「十八番」を「おはこ」と読むのは、市川團十郎(いちかわだんじゅうろう)家が家の芸「歌舞伎十八番」の台本を箱に入れて大切にしまっていたから、という説がいちばん知られています。ただし骨董の「箱書き」から来た説や、「箱入り」の略とする説もあり、辞典によって説明は違います。十八という数の理由も、実ははっきりしていません。
「おはこ」は箱にちなんだ当て読み

漢字からは出てこない読み方
「おはこ」という読みは、「十八番」の三文字からはどうやっても出てきません。音読みでも訓読みでもなく、意味のほうから当てた読み方です。漢字の側に手がかりが無いので、由来を知るには「箱」の話をたどるしかありません。
「おはこ」はもともと得意の芸を指す言葉で、その意味に「十八番」という字が後から重ねられました。読みと字がばらばらの道を通って一つになった語、と考えると分かりやすいはずです。
市川家が台本を箱にしまったという説
もっとも広く語られるのは、市川宗家が歌舞伎十八番の台本を箱に納め、秘蔵していたという説です。箱の中身が十八番なので、箱の名で中身を呼ぶ。そこから「十八番」に「おはこ」の読みが当てられた、という筋道です。
『広辞苑』と『語源海』の説明
国立国会図書館のレファレンス協同データベースによると、『広辞苑』は「箱に入れて大切に保存する意から」と説明します。歌舞伎十八番を市川家が秘蔵芸としたことにちなむ、という一言つきです。
『語源海』はもう少し踏み込み、演出などの秘伝書を入れた箱が呼び名の由来だとします。そのうえで「十八番」の字は、七代目團十郎が当たり芸を十八種そろえたことによる宛字(あてじ)だと書いています。
箱書き説と「箱入り」説はどう違う?

箱書きは本物を保証する署名
江戸時代、高価な書画や茶器は箱に納められ、その箱に目利きが「本物である」と書き記しました。これを箱書き(はこがき)と呼びます。箱を開けなくても、蓋の字を見れば品の素性が分かる仕組みでした。
この箱書きから「本物と認められた芸」の意味をこめて「おはこ」と呼んだ、とするのが箱書き説です。『暮らしのことば新語源辞典』は、台本を箱にしまった説とこの説を並べて載せる形です。
「箱入り」の略とする日本大百科全書
『日本大百科全書』の「おはこ」の項は、大切なものを箱に入れて保存する「箱入り」の略だと説明します。市川家が台本を箱入りで保存した話は「といわれる」として添えるだけで、筆者自身の見立ては別のところにあります。歌舞伎役者が得意の当たり芸を「十八番」と呼んで秘蔵したので、この字を当てたと見るのが妥当だ、というものです。
三つの説が見ている箱の違い
三つの説は、どれも箱から出発している点では変わりません。違うのは箱の何を見ているかです。中に入れた台本なのか、蓋に書かれた保証の字なのか。あるいは、しまっておくという行為そのものなのか。
得意の芸を「おはこ」と呼ぶとき、「折り紙つき」に似た響きがかすかに混じります。その手ざわりを説明しやすいのは箱書き説のほうかもしれません。
歌舞伎十八番は1832年の摺物から

襲名披露で配られた一枚の紙
箱の中身にあたる「歌舞伎十八番」が生まれた時期は、はっきり分かっています。天保3年(1832)3月、七代目市川團十郎が長男に八代目を襲名させたときのことです。七代目自身は海老蔵(えびぞう)に名を改めました。
披露の舞台は江戸の市村座で、演目は成田屋の看板『助六(すけろく)』。このとき贔屓(ひいき)の客に配られた摺物(すりもの)に、18の演目が初めて並べて掲げられました。
題名は「歌舞妓狂言組十八番」
摺物の題は「歌舞妓狂言組十八番(かぶききょうげんくみじゅうはちばん)」。のちに広まる「歌舞伎十八番」より、ずっと長い名前でした。並んだのは、初代・二代目・四代目といった歴代の團十郎が得意にした荒事(あらごと)の演目です。
※ 荒事(あらごと)とは、超人的な力を持つ主人公が豪快に暴れる江戸歌舞伎の演技の型のことです。初代市川團十郎が始めたとされ、市川家のお家芸になりました。
幼い当主を歴代と並べる狙い
八代目は文政6年(1823)生まれで、このとき数え10歳でした。まだ幼い当代を、名高い歴代の團十郎と同じ紙の上に並べる。江戸歌舞伎での市川宗家の格を改めて客に見せることが、あの摺物の役目だったと考えられます。
文化デジタルライブラリーの歌舞伎事典は、明治以降さまざまな俳優が「家の芸」を決めていくなかで、歌舞伎十八番をその最初と位置づけています。
名前が広まったのは『勧進帳』の看板

