口からとり出したばかりの唾液は、ほとんどにおいません。中身の九十九パーセント以上は水で、残りのわずかな成分も、それ自体が鼻をつくようなものではないからです。
では、あの独特のにおいはどこから来るのでしょうか。においを出しているのは唾液ではなく、口の中にすんでいる細菌です。細菌は唾液に混じったタンパク質やはがれ落ちた粘膜の細胞を分解し、その副産物としてイオウを含むガスを吐き出します。日本歯科医師会の解説によれば、口臭のおよそ六割は舌の表面にたまる舌苔(ぜったい)から発生しています。つまり唾液は、においの材料を運んでくる側であると同時に、できたにおいを洗い流している側でもあるのです。
口のにおいをつくる三つのガス

口の中のにおいは、正体のわからない何かではありません。主な成分はほぼ三つに絞られていて、それぞれに化学の名前と、においの例えが決まっています。名前がわかると、鼻で感じていたものが急に手触りのあるものへ変わる。
| 物質名 | においの例え | 主な出どころ |
|---|---|---|
| 硫化水素 | 卵が腐ったようなにおい | 舌苔。口の中のにおいでいちばん量が多い |
| メチルメルカプタン | 玉ねぎや野菜が腐ったようなにおい | 歯周病の原因菌。歯ぐきに炎症があると急に増える |
| ジメチルサルファイド | 生ごみやキャベツが腐ったようなにおい | 肝臓などの病気を介して、肺から出てくることがある |
この三つをまとめて揮発性硫黄化合物と呼びます。なかでも硫化水素とメチルメルカプタンの二つで、口臭の九割ほどを占めるとされています。量の順番は硫化水素・メチルメルカプタン・ジメチルサルファイドの並びです。
※ 揮発性硫黄化合物(きはつせいいおうかごうぶつ・VSC)とは、常温で気体になりやすいイオウ入りの化合物をまとめて指す呼び名です。
唾液そのものは臭うのか?

出したての唾液は九十九パーセント以上が水
唾液を成分で分けると、圧倒的な主役は水です。教科書に載る数字では九十九パーセント以上を水が占め、残りは無機イオンとタンパク質、糖タンパク質でできています。においを持つ成分は、そこに最初から入っていません。
残りの一パーセント足らずに働きが詰まっている
量としてはわずかなその一パーセント弱に、道具がぎっしり詰まっています。デンプンを分解する消化酵素のアミラーゼ。細菌を抑えるリゾチームやラクトフェリン。粘り気をつくるムチンに、歯を修復するためのカルシウムやリン酸。唾液の仕事はほぼすべてこの部分が担っていて、水はそれを口じゅうに配る運び屋の役です。
においの成分は最初から入っていない
出てきたばかりの唾液そのものに、鼻をつく成分は入っていません。ところが口の中でよどんだ唾液は、舌苔と並ぶにおいの産生場所として挙げられます。同じ液体でも、口の中に置かれていた時間で扱いが変わる。唾液が変質したのではなく、唾液を材料にした何かが働いた結果なのです。
においをつくるのは細菌の食事のあと
口の中には数百種類の細菌がすんでいます。そのうち酸素を嫌う嫌気性菌が、材料に含まれるアミノ酸を分解する。材料とは唾液・血液・はがれた上皮細胞・食べかすのことです。においのガスは、その分解のあとに残る副産物です。
材料はイオウを含むアミノ酸
タンパク質を組み立てるアミノ酸のうち、システインとメチオニンにはイオウの原子が含まれています。システインが分解されると硫化水素になり、メチオニンからはメチルメルカプタンができます。においの種類が二つに分かれるのは、材料になったアミノ酸が違うからです。
酸素の少ない場所ほど活発になる
ガスをつくる菌は酸素が苦手なので、空気の触れにくいところで元気になります。舌の奥のざらざらした溝、歯と歯ぐきのすきま、よどんだ唾液のたまり場。においが強い場所は、歯ブラシが届きにくい場所とだいたい重なる。
手首を舐めて嗅ぐ「リストテスト」があてにならない理由
自分の口臭を自分で確かめる方法として、欧米では手首を舌でなめてにおいを嗅ぐやり方が知られています。日本歯科医師会はこの方法を紹介したうえで、正確ではないとはっきり断じました。理由が二つあります。
口臭がなくても唾液は臭うことが多い
ひとつは、口臭のない人でも手首に残った唾液は臭うことが多い、という点です。皮膚の上で乾いていくあいだにも細菌はガスをつくり続けます。息のにおいと、唾液を薄く塗って乾かしたにおいは別物なので、これで判定すると本来は問題のない人まで自分を疑うことになります。
自分の鼻は自分のにおいに慣れている
もうひとつは、嗅覚の順応です。両手で息を受けて嗅ぐ方法も、コップに息を吹き込んで嗅ぐ方法も、結局は自分の鼻を使います。ずっと同じにおいの中にいる鼻は、その濃度を基準として扱ってしまう。だから日本歯科医師会も、いちばん確かなのは他人に嗅いでもらうことだと結んでいます。
においはどこで作られているのか?

