お年玉はなぜ子どもがもらうのか、江戸の年玉は貝杓子や鼠半紙

歴史と変遷の話
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お年玉のもとは、お金ではなく餅でした。正月に年神(としがみ)を迎えるため、家々は餅を供えます。その餅を家長が下ろして家族に分け与えたもの。それが年玉のはじまりだと考えられています。

配るのが大人で、受け取るのが子どもなのにも理由があります。年玉はもともと、上の立場の者から下の者へ渡す贈り物でした。訪ねてくる子どもを福の神と見て、その子に施すと家によいことが返ってくる。そう考えたからだとする説もあるようです。

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年玉の「玉」は何を指しているのか

注連縄と榊が置かれた神棚のイラスト

「玉」の正体については、辞書のあいだで説明が分かれます。ただし分かれてはいても、「年のはじめに与えられるもの」という点は変わりません。

辞書は「年の賜物」と「年神からの賜物」を並べている

デジタル大辞泉は年玉を「年の賜物(たまもの)の意」と説明します。改訂新版世界大百科事典はどうでしょうか。こちらは年の賜物とする説に触れたうえで、年神からの賜物とする民俗学的な解釈が有力だとしています。二つを並べたとき、違いは「誰がくれるのか」の一点にしぼられました。

説「玉」の中身そう書いている辞典
年の賜物年のはじめの贈り物そのものデジタル大辞泉
年神の賜物(年魂)年神が人に分け与える魂改訂新版世界大百科事典、イミダス2018

「年魂」と書くと、餅との距離が近くなる

イミダス2018は、年玉が本来は「年(歳)魂」を意味したとしています。年神を餅と料理で歓待すると、年神はその代償に「魂=玉=たま」を与えてくれる。その玉が餅そのものなのだから、家父長は神棚に供えた年玉を家族へ分けた、という筋道です。

年神とは、いくつかの神を束ねた民間の信仰

年神は一柱の有名な神様ではありません。一年を守る神、農作を守る神、家を守る祖先の霊。この三つを融合して一つの神とする民間信仰だと説明されます。だから門松や鏡餅と同じ場所に、お年玉の話も並ぶわけです。

※ 年神(としがみ)とは、正月に家々を訪れるとされる神のことです。歳神とも書きます。

供えた餅を下ろして分けると、それが年玉になる

日本大百科全書は、年玉の品が各地でさまざまだとしたうえで、全国的には餅がその中心であったと書いています。餅は供えて終わりではありません。下ろして食べるところまでが一続きの行事でした。

家族の数だけ小餅をつくる家がある

同書によれば、家族の数だけ小餅をつくって年棚(としだな)にあげる。それを雑煮にして食べる慣習は、いまも各地に残っているとされます。人数ぶん用意するというところに、「ひとりに一つずつ配る」という今のお年玉の形が見えてきませんか。

佐渡や対馬には「オウツリ」という言い方がある

ブリタニカ国際大百科事典は、佐渡や対馬などで一度神に供えたもののオウツリを年玉と呼ぶ例を挙げています。神に差し上げた物が、形を変えて人の手に戻ってくる。その折り返しの部分に、わざわざ名前が付いているわけです。

餅を食べて年を取る、という数え方

年玉が魂だとすると、それを受け取る行為は「年を一つ取る」ことと重なります。昔の数え年は、誕生日ではなく正月に全員がそろって年を取る仕組みでした。

出雲には、逃げても年を取るという言い伝えがある

改訂新版世界大百科事典は、出雲の海岸部に伝わる言い伝えを紹介しています。大晦日に年神が年玉を投げつけるので、いくら隠れても年を取るのを免れない。もらう物というより、当たってしまう物として語られているのが面白いところでしょう。

民俗事典は「本来は供物」と言い切っている

『日本民俗事典』の「としだま」の項は、年玉を本来は供物としています。そのうえで、年のはじめの食物の贈答と分配、すなわち共食に重要な意味があったと記します。神と同じ物を食べることで、同じ力を体に入れる。そういう発想が根にあるわけです。

配るのが大人で、もらうのが子どもなのはなぜか

藁蓑をまとった赤鬼と青鬼のなまはげのイラスト

年玉は、渡す向きが決まっている贈り物です。上の立場の者から下の者へ流れる。この一方通行が、いまも崩れずに残っています。

お歳暮とは向きが逆になっている

千葉県立中央図書館がまとめたレファレンス事例は、年玉の特徴を「お歳暮とは逆に、上位(目上)の者から下の者へと贈られる」と整理しました。暮れの贈答は下から上へ。年明けの年玉は上から下へ。同じ年末年始でも、矢印が反対を向いています。