1840年、河原崎座での初演
8年後の天保11年(1840)3月、江戸の河原崎座で『勧進帳(かんじんちょう)』が初演されました。弁慶を七代目(当時は海老蔵)、義経を八代目團十郎、富樫を二代目市川九蔵が勤めています。
下敷きは能の『安宅(あたか)』です。詞章を借り、能舞台の姿と演出を写し、長唄を地にした新しい形の芝居でした。のちの松羽目物(まつばめもの)の先駆けとされています。
※ 松羽目物(まつばめもの)とは、能や狂言を歌舞伎に移した演目のことです。背景に能舞台の老松を描いた羽目板を使うことから、この呼び名がつきました。
看板に書かれた「歌舞伎十八番の内」
この初演の口上看板に、「歌舞伎十八番の内」と書き出されました。以後、演目の正式な題名には「歌舞伎十八番の内 勧進帳」のような角書き(つのがき)が添えられるようになります。
長い「歌舞妓狂言組十八番」から、短い「歌舞伎十八番」へ。呼び名が人の口に乗りやすい形に落ち着いたのは、この看板のおかげでした。
看板の「十八番」が「おはこ」になった
『世界大百科事典』は、看板に明記されたこの「十八番」が「おはこ」と呼ばれ、得意芸の意味でも使われるようになったと説明します。箱の説には触れず、看板という目に見える経路だけを書いているのが特徴です。箱の話と看板の話は、どちらかが誤りというより、言葉が広まる途中の別の場面を見ているのでしょう。
十八番にはどんな演目が並ぶ?

十八の題名と読み方
文化デジタルライブラリーの歌舞伎事典が挙げる18作品は次のとおりです。読みの難しい題が多いので、読み方を添えました。代々の團十郎が荒事を得意としたため、役のほとんどが荒事です。
- 暫(しばらく)・矢の根(やのね)・鎌髭(かまひげ)・勧進帳(かんじんちょう)・不動(ふどう)・七つ面(ななつめん)
- 鳴神(なるかみ)・助六(すけろく)・蛇柳(じゃやなぎ)・象引(ぞうひき)・押戻(おしもどし)・解脱(げだつ)
- 毛抜(けぬき)・景清(かげきよ)・嫐(うわなり)・関羽(かんう)・不破(ふわ)・外郎売(ういろううり)
今もよく上演されるのは一部だけ
現在の劇場でよくかかるのは『助六』『勧進帳』『暫』をはじめ、『鳴神』『毛抜』『矢の根』『外郎売』あたりといわれます。十八のうち半分にも届きません。なかでも『勧進帳』は七代目の書き下ろしでした。つまり「初代からの芸」をうたう十八番のうち、いちばん人気の一本は当時の新作だったことになります。
毛抜と鳴神は一つの芝居から
『毛抜』と『鳴神』は、もともと『雷神不動北山櫻(なるかみふどうきたやまざくら)』という長い芝居の一部でした。その場面を一幕ずつ独立させたものです。
同じ芝居から『不動』も十八番に入っています。一本の芝居から三つの番号が出ているのは、十八という数が演目の区切り方しだいで動くものだったことをよく示しています。
名前だけ残った演目の復活
『関羽』『蛇柳』のように、中身がはっきりしない演目も含まれていました。十八番は上演できる作品集というより、家の由緒を示す目録に近いものだったわけです。
そうした演目の多くは、明治以降に二代目市川左団次や市川三升(さんしょう。没後に十代目團十郎を追贈)らが、評判記や絵を手がかりに組み立て直して復活させました。
なぜ十八という数なのか?