最大の発生源は舌の上
口の粘膜も皮膚と同じように古い細胞がはがれ落ちます。それが舌の表面の細かい溝にたまり、白っぽい層になったものが舌苔です。多くの人が歯や歯ぐきを疑うなかで、実際にいちばんにおいを出しているのは舌の上でした。
口臭の約六割が舌苔から
日本歯科医師会は、舌苔を最大の口臭源と位置づけ、口臭の六割がここから発生すると説明しています。原因のはっきりした病気がない生理的口臭にかぎれば、主な産生の場はほぼ舌苔です。日本の口臭患者のおよそ三分の一がこのタイプにあたるとされています。
四週間流動食だけだった人の舌
同じ解説には、四週間にわたって流動食だけで過ごした人の舌の写真が載っています。舌全体に厚く舌苔が積もった状態です。かたい物を歯で噛むと、食べ物が舌の表面をこすって舌苔を落としてくれる。食事は歯を汚す一方で、舌をきれいにしているというわけです。
歯周病があると、においの種類が変わる
舌苔が主役なのは、あくまで病気のない場合の話です。歯周病があると、においの量だけでなく質が変わります。口臭外来を訪れる人のうち、歯周病を原因とするタイプもやはり三分の一ほど。
メチルメルカプタンを大量につくる菌
歯周病の原因菌は、硫化水素よりも悪臭の強いメチルメルカプタンを大量につくります。玉ねぎが腐ったようだと形容されるあのにおいです。歯周病の口臭が周囲に気づかれやすいのは、量よりも成分が変わって鼻につきやすくなるからでしょう。
歯ぐきからではなく舌から出ている
ここで意外なのが発生場所です。歯周病のにおいは歯ぐきの炎症部から立ちのぼると思われがちですが、多くは舌苔で作られています。歯周病があると舌苔そのものが増え、ガスの工場が舌の上で大きくなる。歯ぐきを治すだけでにおいが消えないことがあるのは、そのためです。
「胃が悪いと口が臭う」はほとんど誤解
口臭というと胃を思い浮かべる人は少なくありません。ところが日本歯科医師会は、これをはっきり誤解と書いています。胃と口はふだん閉じていて、胃の中のにおいがそのまま口から出てくる構造にはなっていないからです。
ニンニクは腸から肺を通って出てくる
では、ニンニクを食べた翌日のにおいは何なのか。あれは口に残った食べかすではありません。腸で吸収された成分が血液に乗り、肺でガスとして交換されて息に混じります。歯をどれだけ磨いても消えないのは、においの通り道が口ではないからです。健康な人でも肺から出てくるガスは百種類を超えますが、濃度が低いので口臭にはなりません。
例外は逆流性食道炎や鼻の病気
もちろん例外はあります。胃食道逆流症のようにいくつかの消化器の病気では、においが出ることがあります。鼻づまりがあるときに、鼻の病気のにおいを口臭と取り違えている場合もある。まれに扁桃の炎症が原因になることもありますが、扁桃が腫れれば必ず臭うというものでもありません。
朝いちばんのにおいが強いのはなぜか?

