門松は、正月に家を訪れるとされる年神(としがみ)を迎えるための目印です。玄関の前という場所が選ばれたのは、そこが家の内と外の境にあたるからでした。
松と竹のどちらが主役かは、時代によって入れ替わっています。古いのは松のほうで、竹が添えられるようになるのは中世以降とされます。いまの東京風の門松は背の高い竹が真ん中を占め、松はその足もとにあしらわれる形になりました。
部品ごとに役割を分けて置くと、この入れ替わりが目で追えます。
| 部品 | いつから見えるか | 担っていた役目 |
|---|---|---|
| 松 | 平安末の和歌にすでに登場 | 年神が宿る依代。冬も緑の木に長い命を重ねた |
| 竹 | 中世以降に添えられる | 注連縄を張る柱から変わったとする見方がある |
| 注連縄・藁 | 地域により形が違う | 神のいる場所と外側を区切る印 |
| 斜めの切り口 | 江戸期の言い伝えとして残る | 由来は伝承で、史料でたどるのは難しい |
門松は誰のために立てる飾りか

門松が迎えるのは、年の初めに家々を訪れるとされた年神です。神がどこに来ればよいのかを示す印であり、飾りというより案内板に近い役目を負ってきました。
年神は山から下りてくると信じられていた
民俗学者の折口信夫(おりくちしのぶ)は、一九二八年の講演で門松の話をしています。年の暮れになると山から下りてくるものがあると信じた時代があり、その記憶が門松に残っているという見立てでした。
山人が置いていった土産という見方
折口によれば、山から下りてきた人々は寄生木や羊歯の葉を里へ持ち込み、里の人はそれを祓いを受けたしるしとして家の内外に飾りました。山から突いてきた杖をそのまま地面に立て、根がつけば大変よい兆しと見たともいいます。
だから立てる木は一種類に決まらなかった。根づきやすい木なら何でもよかったのだ、というのが折口の読みです。
木の梢に神が宿るという考え方
樹木に神霊が寄りつくという信仰は、日本のあちこちに見られます。門松はその考えを正月にあてはめたもので、辞典でも年神の依代(よりしろ)であったとみられる、と説明されています。
※ 依代(よりしろ)とは、神霊が宿る場所として用意された木や石などの目印のことです。
玄関の前に立てるのは、家の内と外の境だから
門や玄関は、家の内側と外側が入れ替わる場所です。外から来る神を家へ案内する印を置くなら、まずそこになります。ただし置き場所が門口に限られていたわけではありませんでした。
奥三河では柱が主役で、松はその足もとに立つ
折口が正月ごとに通ったのは、三河・遠江・信濃の国境に近い山村です。そこでは門神柱や男木と呼ばれる栗や楢の柱を二本立て、注連(しめ)を張り、その下に松を立てていました。松の枝には藁で作った「やす」を掛け、中に餅を入れます。
柱が主体で、松のほうが添え物。折口はこの形が盆の聖霊棚に近いと見て、門松はもともと神を迎えるための棚だったのではないかと考えました。
置き場所は門口に限らなかった
『日本大百科全書』が挙げる場所は、門口のほかに外庭の正面・屋内の座敷の中央・床の間・神棚・土間。土地により家によりさまざまだと記されています。門という字を背負っていながら、門の前に立つとは限らない飾りだったわけです。
記録にあらわれる最も古い門松
いつ始まったのかは、はっきりしません。ただし言葉としての「門松」は、平安末の和歌にすでに現れています。
一一〇五年ごろの和歌に詠まれている
『精選版 日本国語大辞典』が門松の用例として引くのは、『堀河院御時百首和歌』(ほりかわいんおおんときひゃくしゅわか、一一〇五〜〇六年ごろ)の藤原顕季の歌です。平安の終わりから鎌倉のはじめには、すでに行われていたとする資料もあります。
山から「伐る」ではなく「おろす」と言った
折口は、松を山から切り出すことを伐るとは言わず「おろす」と呼び、さらに古くは「はやす」と言ったと述べています。はやすは「はなす」「はがす」と同じ系統の語で、霊魂が分かれることを意味したのだそうです。
この言い方に従うなら、松を迎えるとは分かれた霊を迎えること。松は神そのものではなく、神の乗り物でした。
松が選ばれた理由はどこにあるのか

常緑の木であること。これが松の最大の資格でした。ただし資格を持つ木はほかにもあり、松でなければならないという決まりは、実のところどこにもありません。
冬も緑のままの木に長寿を重ねた
寒さのなかで葉を落とさない木は、枯れない命のしるしとして扱われてきました。年の変わり目に立てる木として、冬に色を失わないことがそのまま資格になったのでしょう。
「松」と「待つ」を掛けた説明