辞典が並べる三つの説
『世界大百科事典』と『歌舞伎事典』は、十八に決めた理由を明らかでないとしたうえで、三つの説を挙げています。團十郎以前から特別な演目を「十八番」と呼ぶ習わしがあったという説が一つ目です。
二つ目は「十八界」「十八般」のように、十八がまとまりや代表を表す言い回しから来たという説。三つ目は、荒事の主人公の年齢と関わるという説です。
阿弥陀如来の第十八願にちなむ話
辞典の外では、仏教の数を持ち出す説明もよく聞かれます。阿弥陀如来(あみだにょらい)が立てた48の誓い「四十八願」のうち、18番目は念仏する人を必ず救うという誓いで、浄土教でとくに重んじられてきました。
そこから十八番が「いちばん大事なもの」の代名詞になった、というのがこの説です。ただ團十郎がこれを意識して数を選んだと示す史料は無く、後から結びつけた話と見るほうが無難でしょう。
武芸十八般の十八は「全部」の意味
武士の身につけるべき武芸を数え上げた武芸十八般(ぶげいじゅうはっぱん)も、よく引き合いに出されます。弓・馬・剣・槍などを並べた言い方で、数え方は時代や流派によってまちまちでした。こちらの十八は「とっておきの一つ」ではなく、「ひととおり全部」の意味です。同じ十八でも、第十八願とは向いている方向がまるで逆なのが面白いところです。
「得意なこと」の意味はいつ生まれた?

1837年の随筆はまだ芝居の話
『精選版 日本国語大辞典』は「十八番」に二つの意味を立て、それぞれに古い用例を添えています。一つ目は「歌舞伎十八番」の略で、用例は天保8年(1837)の随筆、三升屋二三治(みますやにそうじ)の『戯場書留(げじょうかきとめ)』です。
そこでは「十八番」は昔から歌舞伎狂言の言い習わしだ、と書かれています。摺物の5年後、言葉はまだ芝居小屋の内側にとどまっていました。
幕末の人情本では「得意」の意味に
二つ目の意味は「その人の最も得意とするもの」です。用例は人情本『春色江戸紫(しゅんしょくえどむらさき)』(1864〜68年頃)にある「例の十八番を言ってりゃア」という台詞でした。
二つの用例の間はおよそ30年。そのあいだに言葉は芝居の外へ出て、町の会話で使われるまでになっていたことが分かります。
寄席の持ちネタから口ぐせまで
『日本大百科全書』によると、「おはこ」は寄席芸人の得意芸にも使われて一般に広まりました。やがて、その人がよくする動作や口調の癖まで指すようになります。
「また始まった、彼の十八番だ」と言うとき、そこに褒める気持ちはあまりありません。得意という意味がすり減って、繰り返しそのものを指すところまで来たわけです。
劇場の外へ広がった十八番

外郎売の長台詞は滑舌練習の定番
十八番の一つ『外郎売』は、享保3年(1718)に二代目團十郎が江戸の森田座で初めて演じました。小田原名物の薬「外郎(ういろう)」を売る行商人の口上を、早口言葉だらけの長台詞に仕立てた芸です。
この台詞は今、歌舞伎とは別の場所でもよく使われています。アナウンサーや俳優、声優が滑舌と発声を鍛える練習文として定番になりました。
新歌舞伎十八番は32種とも40種とも
七代目は晩年、自分の得意芸を集めた「新歌舞伎十八番」を立てようとしました。ところが『虎の巻』『蓮生物語(れんしょうものがたり)』の2作を選んだところで世を去ります。
遺志を継いだ九代目は、自分が初演して手応えのあった作品を次々に選びました。数は18に収まらず、32種とも40種ともいわれます。『鏡獅子(かがみじし)』『船弁慶(ふなべんけい)』『紅葉狩(もみじがり)』などが並び、この時点で十八はもう数ではなく「得意」を表す看板でした。
「うちの十八番」は摺物から始まった
市川家に続いて、明治以降は多くの俳優が自分の家の芸を定めました。演目を束ねて看板にするやり方は、天保3年の摺物一枚から始まった作法です。カラオケの持ち歌も、店の名物料理も、私たちは気軽に「十八番」と呼びます。その出発点は、江戸の芝居小屋で贔屓の客に配られた一枚の紙でした。
十八番の中には、名前だけが伝わった演目もあります。数の理由は分からず、読み方の由来も一つに決まっていません。それでも二百年近く使われ続けてきたのは、中身を確かめなくても「大事なものが入っている」と信じられる箱だからでしょう。自分の十八番を口にするとき、私たちが開けているのも案外その種の箱なのかもしれません。
参考
- 日本芸術文化振興会 文化デジタルライブラリー「歌舞伎事典:歌舞伎十八番」
- コトバンク「歌舞伎十八番」(日本大百科全書・世界大百科事典)
- コトバンク「十八番」(精選版 日本国語大辞典ほか)
- 国立国会図書館 レファレンス協同データベース「『おはこ』という言葉の意味と語源が知りたい。」
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