眠っている間、唾液はほぼ止まっている
一日のうちで口臭がいちばん強いのは早朝です。夜のあいだに何か特別なものを食べたわけでもないのに強くなるのは、唾液の出方が変わるからです。
睡眠中の分泌はゼロに近い
明海大学の渡部茂は、七時間から八時間の睡眠中の唾液分泌はほとんどゼロに近いと書いています。洗い流す流れが止まれば、細菌がつくったガスは口の中にたまる一方です。朝のにおいは、夜のあいだ掃除が休んでいたことの結果でした。
小さな唾液腺が夜の口を守っている
では夜の口は無防備なのかというと、そうでもありません。唇や頬の粘膜に散らばる小唾液腺という小さな腺が、粘り気のある液を少しずつ出し続けています。睡眠中に口の中の酸性度を長く測った研究では、歯が溶け出す境目とされる臨界pH五・五を大きく下回ることは少なかった。大きな腺が休んでいるあいだ、小さな腺が最低限の守りを引き受けているわけです。
食事のあとに減り、食事の前に強くなる
口臭は一日のなかで上下します。日本歯科医師会が示す一日の変化を見ると、食後にすとんと下がり、次の食事が近づくにつれてまた上がっていきます。空腹と口臭は、思っている以上に近い関係にある。
朝食を抜くと昼まで強いまま
朝食をとらないと、早朝に高くなったにおいが昼食まで下がりません。しかも下げるには、噛む食事であることが条件です。流動食では舌苔が落ちないので、同じ食事でも効き方が違います。朝のにおいが気になる人にとって、いちばん手近な対策は朝ごはんをきちんと噛むことだといえます。
砂糖入りの紅茶やコーヒーが効く
食間に休憩を入れるのもよい方法です。日本歯科医師会は、紅茶やコーヒー、菓子に含まれる砂糖が口臭物質を九十パーセント以上減らすと紹介しています。砂糖は歯にとっては大敵なのに、においに対しては強い味方になる。虫歯の予防と口臭の予防で答えが逆になるという、少し居心地の悪い事実です。
緊張しても口は乾く
大事な面接の直前に口の中が張りつくように乾いた経験は、多くの人にあるはずです。唾液の量は自律神経の支配を受けていて、緊張すると分泌が落ちます。
唾液が減ると口臭は強くなる
心の緊張で唾液が減り、粘膜が乾くと口臭は強くなります。においが気になるほど緊張し、緊張するほど口が乾いてにおいが増えるという、出口の見えにくい輪ができあがることもある。気になり始めたら、原因を口の中だけに探さないほうがよさそうです。
ドライマウスという現代病
唾液の減少がもっと慢性的になったものがドライマウスです。原因は一つに絞れません。糖尿病や腎不全のような病気・薬の副作用・ストレス・噛む力の低下が、からみ合って起きます。やわらかい食べ物が増えて噛む時間が短くなったことも背景にある。唾液腺は筋肉に裏打ちされていて、使わなければ働きが落ちていくからです。
※ ドライマウス(口腔乾燥症)とは、唾液の分泌量が減って口の中が乾く状態のことです。口のねばつき・舌の痛み・口臭のほか、乾いた食品が食べにくい、飲み込みにくいといった症状が出ます。
唾液は一日にどれだけ出ているのか?

「一日一〜一・五リットル」という数字の出どころ
唾液の量としてよく引かれるのが、一日あたり一リットルから一・五リットルという数字です。日本歯科医師会もこの値を挙げています。ペットボトル一本分に近い量が、気づかないうちに口の中を通り過ぎている計算です。
実測を積み上げると約六百ミリリットル
ただし、この数字は出典によって幅があります。分泌の速さを実際に測り、一日分を積み上げた研究では、成人でおよそ六百ミリリットルという見積もりも出ています。五百ミリリットルから一・五リットルまで、どの文献を見るかで倍以上の開きがある。唾液の量は、意外なほど一つに定まっていません。
安静時は一分間に〇・三ミリリットル
測り方を細かく見ると、何もしていない安静時の分泌は一分間に平均〇・三ミリリットルほどです。成人が一日に飲食する時間はおよそ一時間、睡眠を七時間とすると、残る十六時間がこの安静時にあたります。つまり唾液のほとんどは、食事中ではなく何でもない時間に出ている。口の環境を決めているのは、食べているときの唾液ではありません。
三つの唾液腺で、出てくる液の質が違う
唾液は一か所から出ているわけではありません。大きな腺が三つあり、それぞれ性質の違う液を出しています。同じ唾液と呼んでいても、さらさらのものとねばねばのものが混ざっているのです。
| 唾液腺 | 液の性質 | 安静時に出す割合 |
|---|---|---|
| 顎下腺(がっかせん) | さらさらとねばねばの混合 | 約六十パーセント |
| 耳下腺(じかせん) | さらさら(漿液性) | 約二十五パーセント |
| 舌下腺(ぜっかせん) | ねばねば(粘液性) | 七〜八パーセント |
安静時に六割を出しているのは顎下腺
耳の下にある耳下腺はいちばん有名ですが、静かにしているときの主役ではありません。あごの下にある顎下腺が六割ほどを供給しています。顎下腺の出口は舌の付け根の底、口腔底の舌下小丘(ぜっかしょうきゅう)にあります。あとで触れるとおり、唾液がいちばんよく届く場所もその近くの下の前歯の裏でした。
噛むと主役が耳下腺に入れ替わる
ところが食べ物が入ってくると、配分ががらりと変わる。耳下腺が急に働き出し、刺激を受けたときの唾液の半分近くを占めるようになる。梅干しを想像しただけで耳の下あたりがきゅっと痛むのは、この腺が身構えているからです。刺激の強さでは酸がいちばんで、濃いクエン酸の液では一分間に七ミリリットルほどまで増えたという測定があります。
年を取ると減る、とは限らない
唾液は歳とともに減る。長くそう考えられてきましたが、近年の見方は違います。
薬を飲んでいない健康な人では加齢の影響が小さい
かつての研究は、入院して薬物治療を受けている患者を対象にしていました。薬を飲んでいない健康な人を調べ直すと、加齢は安静時でも刺激時でも分泌の速さにほとんど影響しないことが分かってきています。組織を見れば分泌細胞の割合は減っているのに、量は落ちない。腺には余分の細胞が蓄えられているらしいと考えられています。高齢者の口が乾く原因は、年齢そのものよりも服用している薬にあるのかもしれません。
唾液は口の中で何をしているのか?