神を「待つ」から松なのだ、という説明をよく見かけます。語呂の合う説明ですが、門松の古い形が松に限られていなかったことを考えると、松に落ち着いたあとで付け足された理屈の可能性もあります。こうした語呂合わせは、由来の説明としては後発になりやすいものです。
平安の貴族は正月に小松を引き抜いた
平安時代には、正月最初の子(ね)の日に野へ出て小松を引き抜く「小松引き(こまつひき)」という行事がありました。若菜を摘んで食べ、宴を開く日でもあります。松の芽も食べたと伝えられ、唐から伝わった行事とされます。
松の若さを身につけて邪気を払う。門松と直接つながるかは別として、松を正月に持ち帰る習慣は、宮廷にも確かにありました。
松でなければならない決まりはなかった
辞典が挙げる門松の材料は、松だけではありません。土地によっては、松を立てないことがむしろ決まりになっている場所さえあります。
楢、椿、柳、栗、榊も使われた
『日本大百科全書』が門松の材料として並べるのは、楢(なら)・椿・柳・栗・朴(ほお)・栃(とち)・榊(さかき)・樒(しきみ)・竹の九種類。松は表題にしかいません。折口も「其木は必しも一種ではなかつた」と書いています。
箱根権現の氏子は松を避けて樒を立てた
折口が挙げる例のひとつが箱根です。箱根権現の氏子は昔から竹も松も立てず、樒を立ててきました。理由として、権現が山を歩いていたときに松葉で目を突かれたからだと語られます。
もっとも折口自身は、この手の話を後から付けた合理的な説明にすぎないと見ていました。樒は今でこそ仏前の木ですが、昔は榊の一種として扱われていたのだそうです。
梅が門松に入らないのはなぜか
めでたい木といえば松竹梅。ところが門松の材料を並べた辞典の記述に、梅は出てきません。
松竹梅は中国から来た別の取り合わせ
松竹梅の三つは、中国の宋の時代に描かれた「歳寒三友(さいかんのさんゆう)」という画題がもとになっています。寒さに耐える三つを並べた絵の主題であって、正月に神を迎える印とは出どころが違うわけです。
正月飾りとしては、いまも顔を出す
とはいえ梅がまったく締め出されたわけでもありません。今の豪華な門松には梅の枝や葉牡丹が添えられますし、後で触れる高知の紙の門松には松と竹と並んで梅が刷られています。辞典の材料表に載らないまま、飾りの側では三つそろって顔を出す。この緩さが正月飾りらしいところでしょう。
竹はいつ門松に加わったのか

今の門松で最も目立つのは、三本の太い竹です。しかしこの竹は、門松の歴史では新参にあたります。
辞典が竹を書き始めるのは中世以降
『デジタル大辞泉』は門松の説明のなかで、中世以降は竹を添える場合が多い、と時期を区切って書いています。平安末に現れた門松は、数百年かけて竹を連れてきた勘定です。
絵に残る江戸の門松もばらばらだった
折口は江戸時代の絵についてこう述べています。葉のついたままの竹が松より高く立つものもあれば、松だけのものもある。さらに変わった形のものもあったらしい、と。竹が入っていても、位置も高さも家ごとに違いました。
江戸に大名が集まり、形が寄っていった
ばらばらだった形が全国でそろってきた理由を、折口は参勤交代に求めました。諸国の大名が江戸に集まったため、自然とひとつの形に近づいていった。あるいは当時いちばん勢力のあった家の真似だったかもしれない、とも付け加えています。
東京の門松は竹が中心で、松はあしらい
現在よく見る形について、折口は主役がどちらなのかをはっきり書いています。
今日東京で立てますのは、削いだ竹が中心になつて、それに松があしらはれてゐるのが本式とされてゐます。
地方には松が主役の形も残っていた
同じ講演で折口は、古い習慣を守る地方に残っている形も挙げました。松が主になってその根元に笹の葉を挿すもの、松だけを柱に結びつけるもの。そのうえで「一体門松は、竹が中心なのか、松が中心なのか」と問いを立てました。百年近く前から、答えは一つに決まっていなかったわけです。
『守貞謾稿』の武家屋敷には竹の添え木がない
江戸東京博物館の図書室が江戸期の風俗記録『守貞謾稿』(もりさだまんこう)を調べた回答によれば、武家屋敷や大店の飾りには竹の添え木がないものが多く、上部を斜めに切った竹を添える形は医師などに多い飾り方でした。今の定番が、当時は職業で偏っていたことになります。
竹の正体は注連縄を張る柱だったのか
では竹はどこから来たのか。折口は、奥三河で見た門神柱と今の門松を並べて考えました。
柱が竹に置き換わったという見立て
講演の結びで折口はこう書いています。今の門松は門神柱の柱が竹に変わり、その頭部が削がれたものと考えてよいようだ、と。京の大原や武蔵の秩父にも竹を二本立てて注連を張る風習があり、大原では注連縄に農具を吊したといいます。
