盆踊りの「踊り」は、もともとお盆とは別のところで生まれました。平安から鎌倉にかけて僧たちが広めた念仏の踊りが先にあり、それが室町時代ごろまでに先祖を迎えて送るお盆の行事と結びついたとされます。そこへ明治の禁止令と大正の立て直し、昭和の東京音頭が重なって、いまの櫓(やぐら)を囲む形ができあがりました。
盆踊りのもとは念仏を唱える踊り

空也が京の市や辻で始めたとされる
踊念仏(おどりねんぶつ)は、鉦(かね)や太鼓を打ち鳴らし、念仏を唱えながら踊る仏教の行です。始まりとされるのは平安時代中期の僧・空也(くうや)で、京の市や辻で人々に念仏を勧めた人物でした。寺の奥ではなく、人の行き交う往来が最初の舞台だったことになります。
六波羅蜜寺ではいまも12月に踊る
空也が開いた京都の六波羅蜜寺(ろくはらみつじ)には、空也踊躍念仏(くうやゆやくねんぶつ)が伝わっています。勤められるのは毎年12月13日から大晦日の夜まで。国の重要無形民俗文化財にもなっている行事です。夏ではなく冬の行事だという点に、踊念仏とお盆がもとは別の話だったことがよく表れています。
一遍はどこで踊り始めた?

1279年、信濃の小田切の里で始まった
踊念仏を各地へ広めたのは、鎌倉時代中期の僧・一遍(いっぺん)です。佐久市の文化財解説によれば、一遍は弘安2年(1279年)に信濃の佐久郡伴野荘(ともののしょう)を訪れ、小田切(おたぎり)の里で踊り念仏を始めました。そこから佐久の各地で、同じ踊りの行儀が行われるようになったといいます。
跡部の踊り念仏に残る古い姿
その古い形をいまに伝えるのが、佐久市跡部(あとべ)の西方寺で行われる「跡部の踊り念仏」です。棺台と同じ形の道場に鉦を胸につけた踊り手が交替で入り、太鼓方を中心に回りながら踊ったり跳んだりします。2000年には国の重要無形民俗文化財に指定されました。時宗の踊り念仏をいま演じられるのは、ここだけだとされています。
時宗の広がりとともに各地の村へ
一遍の踊りは、念仏の札を配りながら全国を巡る布教とひと組でした。東京国立博物館が持つ『一遍聖絵(いっぺんひじりえ)』巻第七は、京都での布教が大いににぎわった様子を描いた巻です。一遍が開いた時宗(じしゅう)が広がるにつれ、踊念仏も各地の村へ入っていきました。
お盆の七月十五日はどこから来た?

「盂蘭盆」の語源には二つの説がある
お盆の正式な名前は盂蘭盆会(うらぼんえ)です。よく知られているのは、サンスクリット語のウランバナ(逆さに吊るされる苦しみ)を漢字で写したという説。一方で、霊魂を意味するイラン系の言葉ウルバンが元だとする説もあり、決着はついていません。
目連の説話が日付を決めた
日付のもとになったのは『盂蘭盆経』という経典です。釈迦の弟子の目連(もくれん)が、飢えに苦しむ世界に落ちた母を救おうとして、七月十五日に僧たちへ供養するよう教えられる話が語られています。この経典がいつどこで成り立ったかについては、異説が多いとされます。
日本の記録は606年と657年
最初の手がかりは『日本書紀』です。推古天皇14年(606年)の条に、寺ごとに四月八日と七月十五日の斎(さい)を設けたという記事が見えます。斉明天皇3年(657年)には盂蘭盆会を設けた記録があり、本格的な始まりはこの年とされます。このころは宮中と寺の行事で、まだ誰も踊っていません。
念仏の踊りはいつ盆と結びついた?

村の行事に溶けて先祖を送る踊りに
山川出版社の日本史小辞典は、時宗を中心に中世から流行した念仏踊が村の信仰行事と結びつき、盆の供養の踊りのもとになったと説明しています。迎えた先祖の霊を、踊りでにぎやかに送り返す。小学館のデジタル大辞泉も、盆踊りは本来そうした行事だったといわれると記しています。
室町以降、念仏の踊りは芸能になった
室町時代に入ると、踊念仏は民衆のあいだで芸能へと姿を変えていきます。京都の壬生狂言(みぶきょうげん)や六斎念仏(ろくさいねんぶつ)も、この流れから生まれたものです。信仰の行から、見て楽しむ芸へ。盆踊りもちょうどこの変わり目の上にあります。
風流が加わって見せる踊りになった
室町時代の盆踊りは、伊勢踊や小町踊といった流行の踊りも取り込み、娯楽の色を強めました。着飾った衣装や作り物で人目を驚かせる趣向は風流(ふりゅう)と呼ばれます。歌や笛・太鼓・鉦に合わせて踊るこの気風が、各地の盆踊りに受け継がれていきました。
輪になる踊りと練り歩く踊り
盆踊りの多くは、櫓を囲んで輪になって踊ります。これに対して徳島の阿波踊りは、列を組んで大通りを踊り進む行列型です。同じ盆踊りという名前でも、形の出どころは一つではありません。
江戸の盆踊りはどんな姿だった?