飲み込むたびに入れ替わっている
唾液の働きでいちばん大きいのは、洗い流すことです。ただし、たまった水で洗うのではありません。分泌と嚥下(えんげ)を繰り返し、少しずつ薄めて運び出していく仕組みになっています。
口の中の唾液は一ミリリットルほど
健康な成人の口には、飲み込む直前でおよそ一・〇七ミリリットル、飲み込んだ直後でも〇・七七ミリリットルの唾液が残っています。一回で飲み込む量はおよそ〇・三ミリリットル。ごく薄い膜が口の中じゅうを覆い、それが少しずつ入れ替わっている状態です。一日の総量は多くても、その瞬間に口にあるのはスプーン一杯にも満たない量でした。
届きやすい場所と届きにくい場所がある
この膜の流れる速さは、場所によってまるで違います。下の前歯の裏では一分間に約七・八ミリメートル動くのに対し、上の前歯の表では約〇・八ミリメートルしかありません。十倍近い差です。上の前歯の外側で虫歯や着色が起きやすいのは、そこが唾液のいちばん届きにくい場所だからでした。
消化と抗菌の道具箱
洗い流すだけなら水でも足ります。唾液が水と違うのは、残りの一パーセントに道具が詰まっているからです。
アミラーゼ、ごはんが甘くなる理由
白いごはんを口に入れてしばらく噛んでいると、じわりと甘みが出てきます。唾液の消化酵素アミラーゼが、デンプンを麦芽糖に分解しているためです。消化は胃から始まるように思われがちですが、実際の一手目は口の中で打たれています。
リゾチーム、ラクトフェリン、免疫グロブリン
抗菌の側にも複数の成分が並びます。細菌の壁を壊すリゾチーム。細菌が必要とする鉄を奪うラクトフェリン。過酸化水素を使って菌の増殖を抑えるペルオキシダーゼに、免疫グロブリンも加わります。目や口のように外気にさらされる場所では、こうした分泌液が生体防御の最前線を受け持っている。ここが枯れれば感染症にかかりやすくなるのは道理です。
味を感じるのも唾液の仕事
もう一つ、ふだん意識しない役割があります。味覚です。舌が味を受け取るには、その前に味の成分が液体に溶けている必要があります。
溶けないと味蕾は味を受け取れない
味を感じる器官は味蕾(みらい)といい、舌の表面の乳頭のなかや、軟口蓋や咽頭の粘膜のすぐ下にあります。味の成分は唾液に溶けて味蕾の入り口まで運ばれ、そこで初めて味として認識される。乾いた舌の上に砂糖の粒を置いても甘さがすぐに来ないのは、運び役がいないからです。
唾液が減ると味が薄く感じる
日本口腔外科学会は、味覚の異常の原因として味蕾の減少や萎縮と並べて、唾液分泌の低下を挙げています。舌が乾けば舌苔もつきやすくなり、味を感じる面そのものが覆われてしまう。味が薄い、何を食べても同じ味がするという訴えの裏に、口の乾きが隠れていることは珍しくありません。
唾液を増やせば口臭は減るのか?