この見方に立つと、竹は松と役割を争って加わったのではありません。もともと神を迎える棚の骨組みだったものが、素材を替えて残った。そう考えると、竹が松より高く立っていることにも説明がつきます。
竹の先が斜めなのはなぜか

斜めに削いだ切り口を「そぎ」、節のところで水平に切ったものを「寸胴(ずんどう)」と呼びます。そぎの由来としてよく語られるのは戦国武将の話ですが、これは伝承であって、史料で確かめられた話ではありません。
二つの形は、いま立っている土地まで含めて対照的です。
| そぎ | 寸胴 | |
|---|---|---|
| 切り口 | 先を斜めに削ぐ | 節のところで平らに切る |
| 多い土地 | 東京など徳川ゆかりの地 | 甲州(山梨県) |
| 語られる由来 | 家康が武田の首に見立てた | 斜めに切るのは縁起が悪い |
| 扱い | いずれも同じ戦の言い伝えで、裏返しの関係にある | 同左 |
徳川家康が始めたという言い伝え
三方ヶ原の戦いで武田信玄に敗れた徳川家康が、武田方から届いた句を読み替え、竹を斜めに切った門松とともに送り返した。そぎの起源としていちばんよく語られるのが、この話です。
「松枯れで武田首なきあした哉」という句
武田方が詠んだとされるのは「松枯れて竹たぐひなきあしたかな」。松平が枯れ、武田が並ぶもの無く栄える、という意味になります。徳川方はこれを「松枯れで竹だ首なきあしたかな」と読み替えました。松平は枯れず、武田の首が落ちる、と言い返した形です。
昭和のはじめには広く知られていた
折口も一九二八年の講演でこの句に触れ、松平と武田を諷したものだろうと述べています。少なくとも昭和のはじめには知られた話でした。ただし句が古くから語られていたことと、家康がそぎを始めたことは別で、後者を裏づける史料は見つかっていません。
山梨では今も平らに切る
同じ言い伝えは、山梨では逆向きに働きました。斜めに切るのは縁起が悪いとして避けられ、竹の先を平らに落とす形が「武田流」として残っています。
県庁と議事堂に立つ武田流の門松
練馬区立練馬図書館が調べた事例には、県庁と議事堂の正面玄関に武田流門松が立つという新聞記事が引かれています。竹(武田家)より松(家康の旧姓)を低く飾る慣習もあるそうです。郷土の資料『やまなしの民俗』にも、頭が平らに落としてある甲州の門松が記録されています。
長篠の戦いに由来すると書く本もある
東京側の説明も一つではありません。『知って合点江戸ことば』は斜め切りを長篠の戦いの故事に結びつけ、東京はもちろん御三家や親藩、譜代大名の地ではおおむね竹の頭が斜めに切ってあると記します。三方ヶ原と長篠、どちらの戦が引き合いに出されるかも揺れているわけです。
そもそも正しい形は決まっていない
東京の正しい門松の形を知りたい、という質問に、江戸東京博物館の図書室は「正しい」という判断は難しいと答えています。
大名屋敷の前には国もとの形が並んでいた
『年中行事大辞典』によれば、真ん中に立てる三本の太い孟宗竹(もうそうちく)は先端を斜めに切り落とすことが多いそうです。ただし直角に切りそろえる場合もあり、古くは真竹を用いたといいます。近世から近代の江戸・東京には実にさまざまな飾り方があり、諸大名の藩邸前には国もとの慣習をそのまま持ち込んだ門松が並んでいました。
いつ立てて、いつ下ろすのか

門松には、立ててよい日と避けられてきた日があります。もとをたどれば、山へ松を迎えに行く日が決まっていたことに始まります。
十二月十三日の松迎えから
正月用の松を切りに行くことを松迎え(まつむかえ)といい、十二月十三日に行う土地が多くありました。この日を正月の準備を始める日、正月事始めとする地域も広く見られます。
恵方の山なら他人の山でも切ってよかった
松迎えには、自分の山でなくても恵方(えほう)の山からなら自由に切ってきてよい、という習慣がありました。厳重にする土地では、松に神酒を注いで洗米を供え、柏手を打ってから切りました。唱え言をする土地もあります。年に一度だけ、方角が所有権に優先したわけです。
年男が松迎えから若水汲みまで受け持った
この役を担ったのが年男です。今では節分の豆まきの印象が強い言葉ですが、本来は正月の祭りを取り仕切る男子を指し、多くは家の当主が務めました。暮れの松迎えと注連縄張りから、元旦の若水汲み、年神への供物の上げ下ろしまでが持ち場です。
避けられてきた二つの日
十三日以降ならいつでもよいかというと、そうでもありません。避けられる日が二つあります。
二十九日を避けるのは「九」の音から
十二月二十九日も避ける日とされます。九の音が苦しみに通じるという語呂合わせで、理屈というより響きを嫌った忌み日です。ただしこちらは、後で触れる大晦日の言い方ほどはっきりした辞典の項目としては見当たりません。