郡上踊は藩主の催しが始まりと伝わる
岐阜県郡上市の郡上踊(ぐじょうおどり)は、寛永年間(1624〜44年)に藩主の遠藤慶隆(よしたか)が「士農工商の融和を図る」ために催したのが始まりと伝わる踊りです。いまも太鼓や笛・三味線に合わせ、下駄を踏み鳴らして踊ります。曲も振りも種類が多く、土地の色が濃い盆踊りです。
七七七五の口説き節で物語を歌った
江戸時代には、七七七五の音の並びをくり返す口説き節(くどきぶし)に合わせた踊りが広まりました。同じ節を何度も回すので、長い物語でも区切りなく歌い継げる節です。
西馬音内の盆踊は「亡者踊」とも呼ばれる
秋田県羽後町の西馬音内(にしもない)の盆踊では、女性の踊り手が彦三頭巾(ひこさずきん)という黒い頭巾で顔を隠します。この姿は亡者をかたどったものだという言い伝えがあり、「甚句」の踊りは亡者踊とも呼ばれています。盆に精霊とともに踊る供養の踊りの面影を、いまに残す例です。
明治の禁止令は何を禁じた?

岐阜県では1874年に「無益」な「悪習」とされた
明治時代、欧化を進める政府のもとで盆踊りは風紀を乱すものとされ、各地で禁じられました。岐阜県では1874年(明治7年)に禁止令が出され、盆踊りは「無益」な「悪習」と書かれています。1882年には高山警察署が豊年踊りを禁じる通達を出し、地元の新聞にも載りました。
禁じられても踊りは戻ってきた
人々は踊りを手放しませんでした。通達から5年後の1887年(明治20年)、郡上では地元の人々が自分たちで「川崎踊」を踊り始めます。新聞には、女装や男装に天狗など思い思いの扮装で加わったと書かれています。この「川崎踊」は、いまも郡上踊の演目の一つに数えられる踊りです。
大正の保存会は踊りをどう変えた?

警察署長の干渉と大火が立ちはだかった
郡上踊を残そうとする動きは、大正の半ばに始まります。ところが1918年(大正7年)、八幡警察署長が踊りに大きな干渉を加えました。富山から広がった米騒動が町に及ぶのを恐れ、人の集まる踊りを押さえつけたと考えられています。翌1919年には町を焼く大火があり、人々は3年ほど盆踊りを控えました。
1923年、踊りを7種に絞って承認を得た
保存会を組織したのは、踊りに熱心だった神谷治兵衛と堀口鉄吾です。郡上郡の消防協会長を会長に迎え、踊りの種類を川崎・さわぎ・松坂・三百・甚句・猫の子・ヤッチクの7種に限りました。風紀の取り締まりにも努めると約束し、1923年(大正12年)7月に新しい署長から承認を得ています。
観光案内などでは保存会の結成を1922年とすることが多いものの、当時の会議録が承認を記しているのは1923年です。組織づくりと承認のあいだに、1年ほどの開きがあったと見るのが自然でしょう。
歌詞を選び直して「健全な娯楽」に
保存会は卑わいな歌詞を除き、土地の名所や暮らしを歌う歌詞に入れ替えました。顧問には郡長・警察署長・町長が名を連ね、踊りは町公認の娯楽になります。中京大学の研究は、この「保存」を本来の要素を削って時代に合わせた、つくられた伝統文化でもあったと評しています。
東京音頭が盆踊りの景色を変えた

1932年、日比谷で丸の内音頭が踊られた
1932年(昭和7年)の夏、丸の内の飲食店組合が日比谷公園で盆踊りを開きました。そろいの浴衣さえあれば誰でも加われる催しで、そこで踊られたのが「丸の内音頭」です。翌1933年の会場では、広場の中央に三階建ての櫓が組まれました。
ビクターが「東京音頭」と改めて売り出した
人気に目をつけたビクターは1933年7月、歌詞を東京全体に広げた「東京音頭」として発売します。営業部員だった八木沢俊夫の回想によれば、各地の盆踊りへ電気蓄音機を持って出かけ、櫓の上で踊り方を教えたそうです。売れた枚数には諸説ありますが、内務省の記録からも10万枚を超えたのは確かです。
古い盆踊りが押しのけられた土地もあった
東京音頭は全国で踊られ、それまで盆踊りの無かった土地にも踊りの輪ができました。当時の記録には、房州勝浦で古い盆踊りが東京音頭に押されて廃れかけたとあります。同じ音源が配られれば、どこでも同じ曲・同じ振りで踊れる。土地ごとに違って当たり前だった踊りが、ここでそろい始めました。
2022年、風流踊としてユネスコに登録

41件に郡上踊と西馬音内の盆踊も入った
2022年11月30日、「風流踊(ふりゅうおどり)」がユネスコの無形文化遺産に記載されました。各地の41件をまとめた登録で、郡上踊も西馬音内の盆踊もその中に入っています。人目を引く衣装や作り物で踊る室町の「風流」の気風が、登録の名前にそのまま残ったわけです。
郡上の徹夜踊りは8月13日から16日
郡上踊は7月中旬から9月上旬まで町のどこかで踊られ、山場は盂蘭盆にあたる8月13日から16日の徹夜踊りです。下駄の音を響かせて夜通し踊るこの4日間には、近年は約20万人が訪れるとされています。
七月十五日という日付は飛鳥時代の宮中から、跳ねて踏み鳴らす動きは平安と鎌倉の念仏から来ました。華やかな衣装は室町の風流、そろった振りと櫓の上の音頭は昭和のレコード会社が持ち込んだものです。起源を一つに絞りにくいのは、出どころの違うものが夏の夜の輪の中で重なってきたからでしょう。それでも順番でいえば、お盆より先に踊りがありました。
参考
- 佐久市「跡部の踊り念仏」(指定文化財)
- 文化遺産オンライン「郡上踊」
- 伊東佳那子・來田享子「大正期の盆踊り復興に関する歴史的研究」(中京大学体育研究所紀要 第35巻、2021年)
- 刑部芳則 論文(日本大学商学部『商学研究』第31号・昭和初期の新民謡と東京音頭)
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