史料に残る忍者は、全身黒ずくめに覆面という姿ではありませんでした。江戸時代の忍術書が勧めるのは、茶・柿・紺といった当時ありふれた色の服です。旅の僧や商人に化けることも説かれていました。目指したのは闇にまぎれることより、人ごみで怪しまれないことです。おなじみの黒装束は、18世紀中ごろの芝居の舞台で生まれた姿だと考えられています。
黒装束の忍者は、いつ生まれた?

江戸の初めは「普通の人」の姿で描かれた
三重大学の国際忍者研究センターによると、江戸時代の初めから18世紀半ばまで、絵や物語の忍者は普通の人の格好で描かれていました。忍びは敵の家や城下にまぎれ込むのが仕事です。見た目で正体がばれる服を着ていては、仕事になりません。描き手にとっても、忍びが町人や侍と同じ姿でいるのはごく自然なことだったのでしょう。
18世紀中ごろ、芝居の舞台で黒ずくめに
姿が変わるのは18世紀の中ごろです。歌舞伎や人形浄瑠璃の舞台に、黒装束と黒覆面で手裏剣を手にした忍びが登場するようになりました。同センターは、この変化を主に「見た目の問題」から生まれたものと説明しています。史実に合わせた衣装ではなく、舞台で映える衣装として選ばれた姿だったわけです。
19世紀初めには小説でも定番に
舞台の姿は、やがて読み物にも広がります。19世紀の初めには、小説の中の忍者も黒装束に手裏剣という姿で描かれるようになりました。その後も講談本や映画、マンガへと、同じ姿が受け継がれていきます。芝居の衣装として生まれた黒ずくめは、200年以上かけて「忍者の制服」になっていったのです。
舞台の忍びが黒を着た理由

ひと目で「忍びだ」と分かる工夫
芝居では、登場人物の素性をいちいち台詞で説明できません。国立国会図書館の電子展示「本の万華鏡」は、黒装束を、観客がひと目で忍者だと見分けられるようにする演出上の工夫だったと説明しています。普通の服装のままでは、舞台の忍びはただの町人や侍に見えてしまいます。目立たないはずの忍びに、あえて目立つ記号を着せたのが舞台の発明でした。
黒衣(くろご)とのつながりを指摘する声も
歌舞伎には、黒ずくめの裏方を「そこにいても見えないもの」として扱う黒衣の約束事があります。この約束事を逆手に取り、黒い人物がふっと現れて術を使う演出が生まれた、という見方も語られています。ただし、先の二つの研究機関の解説が理由として挙げているのは「見た目」や「見分けやすさ」です。黒衣との関係は、あくまで一つの解釈として受け止めておくのがよさそうです。
忍術書が勧めた服の色は?

『正忍記』は茶・柿・黒・紺を挙げる
江戸時代の忍術書『正忍記(しょうにんき)』には、着る物の色として茶色・柿色・黒色・紺色が挙げられています。国立国会図書館の解説によれば、これらはどれも当時のありふれた、目立たない色でした。柿色は柿渋(かきしぶ)で染めた赤茶色、紺は藍で濃く染めた色です。どちらも庶民の仕事着でよく見かける色でした。
黒も入っている、では何が違うのか
意外なことに、勧められた色には黒も含まれています。忍びが黒い服を着ることそのものは、禁じられていなかったわけです。違うのは着方でした。忍術書の色選びは、町を歩いても誰の目にも留まらないことが基準です。舞台のように頭から足先まで黒で固め、覆面で顔を隠した姿は、昼の町ではかえって人目を引いてしまいます。
「黒は夜に目立つ」はよく聞く説明
真っ黒な服は月明かりの下で輪郭が浮き、紺や茶のほうが闇にとけ込む、という説明もよく見かけます。理屈としてはうなずけますが、忍術書が色を選んだ理由として書いているわけではありません。むしろ大事だったのは昼の顔でしょう。茶や紺の服なら、夜の潜入にも昼の人ごみにもそのまま使えます。
藍や柿渋の染めに虫よけの力はあった?

野良着の藍は虫を寄せつけないと言い伝えられてきた
藍で濃く染めた布は虫や蛇を寄せつけない、という言い伝えは各地に残っています。農作業の野良着や足袋に藍染めが多かったのも、そのためだと語られてきました。忍者の紺の装束についても、同じ理由で虫やマムシよけになったと紹介されることがあります。ただ、この効き目は暮らしの言い伝えとして伝わってきたもので、忍術書に書かれた理由ではありません。
忍者だけの工夫というより庶民の服
藍の紺や柿渋の茶は、江戸の庶民が日常的に身につけていた色です。農民や職人の仕事着でもよく見かける色でした。忍びがこの色を選んだのは、特別な装備だからではなく、農民や職人と見分けがつかないからだと考えると筋が通ります。虫よけの話は、そこに後から添えられた「おまけ」と見るのが無難でしょう。
変装の基本は「七方出」