相手は子どもだけではなかった

年玉を「子供や奉公人・出入りの者に与える金品」と説明するのは、デジタル大辞泉です。奉公人も出入りの職人も、その家にとっては下の立場でした。子どもだけが受け取り手になったのは、かなり後の話になります。

訪ねてくる子どもを福の神と見る考え方

では、なぜ子どもが残ったのでしょうか。先の千葉県立中央図書館の回答は、一つの説を挙げています。訪れる子どもを福の神とみなして、これに施すと余慶(よけい)が得られるとする考えからきている、というものです。

もてなす相手が、神から子どもへずれていく

年神を迎えて餅を供え、その餅を家長が分ける。この流れの終点にいるのが子どもです。神を歓待した見返りが子どもの手に渡るうち、歓待する相手そのものが子どもへずれていった。そう見ることもできそうです。

甑島では、いまも神が直接子どもに餅を渡す

鹿児島県の下甑島(しもこしきしま)には、この形がそのまま残っている行事があります。「甑島(こしきじま)のトシドン」です。

大晦日の夜、子どものいる家を回る

薩摩川内市の説明によれば、トシドンは十二月三十一日の夜に家々を訪れる祝福の神です。長い鼻と大きな口の面をかぶり、藁蓑(わらみの)をまとって現れます。子どもを叱り、諭したのち、年餅(としもち)と呼ばれる大きな餅を与えて去っていく。訪ねる先は、三歳から八歳の子どもがいる家です。

国の指定は一九七七年、ユネスコには二〇〇九年

甑島のトシドンは、昭和五十二年五月十七日に国の重要無形民俗文化財に指定されました。二〇〇九年にはユネスコ無形文化遺産の代表一覧表に記載されています。二〇一八年には秋田のナマハゲなどと合わせ、「来訪神:仮面・仮装の神々」として拡張記載されました。文化庁の報道発表によれば、この拡張には事情があります。男鹿のナマハゲが単独で提案された際に、先に記載されていた甑島のトシドンとの類似を指摘され、「情報照会」の決定を受けたのです。ナマハゲの登録を阻んだのは、同じ来訪神の先輩でした。改訂新版世界大百科事典も、トシドンが配る丸餅を年玉と呼ぶ例として甑島を挙げています。

江戸の年玉には何が配られていたのか

閉じた状態の扇子のイラスト

江戸時代の年玉は、子どもへのこづかいではありませんでした。新年に取り交わす贈り物すべてが年玉です。しかも、渡す人の身分や商売によって品物が決まっていました。

『日次紀事』は「新年に贈り合う物は全部、年玉」と書いた

京都の年中行事をまとめた『日次紀事(ひなみきじ)』に、こんな一文があります。「凡そ、新年互に贈答之物、全て年玉と謂ふ」。新年にやりとりする物は何であれ年玉だ、と言っているわけです。近畿大学中央図書館がまとめたレファレンス事例が、この箇所を引いています。

一六七六年刊、出版後すぐに絶板

『日次紀事』は黒川道祐(くろかわどうゆう)が編んだ十二巻十二冊の年中行事解説書で、一六七六年(延宝四年)の刊です。中国風の故事来歴を並べるのではなく、当時の風俗や人情を書き込んだところに特徴があります。ところが百科事典マイペディアによれば、この本は出版後すぐに絶板処分を受けました。

「年玉」という言葉自体は、さらに古い

古い用例として精選版日本国語大辞典が引くのは、慶長十二年(一六〇七年)の高野山文書でした。年始に贈り物をする風習は、室町時代にはすでに盛んだったようです。太刀や金子(きんす)、硯(すずり)、酒などが用いられたといいます。

身分と商売で、贈る品が決まっていた

近世に入ると、年玉の品はいっそう固定化します。武士は太刀、商人は扇子、医者は丸薬。日本大百科全書には、年玉銀・年玉扇・年玉薬(年玉丸)といった呼び名まで並んでいます。贈る人の立場と、その手にあった品を対応させたのが下の表です。

時代・立場年玉として贈られた物
室町時代太刀、金子、筆、硯、酒、魚。男児には凧、女児には羽子板や紅箱
近世の武士太刀
近世の商人扇子
近世の医者丸薬(年玉丸)
江戸の町家貝杓子、鼠半紙、塗箸、粗製の扇
明治以降手ぬぐい、略暦

