙げられるのは、次のようなところ。

  • 追放された玉屋への同情が江戸っ子に残ったから
  • 玉屋の腕の方が上だったから
  • 母音が続く「たまや」の方が、大声で叫びやすいから

どれも決め手には欠けます。ただ、消えた側の名前が残ったという結果だけは動きません。

玉屋という店はとうに無く、飢饉とコレラを弔ったという由来も史実の裏づけを失いました。それでも夏の夜には、消えた店の名が呼ばれ、消えたはずの由来が語られています。花火は上がったそばから消えていくものですが、その周りに残るものの方が、案外しぶといのかもしれません。

参考

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