健康な人では、増やしても減らない
ここまで読むと、唾液を増やせば口臭は抑えられそうに思えます。ところが日本歯科医師会は、それを大きな誤解だと書いています。
香料なしのガムで試した結果
口が渇いていない普通の人に、香料を一切含まないガムベースを噛んでもらって唾液を増やしても、口臭の原因物質は減りませんでした。それどころか、わずかに増えています。市販のガムでにおいが弱まるように感じるのは、香料の働きによるところが大きいということになります。
効くのは口が渇いているとき
一方で、口が乾いて粘膜が渇いている状態なら話は別です。このときにガムを噛んで唾液を増やすのは有効とされています。同じ対策でも、口の状態によって効いたり効かなかったりする。唾液は多ければ多いほどよいという単純な話ではありませんでした。
いちばん効くのは舌の掃除
原因の六割が舌苔なら、手を打つべき場所も舌です。国際的な治療指針でも、原因疾患のない生理的口臭にまず勧められるのは口の清掃指導で、その中心が舌の清掃です。
朝食の直後、歯みがきの前に一日一回
日本歯科医師会が示す手順は、かなり具体的でした。舌を傷つけないために回数は一日一回、タイミングは朝食の直後で、歯みがきより先に行います。順番が逆だと、かえって口臭が強くなることもあるそうです。鏡の前で思いきり舌を出すと嘔吐反射が起きにくくなる、という実務的なコツも添えられています。
力は百グラム以下、奥から手前へ
力の目安は百グラム以下です。台所のはかりにブラシを押し当てて、その重さの感覚を覚えておくとよいとされています。動かす向きは必ず奥から手前の一方向で、前後にごしごしこすってはいけません。舌ベラよりブラシのほうが落ちるという研究もありますが、定期的な歯科健診と歯石の除去を習慣にしないかぎり、舌の掃除だけでは効果が限られます。
口臭が気になるのに「ない」と言われたら
口臭には、本人の感じ方と実際の測定値がずれるという難しさがあります。国際口臭学会の研究グループは、口臭症を三つに分けました。
- 真性口臭症……実際に口臭がある。原因疾患のない生理的口臭と、歯周病などによる病的口臭に分かれる
- 仮性口臭症……社会的に許される範囲を超える口臭はないが、本人が訴えている。検査結果の説明で改善が期待できる
- 口臭恐怖症……上の二つへの治療では訴えが改善しない
説明で納得できるかどうかが分かれ目
この分類で重要なのは、治療の入り口が型ごとに違うという点です。仮性口臭症の人は「口臭はない」という説明を受け入れられますが、口臭恐怖症ではそれが難しい。他人が鼻のあたりに手をやる、顔をそむけるといった何気ない動作を、自分のにおいのせいだと受け取ってしまうためです。日本歯科医師会は、この場合に心療歯科や心療内科の受診を勧めています。
毒ガスと浮世絵とストレス検査、唾液の意外な顔

口臭のガスは、温泉で事故を起こすガスと同じもの
硫化水素は、温泉地や火山、下水道で発生してときに死亡事故を起こす気体です。日本歯科医師会は青酸ガスに次ぐ毒ガスと表現し、二百五十ppmで一時間以内に人は死亡すると書いています。ふつうの口臭の濃度は〇・三ppm前後で、吸い込む空気に薄められるため実害が出ることはまれです。ただし微量でも歯ぐきを溶かす作用があり、歯周病を進める側に回るとされています。
江戸の浮世絵に描かれていた舌みがき
舌を掃除する習慣は、最近の発明ではありません。海外では古くから行われてきましたし、日本でも江戸時代の浮世絵に、舌を清掃する女性の姿が描かれています。舌苔という概念がなかった時代の人も、経験として舌の汚れに気づいていたわけです。口臭外来もガス測定器もない時代に、同じ場所へ手が伸びていたのは面白いところです。
唾液はストレスを測る検査液にもなる
唾液の使い道は口の中だけにとどまりません。ストレスを受けたときに出るコルチゾールは唾液にも出てきて、血液中の濃度とよく相関することが知られています。精神的なストレスにだけ反応するクロモグラニンAという物質も測定できます。採血のように痛みを伴わないので、子どものストレスを調べる材料として注目されている。においの元として嫌われる液体が、心の状態を映す鏡にもなっているのです。
口のにおいに顔をしかめるとき、私たちはたいてい唾液を疑っています。ところが実際ににおいを出しているのは細菌でした。その細菌を洗い流し、酸を中和し、溶けかけた歯を修復しているのは唾液のほうです。犯人だと思っていた液体は、口の中でいちばん働いている掃除係だったことになります。
朝いちばんに口が気になるのも、その掃除係が夜のあいだ手を止めていたからにすぎません。責める相手を、長いあいだ取り違えていたことになります。
参考
- 日本歯科医師会「テーマパーク8020」口臭
- 日本歯科医師会「テーマパーク8020」ドライマウス
- 渡部茂「口腔乾燥症理解のための唾液の知識」歯薬療法 第35巻3号、2016年
- 日本口腔外科学会「味覚障害がある」
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