男児には凧、女児には羽子板

百科事典マイペディアは、室町時代の年玉として男児には凧、女児には羽子板や紅箱(べにばこ)が贈られたと記します。子ども向けの年玉が遊び道具だった時期があるわけです。現金より、よほど正月らしい眺めではないでしょうか。

町家の年玉は貝杓子や鼠半紙だった

一方、江戸の町家がやりとりした年玉は、ずいぶん質素です。精選版日本国語大辞典が挙げるのは、貝杓子(かいじゃくし)や鼠半紙(ねずみばんし)、塗箸や粗製の扇。どれも粗末な物ばかりだった、と書かれています。

「ばらばら扇」という呼び名まである

『江戸の庶民生活・行事事典』には、江戸中期以降の年玉の品として「ばらばら扇」「鼠半紙」「塗箸・扇子箱・貝杓子」が挙がります。鼠半紙は灰色がかった安価な紙で、貝杓子は貝殻を柄に付けた杓子。高価な物を贈り合う行事ではなく、数を配るための行事だったことがうかがえます。

明治に入ると手ぬぐいと略暦になる

明治以降は手ぬぐいや略暦(りゃくれき)が贈られるようになった、と精選版日本国語大辞典の語誌欄にあります。暦を配る風習は、今の企業カレンダーへつながっていくのでしょう。年玉の系譜は、思いのほか近くまで伸びているようです。

餅はいつ、お金に変わったのか

きらきら光る小判のイラスト

ここがいちばん知りたいところですが、はっきりした年は決まっていません。分かっているのは、最初に現金を受け取ったのが子どもではなかった、ということです。

先に現金になったのは奉公人の年玉

イミダス2018によれば、江戸時代の商家では奉公人への年玉に変化が起きました。餅の代わりに金銭が渡されるようになったのです。やがて正月に金銭を分け与える習慣が定着したと考えられる、と同書は続けます。子どもへのこづかいは、その延長線上にあるという見立てでしょう。

年玉が、家の外へ出ていくようになった

供えた餅を分ける行事は、その家の中で完結していました。ところが商家の奉公人は住み込みで、いずれ店を出て別の家を構えます。家の内側で回していた分配が、外へ持ち出せる形を求めた。そう考えると銀への置き換えは無理のない流れですが、ここは資料が理由まで書いていない部分でもあります。

一茶は、せがまれる側として詠んでいる

新年の季語としての用例には、小林一茶の句がデジタル大辞泉に引かれています。「年玉のさいそくに来る孫子かな」。江戸後期には、子や孫が年玉を催促しに来る光景がすでにあったことになります。

切り替わった時期は、資料でも特定されていない

「江戸時代から」「昭和三十年代から」と書かれることの多い論点ですが、裏づけは意外に薄いものです。千葉県立中央図書館は、百科事典や年中行事辞典など八点を当たってこの質問に答えています。それでも回答に、金銭へ変わった時期は書かれていません。

餅と現金は、長いあいだ並んで存在していた

江戸の商家に現金の年玉があった一方で、日本大百科全書は全国的には餅が中心だったと書きます。矛盾ではありません。都市の商家で始まった現金が、地方の餅を置き換えるまでに長い時間がかかった。そう読むのが自然でしょう。

消えたのは「下ろす」という手順

現金になって失われたものが一つあります。供えてから下ろす、という手順です。餅は神棚を一度通ってから人の手に渡りました。封筒の中の紙幣は、どこも経由しません。それでも「上から下へ」という向きだけは、そのまま残っています。

ポチ袋は、もともと誰に渡す袋だったのか

黒い着物を着た芸妓のイラスト

お年玉といえばポチ袋ですが、この袋は子どものために生まれたものではありません。「ぽち」という言葉の出どころをたどると、行き着く先は正月ではなく花街です。

「ぽち」は京阪で芸妓に渡す祝儀のこと

「ぽち」の語義の一つとして精選版日本国語大辞典が挙げるのは、芸妓(げいぎ)や茶屋女などに与える祝儀です。京阪地方でいう言い方だ、との註記が添えてあります。デジタル大辞泉も、関西地方で雇い人や芸者への心づけを指すと書いています。

用例は一八三九年の歌舞伎にさかのぼる

同辞典が挙げる用例は、天保十年(一八三九年)の歌舞伎『傾城浜真砂(けいせいはまのまさご)』の一節です。「そりゃ得心する様に、最前ぽちが切れてあるぢゃて」。チップが渡してある、という意味で使われています。