大晦日に立てる「一夜松」は縁起が悪いとされた
大晦日に立てるものは「一夜松(いちやまつ)」。『精選版 日本国語大辞典』は、これを「縁喜あしし」として忌む俗信が広く分布していると記しています。神を迎える支度を前の晩に慌てて済ませる形になるためで、一夜飾りという呼び方で今も避けられます。
下ろした門松はどこへ行くのか
片づけた門松は、捨てるものではありませんでした。多くの土地では、小正月の火祭りで燃やすのが習いでした。
小正月の火祭りで焼かれる
左義長(さぎちょう)やどんど焼きと呼ばれる火祭りで、正月飾りは火にくべられます。迎えた神を煙とともに送り返す行事と説明されることが多く、迎える側の門松と送る側の火はひと続きです。
松の内の日付は地域で割れている
飾っておく期間は七日までとする地域と、小正月にあたる十五日や二十日までとする地域に分かれます。関東と関西で日付がそろわないのはこのためで、江戸を中心に短くなったと説明されます。
※ 松の内(まつのうち)とは、門松などの正月飾りを飾っておく期間のことです。
紙に印刷された門松が配られる県

山から松を迎え、正月が終われば火に返す。この流れが成り立たなくなったとき、門松は思い切った形に変わりました。紙に刷って玄関へ貼るという方法です。
高知では玄関に紙の門松を貼る
高知県では、松竹梅などが刷られた紙を真ん中で切り離し、玄関の左右に貼って飾ります。県内では正月の風物詩として定着していて、本物の門松と併用する家庭も少なくないそうです。
盆栽好きの社長が昭和二十七年ごろに考えた
考案したのは高知市の共和印刷の初代社長だと伝えられます。盆栽を愛した人で、正月が終わるたびに各家庭から門松の松が大量に捨てられるのを見るのが忍びなかったのだそうです。松林の保護と新生活運動の一環として、昭和二十七年ごろに作られました。
市の事業として五十年配られた
昭和二十九年に高知市の福祉課が採用し、昭和三十年から平成十六年まで市の事業として市内全戸に配布されました。今は高知市町内会連合会が引き継ぎ、県内およそ二十の市町村で全戸配布が続いています。図柄は毎年変わります。色は緑・うす緑・赤・金の四色だけ。
誰でも立てられる飾りではなかった
紙に刷ってでも飾りたい、という発想の裏には、かつて飾れなかった時代の記憶もあります。門松は身分によって制限された飾りでもありました。
金沢藩は町家の門松を許さなかった
金沢の郷土資料『昔の金沢』には、町家での門松の設置を禁じ、武家でも松を拝領した家にのみ許したという藩の規制が記録されています。飾りとして請け負う仕組みまであったといいます。玄関先の緑は、どこでも自由に立てられたわけではありませんでした。
由来が見つからない話も残っている
門松にまつわる説明には、調べていくと行き止まりになるものもあります。よく知られた話ほど、出どころがはっきりしません。
迎え飾りと出飾りの由来は見つかっていない
二番目に長い竹を門の内側に向けて置く形が迎え飾り、外側に向ける形が出飾り。招福や商売繁盛を願う、独り立ちや退院を願うといった説明が新聞記事などに見られます。ただし国立国会図書館が調べたところ、由来やいわれを解説する記述は見当たらなかったとされています。
「冥土の旅の一里塚」は一休の作とされるが
「門松は冥土の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし」。一休宗純の作として伝わる有名な歌ですが、辞典が挙げる実例の初出は談義本『根無草』(一七六三〜六九年ごろ)の後編です。一休の没後およそ三百年、江戸も半ばを過ぎてからの記録になります。年を重ねるたび死に近づくという皮肉を、めでたい飾りに向かって詠んでしまう。昔の人が正月と取っていた距離が、そこに出ています。
山から迎えた枝が、板に刷られた紙になり、それでも玄関の左右に貼られている。門松は形を変えながら、家の境目に何かを立てるという一点だけは手放しませんでした。松が主役だった時代も、竹が真ん中に立つ今も、変わっていないのはその場所のほうです。
この年末、玄関の前に置かれていたのは、松だったでしょうか。それとも竹だったでしょうか。
参考
- 折口信夫「門松のはなし」(青空文庫)
- コトバンク「門松」
- レファレンス協同データベース「山梨で見られる門松の竹は斜めではなく、平行に切られているらしい。なぜか。」
- 高知家の◯◯「高知のお正月の風物詩!『紙の門松』のルーツを探ってみた話」
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