鏡餅の「鏡」は、昔の丸い銅鏡のことです。顔を映すガラスの鏡ではなく、青銅を円く磨いた祭りの道具を指し、丸く平たい餅の形がそれに似ていることから名がつきました。上に載る橙(だいだい)は、熟しても実が枝から落ちにくい果物。その性質を「代々」に掛け、家が続くことを願う縁起物として載せられてきました。
「鏡」は丸い銅鏡の形から来た名前

昔の鏡は青銅の円盤だった
いま思い浮かべる鏡は、ガラスの裏に金属の膜を付けた平らな板です。古い時代の鏡はそうではなく、青銅を円く鋳造して表面をひたすら磨いたものでした。百科事典の多くも、鏡餅の名は昔の金属鏡の丸く平たい形からの連想だと説明しています。名前が指しているのは用途ではなく、まず「形」だったわけです。
銅鏡は化粧より祭りの道具
銅鏡は身だしなみの道具である前に、神を祀る場で使われる品でした。光を跳ね返す円盤は太陽になぞらえられ、神社では御神体として祀られている鏡もあります。餅をその形に整えて供えるのは、神聖な道具の姿を借りて神を迎える支度だったと考えると分かりやすいでしょう。
平安時代の呼び名は「餅鏡」
『源氏物語』初音(はつね)の巻には、新年の場面に「歯固めの祝ひして、もちゐかかみをさへとりよせて」という一節があります。「もちいかがみ」と語順は逆でも、餅と鏡を結びつける発想は千年前にはすでにありました。
ここに出てくる歯固め(はがため)は、正月に堅い物を食べて長寿を願う宮中の行事です。三が日の朝には鏡餅のほか大根や魚、鹿や猪の肉を盛った膳が天皇に供えられたとされます。鏡餅は最初から単独の主役だったのではなく、祝い膳の一品として始まりました。
三種の神器になぞらえる見方もある
鏡餅ひと揃いを三種の神器に重ねる説明もよく知られています。餅が八咫鏡(やたのかがみ)、橙が八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)、串柿が天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)という割り当てです。串柿の産地である和歌山県かつらぎ町も、串柿を「剣」に見立てたものと紹介しています。
とはいえ、これは後から加わった見立てと受け取るのが無難です。スーパーの小さな鏡餅には串柿の付かないものも多く、三点が揃わなくても正月飾りとして欠けているわけではありません。
鏡餅は誰に供える餅なの?

正月に家を訪れる年神さま
鏡餅は、新年の神さまである年神(としがみ)を迎えるための供え物です。農林水産省の解説では、鏡もちを供える風習は室町時代に始まったといわれています。年神は一年の実りや幸せを運んでくる神とされ、門松が訪ね先の目印なら、鏡餅は滞在中の座席にあたる存在でしょう。
神が宿る「依代」という考え方
姿の見えない神が一時的に宿る器のことを、民俗学では依代と呼びます。鏡餅のほか、木や岩や御幣(ごへい)も依代になりうるもの。鏡餅を捨てずに食べるのが大切とされるのも、年神の力が宿った餅をいただくという考え方から来ています。
※ 依代(よりしろ)とは、神霊が一時的に宿るとされる物や場所のことです。
床の間や神棚に据えた理由
鏡餅はもともと、神棚や床の間に据える神供でした。床の間は座敷のなかで最も格の高い場所です。玄関の棚やテレビの横に置く今の感覚とは、置く理由からして違っていました。神への供えとは別に、同じ鏡餅を本家や親もとへ持っていく土地もあったと百科事典は伝えています。
武家は鎧の前に供えた
武家では、鎧や兜に鏡餅を供える習わしがありました。この餅は具足餅(ぐそくもち)と呼ばれ、下げて食べる日は「具足開き」と言いました。具足とは甲冑のこと。あとで触れる鏡開きの作法には、この武家の習わしが色濃く残っています。
二段に重ねるのはなぜ?