僧や商人など七つの姿に化ける
忍術書には、旅先で怪しまれないための変装の型も説かれています。代表的なのが七方出(しちほうで)と呼ばれる七つの姿です。国立国会図書館の解説では、次の七つが良いとされています。
- 虚無僧(こむそう):深編笠で顔を隠し、尺八を吹いて歩く僧
- 出家:寺の僧
- 山伏(やまぶし):山で修行する修験者
- 商人
- 放下師(ほうかし):曲芸や手品を見せる大道芸人
- 猿楽師(さるがくし):能や狂言の役者
- 常の形:ふだんの姿
旅をしても怪しまれない顔ぶれ
七つに共通するのは、国や村の境を越えて歩き回っても不自然に見えない職業だという点です。僧は寺を巡り、山伏は山から山へ、商人や芸人は市や祭りを渡り歩きます。顔を深編笠で隠せる虚無僧は、とりわけ都合がよかったはずです。そして七つ目が「ふだんの姿」。いちばんの変装は、何も変えないことでもありました。
忍びの本当の仕事は情報集め

主君の命で敵方の様子を探る
三重大学の国際忍者研究センターは、忍者のもっとも重要な務めを、主君に命じられて情報を集めることだったとしています。戦国時代には、敵の状況を主君に伝えることが何より大切でした。戦って勝つより、見たことを生きて持ち帰るほうに価値があったわけです。目立たない服と変装は、その仕事を支える道具です。
戦国時代には放火や城の乗っ取りも
もちろん、荒っぽい仕事もありました。国立国会図書館の解説によれば、戦国時代の忍びは潜伏やかがり火を使った夜の警備、道をふさいで補給を断つことも担いました。敵地に入り込んで火を放ったり、混乱に乗じて城を奪ったりした例もあります。南北朝時代の『太平記』には、忍びが石清水八幡宮に火をつけた話が出てきます。
江戸時代は城や屋敷を守る下級武士に
戦がなくなった江戸時代、忍びの多くは幕府や藩に仕える下級武士になりました。江戸幕府では、大奥を守る御広敷番(おひろしきばん)や、空き屋敷を見張る明屋敷番(あきやしばん)などに就いています。甲賀の者は鉄砲同心として江戸城の門を守りました。将軍直属で情報を集めた御庭番(おにわばん)の仕組みは、幕末まで続いています。
地図に残る「伊賀町」と「コウカ丁」
江戸の古地図には、忍びの家が集まった町の名が残っています。いまの新宿区若葉、四ツ谷駅の近くにあった「伊賀町」。千代田区神田淡路町あたりの「コウカ丁」。甲賀百人組の鉄砲場は、青山の権田原にありました。黒ずくめで屋根を走るどころか、彼らは勤め人として町に暮らしていたのです。
手裏剣を使った記録は見当たらない

忍術書に手裏剣の記述がない
黒装束と並ぶ忍者の象徴が手裏剣です。ところが国立国会図書館の解説によると、忍術書には手裏剣についての記述がなく、忍者が手裏剣を使った記録も見当たらないといいます。手裏剣と忍者が結びついたのも、黒装束と同じく歌舞伎などの舞台からでした。正体を隠すのが仕事の忍びにとって、派手な飛び道具は出番の少ない道具だったのでしょう。
江戸時代の手裏剣は棒の形だった
手裏剣そのものは、武術の道具として江戸時代にも知られていました。ただ、当時よく知られていたのは細長い棒の形のものです。いまの私たちが思い浮かべる十字や星形の平たい手裏剣は、戦後に広まったとされています。忍者の姿と同じく、手裏剣の形もまた、時代とともに描き変えられてきたわけです。
「忍者」という呼び名も新しい

昔は「忍び」「透波」「乱波」
じつは「忍者」という呼び方自体、昭和30年代に使われ始めたごく新しいものです。それ以前は「忍び」と呼ぶのが普通でした。戦国時代には地域によって「くさ」「かまり」、あるいは透波(すっぱ)・乱波(らっぱ)とも呼ばれています。黒装束の「忍者」は、呼び名ごと近代にできあがった姿だといえます。
大学が史料から実像を探る
こうした実像を掘り起こしているのが、伊賀市に拠点を置く三重大学の国際忍者研究センターです。忍術書や古文書を読む歴史研究に加え、小説・浮世絵・マンガ・映画から忍者像の移り変わりを追う研究も進んでいます。吉丸雄哉教授は、その成果を『忍者とは何か 忍法・手裏剣・黒装束』(KADOKAWA、2022年)にまとめました。
黒装束は、目立たないはずの忍びを観客に見つけてもらうために、舞台が着せた衣装でした。本物の忍びが選んだのは、町の誰とも見分けのつかない茶や紺の服です。いちばん忍者らしい姿は、きっと誰の記憶にも残らない姿だったのでしょう。
参考
- 忍者学とは(三重大学 国際忍者研究センター)
- 忍者文学作品から作られた忍者イメージの謎を追う(三重大Rナビ)
- 本の万華鏡 第33回 NINJA 虚像と実像 弐之巻(国立国会図書館)
- 本の万華鏡 第33回 NINJA 虚像と実像 参之巻(国立国会図書館)
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