「これっぽっち」由来説は辞書では確かめられない

ぽち袋の語源として、「これっぽっち」からきたとする説が広く紹介されています。ただ、辞書の項目としてその説明を確かめることはできませんでした。辞典が載せているのは、小さい点という語義と、京阪の祝儀という語義の二つだけです。

袋としての用例は昭和に入ってから

精選版日本国語大辞典は、ぽち袋を「心付けを入れる袋」と説明します。用例に挙がるのは黒島伝治『その手』(一九二八年)の一節。「今度はポチ袋の五十銭を呉れる番だ」。昭和初期の五十銭が、袋に入って動いていたわけです。

裸で渡さないのは、心づけの作法から

心づけは、金額そのものより渡し方が問われる贈り物です。むき出しの硬貨を手渡すのは無粋なので、小さな紙に包む。その包みが袋の形に整ったものがポチ袋でした。子どもに現金を渡す場面へ、この作法ごと持ち込まれたことになります。

いまのお年玉に、税金はかかるのか

「税務署」と書かれた建物のイラスト

現金である以上、気になるのが贈与税です。常識の範囲のお年玉に、贈与税はかかりません。国税庁が非課税の財産として、はっきり挙げています。

国税庁は「年末年始の贈答」を非課税に挙げている

国税庁のタックスアンサー「贈与税がかからない場合」は、非課税となる財産を並べています。その八番目にあるのが、次の一項です。

個人から受ける香典、花輪代、年末年始の贈答、祝物または見舞いなどのための金品で、社会通念上相当と認められるもの

条件は「社会通念上相当」であること

非課税の理由は「お年玉だから」ではありません。世間一般の感覚に照らして相当な額かどうか、という一点です。したがって金額が常識を大きく超えれば、年末年始の贈答ではなく、ふつうの贈与として扱われることもありえます。

※ 贈与税とは、個人から財産をもらったときにかかる税金のことです。一年間にもらった合計額から、基礎控除額の百十万円を差し引いて計算します。

額が大きくなると、性格が変わってしまう

お年玉の名目で毎年まとまった額を渡す場合は、注意が要ります。贈与税は一年間にもらった合計で見るため、複数の親族から受け取る子どもは合算されるからです。判断に迷う額なら、税務署や税理士に確かめるのが確実でしょう。

もとは餅だったことを思えば、筋は通っている

非課税とされる理由を、由来の側から眺めると腑に落ちます。年玉はもともと、家や地域の中で回していた供物の分け前でした。財産を移す行為ではなく、行事の一部だったわけです。「社会通念上相当」という線引きは、その性格をいまも守っているように見えます。

投げつけられる年玉と、絶板になった本

糸でとじられた和綴じの本のイラスト

最後に、資料をたどるうちに出てきた細かい話をいくつか。どれも今のお年玉とは結びつきにくく、それでいて由来を考えるときには効いてくる断片です。

年神は、隠れている子どもにも年玉を当てる

出雲の海岸部に伝わる話をもう一度。大晦日に年神が年玉を投げつけるので、いくら隠れても年を取るのを免れない。年玉がうれしい贈り物ではなく、避けられない出来事として語られています。数え年という仕組みを、これほど短く言い表した言葉もそうそうないでしょう。

年中行事を書いた本が、発売直後に止められた

『日次紀事』は、年玉という語が新年の贈答全般を指していたことを示す資料です。その本が出版後すぐ絶板処分を受けたと、百科事典マイペディアは記します。民間の習俗まで積極的に採録したことが、当時は具合が悪かったのかもしれません。おかげで江戸前期の京都の正月が、文字になって残りました。

トシドンの面は、シュロの皮とソテツの葉でできている

薩摩川内市の説明によれば、トシドンの恐ろしい顔はシュロの皮やソテツの葉で作られます。家に入るときの呼びかけは「おるか、おるか」。子どもの名前を呼び、障子を開けさせてから上がり込みます。年玉のいちばん古い姿が、いまも大晦日の夜に歩いているわけです。

元日の朝、子どもが受け取るのは白い封筒です。中身は紙幣で、神棚を通ってきたわけでもありません。それでも渡す手つきには、供えた餅を下ろして家族に配っていた頃の順番が、そっくり残っています。上から下へ、ひとりに一つずつ。年が明けるたび、家の中でいちばん小さな人のところへ、いちばん最後にそれは届きます。

参考

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