大小の餅は太陽と月
二段の丸い餅は、太陽と月を表すとされます。農林水産省の解説もこの説明を採っており、二つで一組になって昼と夜を巡らせるという見立てです。片方だけでは一日が成り立たない、という含みも読み取れます。
福が重なり、年を重ねる
もう一つの意味は、重ねる形そのものに込められた願いです。「福が重なる」「円満に年を重ねる」という、ことばの連想がそのまま餅の形になっています。正月の縁起物には語呂から生まれたものが多いのですが、鏡餅は形の段階でもう願いを抱えているわけです。
三段の地域、紅白の金沢
二段が多いとはいえ、全国共通ではありません。百科事典には三段に重ねる土地があるとの記述も見られます。色の違いで知られるのが石川県金沢市で、加賀藩ゆかりの紅白の鏡餅が今も使われています。
金沢市の資料によれば、古文書では上が白で下が赤でした。ところがいつの頃からか、店頭に並ぶものは上が赤で下が白に入れ替わっています。縁起の配色は守られたまま、順番だけがいつの間にか逆になった例です。
橙は二、三年も枝から落ちない実

熟しても落ちにくい性質
橙が「代々」に結びつくのは、語呂だけが理由ではありません。日本大百科全書によると、橙の実は熟しても落ちにくく二、三年は枝についたまま。冬に熟した実を採らずにおくと、年を越してもまだ木に残っています。縁起は言葉遊びから生まれたのではなく、木の性質が先にありました。
同じ木に三代の実が並ぶ
実が残ったまま次の年の実がなると、一本の木に年の違う果実が同居します。同じ木で三回分の実を見られることから「代代」の名がついた、というのが辞典の説明です。祖父母と親と子が一つ屋根の下に並ぶ姿を、果物がそのまま見せてくれるようなもの。正月飾りに選ばれたのもうなずけます。
春に緑へ戻る「回青橙」
橙には回青橙(かいせいとう)という別名もあります。冬に色づいた実をそのままにしておくと、晩春に色が抜けてふたたび緑色を帯びるためです。この変化は「回青現象」と呼ばれます。
落ちずに残り、色まで若返る。正月飾りに求められる「続く」「巡る」という感覚を、橙は実物の変化で示してくれます。辞典によれば、江戸時代にはすでに縁起物として正月飾りに使われていました。
みかんに代えると何が抜ける?

橙は生で食べる果物ではない
市販の鏡餅にみかんが載っていることが多いのは、実用の都合が大きいと考えられます。橙の果汁は甘みが少なく酸味が強いため、生食には向きません。搾り汁は「ポンス」と呼ばれ、ちり鍋や水炊きのつけ汁に使われてきました。皮はマーマレードにもなります。
飾り終えたあと家族でそのまま食べられるのは、みかんのほう。正月が明けてからの扱いやすさで、みかんが選ばれやすくなったのは自然な流れでしょう。
見た目は残り、由来が抜ける
丸くて橙色という見た目なら、みかんでも十分に足ります。ただ「代々」の語呂も、落ちずに年を越す性質も、みかんは引き継ぎません。形だけが残って、由来のほうが静かに抜け落ちた。縁起物の入れ替わりとしては、なかなか象徴的です。
串柿は「二・六・二」に並べる

十個の柿に込めた語呂
串柿(くしがき)は、干し柿を竹串に刺した正月飾りです。十個を刺す場合は中央に六個、両端に二個ずつと並べ方が決まっています。この配置は「いつもニコニコ(二個二個)仲むつ(中六つ)まじく」という語呂合わせ。農林水産省近畿農政局の紹介では、続けて「共に白髪(白い粉)の生えるまで」と結びます。
干し柿の表面に浮く白い粉まで、夫婦の白髪に見立てているわけです。五個串なら中央に三個、両端に一個ずつ刺し、「一人一人(一個一個)が皆(三個)幸せに」となります。
串柿を作り続ける四郷の里
串柿の産地として知られるのが、和歌山県かつらぎ町の四郷(しごう)地区です。広口・滝・東谷・平の四つの地区をまとめた呼び名で、和泉山脈の標高およそ三百メートルの山あいにあります。四百年以上にわたって串柿を作り続け、生産量は日本一とされる産地です。
十一月初めに皮むきと串刺しが始まり、家々の軒先や柿屋(かきや)に串柿がすだれのように吊るされます。山肌が柿色に染まる晩秋の景色は、全国の鏡餅に載るための生産の風景でもあります。
裏白と譲葉の願い
餅の下に敷くシダの葉が裏白(うらじろ)です。農林水産省の解説では、古い葉が落ちずに新しい葉が出てくることから、生命力と長寿の象徴とされています。並んで添えられる譲葉(ゆずりは)は、世代が譲られて家が続いていくことを表す葉。橙と同じく「続く」ことへの願いが、ここにも重ねられています。
「割る」でも「切る」でもなく「開く」

刃物を当てない作法
固くなった鏡餅は、包丁で切らずに木槌などでたたいて割るのが作法です。江戸時代の京都の年中行事を記した『日次紀事(ひなみきじ)』にも、刀で切ることを特に忌むとあります。武家の具足餅の歴史を思えば、刃物を当てる所作を避けたのも納得がいきます。
「開き」は「割り」の忌み詞
ところが「割る」もまた、めでたい場では避けたい言葉でした。そこで縁起のよい「開く」に言い換えたのが鏡開きです。日本国語大辞典は「開き」を「割り」の忌み詞(いみことば)と説明しています。やっていることは餅を砕く作業なのに、名前のうえでは何ひとつ壊していない。うまい言い換えです。
※ 忌み詞(いみことば)とは、縁起の悪い言葉を避けるために使う言い換えの言葉のことです。
下げた餅は雑煮や汁粉に
開いた餅は、雑煮や汁粉にして家族で食べます。農林水産省の紹介でも、無病息災を願って食べる行事という位置づけです。下げた鏡餅の一部を六月一日まで取っておき、歯固めとして食べる土地も多かったと日本大百科全書にあります。平安の宮中の歯固めが、形を変えて夏まで続いていたのです。
鏡開きはなぜ十一日になった?

もとは一月二十日の行事
日本国語大辞典によれば、鏡開きは当初は二十日に行われ、鏡餅を小豆粥に入れて食べたとされます。それがのちに、十一日の仕事始め(蔵開き)に行うよう改まりました。商家が蔵を開ける日と重なったことも、十一日が定着する助けになったのでしょう。
徳川家光の命日を避けた説
日付が動いた理由として語られるのが、三代将軍・徳川家光の死です。家光は慶安四年(1651年)の四月二十日に亡くなりました。月命日にあたる二十日を避け、十一日に繰り上げたというのが広く知られる説明です。
もっとも、辞典もこの話を「〜によるという」と伝聞の形で載せています。由来としてよくできた話ではあるものの、断定まではできない説と受け止めておくのがよさそうです。
下げる日は土地でそろわない
十一日が全国の決まりになったわけでもありません。世界大百科事典は、鏡餅を下げる日を四日・七日・十一日・一月の末日などさまざまで一定しないと記しています。江戸の武家から広まった十一日が今では一般的ですが、それより早く下げる家も遅く下げる家もあるのが実情です。
いまの鏡餅は中身が切り餅

割る手間もカビの心配もない
いま店頭に並ぶ鏡餅の多くは、鏡餅の形をしたプラスチック容器の中に個包装の切り餅が入った作りです。鏡開きは容器を開けるだけで済み、木槌は要りません。飾っているあいだにひびが入ったりカビが生えたりする心配もなく、食べきれる量に分かれているのも助かるところです。
呼び名だけが律儀に残った
刃物を避けるための木槌も、割れやすくするために乾かす手間も、この方式では出番がありません。それでも「開く」という言い方は律儀に残りました。中身が入れ替わっても、呼び名は動かない。橙とみかんの関係にも、どこか似た構図があります。
鏡餅の鏡は、そこに宿る神さまのための道具であって、私たちが覗き込むものではありませんでした。それでも部品をひとつずつ見ていくと、この餅が何を映してきたかは伝わってきます。落ちない実を選び、柿の数を語呂に合わせ、割る所作を「開く」と言い換える。映っていたのは顔ではなく、その家が何を続けたいと願っていたかのほうでした。
参考
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